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銃後の女性たち ~戦争にのめり込んだ“普通の人々”~

NHK
2021年8月16日 午前11:36 公開

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(2021年8月14日の放送内容を基にしています)

戦時中を描いたドラマに度々登場する国防婦人会。

会員数は実に1000万人。普通の主婦たちが、近所の女性たちに戦争への協力を求め、熱狂的に兵士を送り出したのです。

なぜ、女性たちは活動にのめりこんでいったのか、その心の内は、これまで知られてきませんでした。

今回、女性たち自らが書き残した、当時の活動記録が見つかりました。そして、活動に身を投じた母の思いを、90歳を超える娘たちが、初めて語りました。

戦場の兵士を、地域から支えた銃後の女性たち。その知られざる、記録です。

<ちょっとしたおせっかいから始まった国防婦人会>

のちに、およそ1000万人を擁する国防婦人会は、大阪の港町で生まれました。

その活動を知る女性がいました。久保三也子さんです。母、キクノさんが地域の国防婦人会の活動を率いていました。

三也子さん「奥さん連中がみな婦人会したんよね。出征兵士を送りに行くときも、母は第一線に立ってやってたよ。みんなに『あれせえこれせえ』言うて」

国防婦人会は、地域の主婦たちが中心となり活動した、当時最大の女性組織でした。戦争を経済的に支えようと、国債の購入などを地域ぐるみで行い、戦死者が出ると遺族の家を訪れ“英霊”と讃えました。物心両面で、銃後から戦争を支えたのです。

活動のきっかけは、太平洋戦争開戦の10年前。日本が中国東北部で、軍事行動を開始した満州事変でした。

衝突の原因をつくったのは中国側だとされ、日本軍の正当性が盛んに報じられました。一方、庶民の暮らしに戦争の影響はまだ色濃くなく、多くの人々は変わらぬ日常を続けていました。

そんな中、大阪の港町の主婦が、見送りもなく出征していく兵士を不憫に思い、お茶をふるまうことを思いつきます。1932年、兵士を応援しようと、近所の主婦とともに、大阪国防婦人会を設立。

「台所から街頭へ」をスローガンに、女性たちに参加を呼びかけました。会はわずか2年で40人から54万人にまで会員を増やしていきました。

<社会参加の舞台となった国防婦人会>

なぜ、国防婦人会は多くの女性たちの心をひきつけたのか。

大阪で国防婦人会に入り、熱心に活動した女性の肉声が残されていました。

当時30代の片桐ヨシノさん。結婚後、夫の家に入り、2人の子どもを育てていました。活動を始めるまでは、窮屈な暮らしを送っていました。

片桐さんの証言テープ「お姑さんには絶対頭があがりません。それでまあ、お姑さんにはもう私は絶対服従でこざいましたからね」

当時、女性の大半は20代前半で結婚、家事や育児をしながら夫の家で生きるしか選択肢がない時代でした。そんな生活に変化をもたらしたのが、国防婦人会からの勧誘でした。

「お国のためならば」と、姑から許しを得た片桐さんは、外に出て活動を始めました。

片桐さんの証言テープ「大阪駅のホームでね、ベンチで夜を明かすことがあるんです。というのは夜、長い輸送列車とかね、駅に入ってくるんですよ。『大阪じゃ、大阪じゃ』って、兵隊さんが降りてきてね。『兵隊さん、お水もお湯もありますから』言うて。たばこを持ってきてあげたりね。いろんなことしましたよ、実際」

片桐さんは、家の外で人の役にたてることに喜びを感じ、活動にのめりこんでいきました。 

片桐さんの証言テープ「毎日毎日、明日はよう出ないと思って帰ってくるけど、目が開くとやっぱり出なきゃあかんと思っていくんですよ。来る日も来る日も。『カラスの鳴かん日はあっても、片桐さんがこない日はない』というくらいに行ったもんです」

母親が大阪で国防婦人会の活動をしていた、久保三也子さんです。母キクノさんは、大勢の前で銃後のあり方を堂々と説いていたといいます。当時は女性に参政権はなく、公の場で主婦が発言できる機会もほとんどありませんでした。

三也子さん「一生懸命になると思うよ、それまで母親なんて出番がなかったもん。投票権も何もないし、黙々と台所で働くのが女やと思って。生まれては親に従え、嫁しては夫に従え、老いては子に従えでしょ。男性のほうが優位だった。そんな時代」

