(2022年9月18日の放送内容を基にしています)
いま日本で“中流危機”が進行しています。
先月、この正社員の男性は住宅ローンが破綻し、マイホームを手放しました。手取りが以前より10万円以上減少。基本給は上がらず、手当も大きく減ったことが原因でした。
「想定は正直できてなかったかな。ここまで落ち込むとは思ってなかったですね」
企業などで働く、5500万人。その暮らしが揺らいでいることを示す、深刻なデータが明らかになりました。
日本の世帯所得の中央値は25年前に比べて、およそ130万円減少。中間層が沈みこむ現象が起きています。
かつて「一億総中流社会」と言われた日本。経済成長を支えたのは、企業で猛烈に働き、消費意欲も旺盛な中間層の人々でした。
しかし、バブル崩壊以降、日本企業は、グローバル化やIT技術の革新といった、新たな潮流に遅れをとってきました。企業が稼げなくなると、賃金が上がらず、消費も落ち込む、長年続いてきた、“負のスパイラル”。
NHKスペシャル、シリーズ「“中流危機”を越えて」。第1回のテーマは、「企業依存社会」です。
「年功序列の賃金」に「終身雇用」。企業が社員の生涯を保障する日本型の経営。経済の低迷と共に、その限界が指摘されてきました。
しかし、取材から見えてきたのは、いまだ多くの企業で従来のシステムを変えきれず、負のスパイラルから抜け出せない実態でした。こうした中、企業依存型とも言える従来のシステムから転換し、稼ぐ力を取り戻そうとする模索が始まっています。
危機に立つ中流。日本の苦境を乗りこえる手がかりを探ります。
星麻琴キャスター「かつて“一億総中流”と呼ばれた日本社会。その形は大きく崩れています。NHKスペシャルでは、危機にある中流の実態を社会全体の課題としてとらえ、解決の糸口を探っていきます。今回NHKは、全国の20代から60代およそ5400人に、政府系の研究機関と共同でアンケート調査を行いました。イメージする中流の暮らしについて聞いたところ、『正社員』『持ち家』『自家用車』などの回答が並びました」
星キャスター「一方、『イメージする中流より下の暮らしをしている』と答えた人は56%にのぼり、こうした暮らしが当たり前ではない時代になっていることがうかがえます」
星キャスター「こちらは1994年、日本の全世帯の所得分布です。複数の専門家は、全世帯の真ん中である中央値の前後、全体のおよそ6割から7割の世帯を所得中間層としています。かつてはこの層が“一億総中流”の豊かさを象徴していました。」
星キャスター「しかし、2022年7月に内閣府が発表したデータによると、この25年で所得全体が沈み込み、中央値はおよそ130万円下がっています。その要因には、この間、単身世帯や高齢世帯、それに非正規で働く人が増えていることなどが挙げられますが、正社員で働く現役世代の賃金が減っていることも要因になっています。まずは、中流の象徴である正社員が、どのような現実に直面しているのかを見ていきます」
<“賃金が上がらない” 揺らぐ正社員の暮らし>
小沢清さん(仮名)、55歳。高校卒業以来、自動車関連会社で正社員として勤めてきました。妻の恭子さん(仮名)、55歳、派遣社員として働いています。二人合わせて、年収は750万円。自宅のマンションは、20代の時、35年ローンを組んで購入しました。
恭子さん「結婚式の写真だね」
清さん「このときは景気が良くて、給料がどんどん上がっていく時代でした。先は本当に心配してなかったですね、このときはですね」
ふたりが結婚したのは、バブル絶頂期の1989年。毎年、基本給もボーナスも上がり続ける、「右肩上がり」の時代でした。家族の楽しみは、毎年必ず、子ども3人が望むところへ旅行することでした。
しかし、小沢さんは、想定外の事態に直面します。
恭子さん「これがいちばん良かったときの手取りで、営業やってて、実績給がすごいついてるとき。いま絶対こんなにもらえないよね」
一時期、700万円に達していた、清さんの年収。40代半ばで、毎月の手取りが半減し、年収は500万円台まで落ちこみました。
原因は、会社の経営環境が厳しくなる中、年功賃金による昇給が大幅に抑えられたことでした。基本給は、この20年で5万円しか上がっていません。業績に応じて支給される成果給も下がり、大きく収入が減ったのです。
