(2022年4月23日の放送内容を基にしています)
アジアの西の端、”戦乱の十字路”と呼ばれてきた国があります。アフガニスタン。
「長年、私の国は戦争によって多大な犠牲を払ってきました。毎朝、家を出るときに考えるのは『生きて帰れるだろうか』ということでした。私はアメナ・ハキミ。ジャーナリストです。戦争が終わった今、本当は穏やかに暮らしたい。でも、私は数少ない女性記者として、取材を続けることにしました。どんな状況だろうと、この国の現実を伝えるためです」
半世紀近い戦乱の陰で、この国の女性たちは厳しく抑圧されてきました。
かつてタリバンが強制したのが、全身を覆う「ブルカ」。タリバンが復権した今、再びブルカに身を隠す女性が増えています。
”ブルカの向こう側”で、彼女たちは何を思い、どう生きているのか。半年間の記録です。
<波乱の運命を辿ったアフガニスタンは今>
2021年8月、アフガニスタンは歴史の転換点を迎えました。20年にわたって駐留してきたアメリカ軍が撤退し、長年の戦闘に終止符が打たれたのです。
その最中、力によって政権の座を奪ったのが、イスラム主義勢力タリバンでした。
1996年からの5年間、政権の座に就いていたタリバンは、イスラム教を極端に解釈し、女性の教育や就労を制限しました。すべての女性が、ブルカで全身を覆うことを強いられました。厳格な教えに従わなければ、公開処刑を行うこともありました。
2021年8月、再び権力を握ったタリバンは「自分たちは変わった」と主張。
タリバン報道官「イスラムの教えの範囲内において、女性の権利を約束する」
しかし、国際社会は、今も「女性の権利が守られていない」などとして、タリバンを政権として承認していません。
現地の状況が断片的にしか伝わってこない中、私たちは、女性たちに何が起きているのか、記録し始めました。
首都カブールの一角で、出会った女性。現地のテレビ局で働くアメナ・ハキミさん。入社2年目の記者です。街ゆく市民に声をかけ、タリバン統治下での暮らしについて取材していました。
取材中、タリバンのメンバーが近付いてきました。
タリバンのメンバー「取材の許可証は持っていますか?」
アメナさん「これが私たちの許可証です」
タリバンのメンバー「いいでしょう」
タリバンが復権して以降、監視が強まり、取材活動が制限されるようになったといいます。
アメナさん「撮影には必ず許可が必要で、以前の自由は奪われてしまいました。タリバンへの抗議デモの現場では、催涙スプレーをかけられました。1時間ほど拘束され、携帯電話のデータを確認されたこともあります。市民たちもタリバンの目を恐れて、本音を話してくれません」
<自由な報道機関に留まり”女性のために”働きたい>
アメナさんが勤務するのは、首都カブールにある民間放送局『トロニュース』です。2010年の設立以来、政権の不正を追及。タリバンに対しても、批判的な報道を続けてきました。タリバンが復権した直後、世界の目は、このトロニュースに注がれることになりました。
2021年8月、朝の特別番組でタリバンの報道官が、女性キャスターのインタビューに答えたのです。かつてのタリバン政権時代には、考えられないことでした。
女性キャスター「市民たちは大きな変化に直面しています。この変化をどう捉えていますか?」
タリバン報道官「タリバンが制圧した町は、どこも安全になっています。全てのイスラム戦士は、祖国に奉仕すべく行動しています」
女性キャスター「今後はどうなりますか?」
タリバン報道官「私が得た情報では、カブールの状況は日に日によくなっています」
この番組の放送後、タリバンにインタビューをした女性キャスターは、身の危険を感じて国外に逃れました。名だたるベテラン記者も次々と職場を去り、報道の中核は若手が担うことになりました。
不安を感じながらも、ここに留まることを決めたアメナさん。タリバンによる、かつての抑圧を知らない世代だからこそ、できることがあるといいます。
アメナさん「現在、多くの女性たちが未来への希望を失っています。今後は家に閉じ込められ、仕事にも行けないのだと。でも、闘い続ける女性が1人でもいたら『彼女にできるのだから、私にもできる』と思えるはずです。私は自分自身の姿を通して、女性たちを勇気づけたいのです」
<タリバン復権 国際社会が注視する”女性の権利”>
