証言ドキュメント “沖縄返還史”(後編)

NHK
2022年5月26日 午後5:50 公開

(前編はこちら)

(2022年5月15日の放送内容を基にしています)

<1969年① 核抜き本土並みをめぐる攻防>

しかし日本は、返還交渉の入口に立ったに過ぎませんでした。難題が山積していたのです。

佐藤栄作首相「核を持ち込むか、あるいは核の保有を許すか、こういうような問題になると『ノー』と」

1969年の国会。激しい議論になっていたのは、沖縄に配備されていた核兵器の取り扱いについてでした。佐藤が掲げたスローガンは、「核抜き・本土並み」。

この前年、佐世保に寄港した、原子力空母エンタープライズに対する反対運動が全国に拡がっていました。「非核三原則」を自ら打ち出していた佐藤にとって、沖縄に配備されていた核兵器の撤去が返還の絶対条件だと考えていました。

佐藤栄作首相「我々は核兵器の絶滅を念願し、自らもあえてこれを保有せず、その持ち込みも許さない決意であります」

総理秘書官だった楠田。佐藤の立場をこう語っていました。

楠田實(総理秘書官)「(“核抜き”返還を)発言すること自体、非常に賭けなんですね、政権としては。だって出来るかどうか分からないし。だから、失敗すればもう当然引責辞職しなきゃならない」

沖縄からの核撤去に、アメリカは応じるのか。日本の外交官たちはその可能性を探ります。

しかし、アメリカは態度を明確にせず、その真意を確かめることはできませんでした。

栗山尚一(条約局条約課 調査官)「残念ながらそれは、そこまでの情報は、日本は外務省もつかんでいなかった。アメリカもそこは漏らしてなかった」

大河原良雄(アメリカ局 参事官)「アメリカが絶えず言ったのは、『アメリカは核の存在について、イエスともノーとも言わない』と。これは一貫した姿勢だと」

沖縄の核をめぐる考え方は、日本の安全保障の観点から、外務省内も一枚岩ではありませんでした。

駐米大使、下田武三(しもだ・たけそう)の証言が残されていました。

下田武三(駐米大使)「ソ連や中共の核は、日本をにらんでいるんですから。今でもにらんでいるんですからね。そういう危険な情勢に置かれている日本も、それに対抗する核が、守ってくれなきゃ困るわけですからね」

記者「しかし、日本は核を持てませんよ」

下田武三(駐米大使)「ええ、それをアメリカが代わって持ってくれてるわけです。核だけはアメリカが持ってくれなきゃ」

「核抜き」に対し、沈黙を続けたアメリカ。実は、日本の焦りを交渉に利用しようとしていました。外交の方針を決める国家安全保障会議のメンバー、モートン・ハルペリン。

モートン・ハルペリン(国家安全保障会議メンバー)「核の撤去は、日本の最重要課題だとわかっていました。核撤去に応じる前に、他の問題でより有利な合意を得ようとしたのです」

当時、技術発展により、洋上から核を発射する準備を整えつつあったアメリカ。沖縄に核兵器を常備することに、固執していませんでした。

アメリカの最大の狙い。それは、返還後も沖縄の基地を自由に使用することでした。日米安保条約では、アメリカ軍が戦闘行為を伴った基地使用を行う際は、日米で「事前協議」を行うことが定められています。

佐藤が掲げたもう1つのスローガン「本土並み」は、この事前協議を沖縄に適用することだったのです。

しかしアメリカは、事前協議で、日本が基地使用に関して「ノー」ということを恐れていました。

リチャード・エリクソン(日本大使館 参事官)「アメリカ軍は、沖縄の基地を可能な限り長く、自由に使用する権利を持ち続けたいと考えました。当時はベトナム戦争の真っ最中でしたから」

