新・ドキュメント太平洋戦争 「1942 大日本帝国の分岐点(後編)」

NHK
2022年8月30日 午後3:13 公開

“大東亜共栄圏”占領下の人々の本音は 東南アジアで揺らぐ日本の統治

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番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

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(2022年8月14日の放送内容を基にしています)

1941年から1945年まで、日本が繰り広げた戦争を個人の視点から1年ごとに追体験する、シリーズ「新・ドキュメント 太平洋戦争」。その手がかりとなるのが、戦時下に個人が記した日記や手記「エゴドキュメント」だ。兵士や市民、指導者の膨大な言葉。そこには表現の自由が制約された時代に生きた人々の思いが刻まれている。

今回は、1942年「大日本帝国の分岐点」。前編では、開戦以来勝利を重ねてきた日本が、6月のミッドウェー海戦で敗北。それを隠蔽し、真実に向き合わない姿を見た。後編は、戦況が暗転する中、東南アジアの占領地でも日本の支配が揺らいでいく様を見ていく。掲げた大義と現実との矛盾の中で、膨大な犠牲を出していった大日本帝国。その実像を、日本、そして世界のエゴドキュメントから見つめる。

東京都内の民家。戦時中、一人の女性が夫に送り続けた手紙が、大量に残されていた。

榊原万里さん「母は書くのが好きでしたから。生まれた赤ん坊の手形をとって、その様子とかを絵にして伝えていたみたいです。まだ新婚ホヤホヤのときですもんね」

第一子を出産したばかりだった榊原喜佐子。夫は東南アジアの統治に関わる軍人で、開戦の1か月前に、南方に派遣されていた。以来、喜佐子は夫に手紙を送り続けてきた。

1942年6月。日本がミッドウェー海戦で大敗した直後の手紙。

「ちょうど大東亜戦開始以来、半年。おわかれして半年と半月。まだ、たった半年なのね。日本全土の四倍の地域に軍政確立。雄渾(ゆうこん)な作戦、大きい時代、力強い時代に生きている事実が、ひしひしと胸に迫ります」(6月14日 榊原喜佐子 夫への手紙)

ミッドウェーでの大敗をつゆ知らず、日本の占領地拡大に喝采を送っていた。

一方で、日々の暮らしについて、ある不満をこぼしていた。

「今日は、銀座のとおりを四丁目から新橋まで、一人でブラブラと一軒ごとのぞいて歩いてみたの。何かお送りするようなものないかと。缶づめ類は全く無し。うすい味なしソーダ水、形だけのアイスクリーム、甘くないみつ豆に、たかっているわ」(6月17日 榊原喜佐子 夫への手紙)

戦争によって、物資は軍に優先的に回されるようになった。物不足は、当時の市民にとって大きな悩みの種だった。

この年、衣類の購入が切符制となり、自由に購入できなくなるなど、物不足は深刻になっていた。人々が期待を寄せたのが、資源の豊富な東南アジアだった。日本軍は1月、フィリピンの首都マニラを陥落させると、2月にシンガポール、3月はインドネシアのジャワ、5月にはビルマを占領。東南アジアの大部分を、実質的に統治下に置いた。

日本は、インドネシアの石油やマレー半島のゴムやすずなど、戦争の継続に不可欠な資源を確保していった。

当時発行された政府の広報誌は、東南アジアへの進出で暮らしが良くなると、国民に喧伝(けんでん)していた。

「サイゴン米は出盛りだ。これまでフランス本国、アフリカ、その他に輸出されていた分も、全部日本へ送られる見込みがついている」(写真週報 1942年5月13日)

「特配の重油で獲れたぞ、初鰹(はつがつお)。これも南方で戦ってくれている兵隊さんのおかげにちがいない」(写真週報 1942年6月10日)

兵士だけではなく、多くの企業人もアジアへ向かった。109歳の高岡千尋さんの夫も、その一人だった。紡績会社に勤めていた夫の定吉は、アメリカから輸入が止まった綿花を、フィリピンで栽培し日本に輸送するため、軍の命令で派遣された。

