この島で 最期まで ~礼文島・父子でつなぐ医療~

NHK
2022年9月8日 午後3:00 公開

(2022年8月27日の放送内容を基にしています)

北海道・礼文島。

さわやかな海風が吹き抜ける丘に、高山植物が咲き誇り、「花の浮島」とも呼ばれています。

海の向こうに見えるのは、隣の島の利尻山。

礼文島の人々は、その景色に季節の移ろいを感じてきました。

そんな島に2年前、1人の医師が帰ってきました。升田晃生(ますだ・あきお)さん、36歳です。

東北の総合病院では年間130以上の手術を行ってきた、消化器外科のスペシャリストでした。

目標とするのは、父・鉄三さん。長年、島民を支え続けてきました。間もなく定年退職を迎えます。

「住み慣れた島で、最期まで過ごせる医療」。30年以上かけて、築いてきました。

晃生先生「島に生きる人々への愛情、そういう思いから来る医療があるんだなと」

父から子へ、受け継がれる島の医療。1年間の記録です。

<島医者としての人生を歩み始めた晃生先生>

猛烈な風が吹きつける、礼文島の冬。

診療所に急患がありました。対応するのは、晃生先生です。

強風で、車のドアに小指を挟んだ男性。指がちぎれかけ、細菌による感染の恐れがあります。

晃生先生「今日もちょうど船が欠航しましたしね。ヘリコプターも絶対無理な天気なので、今日は」

指を切断して、傷口を縫う緊急手術を行いました。

晃生先生「この診療所しか皆さんにはないので、最後の砦(とりで)として、僕は頑張ろうかなと思っています」

町が運営する、船泊(ふなどまり)診療所。連日、80人以上の患者がやってきます。

晃生先生は、中学進学のため島を離れて以来、22年ぶりに礼文島に帰ってきました。

<2022年1月 島での最期を希望する 桜守・土田さん>

この冬、晃生先生が特に気にかけている患者がいました。

晃生先生「どうですか?体調」

土田さん「寝てばかりいるから、立って歩くと息苦しくて。表にそんな出ないから」

土田隆さんです。 去年の暮れ、肝臓にガンが見つかりました。余命半年と診断されています。

晃生先生「今年はどうですか?桜はできそう?」

土田さん「うん。去年は日照りばっかりでね。桜もあまり良くないんじゃないかなと思ってるけどね」

土田さんは漁師をするかたわら、島で桜を育ててきた、礼文島の「花咲かじいさん」です。

厳しい気候の中、様々な品種を試しながら植え続けた桜。30年以上をかけて、およそ300本が花を咲かせるようになりました。島の人々の、春の楽しみになっています。

土田さん「出稼ぎに名古屋に行ってから、桜はいいもんだな、と。どうして自分1人ばかりで楽しめる。みんなに見せてあげたいなと思ってきたの。今はだいぶきれいに咲くようになった。俺、命なくなるまで、桜の手入れはするつもりだ。好きなんだ、桜」

今できる治療は、痛みを和らげることだけです。

晃生先生「礼文に帰ってくる前は、目の前の紹介された患者さんの手術をして、治療をして、治すと。診察室に来る姿しか見てませんので。礼文島に帰ってからは、その方の人生をかいま見ながら、その方の最期の在り方を、みんなで考えながら治療していく。なかなか難しいですから、まあ、悩みながら、日々やってますけどね」

