新・幕末史 第2集 戊辰戦争 狙われた日本

NHK
2022年10月26日 午後0:01 公開

(第1集のまとめ記事はこちら)

番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

(2022年10月23日の放送内容を基にしています)

地球規模の視点から新たな歴史をつづる「新・幕末史」。第2集は、世界が日本を狙う中、繰り広げられた戊辰戦争に迫ります。

幕末。江戸から明治への転換点となった時代。世界各地に眠る史料を読み解き、新しいグローバルヒストリーとして描き出します。1853年、ペリー提督率いる黒船が来航。日本は世界の渦に巻き込まれることになりました。この難局に立ち向かったのが徳川幕府です。第1集では、徳川幕府と世界の超大国・イギリスとの日本を巡るしれつな駆け引きを浮き彫りにしました。第2集は戊辰戦争(1868~1869年)です。1867年、徳川慶喜は大政奉還を行い天皇に政権を返上しますが、薩摩・長州を中心とする新政府と旧幕府勢力との間で戦いが起こります。この時点でイギリスは徳川を見限り、新政府を支持する方針を固めます。一方の徳川は、イギリスに並ぶ大国の一つ、フランスの支援を受けていました。強国同士のパワーゲームの中、1年5か月に及ぶ泥沼の内戦が始まります。

1868年1月27日。戊辰戦争勃発。京都の南、鳥羽・伏見で最初の戦いが始まります。これまで、近代兵器を有する新政府軍が、時代遅れの徳川・旧幕府軍を圧倒したと伝えられてきました。実際の戦いはどうだったのか。

付近が激戦地となった寺には、旧幕府軍のすさまじい攻撃の跡が残されています。

妙教寺 松井量学さん「位はい棚から砲弾が飛び込みまして、こちらの柱に飛び込んで貫通したということになります」

これがそのときの砲弾です(上写真)。旧幕府軍が使用したのは、四斤山砲(しきんさんぽう)。フランスで開発されたばかりのものでした。幕末、徳川幕府はフランスと手を結び、軍事顧問団を招きます。そのため、近代化された軍隊を持っていたのです。

相対する新政府の西郷隆盛。思わぬ苦戦を強いられます。

新政府軍指揮官 西郷隆盛「徳川はここで、潰さんにゃならん。どげな手を使っても、勝つ…」

この状況に、重大な危機感を抱いた国がありました。イギリスです。イギリスの特命全権公使ハリー・パークス。

駐日特命全権公使 ハリー・パークス「徳川とフランスの関係は危険だ。西郷たちに勝ってもらわねば」

当時、イギリスは新政府への支持を打ち出そうとしていました。戊辰戦争勃発直後、ヴィクトリア女王が天皇に宛てて書いた手紙には、徳川幕府に代わり新政府を承認する方針が示されています。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授 アントニー・ベストさん「イギリスは、自国にとって有益なパートナーを探していました。幕末日本においては、自由な貿易に協力してくれるのかどうかです。その点でイギリスは、幕府が国内的にも対外的にも、問題だらけであると感じていました。ですから戊辰戦争が起きると、薩長による政権交代が好ましいものだと考えたのです」

イギリス・ロンドンにある国立公文書館に、戊辰戦争勃発直後、パークスが送った報告書が残されています。そこには、新政府の苦境の打開につながる策がつづられていました。

「日本の内乱について本官は、各国代表と会談を持つことにした」

戊辰戦争勃発からまもない2月16日。パークスの主導で、各国の代表が集まります。イギリス、フランス、アメリカ、プロイセン、オランダ、イタリア。あわせて6か国。フランス同様、旧幕府と関係を密にする国も含まれていました。オランダです。最新の大砲を搭載した開陽丸を、幕府に提供。海軍の強化に関わってきました。そして、アメリカ。開陽丸を上回る新型艦の売買契約を、幕府と結んでいました。開国以来、各国が正統な政府として承認していたのは徳川幕府であり、武器援助を通じて自国の影響力を高めようとしたのです。一方この時点では、薩摩・長州を中心とする新政府は、国際的には反乱勢力に過ぎません。

こうした状況でパークスが各国に呼びかけたのは、国際法のある取り決めについてでした。外国が、内戦当事者に対し軍事的な関与を行わない「局外中立」の宣言です。局外中立が適用されれば、旧幕府・新政府の双方に対し、各国は軍事援助ができなくなります。これに対し、徳川を援助し続けてきたフランスの立場は異なりました。