清さん「本当であれば、マンションを買って、売って、一軒家を建てたいと思ったんですけど、そこまでいかなかったです」
一方、その間、家計の負担は増え続けてきました。3人の子どもの教育費や、年齢とともに増える医療費。社会保険料や税の引き上げも、追い打ちをかけてきました。
すでに独立した子どもたちにも、その影響が及んでいます。
恭子さん「奨学金の返済って、いくらぐらい残ってるの?」
長女(29歳)「100万円ぐらいかな」
恭子さん「100?そんなに残ってるんだ」
当初、小沢さんは、大学の授業料を全額負担するつもりでしたが、奨学金と教育ローン900万円の返済を、子どもたちと折半せざるをえなくなりました。
清さん「うちって普通だと思う?それとも貧乏だと思う?」
長女「3人きょうだいで貧乏だなと思ってた。小学校ぐらいのときは、ボーナスが結構良かったかなと思うんですけど、中学とか高校ぐらいになってから、ケンカの内容が『金がねえ』とか、『また給料下がった』みたいな話をちょっと聞いてたんで」
正社員として真面目に働き続ければ、余裕のある人生を送れると信じていた小沢さん夫婦。思い描いていた暮らしとは異なる現実でした。
恭子さん「そんなに生活がなんか悲惨な感じでもなかったけどね。なかったけども、例えば毎年旅行に行ってとか、貯金もいっぱいあってとか、50歳ぐらいでローンが終わっていてとか、中流の定義が自分の中では、もうちょっと上のイメージだったんですよね、実は」
正社員の収入は、この20年あまりで大きく落ち込みました。生涯賃金は、男女ともにピーク時に比べて3500万円以上減少したと推計されています。
一人当たりの実質賃金も、この30年、他の先進国が伸びているのに対し、日本は、ほぼ横ばいです。
<上がらない賃金 “企業依存”の現実>
沈みこむ日本の中間層。その賃金を支払う企業もまた、苦境に立たされてきました。今回、私たちは企業で働く人たちのおよそ7割を占める、中小企業の現場に密着しました。
エアコンの部品を製造する「佐藤工機」(静岡県富士宮市)。年間売上はおよそ30億円。従業員は250人います。この20年で、価格競争が激化。年々利益をあげることが難しくなっています。
佐藤工機社長・佐藤憲和さん「驚くほど、価格が安くなっているなと感じますね。以前は1台15万円、20万円が当たり前でしたので」
賃上げ率やボーナスを下げ、正社員の平均賃金を2割減らしました。
佐藤憲和さん「人件費の抑制はマストで。良い悪いじゃなくて、そういうものだと。やらずには競争に負けてしまいます。社会的責任も含めて、まずは雇用を維持する、経営を続けていく」
右肩上がりだった日本企業の経営が危機を迎えたのは、1990年代に入ってからでした。
バブル経済の崩壊。グローバル化の加速による国際競争の激化。長年にわたる低成長、デフレ経済の時代へと突入した日本。多くの企業は、より安いコストで、より安い製品を売るビジネスに向かっていきました。
価格競争に巻き込まれた企業は、稼ぎが減る。すると、人や設備への投資が鈍化。イノベーションも起きないため、結果として賃金も上がらないという、悪循環に陥ったのです。
佐藤さんが、変える必要があると感じてきたのが、長年続けてきた雇用システムです。
新卒の社員を自社で育てあげ、年功賃金で定年まで雇用を守る。社員やその家族の生涯を保障する「企業依存型」とも言えるシステムでした。
佐藤憲和さん「ある意味それが当たり前だという受け止め方をしていました。ファミリー的な雰囲気での経営。言わずとも分かってくれる人間関係。やはり日本独特の世界であったな、というのは感じますね」
社員もまた、このシステムを頼りに、自らの人生を設計していました。入社36年になるベテラン社員の片岡史浩さん(53歳)もそのひとりです。
片岡史浩さん「『この会社にいれば大丈夫だろう』という安心感ですね。昔は、お給料を現金で支給して頂いていて、封筒で給料をもらっていた。先輩、役職の方のを見ると、あんなに厚いのかと」
会社の稼ぎに占める人件費の割合が増える中、社長の佐藤さんは去年、「年功型」の賃金制度を変えることを決断しました。スキルや実績に応じて、賃金を支払う「成果報酬型」を導入したのです。
佐藤憲和さん「企業ってどこまでやればいいんだろう。昔のように丸ごとみんな面倒見ることが、なかなか現実難しいですね」
