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中国新世紀 中国共産党 一党支配の宿命(前編)

NHK
2021年10月7日 午後4:57 公開

番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

(2021年10月3日の放送内容を基にしています)

<中国共産党 その深淵>

中国の建国以前から、共産党の中枢を歩み続けた百寿の男。あの毛沢東の秘書も務めた李鋭(り・えい)。この時、100歳。一貫して党の民主的運営を訴え続けてきた。歴代の最高指導者たちへの直言も辞さない気骨の人物だった。

李鋭「中国は、以前の姿に戻ってしまいました。国、党、そして思想の面において、独立の精神を認めるべきで専制的な統制をやってはならないのだ」

このインタビューの2年後、李鋭は亡くなった。

李鋭は建国の前、1946年から70年以上にわたって日記を書き続けてきた。そこには、中枢にいなければ垣間見ることができない中国共産党の姿が刻まれていた。

中国にとっての新世紀が始まろうとしている。創立から100年を迎えた中国共産党。

平等社会の実現を掲げて、革命を成し遂げ、建国。民衆の熱狂は繰り返され、時に悲劇は惨劇となった。そして、豊かさへの飽くなき渇望は、劇的なまでに繁栄を実現させた。

あつれきや矛盾を抱えながら、類をみない大国となった中国は、次の100年、世界を巻き込みながら、どこへ向かうのか。

「中国新世紀」。中国共産党100年の宿命に迫る。

革命を成し遂げた「建国の父」毛沢東。市場経済の道を開いた「総設計師」鄧小平。いま、習近平は、2人の治世を引き継いで権力を強化し続けている。

異論を排する強権的な統治。国際秩序への挑戦ともとれる強硬な姿勢。

しかし、その統治スタイルで新型コロナをいち早く抑え込み、世界に圧倒的な力を印象づけた。

異形の大国は、どこから来て、どこへ向かうのか。

70年以上に渡って、綴られた日記があぶり出す中国共産党の深淵である。

<存在感高まる中国 強まる警戒感>

中国共産党創立100年を迎えた中国。人民解放軍ら7万人が参加する記念式典が、華々しく挙行された。

習近平国家主席「中華民族の偉大なる復興という中国の夢は必ず実現できる。中国共産党万歳」

習近平国家主席が掲げるのが「中国の夢」だ。

「社会主義現代化強国」を目指し、建国100年を迎える2049年に、あらゆる分野で世界の先頭に立つと宣言している。GDP国内総生産は、世界第2位でアメリカに迫る。パンデミックの渦中にあって、世界経済の中国への依存度はさらに高まっている。

その中で、いま、中国の姿勢に世界の警戒が強まっている。去年6月、反政府的な動きを取り締まる「香港国家安全維持法」を施行。

海外からの批判を尻目に、デモ参加者や民主活動家、メディア関係者らを次々と摘発してきた。冷戦崩壊後、唯一の超大国となったアメリカとの対立も激しさを増している。

米中高官協議(2021年3月18日)より

ブリンケン国務長官「中国の行動への深い懸念について話し合いたい。新疆ウイグル自治区や香港、台湾、サイバー攻撃や同盟国への経済的な圧力などだ」

楊潔篪(よう・けつち)政治局委員「言わせてもらうが、あなたたちは、中国に強い立場からものをいう資格はない。中国とうまく付き合いたいなら、互いに尊重するべきだ」

<党の本質が綴られた李鋭の日記>

史上、類をみない形で大国となった中国の本質とは何なのか。

2年前。アメリカ・スタンフォード大学フーバー研究所に中国共産党元幹部・李鋭が遺した膨大な史料が寄贈された。毛沢東の秘書を務めるなど、党中枢に身を置き続けた李鋭は、公的な党史編さんの責任者も務め、膨大な内部資料も蒐集していた。

李鋭は、建国以前から書き綴っていた日記とともに、貴重な史料も残した。その数、1047点。700万字を超える。史料を寄贈した娘の李南央(り・なんおう)は、父・李鋭の依頼を受け、誰もが読めるようにするため、15年かけて、すべての史料を書き起こした。