高岡千尋さん「綿を作りに行くと言っていました。『行ってくるぞ』って、淡々と言っていました。大きな声で『行ってくるぞ』って」

子育てに追われていた榊原喜佐子は、東南アジアで働く夫に、不足する日用品を頼んでいた。

「喜佐子ぜひほしいのは、雨天用のゴムの短靴、白の運動靴。赤ちゃんに牛乳のませる時のゴムの乳首。毛糸はいくらでも・・・。紙なんかいいのあって?チリ紙が無くて悪くて・・・。もしあったら」(榊原喜佐子 夫への手紙)

南方軍で物資調達に関わっていた夫の政春は、アジアを解放し自給自足の経済圏を建設する「大東亜共栄圏」の実現に向けて、まい進していた。

「我々の希望は、百年の大計を打ち立てんとする大東亜建設の大事業だ。かくしてこそ、我ら青年の身は躍り、血はほとばしらんとする。各民族が、日本を中心とした大東亜共栄圏内における自己の地位を認識し、自己の義務を完全に遂行することであらねばならない」(榊原政春日記)

東南アジア各地を占領下に置き、軍政を敷いた日本。アジアの人々は、日本占領下の暮らしについて、日記などに書き残していた。

「インドネシアの雰囲気としては、心の中では喜んでいたといっていいだろう」

「日本人を見たのは、そのときが初めてだったので感服もした。こんなに小さいのに、オランダの大男たちをやっつけたのだから」(ジャワの医学生「Di bawah Pendudukan Jepang」)

インドネシアでは、長年続いたオランダによる植民地支配への反発から、日本の解放に期待する声も上がっていた。

日本は現地の支持を得るため、占領の初期は融和的に統治を進めた。オランダから危険視され捕らえられていた民族主義者、スカルノ(後の初代インドネシア大統領)を解放するという思い切った手にも出た。一方で、異なる文化を持つ人々に対し、「日本化」を推し進めた。皇居の方角へ最敬礼する「宮城遙拝(きゅうじょうようはい)」。宗教の異なる現地の人に、「天皇は神だ」と教えた。

「共栄」という言葉に反して、占領によって生活が苦しくなっていく様もつづられていた。

「食べるための米は、配給となった。たくさんの人が行列していた」(ジャワの雑貨店店主「Di bawah Pendudukan Jepang」)

「必要な野菜などは、ナスやトマトも庭先に植えなくてはならなかった。庭の野菜や食べ残しが、盗まれることもあった」(ジャワ 30代女性「Di bawah Pendudukan Jepang」)

これまで、欧米や近隣の島々との貿易で、経済を成り立たせていた東南アジア。日本軍の占領でその関係が断ち切られ、経済状況が悪化していた。

占領当初から多くの人が日本への批判を記していた国もあった。アメリカの植民地だったフィリピンだ。

アメリカ統治下で高等教育を受けたパシータ・ペスタニョ・ハシント、当時27歳。

「『アジア人のためのアジア』が、新しい戦争のスローガンだ。でもなぜ日本人が、アジアの盟主でなければならないのだろう」(2月14日 パシータ・ペスタニョ日記)

フィリピンは、アメリカから将来の独立を約束されていた。日本が掲げる解放のスローガンに、共感は得られていなかった。こうした状況に対して、日本軍は、占領の正当性を住民に説いて回った。

宣伝部隊を率いた陸軍中尉の人見潤介は、占領開始当初、家族に手紙で意気込みを伝えていた。

「バナナは一房、十銭くらい。土人(原文ママ)は日本に好意をもっています。東洋平和の日は近いです」(人見潤介 両親への手紙)

かつて中国東北部の満州で住民の激しい抵抗にあった人見は、苦い経験を繰り返すまいと、たびたび集会を開き、フィリピンの人々に直接訴えた。

「日本を中心に東亜の各民族が決起し、白人どもの桎梏(しっこく)を脱して、いわゆる東亜共栄圏を確立すべき旨を強調した。宣伝により、一つの方向と安堵(あんど)を与うることは、目下、その要度(ようど)極めて大なり」(人見小隊「宣伝工作実施報告」)

こうした日本軍の主張に、厳しい目を向ける人がいた。穀物関連の団体を運営し、日本軍から食料増産を命じられていたビクトル・ブエンカミノだ。

「日本の占領を祝うパレード。日本人が言うように、彼らが『解放者』ならば、どうして私たちの息子は、収容所から解放されないのだ」(ビクトル・ブエンカミノ日記)

