原子爆弾・秘録 ~謎の商人とウラン争奪戦~

NHK
2023年8月7日 午後6:30 公開

番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

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(2023年8月6日の放送内容を基にしています)

広島に原爆が投下される3週間前。アメリカの要人たちが、ある瞬間を固唾を飲んで見守っていた。

人類史上初めての核実験。この成功が、「核の時代」の幕開けとなった。

その扉を開いた科学者、軍人、そして政治家たち。その物語については、これまでも語られてきた。しかし、重要な役割を果たしながらも、全く知られてこなかった人物がいる。

「原爆・謎の男」とも呼ばれた、ひとりの商人。彼が扱ったものは・・・

アフリカ・コンゴで採掘された世界最高純度のウラン鉱石。

それを大量にアメリカに売り込んだとされるが、その詳細は、ほとんど知られていない。

わかっているのは、このウラン鉱石を主な原料に、アメリカが2発の原子爆弾を生み出したという事実。

高濃縮ウランを使った、「リトルボーイ」。ウランを原料とするプルトニウムを使用した、「ファットマン」。2発の原子爆弾は、その年だけで、21万ともいわれる尊い命を奪った。

解き放たれた核のエネルギーは、大国の欲望を駆り立て、その力による威嚇が、繰り返されてきた。

人類に惨禍をもたらすことになったウラン商人は、果たしてモンスターだったのか。

それとも、今も私たちの身近にいる、ひとりのビジネスマンだったのか。

彼が残した膨大な記録が、見つかった。

<3万ページに及ぶ機密資料を残していたベルギーの商人>

未公開資料は、彼の母国・ベルギーの国立公文書館に眠っていた。

資料を残していた、エドガー・サンジエ。ベルギー最大の財閥系鉱山会社「ユニオン・ミニエール」の幹部だった人物だ。

サンジエが残していた資料は、およそ3万ページ。ユニオン・ミニエールの後継会社が、これまで機密扱いとしてきた資料を特別に公開した。

ウランの取引を記録した覚書や、手書きのメモ。さらに、晩年に書き残していた手記などが含まれていた。パスポートには、戦時中、数多くの国を渡り歩いていた記録が残されている。

ベルギー国立公文書館 職員「外交官用のビザの印鑑が押されています。彼は外交官に準ずる立場で、あちこちの国へ渡航していました」

その存在がなければ、原爆の開発は不可能だったとも言われる、ひとりの商人。

<ベルギー領コンゴで発見した 世界最高純度のウラン鉱石>

サンジエがウランと出会ったのは、原爆が開発される20年以上も前のことだった。

「コンゴのウランの発見は、私たちに、興味深い驚きを与えてくれた」(1921年 サンジエの報告書)

当時、40代だったサンジエは、仕事に厳しい「会社人間」。やり手として、社内で頭角を現していた。サンジエは当時、ベルギーの植民地だったコンゴ、現在のコンゴ民主共和国に派遣され、会社の収益の柱となる銅の生産を任されていた。そこで偶然出会ったのが、異常なほど純度の高いウラン鉱石だった。

「良質とされるアメリカやカナダの鉱石でも、0.2~0.3%の酸化ウランしか含まれていない。しかし、ここの鉱石の含有率は、65%に上る」(サンジエの手記)

実はこの頃、ウランには、ほとんど活用方法はなく、商業的な価値は低かった。

それでも、これほど高純度のウランは、他にないと考えたサンジエ。いつか活用方法が見つかれば、市場を独占できると、先行投資を決めたのだ。

「私は試掘を行ったあと、慎重に利権を確保し、ウラン鉱床を開発するために必要な措置を講じた」(サンジエの手記)

サンジエは、それまでの実績から現地の鉱山開発を一手に任されていた。

しかし、その後もウランの用途は見つからなかった。大量の在庫を抱え、1937年に、一時、閉山せざるを得なくなった。

<ウランの価値が一変した「核分裂」の発見>

ところが、その翌年の1938年末、ヨーロッパで、ウランの価値を一変させる発見があった。

ドイツ人の科学者が見つけ出した、ウランの「核分裂反応」である。ウランの中にわずか0.7%しか含まれていないウラン235。それに中性子をぶつけると、原子核が2つに分裂。ウラン235を濃縮すると、この反応を連鎖的に引き起こすことが可能になり、天文学的な力を作り出せることがわかったのだ。