李南央「これは歴史が私に与えた機会と責任だと感じました。やはり共産党とは何か、把握する必要があります」

<中国共産党が掲げた革命の理想 革命前夜、そして建国へ>

70年にわたって綴られた李鋭の日記は、中国を内側から見た貴重な記録である。そこには、毛沢東、鄧小平、そして、習近平、現在の中国を形作った指導者たちの赤裸々な姿が綴られている。

李鋭が日記を書き始めたのは、建国前の1946年。革命家・毛沢東に心酔しきっていた。

「昨夜、毛主席の夢を見る。まだ残像あり。それほど太っていなかった」(李鋭日記・1947年3月4日)

「毛主席が書いた『遊撃戦論』について勉強すべきだ。いかに毛沢東思想に精通するかだ」(李鋭日記・1947年3月6日)

当時は、結党から25年、辺境の延安を拠点に、理想国家の実現を目指していた。この地で、毛沢東が掲げた理想とは、どのようなものだったのか。

中国共産党の存在を世界に知らしめたアメリカ人ジャーナリスト、エドガー・スノーは、毛沢東を直接取材し、共産党が目指す社会の姿を描写していた。

エドガー・スノー著『中国の赤い星』より

「彼らは占領した各町で、多くの“奴隷”を解放し、“自由・平等・民主主義”を説き、官吏や大地主などの財産を没収し、それを貧乏人に分配した。この人のもつ非凡さは、数千万の中国人、とりわけ農民の切実な要求を総合し、表現するのに驚くほどたけていることにある」

虐げられてきた貧農たちを優遇し、民主的で、自由な社会の実現を目指して、支配地域を広げていった共産党。李鋭をはじめ、多くの若者が、その理想に惹かれていった。

「(毛沢東が書いた)文章を読み始めたことで、ようやく目からうろこが落ちたように悟った。共産党は、『人民に奉仕する姿勢』で取り組んでいたのだ」(李鋭日記・1947年3月23日)

「このような偉大なる智慧と、偉大なる勇敢な聖人の革命は、当然成功するに違いない」(李鋭日記・1947年10月27日)

そして、1949年10月。ついに、その日を迎える。中国共産党によって、中華人民共和国が建国された。

これは、建国後、数十万の市民を動員した再現映像である。社会主義の勝利を世界に宣伝するため、当時のソビエトが撮影していた。

清朝が倒れて以降、混乱を極めていた大陸が統一された。

<暴力による階級闘争が統治の根源 土地改革の実態>

中国共産党が、当時の5億4千万もの人民を掌握した大きな原動力は、建国前から断行していた「土地改革」だった。

中ソ合作記録映画より

地主を小突く貧農「お前(地主)は俺たち貧乏人の肉を食って、俺たち貧乏人の血を飲みやがって」

地主を批判する貧しい農民。共産党は、地主の土地や財産を貧農に分け与え、農民を解放した。この土地改革の根底には、毛沢東が掲げた「武装革命路線」という思想があった。

李鋭の遺したノートを見ると、毛沢東は、土地改革を階級闘争と位置づけ、断行していたことがわかる。

「毛主席は言った。反動階級を消滅させるには、凡俗な人を大量に消滅させるのではダメだ。中心人物を殺す。反革命には幹部がいる。そいつを殺さなければダメだ。幻想を抱いてはいけない」(李鋭の業務ノートより)

李鋭は、土地改革の実態を写真とともに記録していた。そこには、暴力をいとわない階級闘争で、統治を進めようとする幹部の言葉が記されていた。

「地主を殺すことを決めた。殺す勇気がないのは、後退する思想とみなす。階級闘争は激しいほどいい。人を殺すのに人数や老若男女は関係ない。大事なのは目的だ」(幹部の報告を記した李鋭のメモより)

広大な国土で生きる5億4千万もの民を統治するための犠牲。このいびつな熱狂は、その後も幾度となく繰り返される。後年、李鋭は、それが共産党のエネルギーの源泉だと綴っている。

「毛が熱狂的に支持されるのは、中国古来の封建的な社会と農民的な土壌に理由がある」(李鋭日記・1991年12月16日)

「毛は暴力的な大衆運動を高度に発展させ、生涯、階級闘争に明け暮れた。彼の死後も、その悲惨とも言える状態は残された」(李鋭日記・1998年11月19日)