ビクトルの息子フェリペは、国を守ろうとアメリカ軍とともに戦いに参加し、日本軍の捕虜となっていた。

フェリペが直面したのは、後に戦争犯罪として厳しく問われることになる、いわゆる「バターン死の行進」(1942年4月)。フェリぺは、収容所に向かうおよそ100キロの道のりを、徒歩で移動することになった。

「『君らは自由だ。フィリピン人だから』と日本人は言った。しかし、そうではないということはすぐにわかった。太陽はとても暑かった。同胞の兵士が、怒った日本兵に銃剣で突き刺されているのも見た。彼は地面に崩れ落ち、そこに横たわり、目で助けをもとめていた。私は、彼を助けなかったみんなを呪った。だが、自分も呪わないといけない。私も気にしなかったのだ」(4月10日 フェリペ・ブエンカミノ日記)

日本軍に捕らえられる前から、病や食料不足に苦しんでいた捕虜たち。炎天下を歩かされ、次々と命を落としていった。

フェリペは、かろうじて収容所にたどりつくが、そこでも過酷な日々が待ち受けていた。

「誰かが錯乱状態で叫んでいるのが聞こえる。水だ!お願いだ、水をくれ!ここは捕虜収容所ではない。ここは生ける死体、呼吸する骸骨の墓場だ。きょうの死者300人。国の尊厳を守ろうとしたことが、『罪』に問われてしまうのだ」(フェリペ・ブエンカミノ日記)

日本軍の存在は、一般市民の生活も脅かしていく。日本の占領に批判の目を向けていたパシータ・ペスタニョは、7月に女の子を出産した。

「丸い小さな頭、しっかりと握りしめる指、温かくて柔らかい感触。そして私は戦争を忘れる」(7月11日 パシータ・ペスタニョ日記)

喜びに満ちあふれるパシータ。しかし、衝撃的な話を聞かされることになる。

「訪ねてきた知り合いが、『男の子の方が良かったな』と言った。『男の子は危機の中で成長するが、女の子にとって、それは難しい』。私は、なぜそんなことを言うのか聞いた。『村の女性が、日本人の子をみごもり、自殺した。たった16歳で美しい子だった』『日本人の獣(けだもの)に虐待され、レイプされた女性の一人だった』」(7月21日 パシータ・ペスタニョ日記)

現地の日本軍が作成した報告書には、占領当初、強姦が多発したことが記されていた。日本軍は、略奪や強姦を厳しく禁じたが、それが徹底されることはなかった。

日本の大義を伝える、人見潤介の活動も壁にぶつかっていた。

「集会を催すも、出席者は極めて一部のみなるをもって、宣伝は専ら各家庭の巡回によるほか手段なく、極めて原始的方法を採用するのやむなき状態なり。民心まったく我になく」(人見小隊「宣伝工作記録」)

一方、銃後の市民は、東南アジアの状況を知る由もなかった。夫が、東南アジアの軍政に関わっていた榊原喜佐子。

「東京もすっかり夏らしくなりました。赤ちゃん、相変らずとてもアバレン坊。男の子みたい。今どこ?ジャバ?昭南島(しょうなんとう)?ビルマ?南の広い天地で、大きい気持ちで、働きがいを覚えていらっしゃるのかと」(榊原喜佐子 夫への手紙)

指導者たちは、大東亜共栄圏の理想を市民に語り続けていた。

東條英機 首相「米英蘭の桎梏(しっこく)下より解放されたる(アジアの)住民は、喜々として建設に協力し、着々としてその成果を現にあげておるのであります」

このころ、戦況に関する情報が厳しく統制される一方、東條首相はラジオやニュース映画を駆使して、国民の関心を引き付けていた。

戦争の現実と隔てられた銃後。情報が乏しい中で、出征した兵士の家族はその無事を願っていた。福岡県で桶屋(おけや)を営む深田政次は、戦地の息子に手紙を書き続けていた。