議論に及ぶこと3日間。しかし、パークスの意向が事態を動かします。

パークスが持ち出したのは、公使たちにとって最重要の使命、自国民の保護です。局外中立と大きく関わるものでした。

当時、貿易が許されていた港は、横浜や長崎など4か所。現地の外国人の保護は、従来幕府が責任を持っていました。ところが戊辰戦争の勃発によって、開港地は、新政府と旧幕府に分かれて支配されます。そのため、もし一方を援助すれば、反対の勢力が外国人の保護をやめてしまう恐れがあったのです。

アメリカが局外中立に賛成を表明します。

「徳川に軍艦を引き渡せば、きっと新政府側が支配する兵庫や長崎が制圧される。そうなれば、我が国民の生命・財産が危険にさらされるだろう」(1868年 駐日アメリカ公使の報告書)

1868年2月。6か国は共同で、局外中立を宣言。

戦局が大きく変わります。アメリカは、最新の軍艦の引き渡しを凍結。フランスも、旧幕府軍に送っていた軍事顧問団を撤退させます。こうした情勢の中、前将軍・徳川慶喜は新政府への恭順を決意します。

1868年5月。江戸無血開城。260年以上続いた徳川の時代は、名実ともに終結したのです。

江戸を手に入れた西郷たち新政府。イギリスの望む政権が、日本に誕生したかのように見えました。しかし、ここで戦局が一変します。東北や新潟の諸藩が、奥羽越列藩同盟を立ち上げます。もともとは、新政府と対立する会津・庄内藩を守るための軍事同盟でしたが、明治天皇につながる皇族を擁立。強力な地方政権へと姿を変えます。

当時のニューヨークタイムズの記事です。

「今、日本には二人のミカドがいる」

「北の同盟は、独立した政権として君臨するだろう」(1868年10月18日 The New York Times)

新政府と奥羽越列藩同盟。二つの政権をめぐり、イギリスに出遅れていた国々が動き始めました。その中で今、ある国に注目が集まっています。プロイセン。ヨーロッパの新興国で、後のドイツ帝国です。19世紀後半、強力な指導者のもと、ヨーロッパの強国に生まれ変わろうとしていました。

プロイセン王国の首相、オットー・フォン・ビスマルク。彼が推し進めたのは、いわゆる鉄血政策。軍備増強です。周辺諸国との戦争に相次いで勝利し、ヨーロッパで領土を拡大していきます。

プロイセンが次に目を向けたのが、東アジアでした。

近年、ビスマルクが戊辰戦争のさなかの日本から受け取った機密文書が見つかりました。戊辰戦争の情勢について、プロイセンの意外な見通しが記されています。

「東北の同盟軍は、新政府軍に対して勝利を収めるだろう」(1868年 駐日プロイセン公使の報告書)

プロイセンが伝えた奥羽越列藩同盟。その戦いとはどんなものだったのか。

新潟県の朝日山は、列藩同盟軍が、押し寄せる新政府軍を迎え撃った激戦地です。戦いの実態に迫るため、今回、小千谷市の協力でかつての戦場を調査しました。

金属探知機を使い、地中を探ります。調査を始めてわずか1時間。何か反応がありました。

見つかったのは、しいの実型の銃弾です。幕末軍事史に詳しい研究者に分析してもらいました。

日本大学教授 軍事史 淺川道夫さん「ミニエー銃の弾ですね。エンフィールドですね、恐らくね」

エンフィールド銃とは、同時代に起こったアメリカ南北戦争の主力兵器です。2日間の調査で、10発の弾丸が見つかりました。

崖の上に陣地を築いた列藩同盟軍。弾丸はその下にありました。つまり、列藩同盟軍が新政府軍に打ち込んだものである可能性が高いのです。

淺川さん「出てくる弾が大体同じというのは、それだけ装備が統一されているということでもあります。弾薬備蓄もやっていたんだろうなと思います。近代的な戦法をいろいろと駆使しているということだと思います」

列藩同盟はいったいどうやって大量の軍需物資を手に入れたのか。手がかりとなる史料が残されています。「オルガン弾きのライバル」と題された当時の風刺画です。イギリスのパークス(左)が、新政府を意味する菊の紋のオルガンを奏でています。一方、反対側の外国人が奏でるのは徳川の葵の紋が入ったオルガン。列藩同盟側を支持していることを示しています。この人物こそ、マックス・フォン・ブラント。あのビスマルクが日本に送ったプロイセン代理公使です。

