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原爆初動調査 隠された真実(前編)

NHK
2021年8月10日 午前11:47 公開

(2021年8月9日の放送内容を基にしています)

今回初めて見つかった、76年前の被爆直後の長崎を撮影した映像には、アメリカ軍の原爆に関する最初の調査を行うところが撮影されていました。アメリカ兵が測定していたのは、被爆地に残る放射線「残留放射線」でした。

原爆の爆発によって発生した放射性物質が、雨やチリとともに降り注ぐことなどで発生する残留放射線。その影響に関しては、いまだに意見が対立しており、“最大の謎”とされてきました。

今回私たちは原爆投下直後にアメリカ軍が行っていた「原爆初動調査」に関する膨大な資料を入手しました。そこからは残留放射線についての知られざる真実が浮かびあがってきました。

アメリカ軍は、秘密裏に残留放射線を測定し、きわめて高い値を確認していました。さらにそれが、人体にどのような影響を及ぼすかまで研究していたのです。

しかしアメリカ政府は、この事実を隠蔽。科学者たちに圧力をかけて、残留放射線をなかったことにしようとしていたことも明らかになりました。

日米両政府は、原爆の残留放射線による健康被害を認めてきませんでした。しかし、広島・長崎の人々は、その影響で、多くの人が苦しんでいると訴えています。

なぜ、残留放射線の影響は隠蔽されることになったのか?

「核による被害」と「国家の思惑」が交差した“原爆初動調査”。真実が隠されていた過程をたどり、その全貌を明らかにします。

<原爆投下後に起きた “原因不明の死”>

原爆が投下された市街地から3キロ。山あいにある長崎市 西山地区です。戦前は、貯水池を中心に小さな集落が点在。多くが農業を営んでいました。この地区で、原爆投下後しばらくして、住民の体調不良や、原因不明の死が相次ぎました。

松尾トミ子さんは、この地区で育った義理の妹を亡くしました。

トミ子さん「これは成人式の写真です。成人式の時は こんな元気だったんですよ」

松尾幸子さん。23歳の若さで、白血病で命を落としました。

76年前の8月9日。西山地区は、爆心地から山を隔てているため、原爆の熱線や爆風は届かず、直接の被害は、ほとんどなかったとされています。しかしこの日、地区には灰や雨が降り注ぎました。1歳だった幸子さんは、貯水池の近くにいた兄の背中で、それを浴びたといいます。

トミ子さん「灰が落ちてきて『この灰は何』という感じで、何も知らずに受けていたみたいですね」

幼い頃は何の異常も感じなかった幸子さん。突然体調をくずし、17歳の時に「白血病」と診断されます。

トミ子さん「血の塊が口から出たり、鼻から出たり、もうそれを取ってやるのが大変だった。一番いい時に亡くなっているから何とも言えないです。やっぱりいろいろ考えたら涙が出るんですよ」

幸子さんの死と残留放射線との関係は、当時の詳細なデータが存在せず、分からないとされています。

<原爆初動調査 アメリカの思惑>

その年だけで、広島・長崎で21万もの命を奪ったとされる原爆。

実はアメリカは、その被害や影響の詳細なデータを収集するため、調査団を派遣していました。最初の調査団が広島に入ったのは9月8日。原爆を開発した科学者たちでした。続いて陸軍と海軍のそれぞれの調査団が、さらに「戦略爆撃調査団」も加わり、およそ4か月にわたって、大規模な調査を行いました。

調査には、軍人だけでなく、物理学者や医師をはじめ、様々な分野の専門家が参加。日本人の科学者も協力しました。地表温度を3000度以上にあげた「熱線」や、秒速440メートルの「爆風」が、どのように建物を破壊したのか。原爆が被爆者にどんな影響を与えたのかなどが詳しく調べられたのです。

調査を統括したのは、アメリカ陸軍のグローブス少将。

原爆開発計画「マンハッタン計画」の総責任者だったグローブスは、あることに頭を悩ませていました。それは、被爆地に残る「残留放射線」の影響でした。

実は日本は被爆直後から被害を世界に訴えていました。日本が世界に向けて行っていたラジオ放送では、「原爆は今や世界の批判の的となっている。この死の兵器を使い続ければ、すべての人類と文明は破滅するだろう」と訴えています。

各国が特に問題視したのは、終戦後もその地に放射線が残り、人体に影響を与えているのではないかということでした。

「広島では原爆が落ちた30日後にも人が死んでいる。それは、『原爆の疫病』としか表現できない」「広島は70年間草木もはえない」と報道され、アメリカ国内でも「原爆は国際法に違反した兵器ではないか」という世論が高まったのです。