先月、佐藤さんの会社は、さらなる価格競争に巻き込まれていました。
長年、受注してきた製品に、新たに中国企業が参入。そこで、佐藤さんは従来より価格を25パーセント下げて提示しましたが、取引先から、さらに20パーセントの値下げを求められたのです。
佐藤憲和さん「常識的に20%(追加値下げ)は、普通もうあり得ない。ギリギリの線でやってますから。経営者としては、穏やかではない心情です」
取引先の求めに応えるには、会社の利益は二の次にするしかありません。
今回、もし受注できなければ、関連する製品の契約も失いかねず、最悪の場合、全体の売上の2割以上を損なうおそれがあります。
佐藤憲和さん「とにかく今回うちは利益をゼロにして、お客様に提示をさせて頂く。それがうまくいかなかったら、うちはロスすることになる。非常にリスクが高いことになるけれども、今回はこれくらいのことをやらないと」
年々、厳しさを増す経営。それでも、雇用を守り、育成に力を入れ続けることで、会社の存続を図ろうとしています。
佐藤憲和さん「ゴールの見えないマラソンを走っているような、そんな心境になることもありますけれど、やはり人がものを作り、人の技能が製品を作りあげていくわけで、人というのは単純なコストとして、安ければいいとか、そういうものでもないと思いますね」
<イノベーション生めず 企業“抱え込み”の限界>
この30年、世界の中で存在感を失ってきた日本企業。社員の育成にかける「能力開発費」は、日本全体で2割以上減少したと推計されています。
この間、世界では、新たな価値を生み出すイノベーションが次々と起きましたが、日本企業は、その波に乗り遅れてきました。
その課題に向き合ってきた企業があります。大手電機メーカー、JVCケンウッドです。
世界の標準規格となったビデオデッキ。高音質のカーオディオ、世界最軽量のビデオカメラなど、80年代を中心に、最先端の商品を次々と生みだしてきました。
1985年、前身の日本ビクターに入社した林和喜さんは長年、ビデオカメラの開発に携わってきました。既存の製品を改良することで、大きな利益を得られた時代は、自前で育てた人材や設備を抱え続けるシステムが、よく機能していたといいます。
JVCケンウッド 執行役員・林和喜さん「当時の技術屋は、迷いなく突き進んでいったというような時代。技術領域が狭く深いみたいなところがあって、技術屋さんがどんどんどんどん育っていく」
しかし、急速にIT化が進む中で、既存の製品が売れなくなっていくと、それまでのシステムが負担となっていきました。多額の資金を投入してきた、自前の設備や人材を柔軟に動かせず、成長分野に移行することが難しかったのです。
林和喜さん「大きな工場を抱えていたり、そこに従業員がいる。そういったところを支えていくことが、非常に大命題として、いつも考えていて優先した。イノベーションを生む人材を大事にしていたか、それを見つけていたか、その人たちを活用していたか。もしかすると不足していたんじゃないかな」
日本ビクターとケンウッドは2008年に、経営統合。2011年には主要な事業を縮小し、正社員およそ740人を削減しました。
林和喜さん「非常に優秀な人材が、外へ出て行ったので、大変寂しい悔しい思いはありましたね。もう黙って見ているわけではなくて、出口を他に探すというアクションに切り替えて、新たな事業を模索するという活動に入りました」
再び稼げるよう踏み切った構造改革。いま、既存の事業からの転換を図ろうとしています。
<中間層の所得 上がらない背景は>
星キャスター「企業が稼げずに利益が減ると、人材育成への投資などが縮小し、イノベーションが起きなくなる。そして、価格競争に巻き込まれ、さらに企業は利益を上げづらくなり、社員の賃金も上げられなくなるという悪循環が見えてきました。では、ここからは、中間層を巡る雇用や経済政策について研究している、慶應大学教授の駒村康平さんとお伝えします。中間層の所得が上がらない要因について、駒村さんはどう分析していますか」
慶応大学教授・駒村康平さん「この企業依存型システム、丸抱えシステムというのは、かつてはそれなりの合理性があったと思います。労働者も企業側も共に、このシステムから利益が出ていてメリットがあり、共依存的な部分があったわけです」
