ビルマ 絶望の戦場【前編】

NHK
2022年10月18日 午後4:10 公開

(2022年8月15日の放送内容を基にしています。また、戦争の実体を伝えるため、記事中に遺体の画像が出てきます)

かつてビルマと呼ばれていたミャンマー。

1944年、日本軍は国境地帯にある険しい山岳地帯を越え、470キロを行軍するという前代未聞の作戦を決行した。インドにあったイギリス軍の拠点を、ビルマ側から攻略しようとした“インパール作戦”である。

補給を度外視した作戦は、惨敗に終わった。3万の将兵が行き倒れた道は、“白骨街道”と呼ばれた。

実は、このインパール作戦のあと、さらなる「地獄」が待っていた。

終戦までの最後の1年間。10万人以上の将兵が命を落としていたのである。

兵士たちは戦局がほぼ決した中で、無謀な戦いを強いられていた。

イギリス支配から脱するために、日本に協力していたビルマの人々。

しかし終戦間際に反旗を翻し、日本軍の敗北が決定的となった。

今回、その内実が初めて明らかになった。

反乱に参加したビルマ国軍の元将校「私たちの軍隊が日本兵2人を捕まえて、首を切って殺しました。日本がやってきたことだから、私たちもやらざるを得なかったのです」

反乱に参加したビルマ市民「日本軍から、武器を奪う必要がありました。だから日本兵を卵とお酒で酔っ払わせました。そして、竹やりで刺したんです」

さらに、ビルマでの戦いを指揮した軍上層部に関する一次資料も入手した。

ビルマ方面軍参謀長「日本軍が、イラワジ河の防衛線を無期限に持ちこたえられるとは思っていなかった」

イギリス軍司令官「日本軍指導者の根本的な欠陥は、『道徳的勇気』の欠如であった。自分たちが間違いを犯したことを認める勇気がないのである」

これまで、顧みられることのなかったビルマの最後の一年間。

この戦場で命を落とした幾多の魂は、私たちに何を問いかけているのだろうか。

<大東亜共栄圏 同床異夢の“大義”>

ミャンマーでは、多くの血が流れ続けている。

2021年の軍事クーデター以来、ミャンマー国軍と市民との対立が激化。

アウンサン・スー・チー氏の側近が処刑されるなど、緊張状態が続いている。

いまから80年前の1942年3月。

日本軍は、ラングーン(現在のヤンゴン)に進攻。イギリスが植民地支配していたビルマを占領下に置いた。

「大東亜諸地域を明朗なる本然の姿に復し、新たなる大建設を行わんとするにほかならない」(東條英機首相演説より)

日本が国際社会に示した戦争の大義、それが「大東亜共栄圏の建設」だった。欧米の植民地支配から独立させるとして、アジア太平洋の広大な領域を占領。ビルマは、共栄圏の建設に協力的とされた。

ラングーンの日本語学校を記録したニュース映像が残されていた。

日本人教師「なぜ皆さんは日本の言葉を習おうと思い立ちましたか?アシッポナアナンダさん」

ビルマ人生徒「われわれアジア人は、日本を指導者として大東亜共栄圏を作らなければなりません」

日本語学校で習った歌をいまも覚えている女性。日本を歓迎していた。

ミィンミィンカインさん(89歳)「イギリス軍がビルマからいなくなるとき、私たちの家を燃やしたんです。うちに来ていた日本人が、私やお姉さんたちをよくナンパしていました。折り紙を見せたり、鉛筆や消しゴムをくれたりしました。うれしかったですよ」

日本に協力していたビルマの独立運動のリーダー、アウンサン、当時27歳。アウンサン・スー・チー氏の父親である。

「ビルマ人よ、独立を求めるのなら、しかるべき規律を持ってほしい。ビルマ人よ、独立を求めるのなら、民族としての団結力を維持してほしい」(アウンサンのスピーチより)

日本は、共栄圏建設のため。アウンサンは、イギリスからの独立のため。別の目的で手を握っていた。

日本が支援して作られていった、アウンサンをトップとするビルマ国軍。その士官学校に入学したバティンさん。

バティンさん(96歳)「日本軍の指導は怖かったです。学校の中でも外でも、教官にお辞儀をするのを忘れたらビンタされました。私たちは、どんなにビンタされても独立のために我慢して、耐え抜くんだと心に決めていました」