<1969年② 自由使用をめぐる戦い>

アメリカが求める自由な基地使用を認めるのか。「核抜き」に加え、「本土並み」を達成することも、大きな壁に直面していました。

栗山尚一(条約局条約課 調査官)「沖縄の基地を北爆に使ってましたから、本土並みということになると、当然、事前協議にかかる。アメリカが沖縄を含めて日本の基地を使う必要があるという時に事前協議をして、日本が『イエス』と言ってくれないと、アメリカはものすごく困るわけで」

大河原良雄(アメリカ局 参事官)「そうかと言って、日本側としては、イエスもありノーもあるという大前提を崩すわけにはいかない。一番難しいポイントであった」

日本は、あくまで沖縄の基地にも事前協議を適用するよう主張。一方アメリカは、韓国や台湾で有事の際は、日本の安全に深く関係しているため、事前協議を行う必要はないと主張しました。

マーシャル・グリーン(国務次官補)「『韓国は日米の安全保障にとって不可欠であり、非常に重要だ』という文言を、日本に受け入れさせるよう努力しました」

あくまでも「核抜き・本土並み」にこだわる佐藤。再び、若泉敬を特使として派遣します。

若泉はアメリカ側から、公式文書には載ることのない約束、“密約”を結ぶことを提示されました。佐藤がこだわった核の撤去を認める代わりに、緊急時に、核兵器を再び持ち込み、通過させることや、核の貯蔵地をいつでも使用できるよう維持・活用することを求めたものでした。

モートン・ハルペリン(国家安全保障会議メンバー)「日本は核付きの返還なら、しないほうがましだと考えていたのでしょう。佐藤首相には、密約以外によい方法がなく、受け入れたのでしょう」

日本が沖縄返還に動き出して4年。日本は、敗戦国であるという現実を、アメリカから突きつけられました。

楠田實(総理秘書官)「やっぱり戦勝国と戦敗国の関係で、戦勝国から取られた領土を取り戻すには、やはり異常な決意がいるし、向こうからそういう条件を出された時に『ノー』と言えなかったかもしれない。佐藤さんがそれをのんだとしても、僕は不思議ではないと思いますね」

<沖縄 復帰を機に基地の整理縮小を>

沖縄ではこの前年、琉球政府の主席選挙が初めて行われていました。

「即時無条件全面返還」を主張する候補と、基地の完全な撤廃は、経済的なダメージが大きいとする候補が激突しました。

激しい選挙戦を制したのは、「即時無条件全面返還」を掲げた屋良朝苗。「基地も核も撤去した上での返還」を求めていました。

琉球政府主席 屋良朝苗「即時無条件全面復帰の立場が、県民に信任されたことを意味します。県民の切実な要求を日米両政府に再確認してもらい、さらに本土同胞にも強く訴えてまいります」

しかし、沖縄と本土の市民の考えには、大きなへだたりがありました。当時のラジオ番組のテープが、残されていました。

沖縄と東京を結んで行ったラジオの討論番組。東京では、マイクを向けられた大半が、沖縄の基地存続に肯定的でした。

司会(東京側)「基地、即時撤廃ということについて意見を聞きましょう。どうですか、そのへんの意見は?」

男性(東京側)「私はですね、屋良さんが『即時返せ』とか、『基地をすぐになくせ』とか言っておるようですけれども、『返せ』と言った以上は、その後の経済をどうするか、具体案をもって叫ばなくちゃいけない。ところが、その具体案を1つも言わずに『返せ返せ』というのは、全然話にならん」

男性(東京側)「そうせっかちにね、ヒステリックに反米闘争だとかね、貸したもの返せとか、単純な問題じゃなくてね、やはり世界情勢の中でですね、慎重に解決されるべき問題」

男性(沖縄側)「(東京の人は)我々の即時無条件全面返還の要求を、本当に、心底から理解して捉えることはできないと思うんですよね。私1つだけ質問したいと思うんですよ。あなたのかわいい娘や息子がですね、車でひかれて殺されてですね、そして殺した人が、全く何の罰も受けないと。無罪になった場合に、あなた方は一体どういう態度をとるんですかっていうことを、この点だけはもう皆さんにですね、ぜひ回答を願いたい。言葉の遊びじゃないんですよ。生活なんですよ、問題は」