「近頃、東條陸相(りくしょう)の思いやりによる南方派遣軍の特別軍事飛行郵便が往復することを知りて、その通信を待ちておる。君が元気であることを聞くたびに、泣いて喜んでおる」(深田政次から息子・文次への手紙)

息子の文次は23歳。家族思いで責任感が強く、家業の跡取りとして期待されていた。2年前に出征。太平洋戦争開戦後は、南方の戦地を転々としながら、両親を気遣う手紙を送り続けていた。

「封書、先日受け取り、いろいろ家の様子も詳しく分かり、非常な安心と心強さを感じました。皆様の健康を祈って、簡単ですがまた後便にて。取り急ぎ。母上によろしくお伝えのほどを」(深田文次から父・政次への手紙)

息子の身を案じていた政次は、このころ、文次の同級生たちが次々と戦死したことを、日記に残していた。

「増田九州男の戦死を聞き、夕方悔やみに行く。佐世保海軍人事部より書留が着いた。田中博の戦死の報」(深田政次日記)

そのさなか。

「7月27日。文次より通信あり。大いに喜ぶ」(深田政次日記)

「開戦以来、各地に転戦して、はや半年は過ぎ、戦果も相当なものでした。目下○○にて、ちょっと暇ができて便りが出されました」(深田文次から父・政次への手紙)

手紙は検閲されるため、具体的な居場所は書かれていなかった。伝えられることは限られ、銃後と戦地とのやりとりには、数か月かかった。

「赤道付近で、さぞ暑いことだろうと想像されると思いますが、長くいると大して暑いようにも感ぜず、案外住み良いようです。まだいろいろ書きたいこともありますが、防諜上、これくらいにして」(深田文次から父・政次への手紙)

この手紙を書いたあと、文次は、後に地獄と言われる戦場に向かっていた。日米両軍が激戦を繰り広げていたソロモン諸島・ガダルカナル島だ。

本土から5500キロ離れたガダルカナル。拡大した勢力圏の最前線として、7月、日本海軍は飛行場を建設した。しかしアメリカ軍は、1万を超える大部隊を島に送り、飛行場を奪取。島を奪い返すために送り込まれたのが、文次たち陸軍の部隊だった。

文次は上陸を前に、両親を心配させまいとする手紙を送っていた。

「戦はこれからですが、しっかり働いていますから、何とぞご心配なく。また長らく、便りが出されませんゆえ、皆様へよろしくお伝えください。母上様にも何とぞ。では皆さん元気で。左様奈良(さようなら)」(深田文次から父・政次への手紙)

8月29日、文次は、ガダルカナルに上陸する。戦闘の舞台になったのは、後に「血染めの丘」と呼ばれるムカデ高地。文次らが身を置いたこの戦いの詳細な映像は、残されていない。

今回、戦いを再現するために地形データを計測、島に保存されていた日本軍の歩兵砲など、戦闘の手がかりを集めた。日本兵、そして、アメリカ兵のエゴドキュメントを収集。元防衛大学校准教授・関口高史さん監修のもと、3D空間の中に80年前の戦闘を可視化した。

日本軍は、9月と10月、二度にわたり総攻撃をかけた。

兵力はアメリカ軍の半分。日本軍は夜間、奇襲攻撃をしかけた。頼ったのは「精神力」だった。

「精神力は物資を制圧できる。火力を過大視してはいけない。火力は稼働しないときは、ゼロである。これに対し、精神力は断絶することはない」(日本軍 古宮正次郎日記)

対するアメリカ側は、銃剣で突撃をしかける日本兵に、マシンガンで応戦した。

「つぎからつぎへと、われわれの機関銃に向かって、波状攻撃をしかけてきた。銃剣と機関銃では、生き残る可能性などないのに。なぜ日本兵は、あんなひどい死に方をしたいのかが、ボクにとっては非常に理解しがたい」(アメリカ軍 マイク・プラスキー回想「<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊」)

文次が所属する部隊は多くの戦死者を出し、一旦はジャングルへ退却した。再び突撃を試みるが、アメリカ軍は、島の至る所に集音マイクを設置。技術力を駆使して、文次たちの動きをつかんでいた。

「砲弾が頭の上から落ちてくる。みぎに行けば砲弾はみぎに、左へよければ左に。不気味な飛来音が近くでする。同年兵の皆川が腹をやられ、内臓が出て死んでいた」(日本軍 梅野博の回想)

