証言ドキュメント “沖縄返還史”(前編)

NHK
2022年5月26日 午後5:51 公開

(2022年5月15日の放送内容を基にしています)

美しい珊瑚が息づく、紺ぺきの海に囲まれた沖縄。

この豊かな自然に恵まれた沖縄が、日本に復帰したのは50年前の5月のことでした。

佐藤栄作首相「沖縄は、本日、祖国に復帰いたしました」

1972年5月15日。沖縄の施政権がアメリカから日本に返還されました。

太平洋戦争末期、日米が、激しい戦闘を繰り広げた沖縄。

戦後は、日本から切り離され、アメリカの統治下に置かれました。失われた施政権を、外交によって取り戻そうとした返還交渉。一方でアメリカ軍基地は、返還後も沖縄に維持されることになりました。

NHKが沖縄の復帰50年に合わせて、今年行った世論調査では、本土の人は沖縄の人の気持ちを理解しているかという問いに、全国で66パーセントの人が「理解していない」と回答しました。

復帰は、日本、そして、沖縄に何をもたらしたのか。

私達は、交渉に関わった日米の外交官や指導者たちの証言や史料を発掘。全貌の再構築を試みました。

あらゆる外交的な手段を尽くし、返還を実現しようとした日本。外交官たちは、難題に直面しながら、早期返還をめざし、アメリカは、返還した後も沖縄の基地を自由に使おうという戦略で臨んでいました。

日本を取り巻く安全保障環境は、厳しさを増している中で、基地集中が続く沖縄のあり方が問い直されています。

“戦後最大の外交交渉”と呼ばれた沖縄返還。

指導者や外交官たちの肉声から、その原点を見つめます。

アメリカ、バージニア州にある外交に関する研究施設で今回、沖縄返還交渉に関わった外交官たちのインタビューが大量に見つかりました。外交官たちは、後進の育成のために、交渉の内実を赤裸々に語っていました。

そして、日本でも、研究者たちが外交官に聞き取ったオーラル・ヒストリーが残されていました。さらに、NHKが過去に行った、返還交渉の当事者たちへの膨大な取材記録。音声や映像はあわせて、およそ300時間に及びました。

そこから浮かび上がるのは、国と国がぶつかり合う外交交渉の現実でした。

<1965年 沖縄返還に立ち上がる佐藤>

日本が沖縄返還に向けて動き出したのは、戦後20年となる1965年。経済成長によって復興を果たし、残された最大の課題は、沖縄返還とされていました。

この前年、佐藤栄作が総理大臣に就任。政権公約に沖縄返還を掲げました。

佐藤の首席秘書官だった楠田實(くすだ・みのる)。当時、多くの人が困難と捉えていた沖縄返還に、佐藤は政治生命を賭けていたといいます。

楠田實(総理秘書官)「自分たちの足元を見てみると、沖縄に100万の同胞が、まだアメリカの施政権下にあると。当然、この沖縄返還というものを、政権のひとつのテーマ、目標にすべきではないかと。世の中の人々は、佐藤さんが、沖縄返還と言い出した時に、『佐藤は焼身自殺をする気か』と、そういう声まであったぐらいなんですね」

この年の1月、佐藤は内閣発足早々にアメリカ大統領のジョンソンと会談。会談で佐藤は、沖縄について「施政権の返還が日本国民全体の強い願望である」と表明します。

佐藤栄作首相「沖縄における施政権返還。これは沖縄島民100万の熱願であります。また、日本国民も沖縄と一緒になることを心から願っております」

佐藤は、アメリカ側と調整を重ね、8月、総理大臣として戦後初めての沖縄訪問を実現させました。

佐藤栄作首相「沖縄が本土から分かれて20年。私たちは沖縄90万の皆さんを、片時たりとも忘れたことがありません。私は、沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後が終わっていないことをよく承知しております」

