(2022年4月10日の放送内容を基にしています)
2012年8月30日。インターネットに突然、abc予想を証明したとする論文が掲載されました。タイトルは「宇宙際タイヒミューラー理論」。著者はアメリカをあとにし、日本での研究生活を選んだ望月新一博士。数学界は驚きと興奮に包まれます。
コロンビア大学 上級講師 ピーター・ウォイト 博士「みんなワクワクしていました。新しいアイデアが数学に流れ込んでくるぞという期待であふれました」
世界中の数学者たちが、一斉に望月論文を読み始めます。
ところがその内容は、多くの数学者をとまどわせるものでした。数学全体を「宇宙」と呼ぶだけでなく、「劇場」「エイリアン」などといった、聞いたこともない単語が並ぶ数学理論だったのです。
バーモント大学 助教 テイラー・デュピー 博士「エレンバーグという数学者が『まるで別の惑星から来た論文のようだ』と言ったのを覚えています。奇妙だったのです。本当に奇妙で、難しかったんです」
奇妙といわれた望月博士の理論。それはどんなものだったのか。数学者にとっても難解なものなのですから、ここでは理論の出発点に限って、ごく単純化してご紹介しましょう。
通常の数学の世界から飛び出し、新しい数学を模索し始めた望月博士。数学の世界を飛び出しただけでなく、なんと、数学の世界をもう一つ用意します。この二つの数学世界は全く同じものですが、仮に、一方を宇宙A、もう一方を宇宙Bと名付けることにしましょう。ちなみにこの場合の「宇宙」とは、星や銀河が浮かぶ本物の宇宙を指すのではなく、一つの数学世界全体を指す、望月博士独特の数学用語です。
そしてこの二つの宇宙に、ある仕掛けを施すというのです。宇宙Aの数字と、宇宙Bの数字を、こんなふうにつないでいくのです。1は1と、2は4と、3は9と・・・。Aの数は、それを2乗したBの数とつながっています。
不思議な形でつながった二つの数学世界。
ではここで、かけ算をやったとすると、どうなるでしょうか。例えば、7×8はどうなるか。
Aの中だけで考えるなら、ここは普通の数学世界ですから、当然、7×8は56になります。でも、例のつながりまで考えるとどうなるか。実は、つながった宇宙には、もう一つの計算方法があるのです。Aの7はBの49につながり、8は64につながっていますから、Aの7×8は、Bの49×64と一致するはずです。答えは、3136。
では、Bの3136は、Aのどの数字につながっているか。たどってみると…、互いに2乗の数字とつながっているのですから、たどりつくのはルート3136。でもこれ、ちゃんと計算すると56に一致するんです。最初の計算とちゃんとつじつまがあいました。分かりましたか?つながった宇宙には、Aの中だけで考えたかけ算と、つながりまで考えたかけ算の二つのかけ算がありますが、両方の答えが一致しますので、かけ算はつながった宇宙の中でちゃんと成立しているのです。
では、たし算はどうなるでしょうか?
宇宙Aでは、7+8は15ですが、つながりまで考えると、宇宙Bでは、49+64になりますから、Bでの答えは113。これをAに戻すと、2乗すると113になる数、ルート113という、最初の15とは違う、変な数になってしまいました。つまり、二つの宇宙をつなげると、たし算はつじつまが合わなくなってしまうのです。
望月博士が二つの宇宙をつなげた理由。それは、いわば、かけ算はちゃんと成立するけど、たし算が成立しない、そんな数学世界を作りたい、ということだったのです。
加藤 博士「一個の数学ではできなかった新しい柔軟性を、たし算とかけ算を独立に扱う柔軟性を手に入れることができるんじゃないかという、そういう発想だった」
abc予想証明のための望月博士の戦略。それは、いわば、かけ算だけが成立する世界を作って、たし算と切り離し、その世界を出発点に、たし算とかけ算にまつわる難問、abc予想の証明にたどりつこうという、これまでになかったアプローチだったのです。
数学の世界で最も重要だともいわれるabc予想は本当に証明されたのか?2015年、徹底的に議論しようという国際会議が開かれました。集まったのは、望月博士を正しいと考える数学者たちと、さまざまな疑問で頭がいっぱいの数学者たち。ここで問題となったのが、宇宙際タイヒミューラー理論が出発点とした、あの二つの数学世界でした。全く同じものだと説明される二つの数学世界。
しかしつながりまで考えると、Aの4はBの16につながっているのに、Bの4はAの2につながっています。だったら、二つが同じとはいえない。論理が矛盾しているというのです。
アデレード大学 助教 デイビッド・ロバーツ 博士「望月の理論で奇妙なのは、まず全く同じものだといいながら、次に、それらを完全に異なるものとして扱う点です。数学では同じと見なせるものは同じとするのが原理原則です。同じでありながら同時に異なるものなんてありえるのか、真剣に考えてみましたよ。いやいや、絶対無理ですよね」
デュピー 博士「こんな感じの違和感です。誰かがあるものを持っていて、『それはこれと同じものでもあるし、また同時に異なるものでもある』といったときのような。多くの数学者は、それは『2が4と等しい』といっているようなもので、そんなことをいえば、数学は破綻すると反論したんです」
議論は紛糾。証明の核心へと迫る前に、会議は閉会となりました。