<繰り返される無謀な作戦>

開戦当初、勝利を重ねていた日本軍。しかし、すぐに形勢は逆転し、敗色が濃厚になっていく。

その中で、一矢報いようと敢行されたのが、太平洋戦争で最も無謀と言われた“インパール作戦”だった。

今回私たちは、ビルマで戦った主要な部隊の戦没者名簿を入手。一人一人の死を、場所や日時を特定し、地図に示した。

3万の死者を出し、惨敗に終わったインパール作戦。猛攻に転じたイギリス軍に、日本軍は防戦一方になっていく。作戦が中止された1944年7月から終戦までの一年間。日本は、はるかに多くの犠牲者をだしていた。

その数は、ビルマ侵攻後の死者16万7千の実に8割近くに上っていた。しかし、絶望の戦場の実態は、ほとんど明らかにされてこなかった。

ビルマでの最後の1年を追い続けていた作家がいた。インパール作戦を世に知らしめた作家、高木俊朗。

生涯最後の仕事として、現地軍の参謀や兵士、民間人など、300人以上から聞き取りを行い、最後の1年の全貌を明らかにしようとしていた。

「インパール作戦で戦力を失ったことが、ビルマ方面の日本軍の崩壊をいっそう悲惨なものにする。ビルマの戦記を書くとすれば、インパール作戦だけで終わってはならない」(高木俊朗「全滅・憤死」より)

ミャンマー中部を流れるイラワジ河。

インパール作戦中止から半年がたった、1945年の初頭。ラングーンを目指すイギリス軍を南岸で迎え撃った日本軍は、ここで大敗北を喫した。

戦場となった場所の村民女性「この辺りは激戦地でした。日本兵は、近くの塹壕(ざんごう)に隠れ、そのまま戦死したと聞いています」

イラワジ河を一気に突破するイギリス軍。航空機の数は500。日本は完全に制空権を失っていた。さらにイギリスの陸上兵力は26万。それに対し、日本軍は3万。インパール作戦で疲弊しつくした兵士たちだった。

インパール作戦で九死に一生を得た後、イラワジ河の守備を命じられた高雄市郎さん。

歩兵第214連隊 元伍長・高雄市郎さん(101歳)「インパールのあんな山道でも、戦車が活動できたんだからね。それが今度、広っぱのところに行ったら、戦車は自由自在に走る。戦友が敵の戦車に飛び込んで、死んだんだよ。中隊長は命令したんだ。『そこへ来てる戦車を橋のたもとから通すな』って。その役を押し付けられてね。23、4(歳)でね」

初年兵、重松一さん。補充兵として、ビルマに送られたばかりだった。

歩兵第56連隊 元二等兵・重松一さん(99歳)「『大隊長どの、戦車が来とるとですよ。どうしますか』って聞いたら、『なら下がれ!』と言って、下がれって言うたところ、その本人がどんどん逃げながら『下がれ』です。敵から見つけられんように逃げる一方です。それは日本軍がいくらやったって、小銃で一発撃ったって、そんなものも何も役に立たない。日本の大和魂なんていうようなことは、そんなものは、一切ありません」

もはや立ち向かえる戦力はなかった日本軍。戦死者は6500に上った。

この戦いを指揮したのは、ビルマ方面軍の田中新一参謀長である。

参謀本部第一部長の時、アメリカとの開戦を強硬に主張した人物だった。

高木俊朗の記録に、現地の参謀たちの取材をもとにした、田中の人物像が記されていた。

「性質は、剛腹果断、研究心旺盛、内心がわからないほど、しばいがうまい。田中は、『戦史の教訓にもとづき、悲惨な時ほど強硬に押さねばならない、こちらが苦しい時は、向こうも苦しい。だから押すのが将のつとめだ』という考えがあった」(高木俊朗 取材記録より)

田中参謀長は、軍上層部の独断で敗北したインパール作戦を顧みず、強気の方針を掲げていた。

「徒(いたずら)に消極防守に沈滞することなく、機会を捕らえて積極攻撃によって解決すべき努力が、是非必要であると思う」(田中新一「緬甸方面軍参謀長回想録」より)

圧倒的な戦力でラングーンを目指していたイギリス軍。一部の将校からは、戦線をラングーン周辺にまで引いて、長期持久戦に持ち込むべきという声が上がっていた。

しかし、田中参謀長は、イラワジ河のあるビルマ中部に防衛ラインを設定。イギリス軍を迎え撃つことを決めたのである。

一方、東南アジアを統括する南方軍は、イラワジでの戦いが始まった直後、フィリピン戦線を強化するために、ビルマ方面軍の主力部隊・第二師団を突然引き抜いた。

南方戦線の中で、ビルマの戦略的な重要性は、著しく低下していたのである。

高木俊朗の取材記録。それでも、イラワジ河での決戦にこだわった田中について、部下の参謀が証言していた。

第33師団参謀・三浦祐造少佐「僕らのほうでは笑っちゃったんですよね。何言ってんだと。それはあまりにも兵力が惨めですからね。あれはまた何をとぼけてるんだっていうような話だったですよね、師団では。結局こんなものはできないという感じは持っていました」(高木俊朗 取材テープより)