これはグローブスにとって、不都合な状況でした。当時アメリカは占領のため、日本に兵士を駐留させようとしていたからです。原爆投下後に、自国の兵士が被ばくすることになれば、議会や世論の反発は避けられない。こうした中で初動調査は、行われていたのです。

<調査員が“告白” 残留放射線の実態>

大きな焦点となっていた残留放射線の存在。今回、初動調査についての新たな事実が明らかになりました。76年前の調査に参加した科学者の遺族です。当時、父親が被爆地で使っていたという遺品を保管していました。

ドナルド・コリンズ。放射線の研究者として、原爆開発に携わってきた人物です。

1945年9月。調査団の一員として、広島・長崎を訪れていました。コリンズが、被爆地で撮影したプライベートフィルムと証言テープが見つかりました。映像には、長崎市内で残留放射線を測定するコリンズの姿が映っていました。

コリンズ証言テープ「私の任務は、地域に残った放射能を測定することでした。ジープに乗って、どこまで残留放射線が広がっているのかを確認しました」

アメリカ軍が神経をとがらせていたという残留放射線の値。

コリンズ証言テープ「我々は風下51㎞地点まで追跡しました。51㎞地点では、通常の2倍もの残留放射線を計測しました」

コリンズらは、残留放射線が人体に与える影響にも注目。多数の写真を残していました。

コリンズ証言テープ「我々はどのくらい放射能を浴びると吐き気を引き起こすのか、どのくらいで脱毛が起こるかを分かっていました。我々は住民がどこにいたのかを聞いて、受けた放射線量を予測していました」

さらに海軍が4か月にわたって、被爆地の残留放射線を測定していたデータも見つかりました。当時「トップシークレット」の指定を受けたものです。報告書を作成した、生理学の研究者だった海軍のネロ・ペース少佐もまた、残留放射線に関する証言を残していました。

ペース少佐の証言「私たちは4か月の間、長崎で残留放射線を測定。人々から血液を採取し、広島でも同じことをした。私たちが収集したデータは、 “機密事項”だった」

ペースは4か月かけて、長崎で900か所、広島で100か所もの地点で、残留放射線を測定していました。報告書の中に、ある地域で非常に高い残留放射線が確認されたことが記されていました。

長崎、西山地区。23歳で亡くなった松尾幸子さんが住んでいた場所でした。

海軍報告書「西山地区は山の陰にあり、初期放射線を受けなかったにも関わらず、爆心地より高い残留放射線が認められた。放射線測定器を地上1メートルの所から、地上5センチへ移動させると測定器の針は倍増した。西山地区ではかなりの放射線があることを示した。この地区の放射線量の最高値は1080μr/hr(マイクロレントゲンパーアワー)を示し、人間の最大許容量に近かった」

現在の値になおすと、1時間あたりおよそ11マイクロシーベルト。一般人の年間線量の限度を、4日でこえることになります。報告書では、西山地区で残留放射線が高い理由を、その地形にあると分析していました。

海軍報告書「8月9日の長崎は、風速3メートルの微風が吹いていた。西山地区では、爆発後に雲が上空を通過し、雨が降った。爆心地と貯水池の間には山が連なっており、盆地である西山に、放射性物質が堆積したと考えられる」

<隠蔽される残留放射線 作られた“公式見解”>

ところが、これらの調査結果は、ある人物によって隠蔽されます。グローブス少将です。ペースが調査後に、グローブスに呼び出されていたことが、今回はじめて分かりました。

ペース少佐の証言「帰国後、私は報告書を書き『Secret』扱いにした。ある日、上司に呼び出されると一緒にグローブス少将がいた。彼らはしかめ面をしていた。彼は『報告書はTop Secretにすべきだった。これに関係する文書やデータはすべて廃棄し、すべてを忘れろ。報告書を書いたことも忘れることを命じる』と言った。これは作り話ではない。私は『イエス、サー』と答え、しっぽを巻いて退散し、彼の言う通りにした」

さらに、被爆地を撮影していたコリンズも、軍の意向に沿った調査報告を求められていたと語っていました。

コリンズの証言「原爆調査に向かう前、責任者からこう言われました。『君たちの任務は、放射能がないことを証明することである』。そこで私はこう言いました。『失礼ですが、我々は残留放射線を測るように命令を受けたのですが』すると責任者は『放射線量が高くないことを証明しろ』と言ったのです」