フロリダ州立大学教授 武器流通史 ジョナサン・グラントさん「1868年の戊辰戦争でいったい何が起きていたのか。すでにフランスの軍事顧問団は撤退し、日本にはいなくなりました。ここで新たに開かれたビッグチャンスは、プロイセン人のためにあるようなものです。彼らはこのことをよく分かっており、東北諸藩に武器の供給ビジネスを開始したのです」

ブラントと列藩同盟は、どのように結びついていたのか。それは、国際法の隙を突く巧妙なものでした。局外中立の宣言がある以上、各国政府は表立った軍事援助はできません。そこで重要な役割を果たしたのが、武器商人たちです。個人の商売は認められていたからです。

列藩同盟が支配する新潟。プロイセンはイタリアなどとともに、新潟を箱館・横浜・兵庫・長崎に次ぐ貿易港として開かせます。その結果、新潟には、武器ビジネスで一獲千金をもくろむ外国の商人たちが押し寄せたのです。

列藩同盟も武器補給の拠点として新潟を重視し、各藩の主力部隊がその防衛にあたることになりました。

新潟から列藩同盟に流れ込んだ武器は、どれほどの量だったのか。ある外国商人の記録です(上写真)。たった一人の商人だけでも、ライフルおよそ5000丁に相当する金額の軍需物資を取り引きしていました。背景にあったのは、3年前に終結したアメリカ南北戦争です。200万ともいわれる膨大な武器余りが発生。これらが流れ込んだのが、戊辰戦争で揺れる日本だったのです。

そうした中で、戦場を一変する破壊的な兵器が持ち込まれます。ガトリング砲です。

長岡藩家老 河井継之助「異国より取り寄せた最新のガトリングじゃ。これまでの銃なぞ、比べものにならんぞ」

ガトリング砲は南北戦争で初めて実戦に使われました。複数の砲身が回転し、弾丸を連射できるようになっています。

この兵器が開発されたアメリカで、当時の設計図をもとに復元されたガトリング砲を使い、その威力を検証しました。標的に用いたのは、厚さ20cmの氷です。毎分200発、小銃を持った兵士100人分に相当する弾丸を発射できることが分かりました。

フロリダ州立大学教授 武器流通史 ジョナサン・グラントさん「ガトリング砲は南北戦争で実際に使われ、皆が注目していました。戊辰戦争が起きたとき、さまざまな勢力が日本で武器の売買を始め、すぐに武器市場ができました。欲しいものは何でも手に入れることができます。戊辰戦争はまさに世界の動きと結びついた戦いだったのです」

戦場を一変させた兵器・ガトリング砲は、当時日本には少なくとも3門あったといわれ、そのうち2門が列藩同盟の手に渡りました。海外からもたらされた武器によって、戊辰戦争はかつて日本人が経験したことのないような近代戦になっていたのです。こうした武器の流れを引き起こす原因の一つになったプロイセン。ある土地への野望があったことが、最近の研究で分かってきました。それが、北の大地・北海道です。

ドイツ・ベルリンにある国立民族学博物館に、幕末の蝦夷(えぞ)・北海道でプロイセンが集めたコレクションが眠っていました。先住民族・アイヌの衣装です。あのプロイセン公使・ブラントが、みずから2度も蝦夷調査を行い持ち帰ったものです。そこには、ある計画が秘められていました。

ブラントの報告書です(下写真)。

「蝦夷の気候は北ドイツと似ており、米・トウモロコシ・ジャガイモ、あらゆる農作物が成長し、150万人のドイツ移民を受け入れることができるでしょう。蝦夷こそが植民地にふさわしいと申し上げます」

シカゴ大学教授 グローバル経済史 ケネス・ポメランツさん「新興国のプロイセンは、イギリスなどの大国と同等に扱われることを望み、そのためには、東アジアで利権を持つことが必要不可欠だと考えました。プロイセンにとって戊辰戦争は、まさに絶好の機会です。この時代、大国として扱われたいのであれば、植民地を望むのは当然のことであり、プロイセンにとってこの計画は、おかしなものではなかったのです」