ビルマ方面軍参謀・後勝少佐「田中さんが来られたら、もう田中さんが決定されました。わしが全責任を持ってやるという能力と気迫のある人間が決める、ということですよ。そんなもんなんですよ」(高木俊朗 取材テープより)

前線の兵士たちは、戦いの目的すらわからなかったと語っていた。

高木俊朗「イラワジの会戦の時に、やっぱり目的がないっていう感じですか」

元兵士「そうですね。目的はないのでね。成り行きのままで、あっち行ったりこっち行ったり、敵にぶつかったら戦うと。今まで怖いと思ったことないけど、あの時だけは、敵にぶつかるのは怖かったね。後退作戦の時ほど怖い戦闘をしたことないね」(高木俊朗 取材テープより)

戦力の差を度外視した上層部の命令で、前線の士気は著しく低下していた。

歩兵第58連隊 元曹長・佐藤哲雄さん(102歳)「日本人の兵隊同志で泥棒がはやったの。『お前もう死ぬんだから』というわけで、死にそうになっているのを取ってしまう。戦争というよりも自分の身を守るということが、第一にその当時はあった」

日本赤十字社 元救護看護婦 佐賀班・樋口クニさん(95歳)「傷口にウジがいっぱい。グチュグチュで大変でした。それをピンセットでつまんで、捨てて。ただ早く内地に帰りたいということでいっぱいでした」

日本赤十字社 救護看護婦 岐阜班・北澤松子さん(99歳)「兵士が亡くなる間際に、何かおっしゃるんですけど、方言が鹿児島辺りとかだと、言葉が全然分からないので、何をおっしゃってるのか分からない。どんなに聞き返しても意味が分からない。心から申し訳なく思っています」

イギリスに、ビルマの最後の1年間についての詳細な記録が残されていた。

イギリス軍が、日本軍の大本営参謀や現地軍の上層部ら30人に行った尋問調書である。ほとんどの尋問調書の作成に関わったのが、語学将校だったルイ アレンである。

「日本軍の敗北は、疑う余地のない状態になっていた。日本軍の将校たちは、たとえ高価な代償を払っても、まだ勝ち目があると思っていたのだろうか」(ルイ アレン著「SITTANG the last battle」より)

イラワジでの戦いを主導した、田中参謀長。ルイ アレンらの調べに、次のように語っていた。

「日本軍が、イラワジ河の防衛線を無期限に持ちこたえられるとは思っていなかった。だが、ラングーンを防衛し続けるための時間を稼ぐことはできると考えたのである」

ビルマでの戦いを指揮したイギリス第14軍のスリム司令官は、日本軍の体質をつぎのように指摘していた。

「日本軍の指導者たちには、根本的な欠陥があるように思える。それは“道徳的勇気の欠如”である。彼らは自分たちが間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がないのだ」

<若き将校が見た 大東亜共栄圏の現実>

日本の防衛ラインを突破したイギリス軍は、首都ラングーンを一気に目指していく。空襲が激しさを増していたラングーンでは、高射砲部隊が応戦していた。この部隊に所属していた、若井徳次(わかい・とくじ)少尉。1943年からラングーンで任務に当たっていた。

今回、若井少尉が現地でつづっていた日記や詳細なメモなどが見つかった。

岩井徳次元少尉の娘・斉藤房子さん「自分の見聞きしたものを、書かなければいけないという使命感、そういうのがあったんだと思います」

ラングーンの前線でイギリス軍と対峙していた若井少尉。危機から目をそらす軍上層部に、憤りを感じていた。

「芸者を中心とした、高級将校の乱脈ぶりは目を覆うものがあった。逆境の時の人間の犯す過ちは、何か日本人の欠陥を見る思いである」

高級将校が通っていた芸者料亭「萃香園」。もともと九州にあった料亭がラングーンに出店したものだった。高木俊朗の記録には、萃香園関係者へのインタビューも残されていた。

芸者の回想「お座敷が始まるのは、午後九時から。そして午前二時頃までには、リンが鳴ってお開きになりました。あちらのお座敷に十分、こちらに五分と忙しかったですよ」

板前の回想「前線から菊部隊の兵隊さんが帰ってきました。みんなボロボロになった軍服を着ていました。ところが夜でも光々(こうこう)とあかりがついている萃香園の騒ぎぶりを見て、その中のお一人が『軍はええかげんなとこよ。作戦を練りながら女を抱いている』と、涙を流して怒られていました」