国防婦人会ができた当初、会は女性にとって社会参加の場ともなっていたのです。

<国防婦人会に向けられた批判の目>

しかし、国防婦人会が設立された当初は、批判の目も向けられていました。女性参政権を求める活動をしていた、市川房枝。その生涯を女性の地位向上につくした人物です。

市川率いる団体は、国防婦人会をこう評しました。

「日本国防婦人会なる黒シャツ婦人団体が、近く大々的発会式をあげるそうだ。右へ右へと草木はナビク……か」(「婦選」1932年10月号より)

<国防婦人会に注目した軍の思惑>

「台所から街頭へ」をスローガンに会員を増やしていた、国防婦人会。この動きに注目した組織がありました。婦人会ができてから2年後に撮られた写真には、会員の主婦たちと並ぶ、陸軍最高幹部の姿があります。

今回、軍の思惑が記された文書が見つかりました。「大日本国防婦人会の指導と監督について」。

書いたのは、当時陸軍省の課長だった中井良太郎大佐です。

中井は、第一次世界大戦で敗北したドイツを例にあげて、銃後の女性の重要性を訴えています。

「大戦は永(なが)びき、夫は傷つきて不具となり、愛し子が栄養不良となり斃(たお)れて行く有様を見て、もう戦争をやめて貰いたいと言う気分は婦人の間に流れました。我が国婦人は大いに覚悟して、独逸(ドイツ)婦人の二の舞を演じないようにすべきであります」

軍は国防婦人会に積極的に身を投じる女性たちに、戦争への不満をおさえる役割を期待しました。陸軍の強力な支援で、大阪と東京に本部がつくられました。その後「大日本国防婦人会」は、全国各地に広まっていきました。

<看板をかけかえ地域の女性を根こそぎ会員に>

長野県飯田市旧松尾村にも1936年に国防婦人会ができました。この地域には、明治のころから「松尾女子会」という、村の主婦全員が参加する婦人会がありました。女子会の横に「国防婦人会」の文字が書き加えられていました。

もともと松尾女子会は、農繁期の託児所や副収入を得るための講習会を開くなど、女性たちの助け合いの組織でした。国防婦人会に名前が変わると、武運長久祈願や、兵士に送る慰問袋の作製など、戦争に関わる活動が増えていきました。看板がかけかえられたことで、村の主婦1000人あまりが、自動的に国防婦人会の会員となっていたのです。

当時40代だった、江塚ことさん。米作りや養蚕をしながら、6人の子育てに追われていました。村の女性同士助け合いながら暮らしてきたことさんにとって、国防婦人会に参加するのは自然なことでした。

ことさんの息子、栄司さんは父に小言を言われながらも、婦人会の活動を続ける母の姿を覚えています。    

栄司さん「父親の方は『女がしゃしゃり出るような家はだめになる』とか言って。それでも、やっぱり世間体っちゅうか義務っちゅうかな。やらなんだら役に立たないと言われるし」

ことさんは、婦人会が主催する陸軍軍人の講演会に熱心に通い、次第に共感していくようになったといいます。

栄司さん「やっぱり時局講演で、戦意高揚の『婦人が家を守り、国を守る人だ』というようなことも、ああいうお偉い方、婦人会のお偉い方たちがお話をしてくれて、それで感心して帰ってきてた」

村に残る資料には、講演会で、あるべき母親像が盛んに説かれていたことが記されています。

国防婦人会を監督下においた陸軍の中井大佐は、こう述べています。  

「よき子を生んで之を忠良なる臣民に仕立て、喜んで国防上の御用に立てる。家族制度の本義に基く、女子に与えられました護国の基礎的務めです」

<国防婦人会を通して異なる文化や風習を持つ人に“愛国心”を>

さらに軍は国防婦人会に、より踏み込んだ役割を求めていました。その一つが、文化や風習が異なる人々に愛国心を持たせることです。

「北海道といえば直ちにアイヌを想像する。そのアイヌ婦人の全てが国婦会員として、銃後の守りに精進しておりますが、兵隊さんご苦労様と日本語も鮮やかに感謝の言葉を述べながら、まことに麗しい情景であります」(当時の記録映画「輝く国婦」より)