ブラントが立てた植民地化計画は、巧妙でした。実はそのために近づいたのが、東北諸藩だったのです。機密文書の中に、細かく色分けされた蝦夷の地図が残されていました。

ドイツ連邦公文書館「青が会津藩の管理地域です」

幕末、幕府の直轄領だった蝦夷の警備を担ったのが、会津や庄内など東北諸藩でした。東北では、プロイセンとつながる外国人が暗躍します。

ハインリッヒ・シュネル。もとは公使・ブラントの通訳でしたが、戊辰戦争を機に東北に潜入。武器取引などを通じて、列藩同盟の信頼を勝ち取るようになります。

長引く戦乱で、会津藩と庄内藩は多額の軍資金を必要とするようになります。プロイセンは、そんな彼らに金を貸しつける代償として、蝦夷の権利を譲り受けようとしたのです。

通信が未発達だった当時、外国公使には大きな権限が与えられていました。ブラントの植民地化計画に対し、プロイセン本国はどう応じたのか。機密資料の撮影が、特別に許可されました。

ドイツ連邦公文書館軍事文書館「ここにビスマルクの決断が記されています」

「ブラントに会津・庄内藩との交渉開始の権限を与える」

しかし、この計画の前に、ある国が大きく立ちはだかります。新政府を後押しするイギリスです。このまま外国商人と東北諸藩の武器取引が続けば、新政府の勝利は見通せません。パークスの部下で、イギリスの対日政策に大きな影響を与えていた外交官、アーネスト・サトウは、新政府に対して、新潟での武器取引をやめさせる策を授けます。

駐日イギリス外交官 アーネスト・サトウ「我が国は、新政府の新潟封鎖を支持します」

新潟港の海上封鎖。外国船の侵入を防ぐため、新政府が軍艦を派遣するというものです。これまで西郷たちは、外国からの反発を恐れ、新潟港の封鎖に慎重でした。しかしイギリスは、海上封鎖は国際法上認められた権利であり、他国の批判を恐れる必要はないと伝えたのです。

1868年9月。新政府は新潟港を封鎖、電撃的な上陸作戦を行います。新潟の守備についていた列藩同盟の主力部隊が壊滅しました。

11月6日、会津藩が降伏。まもなく東北全土が、新政府に下ります。こうして、プロイセンの蝦夷植民地化計画は実現せず、歴史の闇に消えていったのです。

蝦夷をめぐるプロイセンの植民地化計画。日本側に記録は残されておらず、海外の史料によって見えてきた幕末の裏側です。

このあと戊辰戦争は、新たな局面を迎えます。旧幕府艦隊を率いた榎本武揚が、江戸湾から北上を続け、箱館・五稜郭を占領。新政府と対じします。

そのとき、日本の北方で別の外国勢力の動きがありました。北の大国・ロシアです。揺れ動く世界情勢の中、戊辰戦争・最後の戦いが始まります。

蝦夷・箱館沖。徳川の残存勢力が集結します。旧幕府艦隊は、奥羽越列藩同盟が降伏したあとも、海上で独自の抵抗を続けていました。その旗艦が開陽丸。オランダでつくられた世界屈指の攻撃力を誇る軍艦です。鋼鉄製の最新の大砲が備えられ、新政府の海軍力ではとても太刀打ちできません。

艦隊を率いる榎本武揚。ヨーロッパへの留学経験をもち、国際情勢にも通じていた彼は、独自に諸外国と交渉を始めます。

榎本の動きに危機感を抱いたのが、イギリスのパークスでした。その背後にあったのは、ロシアの動向です。このころ、ロシアが企てたのが南下政策です。南へと軍を進め、ユーラシア大陸各地でイギリスと衝突していました。戊辰戦争が勃発すると、ロシアは徐々に日本に迫り始めます。日本との国境が未確定だった樺太・サハリンに対し、住民を移住させる「ロシア化」に着手していました。イギリスが恐れたのは、ロシアと榎本が結びつき、蝦夷に南下してくることです。

当時、日本にいたイギリス人が描いた風刺画です。中央にいるのが榎本武揚とされます。背負う旗の先端には、ロシア帝国の紋章である双頭のワシ。イギリスの焦りが現れています。

ウィリアムズ大学 日露関係史 ビクター・シュマギンさん「戊辰戦争は、ロシアにとって本当に都合のいいときに起こりました。このチャンスを生かすため、ロシアはまず日本との国境が確定していない樺太で勢力を拡大しようと動きました。それはイギリスにとって大きな脅威だったんです」