<晃生先生が目標とする医者は、父・鉄三さん>

私たちが取材を始めたのは、2021年の夏。

礼文島は、稚内からフェリーで2時間かかります。特産の昆布やウニなど、漁業が盛んな島。

人口、およそ2300。その4割近くが、65歳以上の高齢者です。

船泊診療所の医療スタッフは24人。常勤の医師は2人。晃生先生と、父・鉄三先生です。

晃生先生にとって、父は島医者としての大先輩。36年にわたって、島民を診続けてきました。

<鉄三先生が支え続けてきた漁師・小澤さん>

鉄三先生「おはようございます。今日は沖に行ってきました?」

小澤さん「昆布採り」

鉄三先生「昆布採り?行ってきた?」

小澤さん「朝4時半に出て、5時半から昆布採るんだ。1時間採って、6時半に終わる」

鉄三先生「干してきました?」

小澤さん「うん、干してきた」

鉄三先生が30年以上診ている、漁師の小澤栄次郎(こざわ・えいじろう)さんです。

漁で負担がかかる腰やヒザ。痛みを和らげるため、注射を打ってもらいます。

鉄三先生「今日、誕生日?」

小澤さん「7月14日が誕生日です」

看護師「今日だよ」

小澤さん「今日、満84歳だ。84歳まで、先生のおかげで長生きだ」

夏は、小澤さんたち漁師にとって、一番のかき入れ時です。この日、狙うのはウニ。注射を打って、体調は万全です。

小澤さん「“海は宝”だって、昔の人は。“海は宝”だって。今年はあそこに昆布がある、ここにウニいるって、宝探しに行くようなもの。やりがいはあるな。動けるうちはやろうと思ってる。それでも、いつどうなるか分からないよ。升田先生が『大丈夫だ』って言ったら、大丈夫。『やめてくれ』って言ったら、それで終わり」

<命と向き合う父、その姿から学ぶ晃生先生>

時に、難しい判断を迫られる離島医療の現場。晃生先生は、父の姿から学んでいます。

緊急搬送されてきた男性。心電図の結果は、心筋梗塞の兆候を示しています。鉄三先生は、設備が整った病院にヘリで搬送することを即座に判断。しかし、男性は大事(おおごと)にしたくないと応じません。

患者「ちゃんと落ち着いて、病院行きますので大丈夫です」

鉄三先生「こういう病気って、落ち着くのを待つ病気ではない。緊急に治療をしなくちゃならない」

患者「大丈夫。大丈夫」

晃生先生「ちょっと時間ないですね。こちらからのお願いです」

処置が遅れると、命の危険も。鉄三先生が、強く説得します。

患者「座ってる方が楽なんだよ」

鉄三先生「そういう意味では、心臓に負担がかかるから、寝てるよりも、座ってる方が楽だ。心臓の症状なんですよ。いまの症状。こういう状態で点滴を外して行くのは、自分自身に負担をかけるだけ」

患者「いいから」

鉄三先生「『いい』だなんて、そういうことは自分の判断ではできないんです」

患者「そしたら、乗るから荷物だけ取りに行かせて」

鉄三先生「約束ですよ。警察の人もいるので」

2時間後、ヘリが到着。その後、男性は専門の治療を受け、大事には至りませんでした。

晃生先生「余裕がない状況で的確・適切な判断をするっていうのは、大変なことですけど、それを(父は)36年間やってこられた。それはすごいなと思います」

父の退職後は、島の医療を託されることになる晃生先生。

「島に戻ってきて欲しい」と、父から言われたことは一度もありません。

晃生先生「僕の同期も色々な領域、分野で活躍して、世界に羽ばたいている同期もいます。かっこいいな、すごいなって憧れも確かにあるんですけれど、礼文島出身の医者というのは、父と僕しかおりませんでしたので、医師として、自分にしかできないことをしたいと考えたときに、礼文島の医療がそれなんじゃないかなと思いまして」

取材班「升田親子の似ているところはどこですか?」

看護師①「頑固なところですか」

看護師②「そうだね、頑固。鉄三先生は、すごく晃生先生に気を遣ってますよ」

看護師①「会話はないですけど、陰では晃生先生も『父はすごいな』って言うときがありますよね。『どっからあのエネルギーが出てくるんだろう』って」

看護師②「お互いを認めてるんですけど、しゃべらない。そこで振り回される看護師。そこは言わないで。ははは!」

<父が築き上げてきた、礼文島の医療>

鉄三先生は、自身も20年以上前から病と闘ってきました。血液のガン、「悪性リンパ腫」です。

応援の医者に来てもらい、3か月ごとに島を離れ、入院治療を続けてきました。

鉄三先生「家内は『もうやめた方がいいんじゃないか』と言ったけど、離島の医療を守ってるんだ、頑張らなくちゃって。うん、そう思います」

礼文島の漁師の家に生まれた鉄三先生。医者を志したのは、いつも医師不足に悩む島のためになりたいと思ったからです。

全国各地の病院で腕を磨き、島に戻ったのは32歳。晃生先生が、生まれて間もない頃でした。

晃生先生「小さいころキャッチボールをしていても、途中で病院から呼ばれて帰ってしまったり、家でも常に患者さんのことを考えていましたし。それにちょっと憧れたところもあったのかもしれませんね」