突然、サンジエの元に、ヨーロッパの列強から、問い合わせが相次ぐ。

1939年5月。最初は、サンジエがイギリスを訪れていたときのことだった。ここで、「コンゴのウランを提供して欲しい」と持ちかけられる。依頼主は、イギリスを代表する化学者ヘンリー・ティザード。

用途は明かされないままの要求。サンジエが回答を濁すと、別れ際、こう言葉をかけられたという。

ティザードの発言「ウランが敵の手に渡れば、あなたの国や私の国にとって、大惨事になるかもしれない。そうしたものをあなたが手にしていることを、決して忘れないでください」(サンジエの手記より)

核分裂が発見されたドイツ。当時、ヒトラー率いるナチスが台頭し、ヨーロッパでは緊張が高まっていた。ドイツが、核による巨大なエネルギーを手にするのではないか。周辺国では、懸念が強まっていたのだ。

イギリスでの一件から数日後、手記にはフランスでも科学者と面会したことが記されている。物理学者、ジョリオ・キュリーから、ウランを爆弾の研究に使いたいと、売却を求められたという。

サンジエが、保管してきた大量の在庫の価値に、気づいた瞬間だった。

「私は、この2つの出来事をきっかけに、極めて質の高いコンゴ産ウランの戦略的重要性を確信した」(サンジエの手記)

<秘密裏にアメリカに持ち込んでいた コンゴ産ウラン1200トン>

1939年9月。ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。ドイツは、その後、次々と戦線を拡大し、1940年5月にはオランダやベルギーへの侵攻を開始する。

ここで思わぬ事態が起きる。サンジエが本社のあるベルギーに送っていたウランの在庫の一部が、ドイツ軍に押収されたのだ。

資料には、このときサンジエが驚きの行動に出ていたことが、記されていた。それは、世界の歴史を大きく変えていくことになる。

「1940年末、ベルギー領コンゴへの侵攻を恐れた私は、コンゴに残されていた極めて質の高い鉱石をウランという名前を伏せて、秘密裏にニューヨークへ出荷するよう指示した」(サンジエの手記)

コンゴに保管していた在庫のウラン、およそ1200トンを、会社に無断でアメリカへと運び出したのだ。ウランは、ニューヨークの中心から10キロほどにある、スタテン島に持ち込まれていた。この場所にあった倉庫で、2000本のドラム缶に入れて保管されたという。

なぜ、サンジエはリスクを冒して、アメリカにウランを運び込んだのか。

<“開戦はビジネスチャンス” 積極的なウランの売り込み>

この頃、アメリカではドイツの核開発に対抗するため、ウランの活用が、本格的に検討され始めていた。

サンジエは、ニューヨークに事務所を開設し、そこで人脈を作りながら、ウランの売り込みを画策。

1年後、事態が大きく動き始める。

1941年12月の日本の真珠湾攻撃によって、アメリカが、第二次世界大戦に参戦することを決めたのだ。

「アメリカが日本に宣戦布告した数日後、私は国務省の戦略物資担当に接触した」(サンジエの手記)

開戦をビジネスチャンスと捉えたサンジエ。積極的に働きかける。

「1942年3月24日。極めて純度の高いウラン鉱石の貴重な在庫について」(国務省に宛てた書簡)

「4月14日。あり余るほどのウランの在庫がある」(サンジエの手記)(国務省に宛てた書簡)

確認出来ただけで5回にのぼる売り込みを行っていたサンジエ。アメリカ側の反応を待った。

アーキビスト/ジャン=ルイ・モローさん「サンジエはベルギーがナチスに占領されることで、世界の市場から断絶されると予測していました。そこで、彼は先手を打ったのです。アメリカでは核開発の議論が始まり、サンジエは販路の可能性を見出していました。そこには、冷静に利益を追求しようとするビジネスマンとしてのサンジエがいたのです」

<高純度ウランの独占から始まった「マンハッタン計画」>

1942年9月18日。最初の手紙から半年。サンジエという人物を入念に探っていたアメリカに、動きがあった。

「1942年9月18日、ケネス・ニコルズ氏と会談」(サンジエの手記)

陸軍のケネス・ニコルズ。アメリカの原爆開発で、原料の調達を担っていた人物である。

ちょうどその頃、原爆開発の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」が本格的に始動していた。総責任者に就任したレスリー・グローブス。その翌日、側近のニコルズをサンジエの元に派遣したのだ。