「あちこちより、銃弾、耳をかすめる。一斉猛射を受け、前進不能に陥る。耳も破れんばかりの音、雨あられと降る弾丸」(日本軍 佐藤典夫日記 新発田駐屯地 白壁兵舎広報史料館 所蔵)

それでも兵士たちは、突撃を続けた。

「敵弾の中に負傷せる者のうめき、やられたの音。ああ勇士は、次々に傷つき倒れる。おお、また一人、あそこにも一人」(日本軍 佐藤典夫日記 新発田駐屯地 白壁兵舎広報史料館 所蔵)

一方、ガダルカナルで多くの戦死者が出ていると報告を受けていた軍の首脳たち。共同で作戦に当たっていた陸軍と海軍の幹部は、撤退の判断を下さず、互いに責任を押しつけ合っていた。

海軍 宇垣纏 連合艦隊参謀長

「陸軍作戦部隊は、ただただ夜襲一点張りをもって、必成(ひっせい)を自信せるは、大いに研究の余地ありと言うべきなり。要するに敵をあまく見過ぎたり」(「戦藻録」)

陸軍 井本熊男 第八方面軍参謀

「太平洋は海軍の担任であって、陸軍はその支援に過ぎないと考えていた。戦力の半分も上陸させることができず、夜襲による銃剣突撃によらざるを得なかった」(「大東亜戦争作戦日誌」)

先送りされる撤退の判断。ガダルカナルでは、食料の補給さえ困難になり、文次たち兵士はさらに厳しい状況に追い込まれていた。

「約三日、食を取らざるにより、歩くことさえ不能。坂道はフラフラして歩けなかった。一日耳かき一杯の塩と手のひらに一つのかゆには、全く弱る」

「焼そば、てんぷら、うどんが頭の中でいっぱいで、考えようと思っても、ほかのことが浮かんでこない。餓死の話を聞いたことがある。俺は今それになるかもしれないと思想する不安」(峰岸慶次郎日記 「戦史叢書 南太平洋陸軍作戦〈2〉ガダルカナル・ブナ作戦」)

兵士は痩せ衰え、マラリアや赤痢にも苦しめられた。1日に100人の命が失われ、餓えた島、餓島(がとう)と呼ばれる惨状にあった。餓えに苦しみながらアメリカ軍と戦い続けた文次。10月25日、弾丸をこめかみに受け、命を落とす。23歳だった。

死の直前、父・政次のもとに文次からはがきが届いていた。ガダルカナルに行く前に書かれたものだった。

「その後、変わりなく、皆、健在のことと推察します。小生も変わりなく、ますます張り切って奮闘していますれば、他事ながらご休心(きゅうしん)ください。お守りは受け取りました。母上は元気ですか」(深田文次から父・政次への手紙)

文次が亡くなったことを知らない父・政次は、返事を記した。

「とにかく元気いっぱいでご奉公ができているということで、一同大変安心いたしておる。うちも変わりなくやっておるので、ご安心くだされ。ではますますご壮健にて、ご奮闘のほどを」(11月1日 深田政次から息子・文次への手紙)

ガダルカナル島の戦いは、日本の占領地である東南アジアに、思わぬ影響を及ぼした。

アメリカのラジオ放送「大きなニュースが飛び込んできました!連合軍のソロモン諸島防衛が確実な情勢です。我が軍の司令官は、攻撃の成功を確信しています」(CBSニュース)

フィリピンでは、多くの人が短波ラジオをひそかに聞き、戦局がアメリカ優勢になったことをつかんでいた。日本軍の捕虜となっていたフェリペも、その一人。収容所から解放され、自宅に戻っていた。

「フェリペが解放された。25キロ痩せて、まるで骸骨のようだった。少しずつ回復すると、息子は毛布の下で、短波ラジオにかじりついていた。ボイス オブ アメリカを、欠かさず聞いていた」(ビクトル・ブエンカミノ回想録)

太平洋でのアメリカの戦いに鼓舞され、日本軍への反感は、武力蜂起へとつながっていった。

「フェリペは、次第に地下組織とつながりを持つようになった。自分たちで『フィリピンに自由を』というニュースを発行し、ひそかに配る活動に参加していた」(ビクトル・ブエンカミノ回想録)

