(2023年2月20日の放送内容を基にしています)
あの熱狂から1か月が過ぎたカタール。
しかし、まだ母国に帰っていないアルゼンチンサポーターがいた。
ルーカス・ビジャロエル「皆さんこんにちは。私はルーカス・ビジャロエルです。今日でカタール滞在137日目です。残されているのは今日と明日。ビザが切れるので国を出なければ。でも帰るお金がありません。ここに着いた時点で、全財産は1000ユーロしかなかった。ファストフード店で食べ物を恵んでもらいました。路上生活は覚悟していました。でもそんなことは気にならなかった。ここに来ることに価値があり、すばらしいことが起こると確信していましたから」
FIFAワールドカップ2022は、アルゼンチンの優勝で幕を閉じた。今回ほどひとりの選手にスポットが当たった大会はない。
リオネル・メッシ。
世界最高の選手と言われながら、4たび敗れてきた。そして35歳となり「最後の挑戦」と臨んだカタール大会で、高々とワールドカップを掲げた。
首都ブエノスアイレスの広場には、実に500万人が集まった。国民全員で優勝を祝い、経済危機をしばし忘れた。
熱狂したのは、母国アルゼンチンだけではない。国も民族も越えて、世界の人たちが祝福した。私たちはメッシの挫折と栄光に自分の人生を重ねた人たちを、世界各地に訪ねた。これは、苦難から立ち上がろうとする人々の希望の物語でもある。
<絶叫のアナウンサー>
2022年12月18日。FIFAワールドカップ2022 決勝。アルゼンチン 対 フランス。
アンドレス・カンター実況「新しい世界王者を決めるスタジアム。わずかな差が最後は勝敗を分けるぞ。メッシがパスを回す。おっとこれは!行け、アリスター!ゴーーーーール!ゴーーーーーーーーーーーーール!」
アンドレス・カンター「私の名前はアンドレス・カンターです。人生の大半をアメリカで過ごしましたが、生まれはブエノスアイレス。私の夢はずっと、メッシがW杯のトロフィーを掲げる瞬間を実況することでした」
アンドレス・カンター「さまざまな大会を取材する時にもらうIDカードです。16歳の時からだからクリスマスツリーのようになっています」
アンドレス・カンター「私がこれほどメッシに魅了されるのは、私の人生がメッシと重なるからです。二人とも同じような年齢で祖国を離れました。メッシはバルセロナで育ったんです。私もアルゼンチンが軍事政権になった70年代に、家族と国を去り、カリフォルニアに移民として来ました。故郷のアルゼンチンを想う気持ち、アルゼンチンのサッカーを愛する気持ち。祖国を去らざるをえなかった人たちとメッシに共通する部分です。
私が驚いたのは、誰も私に『アルゼンチンが優勝してほしい』とは言わなかったことです。みんな『メッシに優勝してほしい』と言ったんです。フェデラーやジョコビッチなら分かります。一人でプレーしているんだから。それだけファンの期待を一身に受けていたということです。彼はスーパーマンでもハリウッドの傲慢なスターでもなく、3人の子どもの普通の父親であり、アントネラの普通の夫です。彼は財産をひけらかさない。やりたいことはサッカーだけです。負けたら泣きますし、勝っても泣きます。ファンは純粋に応援するだけです。それがメッシとファンとのつながりです。国籍に関係なく結びついているのです」
アンドレス・カンター「1986年のアルゼンチン優勝後はずっと、私は同じセリフを言うしかありませんでした。1990年は『西ドイツが世界王者になった』。1994年は『ブラジルが世界王者になった』。1998年は『フランスが世界王者になった』。そのたびに『アルゼンチンは敗退』と言うわけです。アナウンサーとして最もつらい時です。36年間、私は待っていました。『アルゼンチンが世界王者になった』と叫ぶ瞬間を」