その結果、グローブスが提出させた「初動調査の報告書」では、残留放射線の存在は完全に否定されていました。

原爆調査報告書「『残留放射線』の測定結果と、人への被害の臨床的な証拠がないことを考えると、爆発後、有害量の残留放射線が存在した事実はない。人々が苦しんでいるのは爆発直後の放射線のためであり、残留放射線によるものではない」

グローブスが「残留放射線」が存在しない理由としてあげたのが原爆を開発した、物理学者・オッペンハイマーの理論でした。

原爆は爆発する瞬間、強烈な「初期放射線」を放出します。これに対し「残留放射線」は、2種類あります。ひとつは、爆心地の土壌などが中性子を吸収することで、放射性物質となり、放出するケース。

もうひとつは、爆発で発生した放射性物質が、雨やチリなどとともに降り注ぎ、地上に残り続けるケースです。

ただし、オッペンハイマーは、「広島・長崎では、残留放射線は発生しない」としました。なぜなら、原爆は地上600mという高い地点で爆発したため、放射性物質は成層圏まで到達。地上に落ちてくるのは、極めて少量になるというのです。

これが、アメリカ政府の残留放射線に関する公式見解となりました。

<明らかになる実態 残留放射線の脅威>

グローブスによって否定された残留放射線。私たちは、極秘とされた海軍の測定した値や、日本の科学者による測定値を入手。専門家と共に、値と場所を地図上にプロットしてみました。

1945年9月から、46年1月までに測定された、長崎の「残留放射線」の値です。残留放射線は時間とともに急激に低くなる、「減衰」という現象を起こします。

そこで時間をさかのぼり、値の変化を調べてみることにしました。すると、原爆の投下の1時間後、爆心地から3キロ離れた西山地区で、放射線は1時間あたり97ミリシーベルトをこえていた可能性があることが分かりました。

この放射線の値を計算した京都大学、複合原子力科学研究所の今中哲二(いまなか・てつじ)研究員です。

今中研究員「一番注目すべき地域はやっぱり西山ですね。西山が圧倒的に線量高かったですから。これはもう私からしたら直ちに避難するか、直ちに遮蔽の強いコンクリートの建物に避難するか、という線量です。そういう中で西山の人たちは暮らしていたんだと思う」

放射線医学の第一人者である、広島大学の鎌田七男(かまだ・ななお)名誉教授は、人体に影響を与えていた可能性を指摘します。

鎌田名誉教授「6時間たった段階で(がん死亡リスクが高まる)100ミリシーベルトは優にこえてしまう。これだけの数値からでも人体への影響はあったと、体調を崩していった、脱毛した方もあるわけですから。これを見て(人体影響があると)意を強くすることができますね」

<残留放射線 人体影響まで調査>

当時アメリカ軍がトップシークレットとした西山地区の住民の血液検査を行っている写真も見つかりました。原爆投下から2か月後。アメリカ軍が注目していたのは、「白血球の値」でした。

正常値をはるかにこえる、10000以上の高い値を示す住民が頻発していました。鎌田名誉教授によると、放射性物質が体内に入ったことで起きた可能性が高いといいます。

アメリカ軍は残留放射線を測定していただけではなく、人体への影響の可能性まで、周到に調査していたのです。

原爆調査報告書「西山地区の人々は、原子爆弾の投下から数か月後に、有意な白血球増加がみられた。動物の場合、全身に被爆した後に白血病が進行する可能性があり、人間がどうなるか特に興味深い。また、放射性物質を経口摂取した後の人体から、骨肉腫も確認されている」。

「西山地区に残る放射性物質の堆積物には、人がさらされ続けると危険を伴う可能性がある。この条件を考えると、原爆の直接の影響を受けていない西山地区の住民は、残留放射線の影響を観察するのに理想的な集団である」

<残留放射線は“皆無” 優先された核開発>

次々に明らかになる残留放射線に関する不都合な事実。しかし、グローブスは、公式見解を変えようとはしませんでした。

1945年11月28日。グローブスは、国の原子力委員会で証言を行います。その議事録を今回入手しました。

(原子力委員会議事録より)

原子力委員会「残留放射線を調査した記録はありますか?」

グローブス少将「はい。ございます。残留放射線は『皆無』です。『皆無』と断言できます。爆発が非常に高い地点で起きたため、放射能による後遺症は発生しませんでした」

原子力委員会「私からみると、陸軍省は何度も何度も『放射線による被害はなかった』と強調しています。そこには、放射能被害を認めると、倫理的に間違いを犯したことになるという思いが、陸軍省側にあったのではないですか?」

