鯨獲りの海

NHK
2022年7月3日 午後9:50 公開

番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

https://movie-a.nhk.or.jp/movie/?v=zj52g517&type=video&dir=XAw&sns=true&autoplay=false&mute=false

(2022年7月3日の放送内容を基にしています)

宮城県沖170キロ。ある漁が続けられていた。

鯨獲りだ。

3年前から、再開されている日本の商業捕鯨。

今回私たちは、再開後はじめて、日本唯一の捕鯨船団の長期航海に密着を許された。

古来から続く捕鯨。ある人は『残酷』だといい、ある人は『文化』だという。

価値観が多様化する現代。なぜ鯨を獲り続けるのか。

そして、そこに、何があるのか。

知られざる鯨獲りの記録だ。

<全員で鯨を探す>

私たちが乗船したのは、捕鯨船、第三勇新丸。捕鯨会社の漁船だ。

船に乗り込むのは17人。北海道から沖縄まで全国から集う。年齢は57歳から18歳。はじめての漁となる若者もいる。航海は53日間。これを繰り返し、1年の半分を洋上で過ごす。

かつて日本では1万人以上が、長期の捕鯨航海に出ていた。しかし今は170人ほどだ。獲る鯨の数は、国によって定められている。

「いよいよ操業が始まっていきます。ニタリクジラを一応80頭予定なので、一日大体1.8頭くらいのペースですかね」

日本人は、どのように、鯨を獲ってきたのか。

漁は東北沖の排他的経済水域内で行う。

探すのは、暖かい海水と冷たい海水のぶつかる「潮目」だ。海面に白い筋、潮目が現れた。その真下では、栄養分が巻き上げられ、鯨の好む小魚が集まるという。

鯨は全員で探す。水平線近くおよそ14キロ先まで見渡す。その居場所は、ウミドリが教えるという。鯨が好むカタクチイワシなどを食べるからだ。

「鳥山ですね。獲物を狙うために、ぐるぐる回るんですね。そういうところが狙い目でもありますね」

最後の手がかりは「ブロー」、潮吹きだ。

「ブロー」「まあまあなんじゃないか?」「いいんじゃないか?」

「永井が見た時はブロー大きかった?」「なんか大きいようなことは言ってましたけどね」

「3本線見てください」「うわ、でっか」「こいつ丸いぞ」

「スターボル(右転舵)30度」

ニタリクジラだ。大きいものは体長14メートル、体重20トン以上にもなる。泳ぐのは、光が届く、水深200メートルまでの海。周囲の音に敏感で近づきにくいとされる。特徴は、頭に浮かぶ三本線。

イワシやオキアミを食べ、60年ほど生きる。主に熱帯域から温帯域にかけ生息。夏が近づくと、えさを求め回遊し、日本の海に入ってくると見られている。

「ボースン」と呼ばれる甲板長(こうはんちょう)が、指揮をとりはじめた。

「ポール(左転舵)」

ボースンの声を頼りに、鯨に向けて舵をきる。

「ああ、また潜るんじゃない?」「潜るぞ」

「そのまま見てろよ」「まっすぐ行ってるぞ」

追う手がかりは、海面に浮かぶ、リングだという。水中で尾びれを振ったときに現れる「鯨の足跡」だ。

「この辺におると思うけどな、あのでっかいやつ」「まだあんまり動いていないと思うんだけど」

「ポール30度」

「ブローが見えてこなくなっちまったな」

足跡が消えた。ニタリクジラは、息継ぎなしで最長20分間潜り続ける。

「長いな、やっぱ」「はーい、長いっすね」「左けつです」

「ポール一杯」「あそこにいったかー」

「今左けつに出た奴なんですかね」「あれだべね」

「あー、くそ」「ぐるっとまわってんな」

クジラが、船の下を通り、後方にまわった。

「このままゆっくりしてくれればいいんだけどなー。あー、また入るなこれ」

「ああああー、潜るんじゃないかまた」

「ボースン、新しいの探しますか」

出番を待つ男がいた。「砲手」の槇公二(まき・こうじ)。乗組員から敬意を込めて「てっぽうさん」と呼ばれる。

槇「ぐーっと潜るじゃないですか。消えるんですね。あれはすごいですよ。ぐーっと下潜って、後ろに行ったりするみたいですね。そこにいたのに、見えなくなる。人の目をくぐって逃げていくんじゃないですか。賢くなかったら、鯨だって、はるばる遠くから泳いでこないですよね」