「ニコルズに、こう質問した。『まず聞きますが、ここに来たのは世間話をするためですか?それとも仕事の話をするためですか?』と。そして、私はニューヨークで2000本のドラム缶に保管されている大量のウランについて伝えた。彼は1時間後、コンゴ産ウランの取引の条件が記された“黄色い紙”を持って、私の事務所を出た。これは間違いなく、歴史的な出来事だった」(サンジエの手記)

その場にあった黄色い紙に2人で交わした即席の契約書。そこには、アメリカに持ち込んだウラン1200トンに加え、まだコンゴに保管されている残りの在庫ウランも、すべてアメリカが買い取ることが記されていた。

サンジエと契約を交わしたニコルズは、自らの功績としてそのときの様子を語っていた。

ニコルズ「サンジエはなかなか面白い人でした。『何の用だ?』と聞いてきたので、『ウランを持っているんだろう?』と言ったら、『あなたは契約担当者ですか?』と聞いてきたので、『はい』と答えました。すると『どれだけの権限があるんだ?』と。『きっとすべてのウランを買い取ることができる権限があるはずだ』と答えたのです」

その場で、軍の身分証を見せたニコルズに対し、サンジエは高値で取引される軍事利用に執拗なこだわりをみせたという。

ニコルズ「サンジエは、私たちが何をしようとしているのか知っていました。彼は『君が何をしようとしているかはわかっている。私に話す必要はない。ただ、軍事目的であることを保証してくれ』と言いました。私が『その保証はある』と答えると、『じゃあ、取引しよう』と言ったのです。サンジエの関心はおそらく商業的なもので、彼はこの取引が軍事的な意義をもっていて、大きなビジネスチャンスになると理解していたのです」

<“ウランを制するものが、世界を制する”> 

高純度のウランを独占することに成功したアメリカは、秘密都市・オークリッジを建設。ここで「ウラン235」の濃度を高める濃縮作業に着手する。

陸軍の設計技師として働いていたハル・ベルさん、101歳。ウランがすぐに手に入ったことは、まさに「渡りに船」だったという。

ハル・ベル氏「コンゴ産ウランは欠かせなかった。手に入ったおかげで、すぐに原爆開発を始めることができた。これがなければ、計画はずっと遅くなっていたと思う。戦争が起きていたんだ。一生懸命に急いで、長時間働いた。勝つために働いていたんだ」

同時にアメリカは、ヨーロッパに諜報員を派遣。ドイツの原爆開発の進捗を調べていた。その結果、ドイツはミサイルの開発に精力を注ぐ一方で、原爆については資金難などから開発を断念していたことが明らかになってきた。

自分たちだけが原爆を手にすることができると確信し始めたアメリカ。

この頃から「核の力」を独占することで、戦後の世界を主導しようと考え始めていたことが、サンジェの資料に記されていた。

「アメリカ、イギリス政府は、コンゴの鉱山から採掘される、すべてのウランを提供することを求めるとともに、99年間の先買権の契約まで結ぶという、過剰な要求をしてきた」(サンジエの手記)

1944年9月。アメリカは、サンジエの仲介のもと、同盟国のイギリス、ベルギーと秘密協定を結ぶ。

ユニオン・ミニエールが、閉山していたウラン鉱山を再開発。それをアメリカとイギリスが、将来にわたって独占的に購入するという契約だった。

マンハッタン計画の総責任者、グローブスはこの頃、コンゴ産ウランの重要性について、政府中枢にこう報告していた。

「世界のどこかで、いかなる鉱石が発見されたとしても、コンゴの鉱石がウラン生産の大部分を支配することは、まぎれもない事実だ。アメリカとイギリスにとって、最も望ましい方法でコンゴのウランを管理し、掌握することが、世界の安寧のために重要である」(軍事政策委員会報告 1944年)

スティーブン工科大学/アレックス・ウェラーステイン准教授「ウランの囲い込みに関して興味深いのは、戦後の世界を考慮した点です。ウランを制するものが核開発を制すると、アメリカは気付いたのです。このことは、アメリカの戦後の見通しを大きく変えました」

そして、アメリカは開発中だった原爆の実践使用を検討し始める。

その中で標的とされ始めたのが、当時、玉砕も辞さず、徹底抗戦を続けていた「日本」だった。

アメリカは一貫して原爆投下は、戦争を早期に終わらせるためだったとしてきた。

しかし、専門家は、核を独占した上で、その威力を見せつけることが、重要だったと指摘する。

スティーブン工科大学/アレックス・ウェラーステイン准教授「(アメリカは)原爆を使用することで、国家のあり方や国際秩序、すべてが見直されると期待していました。原爆を使うことが、単に兵器としてだけでなく、同盟国や敵対国に対する交渉の切り札になると考えていたのです」