設備も人手も不足していた当時の診療所。重い病気にかかった患者は、島を離れるしかありませんでした。

鉄三先生「ほとんど手術場は使われていない状態で、あとはレントゲン設備も単純写真を撮る機械だけ。島外の稚内、旭川、札幌に専門病院に行って、検査とか治療をせざるを得ない状況でしたね」

「島民の暮らしを守るには、まず、医療設備を整えなければならない」

その思いを強くする、きっかけになった患者がいます。

佐藤ふみ子さん。24年前、腎不全をわずらい、週3回の透析治療が必要になりました。

しかし、島には当時、透析機が一台もありませんでした。佐藤さんは礼文島を離れ、札幌で治療を受けることになりました。

佐藤さん「悲しいっていうものじゃないよね。もう海は見れない、川は見れない、兄弟には会えない。本当に残念だったよ。もう2度と帰ってこれないんだなと思ってね。泣いたよ」

「佐藤さんが、島で暮らせるようにできないか」

鉄三先生は、透析機の導入を役場に強く訴え、自身も、その使い方を学びました。そして、一年後。透析機が導入され、佐藤さんは島に帰って来ることができました。

佐藤さん「本当に泣いてしまった、みんなに会えて。海も見えて、利尻山も見えて、嬉しかった。あのまま札幌だったら、死んでしまってるかもね。升田先生には感謝だ」

その後も鉄三先生は役場と掛け合いながら、MRIなど離島には珍しい高度な検査機器を導入。「住み慣れた島で、最期まで過ごせる医療」を目指して、一歩ずつ進んできました。

通院できない患者のための訪問診療を始めたのも、鉄三先生です。

鉄三先生「山口さん。こんにちは。膝、痛みどうですか?」

在宅患者・山口さん「そんなに痛くない」

鉄三先生「今日は、水抜かなくてもよさそうだね。水。暖かくなるから、また体調よくなってくるかもしれないので」

在宅患者・山口さん「長いこと、本当にすみませんでした」

鉄三先生「いやいや、まだこれから。まだまだ、これから頑張って」

晃生先生「父親と話をしたときに、患者さんが、非常にほっとした顔をしてますので、これは、どんな薬にも代えがたい安心感があるんじゃないかなと思いましたね。島に生きる人々への愛情。そういう思いからくる医療っていうのがあるんだなと、見ていて思います」

鉄三先生は、この島で1000人以上を看取ってきました。

取材班「先生にとって島の人たちはどんな存在ですか?」

鉄三先生「大げさな言い方かも知れないけど、家族の一員というような感じ。自分の兄弟、親だったら、おじいさん、おばあさんだったらどういう対応をするかっていうのを、常に心がけて診療するのが大事だと教わっているので、それを実践していますね。なんとか」

取材班「大変じゃないですか?家族が大きいと」

鉄三先生「そうでもないです。十分に期待に応えられているか分からないけれど」

<2022年3月 桜守・土田さんを励ます晃生先生>

3月。礼文島の「花咲かじいさん」、土田隆さんの桜は、まだ雪の中です。

土田さん「桜のことについて、ちょっと歌を作ったんだわ。桜の事ばっかりだけど」

土田さん「『大沢の、うわさに高い花の名は、咲いて嬉しい山桜花』 たかし」

闘病生活の中、土田さんは、春を待つ思いを趣味の短歌につづっていました。

土田さん「『礼文島、お花畑というけれど、桜に勝る花は無きかも』。礼文島に色々花がさいて美しいというけれども、桜に勝る花は無いと思うよと。桜が一番綺麗だなと、俺は思うってこと」