<一撃で鯨を仕留める「パンコロ」>

「はい、3本線見えました」

砲手の槇が準備に入った。

捕鯨砲で銛(もり)を放つ。明治から続くやり方だ。

この日の鯨は、潜って逃げるだけではなかった。最高時速34キロの船を引き離そうとする。

「フルスピード!」

槇は、ただ一撃にこだわる。鯨を苦しませないためだという。

胴体を見せるのはおよそ1.5秒。銛が届く時間を差し引くと、0.5秒ほどで狙いを定めなければならない。

「左30度 もうすこし前」「スターボル」

「左15度くらい」「もう少し」「ちょいスターボル」

「命中」「エンジンスロー」

「ポールいっぱい」「ウインチオーライ」「はい、ストップエンジン」

銛は鯨の急所を射抜いていた。

ただ一発の銛で鯨を仕留めることを、おのれに課してきた槇。その一撃を、「パンコロ」と呼ぶ。

槇「自分らは『パンコロ』って言うんですけど、銛一本だけで、一発で仕留める。やっぱり、それだけ苦しむじゃないですか。早く楽にさせてやったほうが、苦しまないですよね。ただ的を撃つだけじゃないんですね。生き物を相手にしてるんだから、真剣に向かっていくということです。命をいただくわけですから」

巨大な船が近づいてきた。母船日新丸。日本最大の漁船だ。併走するこの船で鯨は解体される。

「捕獲した個体は12.8メーター。17.9トンです。本日もお疲れさまでした。また明日もよろしくお願いします」「お疲れさまでした」

槇「捕獲して、無事母船にあげる。そこまでが我々の仕事です」

母船から、何かが届いた。

鯨の肉だ。

「刺身が一番。生の刺身は、冷凍とは全然違いますよ」

初漁の日は、全員で鯨の肉を食べ、祝うのが習わしだ。

甲板員18歳「あんなでっけー魚、あんまり、とり方とか知らなかったんで、銛で撃つ、みたいな感じだったんで。血が出て、あ、痛いのかなぁとか、いま、どういうふうに泳いでたのかなぁとか、はてなばっかりですよね、頭の中」

<命を敬い 命を生かす>

クジラはどのように「食料」へと姿を変えられるのか。

私たちは、91人が乗り込む母船にカメラを入れることにした。

鯨は、大包丁と呼ばれる乗組員によって、およそ40分でさばかれていく。

仕留めた鯨は一切無駄にしないという。1頭からおよそ7トンの肉がとれる。刺身やステーキとして食べられる赤肉。

プルプルとした食感が特徴の畝須(うねす)。

ひげは靴べらに、油は石けんに。ほとんどすべてを生かす。

さばいた肉は、船内にある工場から、全国のスーパーや居酒屋などにおろされていく。

国内の消費量は、捕鯨が最盛期を迎えていた60年前にくらべ、100分の1、年間2000トンだ。

母船には、捕鯨会社とは立場の異なる人たちの姿もあった。日本鯨類研究所の調査員たちだ。将来の捕獲頭数決定に生かすため、鯨を全頭調べる。耳あかや、目の水晶体からは年齢がわかる。若い鯨が多ければ、今後の繁殖が期待できるという。

全国6か所の沿岸と、沖合で行われる日本の商業捕鯨。

国は、資源量に影響を与えないためとして、年間の捕獲頭数を設定。ニタリクジラは、187頭と定められている。

<日本人と鯨の長く不思議な関係>

日本人にとって、鯨とはどのような存在だったのか。

「それでは航海安全を祈念して、参拝します」

太古から生きる鯨は、人々にとって、人知を超えた自然の象徴であり、畏れ敬う対象だった。「豊漁をもたらす」と、まつられてきた一方で、災いを呼び込む不吉な予兆として怖れられもした。そして、鯨は貴重な食料でもあった。日本が、鯨の多い南氷洋で捕鯨を始めたのは昭和初期。戦後、食糧難の時代、欠かせないタンパク源となった。