その後の世界を運命づけたアメリカのウラン独占。サンジエは、その重大さを自覚していたのか。

20年以上にわたり、サンジエの腹心だった、ジュリアン・ルロワ。サンジエとともに、アメリカ、イギリスの秘密協定にも立ち会っていた。

孫のモニークさんは、二人の心境は推し量れないとしながらも、こう語る。

ルロワの孫/モニーク・ドゥ・ルエットさん「時に私たちは、その後何が起こるか分からないまま、歴史の中に巻きこまれてしまいます。祖父は会社を選ぶしかありませんでした。最善を尽くしたと言うはずです。それはおそらく、サンジエも同じだと思います。ただ、最高のものを手にしながら、それに手をつけない選択などできたでしょうか。私にはわかりません」

<コンゴ産ウランを主原料に生み出された 2発の原子爆弾>

1945年7月16日。アメリカが、核の巨大なエネルギーを手にする日がやってくる。

「1945年7月16日、午前5時半から、ニューメキシコ州のさびれた一角で、最初の決定的な実験が行われた」(サンジエの手記)

人類史上初めての核実験。

サンジエの手記には、実験に立ち会った人から聞いた、その日の様子が記録されていた。

「最後の1秒まで一部の観測者たちは、結果を疑っていた。ほとんど全員が祈っていた。そして・・・」(サンジエの手記)

「突然、黄色・紫・青の形容することのできない光で照らされた。その直後、巨大な火の玉が舞い上がり、白煙の渦が上昇するのが見えた。実験は、あらゆる予想を超えて成功した」(サンジエの手記)

その、3週間後。

「8月6日の朝、グローブス将軍から伝言。『あなたにこの新しい重要なニュースをいち早く知って欲しい。11時になったらラジオを聞いてくれ』という連絡だった」(サンジエの手記)

「先ほど米軍機が、1発の爆弾を広島に投下し、日本軍の拠点を無力化した。これは原子爆弾だ。宇宙の根源的なエネルギーを利用している。太陽エネルギーの源である力が、極東に戦火をもたらした者たちに向けて解き放たれたのだ。アメリカは科学史上最大の偉業を達成したのである」(1945年8月6日ラジオの一報)

サンジエがアメリカに手渡したウランから生み出された2発の原子爆弾。

市民の頭上に投下され、その年だけで、広島で14万、長崎で7万ともいわれる命を無差別に奪った。

さらに、一命を取り留めた人も、ヤケドや放射線の影響に苦しめられ続けることになる。

長崎に原爆が投下された、その日。サンジエは、ホワイトハウスに招かれていた。

「8月9日、私はホワイトハウスでグローブス将軍と会った。彼は関係者たちに、『この方の協力がなければ、マンハッタン計画は実現しなかったでしょう』と私を紹介する。偉大な軍人たちがこぞって、私たちのテーブルに立ち寄り、祝福した」(サンジエの手記)

その翌年、サンジエは「戦争を終わらせることに著しく貢献した」として、外国人としては異例となる、大統領からの勲章を授与された。

戦時中のウラン取引による収入は、当時のベルギー政府の国家予算をも上回り、多大な利益を会社にもたらしたという。

<商人が抱き始めた恐怖心>

唯一の核保有国となったアメリカ。その後も、コンゴ産ウランを使って、新たな核実験を繰り返し、世界に力を誇示していった。

手記には、欲望を加速させていく国家に対して、ひとりの商人が抱き始めた恐怖が、つづられていた。

「アメリカは大きな勝利を収めてもなお、核爆弾をより重要視するようになっていた。なぜなら、彼らがだけが、この恐ろしい爆弾を独占していたからだ」(サンジエの手記)

しかし、アメリカの独占を崩すきっかけになったのも、サンジエが採掘していたコンゴ産ウランだった。戦時中、ドイツがベルギーで押収していたウラン。それに強い関心を抱いた国があった。ソビエト連邦である。

アメリカの原爆の脅威を目の当たりにしたソビエトは、敗戦国であるドイツの設備や人材も総動員して、核開発を推し進めた。

コンゴ産ウランの一部が、ドイツに隠されていることを突き止めたソビエト。ドイツが降伏した直後に、北部の町の革工場で、100トンを超すウランを見つけ出していた。

スタンフォード大学/デヴィッド・ホロウェイ教授「ドイツでウランを見つけたことは、ソ連にとって非常に有益でした。終戦時、ソ連にウランはほぼなかったですから。(ドイツで押収した)ウランがソ連初の原子炉に使われ、1946年12月25日に臨界(核分裂の連鎖反応が継続した状態)に達しました。彼らが発見した、ベルギー領コンゴ産とみられるウランは、ソ連の核開発を前進させるうえで、非常に重要な役割を果たしたのです」