<個人独裁への道 廬山会議>

建国から10年の1959年。42歳の李鋭は、毛沢東の秘書に抜擢される。

この頃、毛沢東が打ち出していたのが、「大躍進運動」である。15年でイギリスに追いつくことを掲げ、鉄鋼や食料などの大増産を呼びかけたのだ。

1955年7月「農業合作化の問題について」より

「農村には、新しい社会主義的な大衆運動の高まりが訪れようとしている。ところが、われわれの一部の同志ときたら、まるで纏足をした女のように、よろよろと歩きながら『速すぎる、速すぎる』と愚痴ばかりこぼしている。後先のことを考えてはならず、大胆に運動を指導していくべきだ」

しかし、大躍進運動の実態はさんたんたるものだった。

工業化を進めるために、「土法炉(どほうろ)」と呼ばれる粗悪な製鉄設備が、中国全土に作られた。大躍進運動の成功をうたうプロパガンダ映像の影で、男たちは、炉を燃やすために山という山をはげ山にし、女たちは、鍋や釜を炉にくべた。そして、農村は疲弊していった。

幹部たちの間でも、この運動に懐疑的な意見が出始めていた。この年、大躍進運動を検討するための会議が開かれた。いわゆる「廬山会議」である。その後の中国共産党のあり方を決定づける会議となった。

李鋭は、1か月半に及んだ会議に参加し、事細かにメモを取っていた。李鋭が遺した記録は、廬山会議の詳細を記した唯一のものだ。

この会議で、国防相の彭徳懐(ほう・とくかい)が失脚させられる。

人民解放軍での人望も厚く、飾らない人柄で、民衆からも慕われていた。彭徳懐は、会議が開かれる前、地方を視察し、食料の生産量が報告されているほど上がっていない現実を目の当たりにしていた。

彭徳懐は、毛沢東に政策の見直しを求め、内々に手紙を書いて進言していた。すると、毛沢東は激高し、会議の場で、彭徳懐を一方的に批判し始めたのだ。

「どうして手紙などよこしたのか?路線問題のたびに、お前はいつもぐらついていた。批判されたことを根にもって、死ぬほど恨みを募らせていたのだから、この先も何をしでかすかわかったもんじゃない」(廬山会議・李鋭の記録より)

毛沢東の怒りを目の当たりにしたその他の指導者たちには、かつての恐怖の記憶が蘇っていた。

1940年代に、毛沢東が仕掛けた思想改造運動、「整風運動」である。自らの思想から、少しでも逸脱する幹部たちに徹底的な自己批判を迫り、時に粛清も辞さなかったのだ。整風運動で自己批判を強要された周恩来や劉少奇。

廬山会議では、元々、大躍進運動に懐疑的だったにも関わらず、彭徳懐を批判する側に回った。

劉少奇「他人を非難することで、機を見て徒党を組むのだ。彭徳懐のような人間を友にはできない」(廬山会議・李鋭の記録より

周恩来「(彭徳懐は)傲慢で、上(毛沢東)に盾突いている。頭を垂れて、人民のために働かなければならない」(廬山会議・李鋭の記録より

彭徳懐ら「反党集団」と見なされた人々は、政治的地位を奪われた。大躍進運動の不備について、毛沢東に直接意見したことがあった李鋭。徹底的に批判され、党籍を剥奪された。

廬山会議以降、党内には毛沢東の声と、それに従う声だけしか聞こえなくなった。

李鋭は「下放」、つまり、地方での強制的な重労働を課された。餓死寸前まで追い詰められたこともあった。下放先で、廬山会議について口にすると、今度は牢獄に入れられた。李鋭は、精神の安定を保つために、ひたすら書き続けた。怪我をした時、支給された薬品と綿棒を使い、読むことが許されていたレーニンの著作の隙間に、文字を綴ったのだ。