「荷揚げされた肉は、南氷洋の塩の香も抜けぬ翌日から配給され、魚不足に悩む都民に一息つかせました」(昭和20年代の資料映像より)

鯨獲りたちには脈々と受け継いできたある掟がある。

「2頭いるようです。ちょっと差がありますので、もしかしたら親子かもしれません」

生まれてから半年だけ母親と過ごすニタリクジラ。

「ちっさいや」「3本線見えました。なんか親子みたいですね」

「だめだめ」「ちょっと違うの探しますか」

少しでも親子鯨と疑えば、撃たない。

槇「子どもが大きくなっていって、またわれわれにかえってくるわけですから。まだ母乳を飲んでるんだったら、えさの取り方とか知らないでしょうからね。親をとっても、子どもが死んでしまう。ただ無駄に殺すわけじゃないし、食べもしないのに殺さない。そういうことはしないですね」

<日本の商業捕鯨 その“現在地”>

近年、日本の捕鯨には、世界から厳しい目が向けられてきた。鯨の捕獲量をめぐる議論が続けられていた1970年代。海外では、反捕鯨の動きが活発化する。

1988年、日本は商業捕鯨を中断。南氷洋などで鯨の資源量を調べる「調査捕鯨」を始めた。(※南氷洋での調査捕鯨は1987年から)

「これ放水銃です。過酷な日々でしたね」

船底の倉庫にその時代の名残があった。

調査捕鯨に参加していた第三勇新丸は繰り返し妨害を受けた。

「今衝突しました!」(日本捕鯨研究所 提供映像より)

「なにか光るもの。水かけろそれ!」(日本捕鯨研究所 提供映像より)

政府は国際捕鯨委員会IWCに、南氷洋での商業捕鯨再開を訴えてきたが、認められず、2019年に脱退した。近海に限って行われるようになった日本の商業捕鯨。国から、補助金や基金からの貸付を受けながら、捕鯨会社は自立を目指している。

乗組員「日本人の中でも、獲っていい、という認識がないというか。日本近海で獲ってるというのは、まだわかんないですよね。浸透してないんじゃないですかね」

現在、IWCに加盟する48か国が捕鯨に反対している。容認、または持続的な利用を支持する国は40か国だ。

そして、日本を含めて、5か国が商業捕鯨をおこなっている。

53日間の航海。1年の半分を洋上で過ごす乗組員たちは、どんな思いで、鯨を追うのか。

乗組員「寝てる間も、陸の夢見るんですよ。一緒に子どもたちと寝てる夢を見るんです、最初の頃って。目覚まし鳴ったら、『あ、船?うそ?』とか思って。さっきまで家にいたのにって。うわー、船なんだ、出航してんだって。帰るの何月?5か月後?うわーとか思って」

大包丁「本当に誇れる仕事だと思ってるんで。鯨肉の文化ですよね。一回なくなってしまったら、復活させるのは相当大変だと思うんですよ。若い子たちに継承していくっていうのが、一番理想だと思うんですけどね」

20代以下の乗組員は船団108人のうち34人。

甲板員20歳「地元も海と山しかない田舎なんで、地元でも働ける海系のことはしといた方がいいなと思って。そんな感じで入ったくらいですね。就職してすぐやめて、帰ってくるのが嫌なんですよ。『すぐやめてきたか』みたいに言われるの嫌じゃないですか。先輩とかすごいですよね。何でも知ってるし詳しいし、そういう人になりたいです。何も言われなくてもスパスパ動けるようになりたいです」

毎月1日と15日は鯨の焼き肉を食べる。長期の航海で薄れがちな、日にちの感覚を保つためだ。

<”命“対”命“ 受け継がれる「パンコロ」> 

砲手の槇は23年間、最後に鯨を仕留める重責をになってきた。

天候の変わりやすい海の上。雨や風、波の高さなど、条件は毎回違う。

「右40度、75メーター」「スターボル30度」

槇「あーごめん、手前やった」

槇「思うように獲れない時もあるし。もうみんなが見てるわけですよ。なんか後ろの声が、ハァーッとかため息ひとつが聞こえるわけですよ。それがすごく気になるわけで、外したら外したら、とかあんまり考えるとなかなか撃てないし。周りの人には何もできないんですよ。もう本人の気持ち、気持ちひとつですからね、引き金ひとつ」