さらに沖縄の緊張を高める事故が発生します。嘉手納基地でB52爆撃機が墜落。核兵器があるとされていた弾薬庫のすぐそばで爆発炎上したのです。

屋良は、復帰と同時に沖縄の基地を「本土並み」に縮小してほしいと、政府への要望を繰り返しました。

返還交渉にあたっていた愛知揆一(あいち・きいち)外務大臣との会談を記録した日誌。

屋良朝苗 琉球政府主席「本土並み基地の内容について確認したい」

愛知揆一 外相「基地の密度、機能を本土並みにする」

屋良朝苗 琉球政府主席「基地の整理縮小については」

愛知揆一 外相「返還後、基地は本土並みに整理縮小される」

外務省の記録にも、愛知は基地の縮小について「可能性は十分ある」と答えたとされています。返還後に期待をかけるしかないと考えるようになっていた屋良は、こう記していました。

「基地撤去はアジヤの情勢が変わり、日本の政権が交代する時でなければ、実現は不能である。われわれは、このきびしい現実を無視することは出来ない。施政権を先ず返還してもらい、その地位に立脚して、基地を整理していく方法をとる以外に道はないと思う」(屋良朝苗の日誌より)

<1969.11 返還交渉の結末>

佐藤栄作首相「1972年中に沖縄が核兵器の全く存在しない形で我が国に返還され、事前協議につきましても、何ら特別の例外をもうけないということであります」

1969年11月。日米首脳会談で佐藤は、「核抜き・本土並み」での沖縄返還に合意したことを宣言しました。

佐藤がこだわり続けた「核抜き」。緊急時には持ち込めるという「密約」が、正式な取り決めとは別に交わされました。

そして、「本土並み」。日本の安全保障に関する重要な決定がなされていました。

アメリカが求めてきた基地の自由使用。日本の強い求めによって「事前協議」の枠組みは守られました。但し、朝鮮半島での有事の場合は、沖縄だけでなく、日本本土にある基地の自由使用を「ほとんど肯定する」と約束。さらに、台湾での有事の場合についても「前向きに応じる」としていました。

栗山尚一(条約局条約課 調査官)「朝鮮半島、それから台湾の安全というのは、日本の安全保障と密接な関係があるという認識を、そこで表明するということで、法律的な約束はしないけれども、政治的な心証としては、日本はアメリカが事前協議をしてくれば、まずほとんど間違いなく『イエス』と言うでしょう、という心証を与えるということによって、手を打ったわけですね」

返還の大枠が決まったことを受けて、基地の整理縮小についての交渉が始まりました。

しかし、アメリカ局長だった吉野文六(よしの・ぶんろく)は、話し合う余地はほとんど残されていなかったと証言します。

吉野文六(アメリカ局長)「『もっと基地の返還交渉をやったらどうだ』という話をしたんです。そうしたらね、沖縄のアメリカおよび日本における安全保障のために、“触らない”と、こういう交渉ができていたわけですね。ですからもう基地の問題は触れることはできなかった」

沖縄にあったアメリカ軍の関係施設は134。このうち、復帰の際に全面返還、または、施設の一部を返還することが決まったのは34施設。大規模な基地はほぼ残されました。

愛知外務大臣が屋良に伝えていた復帰後、段階的に返還するとされたものは、12施設でした。

栗山尚一(条約局条約課 調査官)「基地の全面撤去を主張している限り、それは接点はないわけですから、アメリカとの間に。アメリカとの間に接点がないのみならず、日本の安全保障という、立場から考えても、接点が見つからなくなってしまうわけですから」