沖縄各地をまわり、返還が日本にとって最大の政治課題であることを内外に印象付けたのです。

沖縄住民男性「大変感激、感激しております」

沖縄住民女性「私たちは日本人である。20年間も置き去りにされているのは、私たちの気持ちは、お父さんを迎える気持ちです。とにかく感激いっぱいです」

一方で佐藤は、沖縄での記者会見でアメリカへの配慮もにじませていました。

佐藤栄作首相「今すぐ(返還)というのは、難しいことだと思いますがね。アメリカ自身、やはり日本の本土を守り、あるいは沖縄の安全を確保している、こういう立場に立っている。その観点から、ただいまの問題の解決を見つけたいと思います」

返還の実現と、アメリカの安全保障政策との間に挟まれていた佐藤。後に秘書官の楠田に、こう語っています。

「返還と極東の安全問題は両立する。これが俺の政治的使命だ」(1967年11月7日 楠田實日記より)

楠田實(総理秘書官)「日本の戦後の政治家として、これからの日本というものを自分がリードしていくために、自分のひとつの政策、政治目標というものを掲げるべきであるという、政治的信念以外のなにものでもなかったと思いますね」

<返還の難しさの起源はサンフランシスコ平和条約>

沖縄の本土復帰という佐藤の悲願。しかし、敗戦国日本にとって、その実現は容易ではありませんでした。後にアメリカ大統領となるニクソンが、1953年に沖縄を視察したときの音声が見つかりました。

リチャード・ニクソン副大統領(当時)「私は嘉手納基地に感銘を受けました。素晴らしい軍事基地です。アメリカ、そして全世界、中でもアジアの人々を守るために必要不可欠な基地です」

アメリカが沖縄に基地を持ち続ける根拠を与えたのが、1951年サンフランシスコ平和条約でした。当時、連合国軍の占領下にあった日本は、この条約で独立。交渉の中で、沖縄の日本への帰属を認めるよう求めていました。

サンフランシスコ平和条約を取りまとめた、ダレスの補佐官をつとめていたロバート・フィアリーは、日本側は、「アメリカは1941年に自ら宣言した、領土不拡大の原則に違反している」と指摘したといいます。

ロバート・フィアリー(特別補佐官)「交渉で日本は、『戦時中、アメリカは戦争で領土を拡大しないと掲げていたじゃないか』と強調しました。一方アメリカは基地だけでなく、沖縄全体を持ち続けたいと強く考えていました」

ソビエトなど東側諸国の反発も恐れていたアメリカ。考え出した答えが、平和条約の第3条でした。

「沖縄を国連の監督下で『信託統治』することをいずれ提案する」

しかし、それまでは、アメリカが沖縄を統治するとしました。そして、提案の期限は明らかにしなかったのです。

ロバート・フィアリー(特別補佐官)「私達は、沖縄を日本から永久に切り離すのではなく、『あくまで必要な期間、アメリカが使用するだけだ』という解決策を出さなければなりませんでした。その結果が、平和条約の第3条でした。私の知る限り、アメリカが信託統治の提案をまじめに考えたことはありません」

こうしてアメリカは沖縄の施政権を獲得。統治下で、アジアの安全保障の要として、基地建設を加速させていきます。

「軍事施設の拡張によって農地は次々と接収され、土地を失った農民は複雑な思いで、米軍の工事で細々と糊口(ここう)をしのいでいます」(読売国際ニュースより)

条約締結後のおよそ10年で、基地の面積は1.7倍に増加しました。さらに冷戦下で、ソビエトや中国をにらみ、核兵器も配備します。

沖縄をアメリカが統治することは、日本本土にとっても利益となったとフィアリーは証言していました。

ロバート・フィアリー(特別補佐官)「日本は軍隊を持たず、持とうという気もありませんでした。しかし、周囲には潜在的な脅威があり、安全保障の点からアメリカ軍を重要視していました。沖縄は日本にとっても重要でした」