一刻も早く戦争を終わらせ、日本に強力な統一国家を誕生させなければならないパークス。そのために切り札となる船が、横浜に停泊していました。新型艦・ストーンウォール。もとは、幕府がアメリカ政府から購入。その後、幕府が崩壊し、引き渡しが凍結されたままになっていました。

図面からは、榎本の開陽丸を上回る性能が浮かび上がります。船体には、最大で厚さ14cmもの鉄板が張り巡らされていました。砲撃をものともしない防御は、まさに不沈艦です。この船を、新政府に引き渡すことができれば、戦いを有利に進めることができます。しかし、そのためには、あるものが大きな障害となっていました。外国政府による軍事援助を禁じたあの「局外中立」です。

1869年1月18日。再び開かれた外国代表の会議で、局外中立を撤廃するためパークスが動きます。

しかし、イギリスへの対抗心を燃やすプロイセンなどは、榎本が抵抗を続ける以上、局外中立を守るべきだと主張。これに対しパークスは、榎本の置かれた状況を巧みに利用します。「徳川将軍が降伏した以上、家臣も降伏すべきだ。榎本は、反乱分子に過ぎない」と。

イギリス・パークス「内戦は終結した。新政府こそ、唯一の合法政府だ」

1869年2月、イギリスの呼びかけによって結ばれた局外中立は、イギリスによって撤廃されました。

6月。ストーンウォールを旗艦とする新政府艦隊が、箱館を攻撃。対する榎本艦隊も迎え撃ちます。戦いはどのように進んだのか。外国人の記録が残されていました。

「ストーンウォールには、イギリス人たちが乗り込んでいる」

局外中立が撤廃され、イギリスも新政府への支援が可能になったのです。新政府艦隊は、ついに榎本艦隊を壊滅させます。

6月27日。榎本武揚、降伏。榎本の言葉です。

「我らは、薩長に負けたのではない。イギリスに負けたのだ」(1869年 榎本武揚がアメリカ領事に語った記録)

1年5か月にわたった戊辰戦争は、イギリスの思惑どおり、新政府の勝利に終わります。

時に力で、時に国際法を駆使し、迫り来る外国勢力。幕末の日本は大きな力の前に翻弄されながらも、前に進もうとしました。そして、日本は新たな時代を迎えます。

オーストリアのウィーンで見つかった明治初期の日本を写した大量の原板ネガです(上写真)。欧米列強の影響から抜け出すため、大国の力を積極的に取り入れようとする日本の挑戦が映し出されていました。

開業を間近に控えた横浜駅の写真です。1872年10月、イギリスから資本提供を引き出し、新橋・横浜間の鉄道が開業。後に鉄道網は国中に張り巡らされ、人やモノの流れは加速。アジアでいち早く産業の近代化に成功します。

鉄道と時を同じくして建てられたのが、富岡製糸場です。フランスの技術で築かれました。生産された高品質の絹は最大の輸出品となり、日本の経済成長を押し上げていきます。

そして1889年には、大日本帝国憲法を発布。手本にしたのはドイツ。ビスマルクがつくった憲法でした。この憲法により、天皇と議会のあり方が定められ、日本は近代的な立憲君主制国家として歩み始めます。

シカゴ大学教授 グローバル経済史 ケネス・ポメランツさん「幕末の日本は、長期にわたり内戦状態に陥り、外国の介入の脅威にさらされた時代です。戊辰戦争を乗り越えたからこそ、日本は変化を遂げ、前に進むことができました。次の時代、日本は独立したプレーヤーになります。そして、世界のグレートゲームを動かしてゆくのです」

幕末日本。地球規模の覇権争いに直面しながらも、新たな道を切り開きました。私たちは幕末からつながる時代を、歩み続けています。

<資料提供>

Staatliche Museen zu Berlin Ethnologisches Museum Dahlem

Otto-von-Bismarck-Stiftung

Cody Firearms Experience

横浜開港資料館 東京大学史料編纂所 妙教寺

Bundesarchiv, R 1401/173

Bundesarchiv, RM1/42  RM1/571

The National Archives UK

U.S. National Archives and Records Administration

Naval Heritage and History Command

Service historique de la Défense - Ministère des armées

Österreichische Nationalbibliothek

Bad Aussee Kammerhofmuseum

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国立公文書館 外務省外交史料館