大躍進運動の誤りは是正されず、餓死者は、3千万人を超えたとも言われている。李鋭が釈放され、北京に戻るのは、廬山会議から20年が経ってからのことだった。

<階級闘争の悪夢 文化大革命>

個人崇拝が極まる中、毛沢東による新たな階級闘争が、惨劇を引き起こすことになる。文化大革命である。

「造反有理」。「反逆には道理がある」をスローガンに毛沢東は、共産党そのものを刷新するよう、若者たちに呼びかけた。運動は瞬く間に全土に波及し、若者たちの集団・紅衛兵は『毛沢東語録』を手に熱狂し、既存の権威の打倒を叫び、旧跡などを破壊し尽くした。「反革命分子」とレッテルを貼られた党幹部や知識人も、徹底的に糾弾された。

66歳になっていた毛沢東は、大躍進運動の後、国家主席の座を劉少奇に譲っていた。その劉少奇に、毛沢東は警戒心を抱くようになっていた。この頃、記録されていた劉少奇を写した映像には、バツ印がつけられている。毛沢東の本当の目的は、劉少奇の打倒だった。

文革による混乱を収拾しようとしていた劉少奇は、逆に、実権を握ろうとしていると汚名を着せられ、全職務を解任、党からも除名された。そして、拘束中の度重なる暴行によって、命を落とした。

廬山会議で失脚した彭徳懐ら、党の最高クラスの幹部たちも、屈辱的な仕打ちにさらされ、多くが殺害された。

文革の一次史料を独自に集め、被害の実態とその背景を研究してきた宋永毅(そう・えいき)。

宋自身、文革中、5年半、投獄された経験をもつ。宋が発掘した史料のひとつ、広西省チワン族自治区の文革の調査記録には、党の幹部が7年かけた調査は8万4000人余りがおぞましい殺りくによって、命を落としたと結論づけている。

宋永毅「土地改革の時代から中国共産党は、中国全土で階級を分ける体制を構築しました。『黒五類』(地主・富農・反革命分子・悪質分子・右派)に分類されると政治的賤民(最下層)になるのです」

毛沢東が掲げる「武装革命路線」では、この「黒五類」は、打倒されることを宿命づけられていた。

宋永毅「ある階級を扇動し、別の階級(黒五類)に闘争をしかけ、殺りくする。この殺りくは、罪に問われないばかりか、功績として認められました。これは、中国共産党では建国から存在する『革命の伝統』であり、文革中に始まったことではないのです」

建国以来の側近たちを次々と追い落とし、最高権力者の地位に留まった毛沢東。繰り返された階級闘争を生き延びたのが、周恩来だった。

長年、首相として国政にあたり、日本やアメリカとの外交交渉の顔でもあった。アメリカ、ニクソン元大統領の側近だったキッシンジャーが、桁外れの知性と能力をもつと評した人物だった。

80年代、中国共産党中央文献研究室に務め、機密資料をもとに、周恩来の生涯をまとめた高文謙(こう・ぶんけん)は、周恩来をして、毛沢東に終生付き従うしかなかったことは、中国共産党が生んだ、ひとつの悲劇だと見ている。

高文謙「1975年、周は医療担当者と記念撮影する時、『わたしの顔にバツをつけないでほしい』と突然言い出したのです。これは、文革中の言葉です。文革中に打倒された人は、すべて顔にバツがつけられると言われました。つまり周はそれを想像したのでしょう。彼は良い首相になろうとはしましたが、毛沢東という独裁的な指導者の補佐をせざるを得ず、私に言えるのは、周恩来は悲劇的な人物だったということだけです」

死を前にして、周恩来は、毛沢東に1通の手紙を送っている。

毛主席に宛てた手紙の書き写し(1975年6月16日)より

「今日に至るまでの40年。主席の懇切な指導を頂きながらも、過ちを繰り返し、罪を犯しさえ致しました。晩節を全うするだけでなく、自分の考えをいくらかは、それらしい形にして、お見せしたいと存じます。周恩来」

中国共産党は、文革による死者は40万人、被害者は1億人に及ぶと推計したが、正確な数は、未だ分かっていない。後に、党史を編さんするために文革の10年を調査した李鋭は、こう総括している。

「この党は、如何なるものか。それは、いわば、“Personal Cult" だ。文革の十年とは、邪教が跋扈(ばっこ)した10年に他ならない」(李鋭日記・2002年10月29日)

「問題の根源は、やはりこの体制にある。多くの人は、一生、党の中に閉じ込められ、目覚める機会もない。だから、どうしても変えなければならない」(李鋭日記・2005年12月18日)

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