タリバンによる統治が始まって1か月(2021年9月上旬)。タリバンは女性への締め付けを徐々に強めていた。ブルカの着用は強制しなかったものの、かつて抑圧の象徴とされた『勧善懲悪省』を復活。9月中旬には、日本の中学・高校にあたる学校を再開したが、登校を認められたのは男子生徒のみだった。女子生徒については、「男女が同じ場所で学ぶのは、イスラムの教えに反する」として自宅待機を命じられた。
「女性の権利を認めて!」
現地で撮影された動画には、タリバンに抗議の声を上げた女性たちが、ムチで打たれる様子も映し出されていた。欧米など国際社会は、タリバンの対応を見極めようと、経済援助の停止と海外資産の凍結を打ち出している。
グテーレス国連総長「タリバンが女性や少女への約束を破ったことを憂慮している。破られた約束は女性や少女の夢をも打ち砕いてしまう」
<タリバン復権後、仕事を失ったファトゥマさん>
タリバンの復権によって、生活が一変したという女性がいる。
ファトゥマ・アリさん(仮名)。2021年8月以降、夫と6人の娘たちと居場所を転々とする暮らしを送っている。
ファトゥマさん「これらは全てタリバンからの着信です。今も電源を入れるとかかってきます」
タリバンを名乗る男から「仕事をやめろ」と脅す電話が、繰り返しかかってくるようになったという。
ファトゥマさん「『両手を切断する』と言われたので、タリバンに見つからないよう、ブルカをかぶってパソコンを捨てました。今も物音がするたびに、タリバンが私を捕まえに来たような錯覚に陥ります」
ファトゥマさんがそれまで暮らしていたのは、中部の都市バーミヤン。中心部に店を構え、観光客を相手に、手作りの服や雑貨を販売していた。
この国で女性たちが、ここまで社会進出を果たすには、長い苦難の道のりがあった。
<タリバンに振り回されたファトゥマさんの人生>
ファトゥマさんが幼少期を過ごしたのは、1980年代。当時、政情は不安定ながらも、都市部では女性の社会進出が進み始めていた。
記者「卒業後はどんな職業に就きますか?」
女子学生「裁判官です」(1980年代のインタビューより)
ファトゥマさんも、高校生になると服を作る仕事に就きたいと考えるようになった。しかし、1996年、タリバンが政権の座に就くと状況は一変する。
ファトゥマさん「私はタリバンが脅迫や処刑を行うのを見ました。私も暴力を振るわれました。今も耳の奥には爆弾の破片が残っています」
事態が動いたのは、2001年。同時多発テロ事件をきっかけに、アメリカがアフガニスタンで軍事作戦を開始。タリバン政権を崩壊させたのだ。
再び就労の自由が認められた女性たち。ファトゥマさんは、2005年に婦人服の会社を設立し、20人の女性を雇用。以来、戦争で夫を失ったり、生活に困窮したりした人たちの家計を支えてきた。
ファトゥマさん「よくできましたね。ここは糸をもう一度通してごらん。手縫いの味わいを大事にしてね」
タリバン復権後、仕事をやめるよう脅されたというファトゥマさんは、会社をやむなく閉鎖。店は、理由も告げられないまま、タリバンによって占拠された。
かつての従業員からは、収入が途絶え、家族を養えなくなったと訴えるメッセージが届いている。
「大変な生活を送っています。仕事もお金もありません」
「会社が閉鎖し困難な状況です。お金も食べるものもありません。会社をいつ再開しますか」
ファトゥマさん「何年もかけて築き上げてきたものが、一瞬で失われて悔しいです。ただ、何より大切なのは命です。今はこの部屋でじっとしているしかありません」
生計を立てられず、苦渋の選択をする人も相次いでいる。
この女性は、家族6人を養うため、3歳の娘を裕福な家庭に嫁がせることを決断。15歳になったら引き渡すことを条件に、結納金の一部を受け取ったという。
子どもを嫁がせた母親「娘は結婚する年齢ではないのに、他に方法がありませんでした。食べるためにはそれしかなかったのです」
こうした女性たちの訴えを、タリバンはどう捉えているのか。
勧善懲悪省の報道官は、「女性の就労は”イスラムの教えの範囲内”で守られている」と主張する。
勧善懲悪省 報道官「女性が働きに出てはいけないと、私たちがひと言でも言いましたか。この国はイスラム国家であり、国民も教えに従った統治を望んでいます。西側諸国などが教えに反することを求めても、それを支持することはできません」