延長戦でも決着がつかず、決勝戦はペナルティーキックに。
アルゼンチンは4人目のキッカー、決まれば優勝という局面を迎えた。
アンドレス・カンター実況「すべてのアルゼンチン人の願いを込めて。ゴーーーーーーーーーーーーール!アルゼンチンが世界王者になった!メッシが世界王者になった!」
アンドレス・カンター「あの叫びは心の底から出たものでした。喜びの感情を抑えきれず涙が止まりませんでした。私の実況の動画が多くの人にシェアされ、たくさんのメッセージをもらいました。みんな、アメリカにいる移民たちです。それは人と人をつなぐ絆です。私の喜びの涙を見て、自分の国が優勝したと実感したのです。そんなことが可能なのはサッカーだけです。この絆も。祖国を離れた人たちみんなのつながりが、心に響いたんです。去らざるをえなかった愛する祖国が、W杯で優勝したことを感じたんです」
<熱狂冷めやらぬアルゼンチン>
街の人「ユニフォームを着て表に出れば、つらい現実なんて全部吹き飛ぶ。世界チャンピオンになるってのは、そういうことだよ」
Tシャツ店「世界中からお客がやってきてシャツを買ってくれる。メッシのおかげで売り上げは大幅アップ。1か月で8000枚も売ったんだ」
タトゥーアーティスト「(優勝のあと)依頼数で言えば1万以上だ。返信すらしきれていない」
セサル・モリーナ「名前はセサル。ブエノスアイレスでタトゥーを彫っている。貧しい地区で生まれ、豊かな生活をしたいとあがいてきた。正直に話すと一時期はドラッグ中毒にも苦しんでいた。だからメッシに自分を重ねてしまう。メッシは前進と成長の歴史だから」
セサル・モリーナ「決勝は自宅で見たが、ドキドキした。子どもたちはまだ幼いけど『これは歴史的な場面だ』と伝えた。メッシの偉業は本当に美しい。努力と根気、規律を持てば、望みはかなうと教えてくれたんだ」
「レオがこの町で生まれたことは多くの人が知っています」
フェルナンダ・キロガ「フェルナンダです。レオの向かいの家で生まれた、同い年の幼なじみです。レオはよく私の家にボールをぶつけて、おばあちゃんに怒られていました。いつもボールを蹴って走っていました」
フェルナンダ・キロガ「誕生日の写真があります。今ではとても貴重ですね。いちばん小さいのがレオです。このころからシャイで謙虚でしたね。でもサッカーをする時だけは性格が変わり、リーダー格でした」
フェルナンダ・キロガ「幼なじみとしてつらかったのは、結果が出ない時期にメディアだけでなく、世間全体に彼への批判が広がっていたことです。『アルゼンチン代表では結果を出せない』と批判され、傷ついていると知っていました。レオの努力が報われた瞬間は本当に感動しました」
アンドレア・ソーサ「アンドレア・ソーサ。ロサリオ市の小学校教師です。決勝の間、ずっと編み物をしていました。だから編み物がずいぶん進みました。なんとかして緊張を紛らわさないといけなかったんです」
アンドレア・ソーサ「レオはここでいつもドリブルをしていました。みんなの中でもいちばん小さい子でした。レオのこんな将来は想像もつきませんでした。卒業後、レオはスペインのバルセロナに旅立ちました。『ホルモン疾患の治療』のためです。毎日注射を打たなければならなかった。13歳の子どもにとって、すごくつらいことです」
体が小さかったメッシ。身長が伸びないのは、成長ホルモンの分泌異常だと判明した。医者から「このままではプロ選手になれない」と言われたのだ。
メッシの母親「兄弟たちは普通だったのに、あの子だけが小さくて変だと思っていました。お医者さんから長期にわたる治療が必要と聞いた時は、途方にくれてしまいました」(2010年放送 NHKスペシャル 「リオネル・メッシ 黄金の足で輝け」より)