国務長官として交渉に関わったディーン・ラスク。返還をこう総括していました。

ディーン・ラスク(国務長官)「沖縄の本土復帰によって、日本人は我々の基地とともに、長い道のりを歩んでいくことになるのです」

多くの犠牲を払って、沖縄返還という悲願を達成した佐藤。秘書官だった楠田は交渉のさなか、佐藤がもらした言葉を覚えていました。

楠田實(総理秘書官)「その時ポツリと言われた。『しかし今さら言っては何だが、大変なことに手をつけてしまったよ。良かったのか、悪かったのか分からんね』と言うんですよね」

<届かなかった沖縄の思い>

「本土並みといっても、嘉手納空軍基地、海兵隊基地、主要基地はほとんどそのまま残り、私は基地の形式的な本土並みには、不満を表明せざるを得ません」(1971年6月屋良首席 会見より)

返還後に基地が縮小される、という政府の説明に期待をかけていた屋良。琉球政府内にプロジェクトチームを発足させ、要望をまとめた「建議書」を作成しました。復帰に際して起こり得る問題点を細かく検討した上で、次のように訴えていました。

「沖縄問題の重大な段階において、将来の歴史に悔いを残さないため、政府並びに国会は、この県民の最終的な建議に謙虚に耳を傾けて、県民の中にある不満、不安、疑惑、意見、要求などを十分にくみ取ってもらいたいと思います」

復帰を控えた1971年。沖縄の人々を記録した映像が残されていました。待ち望んでいたはずの復帰を前に、人々が激しく議論を交わしていました。

「琉球政府がいくら頑張ったってね、基地縮小ひとつできやしない。復帰しないよりは、したほうが数歩も前進するわけですよ」

「いま、そういう意見が出たわけだけれども、縮小するというけども、本当に沖縄協定を結ぶことによってね、縮小されるのか」

「われわれは戦後26年、一日も早く祖国に返りたいだろ。あの原点を忘れたのか。あの時の気持ちはどこにいったのか」

<1972年 復帰>

そして、1972年5月15日。日本は、沖縄の施政権を回復しました。

佐藤栄作首相「沖縄は、本日、祖国に復帰いたしました。今日以降、私たちは同朋合い寄って、喜びと悲しみをともに、分かち合うことができるのであります」

同じ日。沖縄では基地が残されたことなど、返還のあり方に反対するため、1万人が集まり、抗議の声をあげ続けていました。

復帰から10年後の屋良のインタビューが残されていました。

屋良朝苗「支えてくれた皆さんには、『すまん』と。つまり期待に沿えなかったと考えるわけですが、県民は基地に対して、かくかくしかじかの不安がありますと。不満とか不安というようなものは、是非ひとつ、はっきりさせて無くしてくれるようにということを強く要求しておった。だけれど、その後10年たっておる今日、それが解消されておらない。やっぱり力が足りなかったなと思いますよ。すまなかったなと思う気持ちがいっぱいありますね」

今回、返還の翌年に、佐藤とニクソンがホワイトハウスで再会したときの音声が見つかりました。

佐藤栄作首相「私は本当に、世紀の決定をなさった沖縄返還について、心からお礼を申し上げる」

ニクソン大統領「日米関係では大きな成果だったと思っています。米国が信頼できる同盟国であることを示すことが、非常に重要だったのです」

佐藤栄作首相「今一番大事なことは、日米の関係をより緊密にすること。大統領がご指摘になった通りです」

ニクソン大統領「私たちは日米両国の新たな関係を築きました。沖縄から始まったこの関係は、今後も続くでしょう」

日米首脳は沖縄返還をきっかけにして、関係をより強固なものにしようと誓い合っていました。

復帰から50年。日本を取り巻く安全保障環境は、厳しさを増しています。沖縄には今も、在日アメリカ軍施設の7割が集中しています。

返還交渉によって決定づけられた、沖縄が大きな役割を担い続ける日本の安全保障のかたち。そして今日まで続く日米の関係。

2022年5月15日、沖縄が日本に復帰して50年になります。