満州国や朝鮮半島、台湾などにも設立された国防婦人会。文化や風習の異なる人々を取り込むその先駆けとなったのが、沖縄でした。      

陸軍の機密文書には、沖縄に国防婦人会を設立した経緯が「沖縄は団結犠牲の美風に乏し、愛国運動を起して県民の覚醒を促すは刻下の急務」と記されていました。

沖縄で最初に国防婦人会が設置されたのが、大宜味村でした。   

母親が村の国防婦人会で活動していたという人が見つかりました。山田親信(やまだ・ちかのぶ)さんです。 母の梅子さんは、小学校の教師をしながら、国防婦人会に所属していました。

梅子さんは、村の女性たちと共に、沖縄の服装・琉装をやめ、たすき掛け姿で活動していました。さらに、方言をあらため、日本の標準語を広める活動も担っていたといいます。

親信さん「教育者ということで、沖縄の文化とか方言もそうでしょうけど、ある意味では、追いやるような、標準語、普通語を励行するような運動にも関わっていたはずなんですが」

親信さんは、活動に身を投じた母の胸の内を窺い知る文書を見つけました。当時、沖縄の女性が標準語への思いを綴った、新聞の投書です。

「確かに本県は他県より立ち遅れました。文化の程度も低いところがあると思います。然(しか)し今の沖縄は、躍進日本と歩みをともにしようと一生懸命にやっているので御座います」

親信さんは、母が標準語教育を担ったのは、貧しい村の生活をよくしたい、という思いがあったからではないかと感じています。大宜味村では多くの人が本土への出稼ぎに出ていました。その時に直面したのが、言葉の壁だったのです。  

親信さん「標準語、普通語が通じないというのは、やはり大きなハンデととらえたと思いますね。自分たちが生きていく、生活を守っていくという視点からしたら、そのほうがよいと思ったから、やっぱりついていった部分はあると思うんですよね」

当時、小学生だった男性は、村で標準語教育を受け、日本人としての自覚を強めたといいます。 

平良俊政さん「大宜味の婦人はずいぶん進んでいる。少し誇りに思った。要は日本人という誇りを持たされていたんじゃないか」

その後、大宜味村は誰もが標準語を話せる模範村と、讃えられるまでになりました。

こうして軍は、国防婦人会の女性たちを通して地域社会に入りこみ、戦争への協力体制を築いていったのです。

<息子の出征を機に活動にのめり込んでいく女性>

国防婦人会設立から5年後、日中戦争が始まると、女性たちは引き返せない道へと足を踏み入れていくことになります。

日本軍が次々と主要都市を占領し、戦線を拡大する中、銃後は、軍を支持する熱狂的な声であふれました。動員される兵士は急増し、女性たちは、我が子を戦場へと送り出すようになっていったのです。

村田とみゑさんの息子も、出征することになりました。3人の息子が徴兵検査に合格。長男と次男に召集令状が届きました。

とみゑさんの娘・三重子さん「初めは誇らしかったやろうね。送り出すまでは勇気そのもの、歓喜、喜びそのもの、元気でいくんだよって」

いざ息子を戦地へと送り出す日の母の姿は、忘れられないと言います。        

三重子さん「ここの門のところで、兄がぱっと敬礼するのを、母はずっとおじぎしたまんま、しばらくうつむいとって、頭を上げたら、そのままずっと兄が行くのを見送っているという。ここから一歩も門の外で出えへんだったですね。本心は国のためにと思うけれど、国のために死んでもいいまで考えたかどうかは、ちょっとやっぱり、ね」

戦地で命をかけて戦う二人の息子たち。とみゑさんは、国防婦人会の活動に一層力を注ぐようになりました。

三重子さん「戦争に出かけていって、働くのは男ばっかりじゃないぞ。女も働けよっていうこと。国防婦人会でパっとたすきかけて行ってくるからって、玄関出る時の母は別人のように思いましたね。私ができることは国防婦人会を一生懸命育てること、それ一心でやったと思います」

<生活が厳しくなる中で 互いに監視し合う女性たち>

その後、日中戦争の長期化と共に、国防婦人会の会員はおよそ1000万人にまで急増していきます。1938年、国は国力の全てを戦争につぎ込む、国家総動員法を制定。生活に欠かせない物が次々と統制下に置かれる中、主婦の役割が強調されていきました。

不平不満を言わずに戦争に協力することが、銃後の女性の務めとされました。

かつて、女性の戦争協力に反対していた市川房枝も、銃後の空気にあらがうことはできなくなっていました。

「ここ迄来てしまった以上、最早行くところ迄行くより外あるまい。悲しみ、苦しみを噛みしめて、婦人の護るべき部署に就こう」(「女性展望」1937年9月号より)