<“タリバン支持”の女性と向き合うアメナさん>
タリバン復権後も、市民への取材を続けている記者のアメナさんです。
女性の就労を禁じていないと主張するタリバン。しかし、アメナさんは、政府機関の職員をはじめ、働けなくなった女性を数多く見てきたといいます。その一方で、タリバンを支持する女性たちにも、出会うようになっていました。
アメナさん「カブール市内の大学で行われたデモを取材しました。デモは、女性たちがタリバンへの支持を示すために行ったものでした」
「自立!独立!自立!独立!」
デモを行ったのは、300人の女性たち。タリバンを政権として承認するよう訴える声が、各地から上がっていました。
登壇者「タリバンを非難する女性たちは、彼らのことを誤解しています。誤った情報を世界に発信しています」
教育や就労の権利が揺らぐ中、なぜ多くの女性たちがタリバンを支持するのか。アメナさんは、その理由を知りたいと考えていました。
この日、取材したのは、医師のアジザ・ワタンウォールさん。タリバンが復権して以来、公の場で支持を口にしていました。
アメナさん「アフガニスタンの現状をどう受け止めていますか?」
アジザ・ワタンウォールさん「とてもよいと思っています。女子生徒の通学もすぐに認められるでしょう。タリバンは約束通り、男女を平等に扱うはずです」
アメナさん「あなたがタリバンを支持する理由は何ですか?」
アジザ・ワタンウォールさん「安全に暮らせるようになったからです。攻撃や犯罪におびえる必要はありません」
アメナさん「タリバンを支持するのは、彼女の自由だと思います。私の責任は、そうした人々の声もありのまま伝えることです」
<アフガニスタンを蹂躙してきた大国への怒りと不信>
アジザさんが、タリバンに信頼を寄せる理由は何なのか。
アフガニスタン第2の都市、カンダハル。タリバンは、1994年、この地で結成された。
この街で生まれ育ったアジザさん。語ってくれたのは、長年、大国に翻弄され続けてきた記憶だった。
アジザ・ワタンウォールさん「1980年7月31日は、私が一生忘れられない日です。ソビエトが侵攻してきたため、命の危険を感じた私は、何百万人の同胞とともにアフガニスタンを逃れました」
「1979年12月27日、ソビエト軍は陸と空から侵攻を開始。アフガニスタンの社会主義を目指す政権を守ると共に、長期的に見ればアジアと中東の接点に有利な地歩を築きました」(1981年放送 NHK特集「ソ連軍駐留下のアフガニスタン」より)
冷戦時代、ソビエトは、戦略的な要衝だったアフガニスタンに軍事介入。現地のイスラム勢力は激しく抵抗。戦いは泥沼と化し、ソビエト軍の駐留は10年に及んだ。
アジザ・ワタンウォールさん「これは私がスウェーデンで医師をしていたころの動画です」
当時、避難先のヨーロッパを転々としていたアジザさん。医師として働きながら、いつか祖国で幸せに暮らせる日を夢見ていたという。
ところが、ソビエト軍撤退から12年後、今度はアメリカが軍事作戦を展開。“テロとの戦い”の名の下、激しい空爆が繰り返された。その標的となったのが、タリバンの一大拠点、カンダハルだった。医師として戻ってきたアジザさんが目にしたのは、ふるさとが再び破壊されていく様だった。
アジザさんは、その象徴だという墓地に案内してくれた。
アジザ・ワタンウォールさん「ここでは家族18人が空爆の犠牲になりました」
ここで家族や親戚と暮らしていたという男性。その日常が壊されたのは、2007年、アメリカ軍による空爆が激しさを増していた頃だった。
被害にあった男性「あの日私は、いとこと一緒にモスクにいました。礼拝が終わり、立ち話をしていたら、空から爆弾が投下されました。親戚が建物の下敷きになっていたので、私たちは必死に救い出そうとしました。そのとき米軍が私たちを攻撃したのです。親戚はまだ息がありましたが、助けることはできませんでした。米軍のせいです」
アジザ・ワタンウォールさん「彼らが何をしたというのですか?」
被害にあった男性「ここにタリバンはおらず、米軍の敵はいませんでした」
アジザ・ワタンウォールさん「こうした誤爆の犠牲者は、彼の家族だけではありません。これが民主主義国家のやることです。彼らは女性の権利が重要だと言いますが、”命”が私たちの権利であることを知っていますか?米軍は”テロとの戦い”だと言いましたが、ここにテロはありませんでした。テロリストを生み出したのは誰なのでしょうか」