<1965年 交渉スタート アメリカの懸念に応える日本>

沖縄訪問で、返還の意志を表明した佐藤。

しかし、外務省で交渉の実務を担った栗山尚一(くりやま・たかかず)は、返還の実現は容易ではないとみていました。

栗山尚一(条約局条約課 調査官)「返還後の沖縄の基地に対して、日本の制約が課せられることによって、基地が自由に使えなくなるということに、アメリカ軍が心配している。ですから、そこをなんとか説得して、軍を、国防省を納得させなければ、返還が実現しないわけで」

1965年には、アメリカはベトナム戦争に本格的に介入。沖縄の基地は、その軍事作戦に使われていました。

ユリシス・シャープ(太平洋統合軍司令官)「ベトナム戦争のため、沖縄を手放すことは考えられませんでした。望めばいつでも基地を使用できるという権利を持ち続けたいと願っていました」

これに対し佐藤政権は、アメリカの信頼を得ることで交渉を前進させようとしたと、秘書官だった楠田は語っていました。当時、世界中で反対運動が行われていたベトナム戦争。佐藤政権は、いち早くアメリカ支持を表明しました。

楠田實(総理秘書官)「たとえばジョンソン大統領時代は、北爆(北ベトナムへの爆撃)を支持して、なんだとたたかれる。『ベトナムを訪問する』と言ったら、マスメディアは一斉に反発して、非難をしたけども、あえてそういうことをしてもね、自分の人気というよりも、むしろその目標は沖縄返還」

さらに、ベトナム戦争や、日米安保条約に反対する国内の動きにも対応していきます。

アメリカが、こうした動きは日米の安全保障のあり方にも深刻な影響を与えると警戒していたからです。その後、全国に拡大した大学紛争を抑え込む法律を制定した佐藤。その念頭には、沖縄とアメリカがあったと楠田はいいます。

楠田實(総理秘書官)「沖縄返還交渉を成功したのはね、大学紛争をまとめたことに原因があると、僕は思っているんですよ。それは、佐藤政権というのは、それだけ内政もしっかりしていると。そういう信頼感をアメリカ政府が持ったということが、沖縄返還交渉の成功につながったんじゃないかと」

これに対してアメリカでは、沖縄を手放したくない軍部とは別に、日米関係を維持するためには、返還はやむを得ないという考えが生まれていました。

駐日大使を務めたエドウィン・ライシャワー。すでにこの時点で、交渉を進めるための準備を始めていたと証言していました。

エドウィン・ライシャワー(駐日大使)「日本では共産主義の動きが盛んでした。『沖縄統治が続けば、日本は離れていくだろう。それなら沖縄を日本に返還し、友好を保つようにしたほうがいい』。幸運にも、沖縄返還に関しては、アメリカは日本よりも先を行っていました」

1966年、アメリカは国務省や国防総省、統合参謀本部の幹部らによる「琉球作業グループ」を結成。返還に関する調査をスタートさせました。

グループがまとめた報告書では、「アメリカ軍基地の機能を維持するためには、必ずしも施政権は必要ではない」と指摘。佐藤政権で返還交渉を進めたほうがアメリカの有利になると、冷静に分析していました。

アレクシス・ジョンソン(駐日大使)「日本では、“沖縄返還”は支持を得やすい政治テーマでした。佐藤首相や自民党にとっても重要なテーマでしたが、もし社会党の政権公約になれば、アメリカには得策でないと考えました」

<沖縄 復帰の思い高まる>

本土から切り離され、アメリカの統治下に置かれていた沖縄。人々の本土復帰への思いは、大きなうねりとなっていきます。

1962年に沖縄の議会、琉球立法院は全会一致で、国連に向けたアピールを決議しました。

翁長議員「日本領土内で住民の意思に反して、不当な支配がなされていることに対し、国連加盟諸国が注意を喚起されることを要望し、沖縄に対する日本の主権が、速やかに完全に回復されるよう、尽力されんことを強く要請する」(1962年2月1日立法院定例議会より)