慶応大学教授・駒村康平さん「しかし、これだけ中間層が疲弊して壊れてきていると、中間層の経済力、所得が下がっていきますので、そもそもものを買う力が低下します。経済全体が沈滞化する、経済成長の足を引っ張る。やはりですね、雇用システムを中心にする社会経済システム全体が、疲労、問題を抱えてきているということを押さえていかなければいけない。そこに着目した改革が必要なんではないかなと思います」
星キャスター「1990年代、右肩上がりの時代が終わり、経済が停滞し、失業率が高まる中で、企業はそれまで丸抱えしてきた終身雇用や年功賃金などの何を守り、何を見直すのかという議論が始まりました。当時の経済界、労働組合、政府の当事者を取材すると、正社員の雇用を守ることが重視されていたことがわかりました」
<“正社員の雇用を重視” 政労使 不況下での議論>
経営者団体「日経連」の常務理事を務めていた成瀬健生さんです。
元日経連 常務理事・成瀬健生さん「企業側が全部“丸抱え”でやるのは無理だと。コストを下げて、外国との競争に太刀打ちできるような格好に、もう一度もっていく努力を始めたわけです。ただ、既存の雇っている従業員については、解雇はできるだけやっぱり避けたい」
国内最大の労働団体「連合」の幹部だった久川博彦さんも、企業は雇用を守り続ける責任があると訴えていました。
元連合労働対策局長・久川博彦さん「企業としての社会的負担はどこまでなんだと、われわれとしても思っていたし、自分の雇用が、少なくとも決められた定年まで脈々と維持してもらう、それが日本的良さというふうに理解して。基本的に我々は、正規雇用の安定的な雇用を企業に求めている」
当時、雇用政策を担当していた元厚生労働省・事務次官の戸苅利和さん。失業者を増やさないことが急務だったといいます。
元厚生労働省 事務次官・戸苅利和さん「何らかの手を打たないと、労働市場に大量の失業者が発生してしまうのではないか。企業と労働組合の間で理念が一致したのは、賃金を選ぶか、雇用を選ぶか、といったら、『雇用を選びます』と。1990年代後半以降については、試行錯誤を続けているということだと思いますね」
<“正社員の雇用を重視” 中間層への影響は>
星キャスター「賃金よりも正社員の雇用を重視したという判断、それが、その後の中間層を巡る状況にどういう影響を与えたんでしょうか」
慶応大学教授・駒村康平さん「雇用を保障するということで海外と比較すれば、失業率を抑えた、というメリットはあったと思います。一方で賃金が年功給、つまり生活保障の給与体系だったので、予定していたとおり賃金が上がらなくなり、中間層の生活パターンが実現できなくなるという問題がまず起きた。それから『非正社員』という形で雇用を増やしていくことで、非正社員がこういう変化のときのバッファーの機能を果たしたんじゃないかと思います。つまり賃金で調整して、そして守るべき正社員の対象を抑えるという形で乗り切っていく。だから、失業率を抑え込むという代償に、『年功給の低下』と、『非正社員の増加』という副作用が発生したと思います。それが“中間層の崩壊”という姿で、われわれの目の前に今映っているんだと思います」
星キャスター「この間、政府はどういう政策をとってきたんですか」
慶応大学教授・駒村康平さん「政府は金融緩和政策を行い、財政支出等を行い、そして一方では規制緩和などの産業関連の政策も行いました。この結果、株価は回復をしたとは思います。ただ、余裕のある層を豊かにして、全体のパイがそれで増えていくという、トリクルダウン的な効果を期待したのかも知れませんが、今までのデータを見てもわかるように、実際には賃金は、実質賃金はほとんど伸びなかったということと、それから、所得層全体が低いほうにシフトしていったということで、期待した効果は出なかったんではないかと思います」
星キャスター「企業自体にお金が全くない状態なのか、今、企業はどういう状況にあるんでしょうか」
慶応大学教授・駒村康平さん「経営的には、なるべく余力を持っておかなければいけないと。基本給もなるべく抑えるという形で利潤を取っておいて、いざという時のために取っておく。内部留保をですね。将来、見えないリスクを回避するためにためていると思います」
星キャスター「長年にわたり企業に依存する仕組みが変わらない中、若い世代にも深刻な影響が出始めています」