半世紀近くに及んだ戦乱。この20年だけでも民間人の犠牲者は、4万6000人に上る。
アジザさんは、今こそ、アフガニスタン人による国づくりを掲げるタリバンに、未来を託したいという。
アジザ・ワタンウォールさん「世界はアフガニスタンを戦争の”競技場”にしました。この国に家族を失ったことのない人はいません。罪なき人々を侮辱したり、尊厳を傷つけたりすることが、果たして民主主義なのでしょうか。この国が戦場になるのはこりごりです。だから私はタリバンを支持します。私が願う平和のためです」
<長引く制裁で深刻な食糧危機 葛藤するアメナさん>
タリバンによる統治が始まって4か月。本格的な冬が迫る中、記者のアメナさんは連日、市場に通っていました。
アメナさん「客足はどうですか?」
店主「月給5000アフガニ(約7400円)の人が、どうすれば小麦粉や油が買えるのですか。合計5000アフガニですよ。食べ物は必需品なのに」
人々は深刻な食料不足に喘いでいました。女性の人権問題を理由の1つとして、国際社会が科した制裁が、皮肉にも、市民生活を圧迫していたのです。
飢えや寒さで命を落とす人は後を絶たず、国連は、国民の6割、およそ2440万人が支援を必要としていると警告。最悪の人道危機に瀕していました。
ムッタキ外相代行「政治と人道支援を結びつけるべきではない」
市場には、日雇いの仕事を求める市民が、毎日押し寄せていました。
日雇い労働者「失業者たちは八方塞がりです。私は日雇い労働者ですが、午後になっても仕事がありません。うちには6人の家族がいます。こうした状況に陥っている人は、この国に大勢います」
食料不足の影響は、より立場の弱い女性たちを直撃していました。手作りの靴下を手に、アメナさんに声をかける女性もいました。
女性「お願いです。買ってください。恵んでください」
アメナさん「お母さん、私もゆとりはないの」
アメナさんの同僚男性「仕事を終えたら戻ってきます」
女性「あなたをどこで見つけろというのよ。どうせ何も恵んでくれないじゃない。無力で哀れな女性を見捨てる人には、天罰が下りますよ」
アメナさんは、困窮する女性たちを前に、自分に何ができるのか、葛藤していました。
アメナさん「インタビューで返ってくるのは『話しても無意味でしょう』『どうせ問題は解決しないじゃないか』という言葉です。『楽な暮らしをしている』と答える人は誰もいません。それを目の当たりにすると、何もできない自分が悔しいです」
<子どもの未来にまでしわ寄せが・・・>
タリバンの復権後、店を失ったファトゥマさん。彼女も苦境に喘ぐ1人だった。収入源が断たれる中、物価の高騰が追い打ちをかけ、ぎりぎりの生活を送っていた。
ファトゥマさん「以前は毎食、娘たちに肉や乳製品など、栄養のあるものを食べさせていました。今はこれが精いっぱいです」
子どもたちの将来にも、暗い影が差し始めていた。
ファトゥマさん「娘たちのノートを見ると、頑張りが感じられます。でも白紙の部分を見ると、悔しい気持ちがこみ上げてきます」
現在、タリバンは小学生の通学は、男女ともに認めている。しかし、わずかな学費や交通費さえ、払う余裕がないという。
ファトゥマさん「自分のことなら、昔のように辛抱できますが、娘たちのことを思うと、申し訳なくてたまりません。学校の勉強もいつも頑張っていたのに、将来がどうなるかわかりません。『お母さん、あれだけ努力したのに、どうして私は不幸なの』、娘にはそう言われると思います」
この日ファトゥマさんは、バーミヤンにとどまる元従業員のもとに向かっていた。生活の限界を訴えるメッセージが届いたからだ。10年に渡って、ファトゥマさんの会社で働いてきた女性。障害のある夫に代わって、子どもたちを養ってきた。
ファトゥマさん「元気かい?子どもたちはどうしている?」
元従業員の女性「昨日は子どもたちが体調を崩したので、薬局に行きました。でも1人分の薬代しか払えず、残りは後払いにしてもらいました。寒い中、燃料も食糧もなく神に祈って暮らしています。あなたがいた頃は仕事があり、収入があり十分な生活ができていました。お金があれば、子どもたちを学校に行かせられますが、うちの子どもたちは家にいるしかありません」
<アフガニスタンの現実を知ってほしい>