メッシ「夜になると自分で注射をしていました。僕の夢はサッカー選手になることでしたから、苦になりませんでした。少しでも大きくなって、プロの選手になりたいと思っていたんです」(2010年放送 NHKスペシャル 「リオネル・メッシ 黄金の足で輝け」より)
アンドレア・ソーサ「『レオを手本にしなさい。レオは勉強もしたのよ』と生徒には言っています」
マルレネ・スリアガ「マルレネ・スリアガ。壁画を描いています」
マルレネ・スリアガ「ここが歴史の始まりよ。タイトルは『この町から生まれた銀河系の星』」
マルレネ・スリアガ「これは世界で最も高いメッシの壁画。高さは70メートル。1か月かけて描いたの。壁画を描くことは、創造力でその場のエネルギーを変えるということ。それはメッシとも重なる。ボールを持つとその場のエネルギーが変わり、それまでと全く異なるすばらしいものが生まれる」
マルレネ・スリアガ「この壁画は決勝の日に描き始めたの。本当にクレイジーだった。結果も分からないうちに、ゴールドのペンキを準備したの。ポジティブなエネルギーを最高潮に高めながら描いたわ。メッシはすばらしい人。ずっとそのままでいてほしい。この先もいろいろなことがあるだろうけれど、幸運がメッシに降り注ぎますように」
ソフィア・マルティネス「ソフィア・マルティネス。スポーツジャーナリストです。W杯ではアルゼンチン代表のロッカールーム取材を担当しました。記者としてメッシを間近で見てきました」
ソフィア・マルティネス(準決勝後のインタビュー)「決勝の前にこれだけは言わせてください。誰もが優勝を願っているけど、結果がどうあれ、あなたはあなたです。あなたの思いは私たちの心に届いている。これは本当のことよ。どの子もあなたのユニフォームを着ている。本物でなく偽物や手作りかもしれない。でも、あなたはあらゆる人の人生に刻まれている。それはどんな勝利よりも大切なこと。誰にも奪えないもの。こんなにも多くの人に、大きな幸せの瞬間をありがとう。それを心にとどめてほしい。優勝より大切なものを、すでにあなたはもたらしているの。だからありがとう。キャプテン」
メッシ(準決勝後のインタビュー)「ありがとう。ずっとファンの愛情を感じてきた。みんなの願いをかなえたいと思う」
ソフィア・マルティネス「決勝の前に伝えなければいけないと思いました。アルゼンチン人みんなの幸せは、あなたがいるからだと知って臨んでほしかった。あなたの思いはみんなに届いている。たくさんの子どもを幸せにしている。メッシみたいになりたいと夢見て、あなたのまねをして喜んでいると。そのことのほうが優勝より重要だと感じました。国民の思いを伝えることができました。
世界一の選手が私と同じ気持ちで国歌を歌っている。私と同じユニフォームを着て、私と同じくらいアルゼンチン人であると感じている。国歌を聞けば18時間も離れたアルゼンチンをすぐ近くに感じます。ものすごく誇らしいことです。幸せな瞬間ですよ。世界一の選手が私と同じ気持ちで国歌を歌うなんて、人生のプレゼントです」
ソフィア・マルティネス「涙が出るからふかないと。ふかないとね」
<ウクライナの少年>
「決勝は本当に感動しました。いちばん興奮したのは、メッシがPKでゴールしたとき」
サシュコ・シュミティフ「ウクライナのサシュコ・シュミティフ。13歳です。ウクライナからメッシを応援しています。ウクライナに栄光あれ!」
サシュコ・シュミティフ「ここは砲撃を受けた場所。ミサイルが飛んできたんだ。戦争でサッカーができなくなってとても寂しくて退屈です。本当につらいです」
母 アリョナ「サシュコは小さい頃からサッカーが好きで、それでメッシのことを知ったんです。メッシは子どもの頃、サシュコと同じ注射を打っていました。5歳の時の検査で、成長ホルモンが作られていないと分かりました。それから8年間、毎日寝る前にホルモンの注射をしています」