数学者同士が理解しあえない状況を、なんとか打開できないか。一人の数学者が、数学界の期待を背負って、望月博士のもとを訪れることになります。ボン大学教授ペーター・ショルツ博士(30)。この年(2018年)のフィールズ賞を受賞した若きスーパースターでした。来日したショルツ博士が問題にしたのは、やはり望月理論が出発点とした、あの二つの数学世界でした。全く同じものでありながら異なるものとしても扱うという、一見矛盾する論理展開を、どう考えればいいのか。二人の話し合いは、数学がよって立つべき原理原則はどうあるべきなのかを問う、激論へと発展していったのです。
ロバーツ 博士「同じと見なせるものは一貫して同じと見なすべきだという考え方は、現代数学の重要な原理原則です。ショルツのような数論の専門家たちにとって、それは体の一部になっているといっていいでしょう。しかし望月は、今回の議論では、その原則は当てはめるべきではないと主張し続けました。つまり、ショルツと望月の衝突は、実は、数学のあり方をめぐる衝突だったのです。」
会談のあと、二人がそれぞれ記した会議録です。
「abc予想はまだ証明されていない」とするショルツ博士に対し、望月博士は「誤解が解けていない」と書き記したのです。
ウォイト 博士「ショルツは数論の分野で最も才能に満ちた数学者です。そのため、ショルツが理解できないとしたことは重い意味を持ちます。多くの数学者は、『もうこれでこの問題については悩まなくてもよくなった』と思うようになったのではないでしょうか」
望月博士によるabc予想の証明。論文の査読が完了してもなお、それが誤りだと捉える数学者が残るという、異常事態となってしまったのです。
さて、皆さん。私たちはこれまで、数学とは、一つ一つ論理を積み上げていけば、誰もが同じ結論に達することができる学問だというイメージを持ってきました。しかし今回、abc予想の証明をめぐっては、そんなイメージとはかなり違ったことが起きています。数学界に起きていることをどう捉えればいいのか。望月博士が証明を作り上げる過程をみつめてきた加藤文元博士が、興味深い話をしてくれました。数学者同士が理解し合えない今の状況は、現代数学が新しい数学へと飛躍するための何かの準備段階かもしれないというのです。
加藤 博士「私の意見ですけど、数学的な意味で、(証明に)何かギャップがあるとか、正しさにちょっと曇りがあるとかということでは決してないんだと思うんです。今回の場合は、やはり対象に関する認識論なんだというふうに思います」
対象に関する認識論の違いが、互いの理解を阻んでいる。一体どういう意味なのでしょうか。思い出してください。数学は、異なるものを同じと見なすという方法で始まり、発展してきたことを。つまり、物事の異なる部分にいわば目をつぶり、同じと見なせる部分に注目し認識することを、数学は原理原則としてきたのです。
しかし加藤博士は、このやり方は、人が日常生活の中で実際に物事を認識するときのやり方とは、大きく違うといいます。
加藤博士「我々は、『同じものであっても違うものと見なす』ということをやっているわけなんですけどね。ある時は、我々は『同じものを違うもの』と見なすし、ある時は、『同じものを同じもの』と見なすという」
人間の思考は、二つのものを同じものだと認識することもあれば、同時に、全く違うものだと考えることもあるという、いわば矛盾をも包み込む高い柔軟性を持っている。だから数学も、そうした柔軟な形へと進化する道があってもいいのではないかというのです。
加藤 博士「IUT(宇宙際タイヒミューラー理論)というのは、数学の基本的なところ、深層のところを揺るがす、地殻変動から起こっている理論ですので、現今の数学との違いをきちんと完全に言語化する、新しい数学の言語体系を、早急に作らなければいけないんじゃないか」
かつての指導教官、ファルティングス博士もまた、これまでの数学との違いを分かりやすく説明する言葉を見つけてほしいと語ります。
ファルティングス 博士「望月は説明に力を入れるべきです。今はなぜ彼のアイデアがうまくいくのか分かりにくいのです」
ディレクター「このままでは望月博士の証明は忘れ去られませんか?」
ファルティングス 博士「その恐れはあります。誰かが望月の理論を分かるように説明する言葉を見つけてくれればいいのですが…」
論文発表からまもなく10年。今、新たな動きが始まっています。望月理論に未来の数学の姿を見いだしているという若い数学者たちが、ネット上での議論を開始しました。
デュピー 博士「望月の件に巻き込まれるなと警告してくる数学者もいます。『お前のキャリアがむちゃくちゃになるぞ。やめておけ』と。でも私は思うんです。これは微分積分の発明や重力の発見にも匹敵する革命で、私は今それに立ち会っているのだと。100年後、いや200年後も、望月理論は数学の世界で生き続けていると思うのです」
望月博士本人も動き始めました。多くの数学者が理解できないとする「同じものでもあり異なるものでもある」という論理展開を、詳しく解説する文章を公表。さらに、自らの言葉で、こんなメッセージを数学界に発信しました。
京都大学数理解析研究所 教授 望月新一 博士「数学者の中には、宇宙際タイヒミューラー理論が、これまでの数学とは関係ない、別物だという人がいますが、私は、この理論もまた、多くの数学者が研究している数学とつながっていると思っています。数学の世界がつながっているだけでなく、数学者同士もまた、つながっていると信じているのです」
abc予想を証明したという宇宙際タイヒミューラー理論が、今後世界の数学者に広く受け入れられるかどうか。それはまだ分かりません。しかし、もしこれが新しい数学の夜明けなのであれば、私たちは今、史上まれにみる知の大変革を目撃している。そう言えるのです。