槇には、背中を追い続けてきた男がいる。

南氷洋での商業捕鯨時代に砲手を務めていた田中省吾。戦艦大和の元砲術長に学び、生涯で8052頭の鯨を仕留めた。

槇が田中から「最も大切」だと伝えられたこと。それが、鯨を苦しませないために一撃で仕留める「パンコロ」だった。

槇「『お前ら、当てることができたら、その先を行かないとだめだ。鯨に2発も3発も当てるんじゃなくて、1発で当てて息の根を止めろ』っていうことなんです。同じ“命”対“命”なんですよ。だけど、この命を頂かなきゃいけないんです。頂いて、自分らが生きていく。敬意とかそんな感じですかね」

槇はまもなく、砲手を退こうと考え始めていた。長期の航海で砲手を務める体力がなくなってきたという。

後継者と考えている男がいる。見習砲手の大向力(おおむかい・ちから)だ。80頭の捕獲をめざすこの航海で、槇から30頭を任されていた。

水産高校を卒業し、捕鯨船に乗り込んだのは18歳。ある日突然、砲手の訓練を受けてみないかと言われた。

大向「自分でいいのかなという気持ちですよね。やっていけんのかなという不安も、半分ありましたね」

「はい3本線ありました」「長さはありますね」「次出たら行きますか」「ポール30度」

「命中」

パンコロにはならない。既にクジラは弱っている。

大向「二番銛、撃った方がいいかな?2番構えまーす」

槇「いや、いい、これライフルやるから」

大向「はい」

槇「キャプテン、一回ライフルやりますから、銛大丈夫ですから」

鯨を一刻も早く楽にするため、槇がある決断をした。取り出したのは、ライフル。砲手の槇に、使うことが許されている。鯨が船の近くにいるため、急所を確実に狙える手段を選んだ。

大向「デッドです」

大向「申し訳ないとしか思わないですけどね。鯨に対しても、みんなに対してもですけどね」

槇「何も言うことないです。言い出したらキリがないです。射撃に関しては、よっぽどじゃないかぎり言わないです。言うと変わるんです。あまり気にしすぎると。いやもう見つけてるんです。何が悪かったかは自分で分かってる」

大向は、日々の射撃を記録し続けていた。

船と鯨の速度、角度、距離。その時の条件をもとに、パンコロを追い求めてきた。

大向「思ったとこに銛が飛ばないってことは、なんかのずれが生じてるわけですからね。まあ、あと、努力しないと鯨は獲れません。絶対に」

出港から40日。翌朝、大向は、最後の一頭に臨む。

岩手県沖、330キロ。

「3本線見えました」「もうすこーし」

「右5度200メーター」「ちょいポール」

「右10度、100メーター」「左5度、100メーター」「左10度、95メーター」

「左15度、90メーター」「もうすこーし」「左5度、90メーター」「左10度、85メーター」

「命中」

大向「ストップエンジン」

大向が放った一撃は、鯨の急所を射貫いていた。

槇「ああよう撃ったなー、いいとこ撃ったなー。それをパンコロでやったでしょう。もう立派に成長してるんですよ」

大向「今度は自分らが引き継いで、獲っていかなければなりませんからね。ましてや、あんな簡単な大砲一門もって、獲るわけですから。原始的ですけど。昔からやり方って変わってないですもんね。時代遅れかもしれないですけどね」

古来から続く捕鯨。

ある人は『残酷』だといい、ある人は『文化』だという。

私たちがこの海で見たのは、ただ生きるために、鯨と向き合う人々の姿だった。

槇「落ち着かないですか、海って。波がサーサーサーって。生きてるって感じしないですか。自然界の中に、あー自分も生きてるんだなあって」

命を敬い、命をいただく。53日間の航海が終わる。