母 アリョナ「これがその注射です。足、手、お尻、お腹の順番です。最初の何年間かは、とてもつらくて泣いていました」
サシュコ・シュミティフ「砲撃がある時でも廊下に隠れて、スマートフォンでW杯を見ていました。8年前から地元のチームでプレーしています。これは『ベストフォワード賞』です。これも『ベストフォワード賞』、こっちは『ベストプレイヤー賞』です」
母 アリョナ「親しい人は息子の病気を知っているし『ウクライナのメッシ』と呼んでくれる。メッシは病気を乗り越えて、最高のサッカー選手になった。家族を持って、豊かな人生を送っている。夢をかなえたんです」
サシュコ・シュミティフ「メッシは夢に向かうことへのインスピレーションを与えてくれます。メッシは困難を乗り越えた。僕も頑張れば夢がかなうはず」
<両足を失ったシリア難民>
「2013年のはじめ、両足を失った。家の屋上でサッカーをしていたら、4発のロケット弾が落ちてきたんだ」
サーミ・アルファラジュ「サーミ・アルファラジュ。18歳です。2013年にシリアからヨルダンの難民キャンプに逃れてきた。治療を受けられたが、心はどん底だった。もう自分の人生を受け入れられない気持ちだった」
サーミ・アルファラジュ「悲しい気持ちから抜け出すため、メッシの試合を見るようになった。最初は時間をつぶすためだった。僕にとってメッシが特別なのは、彼が重病を患っていたからだ。医者からサッカーをやめるよう言われたのに、メッシはそれを乗り越えた。だからメッシは僕にとって特別な存在なんだ。
今回のW杯がアラブ圏で行われてうれしかった。メッシが近づいてきてくれる気がした。本人に会えるような気持ちになった。カタール政府が難民に用意してくれた観戦用のテントで決勝戦を見た。メッシがPKでゴールを決めてくれた。最高にワクワクした。今回のワールドカップで、僕の心に大きな希望が戻ってきた。もうサッカーは無理だけど、メッシが気づかせてくれた。人生は終わっていないと」
<メッシとサッカーをした少年>
マッケンジー・オニール「マッケンジー・オニール。14歳 。イングランド6部のユースのゴールキーパーです。4年前、カリブ海のビーチでメッシとサッカーをして、プロになりたいと思うようになりました」
母 アナ「息子のヒーロー、メッシに心から感謝しているわ。これは、メッシと出会った年のクリスマスに、ケンジーにプレゼントした絵よ。言葉の壁はあったけれど、メッシは息子を正しい方向に導いてくれた。息子のお手本であり、ヒーローよ」
マッケンジー・オニール「休暇で行ったカリブ海のビーチで、友だちとサッカーをしていた。最初はよく似た別の人かと思った。けどメッシの脚の有名なタトゥーと彼の息子を見て、本物だと気づいた。信じられなかったよ」
母 アナ「ケンジーに聞いたの『メッシって誰?』と。『お母さん、メッシを知らないの?』『知らないわ』。『サッカー選手だよ!』『あら、すごいじゃない』。正直に言うと嫌だなと思ったの。せっかく静かな場所なのにパーティーでもするのかしらと思って」
マッケンジー・オニール「するとメッシの家族が『サッカーしないか』と声をかけてきた。『何が起きているんだ?現実なのか?』と思ったよ」
母 アナ「試合が始まったわ。ケンジーは確かメッシにタックルしていたわ。とてもおもしろかった。『どうせパーティーでもするんでしょ』なんて思って悪かったわ。歩いて通り過ぎたら、普通の家族だとしか思わなかったでしょうね」
マッケンジー・オニール「メッシはとてもいい父親だった。子どもを大切に思っているのが伝わってきた」
母 アナ「ケンジーは小さい時に父親を亡くしているの。『父さんもここにいられたらよかったのに』と思ったでしょうね。あの体験は間違いなくケンジーの人生を決定づけるものだった。強い意志で練習に打ち込むようになった。そして言ったの。『プロのゴールキーパーになる』と」