国際社会から十分な支援が得られず、深刻な人道危機に陥るアフガニスタン。このまま見放されてしまうのではないかと危惧する女性がいる。2021年8月、タリバンの復権を恐れてカブールから脱出する大勢の人々。
その中にサリマ・マザリさんの姿があった。タリバンに命を狙われていると感じ、家族と共にアメリカに逃れた。アフガニスタンにいた頃、サリマさんは、前政権から地区長に任命され、地域の復興事業に邁進してきた。
サリマ・マザリさん「皆さんが守っているのは、子どもたちの未来です」(2019年当時)
戦闘で荒廃した土地に、道路や学校を再建。市民の暮らしを支えてきた。
しかし、アフガニスタンを離れた今、サリマさんは強い無力感に襲われている。地域の住民たちから、連日、支援を求めるメッセージが届くからだ。
「こんにちは、お元気ですか?家族は無事ですか?あなたが出国できてよかったです。私たちのことも忘れないでください」
サリマ・マザリさん「この人は『子どもたちを助けて』と家族の写真を送ってきました」
アメリカでは、アフガニスタンの窮状を伝えるニュースが減り、日に日に関心が薄れていると感じている。
サリマ・マザリさん「アメリカの政府関係者に連絡して、現地の状況を伝えようとしましたが、彼らは私の訴えに関心がなく、聞こうとはしませんでした。国際社会は諦めているのです。アフガニスタンは発展途上のままでいい。混乱があってもしかたがないと」
サリマさんは同じく国外に逃れた仲間と、自分たちにできることを模索している。
サリマ・マザリさん「女子生徒の教育支援プロジェクトはどうなっている?」
話し合っていたのは、経済的な理由で学校に通えない女子生徒をどう支えるか。欧米をはじめとする国際社会に働きかけ、支援に繋げたいと考えていた。
ドイツに住む支援者「ドイツの学術団体から返答があり、アフガニスタンへの支援は計画していない、と言われました。『情勢が不透明だから』との理由で、今後も検討する予定はないようです」
呼びかけに応じた団体は2つにとどまり、いまだ十分な支援は得られていない。
なぜ自分の国は、誰かの助けなしには立ちゆかなくなってしまったのか。
アフガニスタンを離れて半年。サリマさんは、自らの思いを文章にしたためてきた。
「私は戦乱や貧困の中を生きてきた人間です。何度も自問自答しました。なぜ地球では、何千年もの間、戦争や貧困、暴力が繰り返されてきたのか。私の母語と宗教は、長年にわたって敵意にさらされてきました。人間が利己主義や、欲深さを捨てたとき、私たちは平和や正義の下で、ともに生きることができるはずです。今こそ世界が、アフガニスタンという国の現実に目を向け、問題の根源と向き合うことを願います」
<タリバン復権から半年 アメナさんの新たな決意>
2022年2月下旬。アフガニスタンが、タリバンの統治下に置かれて半年が過ぎました。
この日も市場に取材にやってきたアメナさん。ロシア軍がウクライナに侵攻して4日後のことでした。
アメナさん「この数週間で物価は変わりましたか?失業や物価高騰が問題ですが、客足はいかがでしょう?」
店主「小麦粉も米も食用油も、軒並み値上がりしました。ウクライナで戦争が起きたからです」
アメナさん「ここ数日、ガソリン代は変わりましたか?」
タクシー運転手「数日で7アフガニ(約10円)も値上がりしたよ。外国からガソリンが入ってこないからだ」
去年(2021年)夏、タリバンによる統治の行方を見届けたいと、記者を続ける道を選んだアメナさん。目にしてきたのは、タリバンによって仕事を奪われたという女性。大国に翻弄されてきた記憶から、タリバンに未来を託すことを決めた女性。そして、国際社会による制裁の陰で追い詰められる女性。
アメナさん「全ての問題が解決したわけではありません。簡単に解決することもないでしょう。でも記者の仕事を続けていれば、社会を少し変えられるかもしれない。これまで私たちは、互いを受け入れられず“1つの国”を作ることができませんでした。もし国民が一致団結し、あらゆる層が政治に参加できれば、アフガニスタンは変わっていくはずです」
長年、女性たちの姿を覆い隠してきた「ブルカ」。
“ブルカの向こう側”に見えてきたのは、常に犠牲を強いられる現実の中で、必死に生き抜こうという女性たちの思いでした。
その思いに、国際社会はどう向き合うのか。女性たちが見つめています。