沖縄の悲願の背景には、アメリカに虐げられ続けた人々の痛みがありました。

統治下で、アメリカ兵による事件の被害者たちを取材した映像が残されていました。

「現場に来て、車を止めて、彼らが『いくらですか?』と聞いたんです。僕は『2ドル95セント』と返事しました。左手で釣り銭を取ると同時に、右手で突いてきたんです。本当に僕は何でアメリカ人を乗せたかと」(乗せた米軍人の客に刺されたタクシー乗務員の事件・1970年放送より)

「もし私が米兵に飼われている猫か犬であれば、火をつけたかと思っているんです。確かに私たちを、人間として見ていないということだけは、はっきり言えます」(工場で作業中、背後からライターで火をつけられた事件・1970年放送より)

元琉球政府の職員の自宅から、アメリカ軍の起こした事件や事故の記録も見つかりました。終戦直後から復帰に至るまでの27年間、およそ800件分。裁判権や捜査権のなかった当時の状況を伝えたいと、保管し続けてきたといいます。

天願浩辰さん(元琉球政府法務局職員・天願盛夫さんの息子)「本当に占領された島で、敗戦国の住民のありさまが、これには記されているなと感じました」

史料からは、事件や事故は、基地周辺で頻発していたことがわかりました。

事件の中で、多くを占めたのが「傷害」と「強姦」。傷害の被害の多くも、女性を乱暴しようとしたアメリカ兵に抵抗した際の被害だったことも明らかになりました。

知人女性が米兵に殺害された男性「夕方の7時ごろ、アメリカ兵が来て、アメリカ兵は手を捕まえて、山に連れていこうとして。『よしてくれんか』と言ったが、『ノー、ノー』と。アメリカ兵が『ノー、ノー』とした。鉄砲みつけたからね、もう仕方がないから」

自分たちの平和な島を取り戻すための、本土復帰。その先頭に立ったのが、沖縄県祖国復帰協議会の屋良朝苗(やら・ちょうびょう)でした。

沖縄戦で娘を亡くした屋良。「自分たちは日本国民である」と復帰を強く訴える音声が残されていました。

屋良朝苗「我々は、今日の生活を豊かにするばかりじゃなくして、私たちのあり得べき本当の姿というものを、取り戻さなければならない。それは、我々は日本国民であるから。差別がないようにね、こういうのが本来の立場であります。だから復帰運動があり、復帰に対する叫びがあり、要求がある」

<1967年 返還時期決定>

沖縄、そして、佐藤の悲願。

初めての沖縄訪問から2年。佐藤は、交渉を外務省だけに任せず、自らの意志を伝える特使をアメリカに送り、返還実現の可能性を探っていきます。

アメリカの政界に多くの友人を持つ、国際政治学者の若泉敬(わかいずみ・けい)。

若泉は、大統領補佐官であるウォルト・ロストウと会談。ロストウは3つの条件を提示したといいます。

ウォルト・ロストウ(大統領補佐官)「1つ目はベトナム戦争がアジアの未来にとって、大切な戦争であることを認識し、できる限りアメリカに協力することです。2つ目は、対日貿易赤字の緩和です。そして3つ目は、アジア開発銀行を通じて、日本がアジアの反共諸国に財政援助をすることでした」

若泉の報告を受けた佐藤は、沖縄返還のために、ロストウの提案をすべて受け入れる決断を下したといいます。

そして1967年11月。

佐藤栄作首相「両3年のうちに、米国との間に返還の時期について、合意に達しうるものと確信しております」

日米首脳会談で、2、3年以内に沖縄返還の時期を定めることが合意されました。

会談に同席していた駐日大使のアレクシス・ジョンソン。その時の様子をこう証言しています。

アレクシス・ジョンソン(駐日大使)「インドネシアへの資金援助について、大統領は佐藤と別室で話をしました。大統領は佐藤の腕を強くつかみ、このことがいかに重要かを強調したそうです。そして私たちの部屋に戻ってくると、『佐藤と約束した』と大声で言いました。彼の部下は困惑していました」

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