晃生先生「土田さん、こんにちは。どうも。大丈夫?」

土田さん「うん。まあまあだけど」

晃生先生「どうだろう?おなかは痛くないですか?」

土田さん「たまに、肝臓のほうがキリキリと痛む」

晃生先生「痛む?」

土田さん「ある」

晃生先生「そうですか。今はどうですか?触って」

土田さん「いまは、痛くない」

土田さんのガンは、徐々に進行しています。

土田さん「今年は手入れにいけないから、桜もかわいそうだけど」

晃生先生「手入れ、代わりに誰かしてくれる人はいるのかな?」

土田さん「いない。誰もやってくれない」

晃生先生「やっぱり手入れしないと咲かないんですか?桜は」

土田さん「咲かないってことはないけど、見に来てくれる人が、雑草が高くなってたら歩くの大変でしょ」

土田さんを励まそうと、見せたものがあります。

2年前、島に帰ってきたばかりの晃生先生に、土田さんは、自慢の桜を見せてくれました。

晃生先生「ほっぺたがピンク色。土田さんのほっぺが桜色になってますけど」

土田さん「はっはっは」

晃生先生「行きますか見に。今年も。今年も見に行けるようにね。行きましょう、行きましょう」

土田さん「俺は行けないと思うけど」

晃生先生「いや、一緒に行きましょう」

土田さん「何とか行きたいけどね」

晃生先生「医師、看護師付き添いで、大丈夫ですよね。行けるよね」

桜が咲くのは、2か月後です。

患者の人生の最期に、医者としてどう向き合うのか。父が言葉をかけることはありません。

鉄三先生「これは誰かからアドバイスされても、何も解決には繋がっていかない。患者さんの訴えを聞く。徐々に分かってくるし、実践できていくと思う。信頼して見ている」

<2022年3月31日 鉄三先生の定年退職>

鉄三先生、定年退職の日がやってきました。これからは一線を退き、嘱託の医師として息子のサポートに回ります。

鉄三先生「昭和61年の5月。晃生が生後5か月で礼文島に戻ったので、もう36年になりますけれど、思い返せば長い間いろんなことがありました。ばあちゃんに、丈夫な子供になるように“鉄三”って名前を付けられたけど、名前負けして丈夫じゃないけど、これからも診療所の縁の下の力持ちとなって頑張ります。よろしくお願いします」

晃生先生「明日からもよろしく」

鉄三先生「ああ、よろしく」

晃生先生「父親の泣いてる姿ってみたことがなかったので、一生懸命やってこられたから、あの涙は流せるんだなと思いましたね」

<2022年4月 最期の時が近づく土田さん>

晃生先生「息苦い感じは?」

土田さん「寝てると息苦しいわけじゃないんだけど、起きると息苦しくなる」

晃生先生「そうかそうか。分かりました」

土田さん「全然起きれない。痛くて痛くて、もう。死んだ方がいいわな」

土田さんの容体が、急速に悪化していました。

晃生先生「土田さん、そろそろ入院を考えなきゃいけないかな」

土田さん「明日にでも入院しようかな」

看病してくれる妻にこれ以上の負担をかけたくないと、土田さんは入院を希望しました。診療所への移動が、最後の外出になるかもしれません。

晃生先生「土田さん、明日ね。通り道なんですけど、どう?ちょっと、ちらっと寄っていきますか?」

土田さん「え?」

晃生先生「病院に行くまで、通り道にあるので、ちらっと見てみる?」

土田さん「行かない方がいい」

晃生先生「行かない方がいい?そうか」

土田さん「全然こわくて(きつくて)だめだ」

晃生先生「分かりました」

大切にしている桜を見に行かないと言う土田さん。

晃生先生「ちょっとね、(島外の家族に)早く来てもらった方がいいかもしれないですね。予定、はやめた方がいいかもしれない」

土田さんの妻「息子?」

晃生先生「はい。お話できなくなっちゃうかも。入院すると」

晃生先生「やはり目前に迫る死というものに対して、非常に不安感ですとか、やりきれない思いとかもあったと思うんですけど。桜の木は、もうどうでもいいというご発言もちょっとあってですね。ただ、あれは本心じゃないなって、なんとなく僕の中で思いましたので」