しかし、当初、女性たちの前向きな気持ちから始まった活動は、次第に息苦しいものになっていきます。

国防婦人会で社会に出る喜びを感じていた、母キクノさん。娘の三也子さんは、戦争に協力するため金属を供出しあった時、近所同士の張り詰めた空気を感じたと言います。

三也子さん「厳しかったよ。お互いがお互いを見ててん。あそこもっとあったはずや、言われるときもあるもん。隣同士で分かるもん。あそこ隠してはるでって。それが嫌でみんな出しとったわ。結局お互いがお互いを引っ張りあったんちゃう?そうなってまうのよ、どうしてもね。村八分になったら食べていかれへんもんね」

<社会に広がる 本音を言えない空気>

村の婦人会に所属していた1000人が、国防婦人会の会員となった、旧松尾村。本音を口にすることができない空気が広がっていました。

当時40代だった八木さださんは、息子を戦場に送り、婦人会の活動に力をいれていました。さださんが金属供出のため、蚊帳の吊輪を出すよう求められた時、ふと漏らした言葉がありました。

さださんの娘・繁子さん「『そこまでして、それで日本は勝てるのか』って。『そんなもの出さなきゃ、日本は(戦争を)せんだったら日本は大変だな』って」

しかし、さださんは、決してそのことを外では話さなかったといいます。  

繁子さん「口を封じられたわけじゃなくて、そういう余分なことを言うと大変なことになるんじゃない?へらへらしていれば、まあ丸く収まるやつを反対したりすれば、自分の心にはいいんだけど、やっぱり今の世情には従わないとしょうがない」

村の婦人会の心得が残っています。

「常にニコニコして小言を言わぬこと」 

<兵士となる男子を産み育て 差し出すことが求められる女性たち>

1941年、日本はアメリカやイギリスを相手にした、太平洋戦争を開始。数百万人が兵士として動員されていきます。国防婦人会は、他の女性団体と統合され、およそ2000万人が所属する「大日本婦人会」になりました。国は、兵士となる男子を生み育てる役割を、女性により強く求めていくようになります。多くの女性が息子を戦地へと送り出す中、息子のいない母親には、厳しい目が向けられるようになりました。

吉田いとのさんは、息子を幼くして亡くし、娘ばかり3人を育てていました。婦人会の集まりで、厳しい言葉を投げかけられたといいます。

いとのさんの娘・多鶴子さん「あんたのところは戦争も行っとらんのやから、まあ偉そうなこと言うたらあかんよ、というふうな口ぶりで言われたらしいです。戦争に行ったうちは『うちは偉いもんや』という気持ちがありますね。子どもとか主人とか、命を捧げに行っているから。行かないほうは、それを言われるともう一番辛いですわね」

追い詰められたいとのさんは、「息子が生きていたら兵隊に出せるのに…」と、口にするようになりました。

多鶴子さん「女としてね。親として、戦争に一人でも出していたら、一人前。だけどまあ、女の子で戦争に誰も出さなかったら、半人前以下。戦争ですよ、やっぱり。心の戦争やったと思います」

その後、戦局は悪化。それでも、若い男性たちは絶望的な戦場へと送られ続けました。

旧松尾村の国防婦人会で活動していた、江塚ことさん。20歳の息子・栄司さんを戦場へ送ることになりました。

出征の日、母と息子は、玄関先で別れました。

栄司さん「行ってこいよと、小さい声で言っとったような気がしたけど。行ってこいよと。行ってきますと言ったな。それっきりだ。あとは言葉がでなんだ」

栄司さんは、村の人たちの見送りに押される形で列車に乗り込んだといいます。

やがて、村の女性たちは、徴兵年齢に満たない子どもを、兵士として募るまでになっていきます。今回見つかった村の資料には、志願兵募集の内実が記されていました。

年令14年以上21年未満」

「割当40人」

「適格者は全部志願させる様、各方面共御協力ください」

地域で、応募を促す役割を、婦人会も担うことになりました。婦人会の女性たちは、10代の子どもがいる家々を回り、勧誘していたといいます。

繁子さん「各家庭に出征する戦士の子どもというか、卵のようなものがある訳ですね。戦争に行く、そういう人を推薦したり勧めたり。そうやって戦争に加担して、戦争に協力したわけ」