そして1949年、ソビエトが、初の核実験に成功。核による軍拡競争の口火がきられた。

大国の駆け引きが、激しくなる中、サンジエはアメリカの監視下での生活を余儀なくされていたことを明かしている。

「ウランについては、戦時中、そして戦後も極秘事項だった。私の行動や人間関係などは、常に監視されていた。何年もの間、秘密警察が私を尾行したのだ」(サンジエの手記)

<核による軍拡競争 加速する国家の欲望>

さらに、サンジエには、アメリカから厳しい要求が突きつけられるようになる。

政府高官がサンジエに対し、「廃鉱しても構わない、増産を急いで欲しい」と圧力をかけてきたのだ。そして、時のトルーマン大統領から、直接、要求されたことも記されていた。

「アメリカは、平和を愛する世界の人々の自由を守るべく、不可欠な原料を入手するため、1946年の頃よりも、あなたの協力を必要としています」(1950年10月19日 機密資料)

こうした要求に、サンジエは強い不満を抱くようになる。

「アメリカ側の要求は、私たちに重大な困難をもたらす。この条件では、資源は想定より早く枯渇し、長期的な会社の利益に反することは明確である」(サンジエの手記)

それでも譲らなかったアメリカの要求に応えるため、コンゴのウラン鉱山では、過酷な労働が強いられていた。

カバンビ・ルンブェさん、86歳。終戦後7年間、ウランの採掘に携わっていた。鉱山周辺には、1万人を超す労働者が暮らしていたという。

カバンビ・ルンブェさん「作業は朝から夜の11時まででした。それから夜勤の人がやってきて、夜11時から朝まで働いていました。採掘の仕事はとても過酷な仕事ですよ。一日中、穴の中に入ったきりなんですから。充満した鉱石のほこりっぽい、乾いたにおいが忘れられません」

強い放射線を発するウラン鉱山の中での人力作業。多くの人が体調不良を訴えていた。

カバンビ・ルンブェさん「私たちは、毎日せきに悩まされていました。せきがひどくなり、死に至る人もいました。肺の病気で亡くなった人はたくさんいます。私は唯一の生き残りです」

コンゴがベルギーから独立する1960年まで、サンジエがアメリカとイギリスに渡したウランは、広島型原爆を3500発作り出せる量に上った。その間、アメリカは他にもウランの入手先を増やしながら、194回の核実験を繰り返した。

ウランの取引で急成長を遂げたユニオン・ミニエール。1960年に公表した売り上げは、年間2000億円近く。ヨーロッパ有数の鉱山会社へと成長していた。

その功績が認められ、サンジエは、名誉会長まで上り詰めた。莫大な資産を築き、1963年、83歳で亡くなった。その前年には、米ソが核戦争の寸前まで達した「キューバ危機」が起きるなど、核の軍拡競争が激しさを増す時代だった。

<“核の扉”を開いた ウラン商人の沈黙>

ブリュッセル郊外にある小さな墓地。ウラン商人、エドガー・サンジエが眠る。

自らが、「核の扉」を開いてしまったことを、どのように受け止めていたのか。

サンジエは、広島・長崎の膨大な被害、そして、その後の混迷を極めた世界について、資料に書き残すことは、なかった。

戦後もサンジエの右腕として、ウランの取引に関わったジュリアン・ルロワもまた、沈黙を貫いた。孫のモニークさんは、彼らが口をつぐんだ理由を、こう推し量る。

ルロワの孫/モニークさん「自分から始まったすべての事柄が、どれほど遠くに波及してしまったか、考えずにはいられなかったはずです。最初は、ただのビジネスマンからスタートして、その後起こったことについては、自分の領域を明らかに飛び越えてしまいました。それこそが、沈黙した理由なのかもしれません」

人類が核兵器を手にして78年。

国家の欲望は、今なおとどまることなく、「核の力」による威嚇が繰り返されている。

飽くなき利益の追求がもたらした、膨大な犠牲と後戻りできない世界。

謎の商人が残した3万ページにのぼる秘録は、いまも彼の末裔たちが、そこかしこにいることを警告していた。