当時、27歳だった若井少尉。戦争のために大学が繰り上げ卒業となり、入隊していた。

「軍人の世界には、誠のみが支配すると信じていたが、正義以外のものがまかり通っていた。特に軍紀の頽廃にいたっては、欲望の醜悪さのみをさらけ出していた」(若井元少尉 回想録「還らざる戦友」より)

アジアを解放し共存共栄するという、大東亜共栄圏という大義も大きく揺らいでいた。

これは、日本とイギリスの戦闘で破壊された家屋から、助けを求め出てくるビルマ人を写した映像である。ビルマの人々が暮らす場所が主戦場になっていた。

ミンディンさん(92歳)「イギリス軍の飛行機が上空を旋回し、撃ってきました。私たちはどこに逃げればよいのか分からず、逃げ回っていました。いつ巻き込まれるのかと怖かったです」

ラモさん(89歳)「学校にいたとき、空からチラシがたくさん落ちてきました。『日本人が悪いから爆弾を落とす、文句は日本軍に言ってくれ』というものでした。結局、村に爆弾を落とされて、私の妊娠中のおばさんが死にました」

人々の暮らしも混乱を極めていた。

シュエマウンさん(87歳)「終戦間際になると、日本軍が発行した紙幣は全く使えなくなりました。大量に刷さられた紙幣があふれていたし、ビルマ人は、日本が負けて逃げていくと思ったので、誰も紙幣の価値を信じなくなったのです」

日本軍と協力関係にあった、独立運動のリーダー、アウンサンは、岐路に立たされていた。

日本から、独立国としての承認をいち早く得ていたビルマ。しかし、その裏で、国家の主権が著しく制限される軍事秘密協定を結ばされていた。

「戦争が続く限り、ビルマ国軍は、日本軍の指揮下に入る」

「ビルマ政府は、日本軍に一切の便宜をはかる」(軍事秘密協定より)

「私たちはずっと、日本人のビルマ人に対する振る舞いに不満を抱いていた。私たちは、ビルマ方面軍の日本人にできる限りの抗議をしたが、全くの無駄だった」(アウンサン回想録より)

この頃、独立のために日本に協力していたアジア各地の軍隊も、相次いで投降。大東亜共栄圏の足場が、崩れ始めていた。日本との協力姿勢を転換しつつあったアウンサンの動きを、イギリスはつかんでいた。

今回の取材で見つかった、ビルマの動向を分析した資料。

イラワジでの戦いの直前、密かに抗日組織が結成されていた。中核メンバーとしてアウンサンが関わっていることを、イギリスは把握していたのである。

「アウンサンらの抗日活動は、彼ら自身にとってメリットになるとにおわせるべきだ。だが、私たちはそれ以上、踏み込むべきではない。アウンサンらが接触してきても、政治的な議論は拒否するという方針を貫くことが大事である」(イギリス軍の内部文書より)

イラワジでの戦いのあと、アウンサンはラングーンの北方270キロにある家に潜伏し、葛藤を続けていた。このまま日本に協力するのか、イギリスに期待をかけることはできるのか。

そして、1945年3月27日。アウンサンは、この地で抗日組織を率い、一斉蜂起。ついに、日本軍に反旗を翻したのである。

士官学校を卒業し、将校として反乱軍に加わったバティンさん。

ビルマ国軍元少尉・バティンさん(96歳)「ビルマ人を支配し続けようとする日本を追い出したかったのです。権力を振り回す日本から、自由を手に入れたかっただけなのです」

日本に反乱を起こしたビルマ兵の映像が残されていた。行軍には少年たちも加わっていた。アウンサンの反乱は、ビルマ全土に広がっていった。

ビルマ国軍に協力した、当時10歳の少年。

ミャタンさん(87歳)「私は村の家々から御飯やおかずを集めて回りました。そして、兄と一緒に毎日のように、ビルマ国軍の前線へ運びました。日本をビルマから追い払うため、若者がたくさん集まるようになっていました」

日本の士官学校で、ビルマの留学生たちと学んだ経験のある若手将校の日記。

歩兵第143連隊・岩井常吉少尉「今まで信頼しきっていたオンサン(アウンサン)が首謀になり、かつまた、日本の士官学校で机を共にした同期のビルマ留学生が中堅指導者になっているのは、腸(はらわた)がちぎれるほど口惜しかった。すでに、四周これ敵だ」(岩井常吉の日記より)

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