マッケンジー・オニール「アルゼンチンの優勝はとてもうれしかった。特にメッシのことを思うと。彼は尊敬する人、まるで父親のような。人生で壁にぶつかった時に、メッシのようでありたいと思う。そんな人なんだ」
<ツナミの街の少女>
「当時小学校6年生で、波は大丈夫だったけどガスボンベが爆発して火が回ってきて。『この火は長根さんちの家が燃えてるんだよ』と」
長根絢菜「長根絢菜。24歳。岩手で鍼灸師をしております。小学校2年生の冬の終わり頃、お兄ちゃんが小学校卒業するあたりに(サッカーを)始めたので、その数年後くらいからは、もうメッシ選手のユニフォーム、レプリカを買って、それを着て練習していました」
長根絢菜「(震災の日)家が燃えてるってなった時に、サッカー道具だけは燃えないであったので、サッカーができる時間は全部忘れられた。(震災を)考えなくても全然よかった」
長根絢菜「岩手のサッカー協会で話が上がったんですけど、沿岸でサッカーをしている女子っていう枠組みで、バルセロナ6日間の旅という話が出て。『サッカーも観戦できるかもしれません』と。人生で初のパスポートを取って、スペインに行きました」
長根絢菜「試合前にグラウンドに子どもたちが並んで騒いでいたら、私の隣にすっと腕が来て。えっ!?って振り向いたら、メッシ選手だった。夢。ありえないっていうのがまずあって。でも見ての通り気さくで優しい方だった」
長根絢菜「自分で写真を加工して位置をずらしてカットして。アルゼンチン戦の時はこれをつけて、抱えて、テレビを見ていました。サッカーから離れたくない、サッカーが好きと改めて感じさせてくれたのも、あの一日があってこそだと思います」
長根絢菜「自分自身がけがをして、どうしようかな、サッカーを続けようかな、やめようかなみたいな感じだったんですけど、メッシ選手がプレーできているのも、トレーナーとか治療している方が絶対いると思うので、そういう立ち位置で自分もできたらおもしろいなっていうふうにも思えた。目指しているところは違っても、夢を追いかけさせてくれた」
長根絢菜「サッカーやっている学生さんが来ると、すごい応援したくなる。将来、メッシのような選手になるかもしれない。子どもたちの夢を壊さないようにっていうふうに思う」
ソフィア・マルティネス「人生には時に苦しいこともあります。メッシは戦うことや前進することの象徴です。何度転んでも立ち上がって、いくら批判を受けてもユニフォームを守り抜き、どんなに挫折をしようとも夢を見続ける勇気の象徴です。ピッチの中では誰もが平等で、同じチャンスを持っています。私たちは発展途上国の人間だけど、サッカーでは対等だと誇りに思えます。サッカーでそれができるなら、人生のどんな場面でも可能なはずです。私たちにはこんなにすごいことができるんだから、力を合わせれば何だってできるという希望が生まれます。それこそがサッカーの持っている魔法だと思うのです」
ところで、お金がなくなりカタールから帰れないでいたアルゼンチンのサポーター・ルーカスさんは、その後どうなったのか。
カタールの空港で会う人会う人に窮状を訴え、ビザが切れる直前、何とか格安航空券を手に入れることができた。たどりついたのはパリ。今メッシは、パリのクラブチームでプレーしている。それがパリに向かった理由だった。
ルーカス・ビジャロエル「ユニフォームにサインしてもらうか、メッシに何かもらいたい。直接会ったりできるかもしれない」
ルーカス・ビジャロエル「メッシがいる。25mくらいの距離だよ。走っていきたい」
結局メッシに近づくことはできず、残念ながらサインはもらえなかった。
ルーカス・ビジャロエル「人生最高の旅だった。でも、まだ始まったばかりさ。いつになるかは分からないけど、いつかは達成できる。時間と忍耐そして努力だよ」