<息子の戦死に涙も流せなくなる>

そして、女性たちが直面していったのが、息子たちの死でした。戦場で戦う息子のためにと、婦人会の活動にのめりこんだ、村田とみゑさんもその一人です。出征した3人の息子のうち、次男の信さんの戦死の知らせがもたらされました。

遺骨の入っていない白木の箱を受け取った、母のとみゑさん。周囲に涙を見せることはありませんでした。

とみゑさんの娘・三重子さん「涙を見せる女は、言うも悲しき情けない女、ということになる。自分の胸の中に収めておくという、そういう戦時中の女性の思いやわね。今の世の中では、情のない人間に思われるけれど、当時はしっかりとした母親やったって褒められる」

<戦火にさらされる女性たち>

終戦間際、女性たち自身が、戦火にさらされることになりました。全国各地が焼け野原になる中、1945年6月、大日本婦人会は解散。女性たちは本土決戦に備えるよう命じられました。

本土に追いつこうと、沖縄で標準語教育に力を注いだ、山田梅子さん。米軍が上陸し、住民を巻き込んだ激しい地上戦が行われる中、梅子さんは幼い子を連れて、北部の山中へ避難しました。そして、味方であるはずの日本兵が引き起こした、ある事件に直面します。共に避難していた夫が、そのことを日記に残していました。

「(地元の)巡査が敵性の疑いで銃殺にされた」

戦時中、模範村として讃えられた大宜味村。長きに渡った戦争で、およそ1500人の村民が亡くなりました。婦人会を率いた梅子さんは、戦後村を離れ、誇りにしていた教職に戻ることはありませんでした。梅子さんはその気持ちを、戦後30年以上経って初めて文書に記していました。

「私は戦争と同時に教職を辞した。それは家庭の事情や、病身だったせいもあったが、別にもわけがあった。徹底的軍国主義教育を我が思想の如く振る舞い、生徒や婦人会、部落常会などでしゃべりまくった自分の行動が醜く、恥ずかしく、百八十度転換して再び教壇に立つ勇気が無かったのも、一つの理由だった」

親信さん「やっぱり、自分がやってきたことに対する後ろめたさがあったから、なかなか帰れなかったのかな。よかれと思ってやったことが、どんな結果を生むかなんて、普通は神様でないと分からないことだと思うし。そういう意味では、日々の中に見えない危険性というか、気がついたら後戻りできなくなってしまうんじゃないかって」

<女性たち それぞれの戦後>

多くの若者を、戦場へと送り出した旧松尾村。193人が、再び故郷の地をふむことなく、戦場で命を落としました。終戦から1年後。村から出征した栄司さんが戦地から帰還しました。かつて、万歳と日の丸で送り出された駅は静かでした。

栄司さん「一人もおらん。だぁれもおらん。ただ自分一人が、ボロボロの敗残兵の格好で」

母・ことさんは、栄司さんを「よく生きて帰ってきた」と、涙で迎えました。しかし、栄司さんは、戦場の記憶を母親にも誰にも語れぬまま、戦後を生きてきました。

栄司さん「祖国のため、世界平和のため、中国の民族解放をするためなんて格好の良いことを言って、やることなすことは、この世のないことをやらざるを得ないし、この手がやってきたんだから。命令とはいえ、ずっと毎日わしは謝罪でお祈りしとる。それでなきゃ、わしの生涯は終わらん」

戦時中、息子の戦死にも涙をみせまいとしてきた村田とみゑさん。戦後になって、次男に続き、三男も戦死していたことが分かりました。

三重子さん「『命を捧げても何の喜びも生まれない。何の楽しみもうまれない。お前たちが帰ってこんかったから』と。一生懸命お国のためにと思っていたけど、終わってしまえば、わびしいことやったなという思いに変わる」

熱狂の中で戦争の一翼を担い、引き返すことができなくなっていった銃後の女性たち。その姿を見てきた、大阪の久保三也子さん。92歳になる今も、世の中の動きに目をこらします。

三也子さん「ただ漠然と生きるの嫌やもん。私は私なりの考えをちゃんと心に持ってたいのよ。新聞とかいっぱい読んだり聞いたりして、ほんで『私は、こうやって』思うことをした。そやないと、戦時みたいに、偉いさんがわあーって言って、はい言うてやっとったら、どないなるか分からへん。世の中ってね、ちゃんと見ておかなあかんなと思って」

あの時代の記憶とどう向き合い、どう生きていくのか。その問いは、私たち一人一人に投げかけられています。