現地の人々の日記には、ゲリラと日本軍の戦闘が激化していく様子が記録されていく。

「大勢の日本兵が殺された。トラック満載の日本人の遺体が、あちこちからイロイロ市に運び込まれていた」

(イロイロ市在住 アメリカ人女性の日記「World War Ⅱ Family Odyssey」)

「この前の金曜日、姉さんと私が駅の近くを通ったとき、複数の日本兵の死体が列車から運び出される様子を目撃した」(フィリピン人女子高校生の日記「Memories Of The War Years」)

大東亜共栄圏の大義を伝える宣伝部隊を率いていた人見潤介。市民がゲリラに賛同して、日本軍に抵抗する新たな事態に直面していた。

「『ソロモン』付近における米海軍の勝報伝わりために、志気は著しく昂揚(こうよう)し、一般民衆またこれに雷同して協力」(人見小隊「宣伝参考資料」)

占領当初、「東洋平和の日は近い」と記していた人見。この年の終わり、内地に送った手紙には、まったく違う心境がつづられていた。

「お変わりありませんか。僕は毎日毎日はげしい思想の戦いに、血みどろな戦いをつづけています。大東亜戦争の前途はますます多難を極めることでありましょう。我々は骨と皮になっても戦いぬき、必ず勝たねばなりません」(12月 人見潤介 婚約者への手紙)

1942年12月31日。大本営は、ガダルカナル島からの撤退を決定した。軍上層部が、責任を押しつけ合った末の遅すぎた決断だった。

「陸海軍の間には、弱音を吐くことを抑制し、一方が撤退の意思表示をするまでは、他方は絶対にその態度を見せまいとする傾向が顕著であった。そこには天皇に対しての責任と自軍の面子(めんつ)が、大きく首脳部の心を支配していたのである」(陸軍 井本熊男「大東亜戦争作戦日誌」)

ガダルカナルに上陸した3万1400人の兵士のうち、6000人が戦死。飢餓や病気で命を落とした人は、1万5000人に上った。

深田政次はその後も、戦地の息子に手紙を送り続けていた。

「今日まで何の便りもありませんので、今頃どこで奮闘せられておるか。まさか不吉なことはあるまい」(深田政次から息子・文次への手紙)

このあと半年以上がたって、政次のもとに一通の手紙が届いた。

「ちょっと仕事して夕方六時半ごろ、理髪に行く途中、豊子が泣いて手紙を持ちて帰るのに出会うたところ、文次、戦死の公報であった」

「かねて覚悟のこととはいえ、胸を打ったが、落ち着いて理髪を終わり、帰りて家族に知せた。十七年十月二十五日戦死が、約十か月後の今日来るとは思わなかった。嗚呼(ああ)文次の死」(深田政次日記)

1943年2月。

ラジオ「大本営発表。ガダルカナル島に作戦中の部隊は、優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘。その目的を達成せるにより、同島を撤し、他に転進せしめられたり」

大本営はガダルカナル島撤退を「転進」と言いかえ、敗北を覆い隠した。一方で、膨大な戦死者が出ていたことも伝えられていた。

人々は、戦局に暗い影を感じ取りながらも、戦争を支持し続けた。

「日本だって神様ではない。敗戦だってするだろう。むしろその場合は、はっきりとそのように発表してほしい。その方が気も引き締まるし、開戦以来、華々しい戦果に少し酔い気味の国民の気持ちに、よい清涼剤になるのではあるまいか」(主婦・金原まさ子日記)

日本の統治が揺らぎつつある東南アジアで夫が働いていた榊原喜佐子。銃後で国を支える決意を、自らに言い聞かせていた。

「嵐は刻々吹きつのる。いかに世は変わるか!ただ国家の前途のみおもう。女よがんばれ。男をして、後顧のうれいなく働かしめよ」(榊原喜佐子日記)

戦争の大義に酔い、現実から目を背けた大日本帝国。立ち止まることはできなかった。その後、太平洋の島々で部隊は次々に全滅。アジアの人々を巻き込みながら、破滅への道を進んでいく。