翌日。診療所に向かう途中、立ち寄った場所があります。

晃生先生「どう?まだまだか」

土田さん「咲くのはまだだな」

晃生先生「今年はなんか早そうだって話だけど」

土田さん「ことしは早いんじゃないかな。雪消えるが早いし、暖かいもの」

晃生先生「これ」

土田さん「何?」

晃生先生「つぼみ」

土田さん「ああ、これだけ膨らんだ」

晃生先生「どうですか」

土田さん「まだまだ」

晃生先生「そうか、そうか」

土田さん「まだまだ」

土田さん「一句歌ってるんだ」

晃生先生「一句?」

土田さん「うん」

晃生先生「おお、どうぞ」

土田さん「愛妻母、愛している桜よと、厳しい冬を乗り越えて、主なしとて春を忘るな。こういう歌。菅原道真の歌をかたどって、一句歌ってみたんだ」

晃生先生「すごい」

土田さん「それだから、俺が亡くなっても桜は咲いてくれると思うよ」

晃生先生「そうか、そうか」

晃生先生「どう、土田さんこわく(きつく)なってきた?体?」

土田さん「こわい(きつい)ってことはないよ」

晃生先生「大丈夫?分かりました。よし、じゃあ行く?そろそろ。もう大丈夫?」

土田さん「大丈夫、大丈夫」

晃生先生「はい。じゃあ、また咲いたらまた来ましょうね」

土田さん「それまで頑張るか」

晃生先生「頑張ろう、オーケー」

土田さん「先生のおかげだよ。よかったな。こんないい先生に巡り会えて」

4日後。土田さんは、息を引き取りました。89歳でした。

<2022年5月 礼文島に訪れる遅い春>

晃生先生「しっかり咲いてますね。すごいですよね。これだけの数を長年育てて。島の方が亡くなると、今まで以上にさみしい気持ちが強く思って。思い入れがあるというか、家族に近いのかなと思いますね。父のように、ここでしっかりと根を張った医療をして、礼文に生きる人たちが安心して人生を全うできるようにお手伝いしたいなと思ってます」

<2022年7月 父から子へ、受け継がれる礼文島の医療>

今年も、島が賑わう季節を迎えました。

鉄三先生が長年診てきた、漁師の小澤栄次郎さん。

晃生先生「小澤さんも昔は結構、水たまってましたけどね。最近、膝に水たまらないですね」

今は、晃生先生が診ています。

晃生先生「あんまり無理しないようにしてね」

小澤さん「いよいよ85歳になった」

晃生先生「大台に乗ってきましたからね。でもね、85歳の骨格じゃないですから小澤さん。ムキムキだからね」

小澤さん「晃生先生も同じだな。丁寧に診てくれるし、親切もあるし。晃生先生が『もう働くのだめだ』って言えばそれは終わりだな」

取材班「言うこと聞くんですか?」

小澤さん「うん、言うこと聞く。晃生先生の言うことは聞くわ」

嘱託の医師となった、鉄三先生。自分の体調に気を付けながら、診察を続けています。

鉄三先生「息子が思う存分、医療に専念できるようにサポートを続けていきたいなと思っています。それが目標というか夢っていうか。だから、いつまでも勉強して、時代の波に遅れないように。そういうことが島の人にとっても、いいことに繋がるんじゃないかな」

晃生先生は、遠隔で妊婦の定期健診を行える環境を新たに整えました。

晃生先生「これ、いま稚内の先生が見られてます」

稚内の医師「エコーの深度を少し深くして。もう一声くらい」

晃生先生「どうでしょうか。こんなもんでしょうか」

稚内の医師内「はい。大丈夫です」

父が取り組んできた、「住み慣れた島で、最期まで過ごせる医療」。晃生先生も、一歩前へ進めています。

晃生先生「赤ちゃんは、礼文の宝だと僕は思っているんですけども。胎児の時期からこんなに関わっていけるので、胎児からかかりつけ医ということで、僕は非常にうれしくて、自分の子どものように楽しくて、かわいくてですね。ずっと見ていたいぐらい」

島民、一人ひとりの人生に寄り添い、共に歩んでいく。

この島で、最期まで。父から子へ、その思いが受け継がれています。