グローブス少将「この問題は、ひと握りの日本国民が放射能被害に遭うか、それともその10倍ものアメリカ人の命を救うかという問題であると私は思います。これに関しては、私はためらいなくアメリカ人を救う方を選びます」

当時、ソビエトとの冷戦がすでに始まっており、グローブスは、今後も核兵器が必要であると強調します。

グローブス少将「アメリカの科学者の研究では、残留放射線による死についての報告は実証されていない。原子力の研究を止めてしまうことは、アメリカが自ら死を選ぶことに等しい」

原爆は非人道的な武器ではなく、アメリカになくてはならないものだと、グローブスは残留放射線の影響から眼をそらし、核開発で世界をリードすることを最優先としたのです。

<日本の原爆初動調査 苦闘する科学者たち>

アメリカが残留放射線を否定する一方で、日本はその影響をどう捉えていたのか?

実は日本軍も、原爆が投下された翌日から、被害を調べるため、医師や科学者を現地に送っていました。

その中に、残留放射線にいち早く注目した医師がいました。東京大学の都築正男(つづき・まさお)教授です。

都築教授「爆発の当日広島におらず、その後やってきた人で数日間勤労作業などに従事した人の健康状態については、相当の症状をしめし、また死亡した人もある。爆発後数日以内に爆心から半径500メートル以内の土地で働いたものには、ある程度の傷害があたえられていると考えてよかろう」(1945年9月5日「中国新聞」)

都築が疑ったのは、原爆が爆発した後に爆心地に入った人が被爆する“入市被爆”でした。

爆心地の土壌は、中性子を吸収することで放射性物質となり、放射線を放出します。今回入手した値で作成した広島の爆心地周辺の残留放射線です。

原爆投下の1時間後は、1時間あたり15ミリシーベルトと極めて高い値になっていました。

広島では、原爆投下の翌日に、救護や家族を探すために、少なくとも18000人が爆心地に入っていて、残留放射線を浴びた可能性があると考えられています。

しかし、初動調査で掴んだ残留放射線の影響とみられる症状は、「ある思惑」から見過ごされます。

長崎で、爆心地の調査を行っていた石川数雄(いしかわ・かずお)医師は、残留放射線が大衆を不安に陥れることを危惧したといいます。

石川医師「アメリカの方から伝えられた、『70年、生物の生存を許さない』とPRされて、そのことに多くの方々が恐れおおのいて、多くの死体の片付けも十分できないような不安な気持ちであった。私は、『放射能というのは時間と共に強く減弱していくんです、いわゆる人間の身体にうけても心配いらないんだ』と県知事に申し上げたことを記憶しています」

陸軍がまとめた報告書には「人体に障害を与えるほどの放射線は、測定できなかった」と記されています。有害な残留放射線は存在しない、とすることで、パニックを防ぎ、人心の安定をはかろうとしていたのです。

それでも、日本の科学者たちは、アメリカの調査に協力する一方で、残留放射線の人体への影響を証明しようと取り組みます。

原爆調査にあたった都築正男医師が残した資料から、原爆投下から3か月後に開かれた「原爆災害調査研究特別委員会」の極秘の記録が見つかりました。

1945年11月30日。GHQの立ち会いのもと広島、長崎を調査した科学者がはじめて一堂に会し、報告を行いました。戦中、国産の原爆開発をおこなっていた仁科芳雄(にしな・よしお)博士が爆心地から離れた地区で、残留放射線を測定した事実を発表します。

仁科博士「特別な地区の放射能が強くなっている所があります。原爆が爆発して、原子核の破片が飛散して、放射能を示している。雨と一緒に落ちてきている」

続いて、残留放射線の人体への影響を危惧していた都築正男医師。

都築教授「爆発後、他の土地から応援にまいり、作業に従事した人の白血球の数が減りました。放射能の障害を受けたのではあるまいか。ただ 確実にそうである実例を、いまだつかみえないのであります」

しかし、アメリカ側は、科学者に対し厳しい言葉をつきつけます。

GHQ経済科学局幹部「日本人の原爆研究は許さぬ」

激しく反論したという都築。しかし、アメリカ占領下では、残留放射線について発表することは許されなくなりました。戦後、都築正男にインタビューした広島大学の今堀誠二教授は、都築から「科学者としての無念」を聞いていました。

今堀教授「問題は政治が先か、人道が先かということ。結局は人道が政治に押し切られてしまった。広島・長崎に何万という被爆者がいるんだと。毎日何人も死んでいってるんだと。その人々を助ける方法があり、研究もでき、発表もできるにもかかわらず占領軍の命令によって禁止をして、この人たちを見殺しにするとは何事かと」

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