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開戦 太平洋戦争 ~日中米英 知られざる攻防~(前編)

NHK
2021年8月18日 午後1:04 公開

番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

(2021年8月15日の放送内容を基にしています)

<知られざる「ポイント オブ リターン」>

80年前。1941年12月8日。

中国の最高指導者が、臨時首都を置く重慶で日本の真珠湾攻撃の一報を聞きました。

中国国民政府を率いた蔣介石。この日の日記には、こう記されていました。

「本日、我が国の抗日戦略の成果は頂点に達した」(蔣介石日記1941年12月8日)

日本の完膚なきまでの敗戦で終わった太平洋戦争。

これまで、日本とアメリカの関係を軸に検証されてきた「開戦に至る道程」に、新たな光が当たろうとしています。近年、蔣介石が残した膨大な日記や書簡などが相次いで公開されたことで、日本や中国で、多角的な分析が進みました。そして、太平洋戦争開戦に、中国が決定的な役割を果たしていたことが明らかになったのです。

蔣介石は、大量の書簡を使った外交戦略や、巧みなプロパガンダによって、大国の日中戦争への介入を周到に引き出そうとしていました。

今回、私たちはイギリスやアメリカでも開戦にまつわる一次資料を独自に入手。そこからは、日本が開戦を踏みとどまる機会は何度もあったことも明らかになりました。 しかし、当時の総理大臣・近衛文麿を始め日本は、中国の動向や世界の潮流を見誤り、自ら破滅へと足を踏み入れていたのです。複雑な国際情勢や、指導者たちの思惑が交錯する中で、敷き詰められていった開戦への道。

なぜ、日本はその道を歩き続けてしまったのか。日中米英の知られざる攻防です。

<全貌公開・蔣介石日記>

84年前、1937年7月7日。現在の北京郊外の盧溝橋で起きた偶発的な発砲事件が、8年に及んだ日中戦争勃発のきっかけでした。

日本は、この6年前に起きた関東軍の謀略による満州事変によって、満州国を建国。それ以来「北支」と呼ばれていた華北地方に勢力圏を拡大していきました。

当時、中国では「軍閥」と呼ばれる、地方の軍事指導者が割拠。共産党もその存在感を高めていました。中国統一の道半ばだった蔣介石は、当初、日本との戦いには消極的でした。しかし、盧溝橋事件の勃発を受けて、ついに日本への徹底抗戦を宣言したのです。

2006年から公開が始まった蔣介石の日記。その日記を、満州事変以降15年分の記述をすべて書き取った研究者がいます。中国人研究者、大東文化大学の鹿錫俊(ろく・しゃくしゅん)教授です。

蔣介石の日記はアメリカのフーバー研究所で保管されています。しかし、そのごく一部がパンフレットに掲載されているだけで、コピーや撮影は遺族の意向で許されておらず、その解読は進んできませんでした。

しかし、鹿教授は、10年にわたって研究所に通い、日記をすべて筆写。中国と日本、双方の一次資料をつきあわせ、蔣介石の戦略を読み解いたのです。

鹿教授「中国の力が弱くて、また内部はばらばらという状態の中で、『一対一では日本に勝てないけども、第三国の力を利用できれば日本に勝てる』というのが蔣介石の発想です。これがいわゆる蔣介石の“国際的解決戦略”という発想です」

日中戦争勃発から太平洋戦争開戦まで、4年におよぶ日記には、中国の最高指導者の思惑と苦悩がつづられていました。

「イギリスもアメリカもソ連も日本と戦いたくない。日本が自滅の道を歩まない限り、我が国の活路は切り開けない」(蔣介石日記1941年8月9日 上星期反省録)

<上海事変 “国際化”という罠>

盧溝橋事件の1か月後。第二次上海事変が勃発します。これが、蔣介石が巧妙に準備した最初の戦いになりました。

日本の総理大臣、近衛文麿は、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」、すなわち、中国を征伐して懲らしめる、という声明を発表。陸軍内では、「大軍をもって一撃を加えれば、中国はすぐ降参する」という「対支一撃論」という考え方が大勢を占めていました。

戦前から活躍した映画監督・亀井文夫が制作した上海戦の記録映画には、圧勝を思わせる映像とともに、無数の日本軍兵士の墓標が映し出されています。実は、日中戦争最初の苦戦となった上海戦では、死傷者は2か月で2万人近くに上りました。日本軍に打撃を与えた上海戦における蔣介石の戦略を示す貴重な資料が残されていました。中国軍の上海戦の指揮官の一人が戦後、証言した記録です。

張発奎(ちょう・はっけい)指揮官の証言「我々が上海事変(813事変)を起こしたのであり、その逆ではない。国際的な干渉を引き起こすのが狙いだった」

欧米列強の領事館や外国人居住区が集まる国際都市だった上海。蔣介石は精鋭部隊をあらかじめ投入。トーチカと呼ばれる防御陣地で日本軍を待ち構えていたのです。アメリカで上海事変の資料を発掘した北海道大学の岩谷將(いわたに・のぶ)教授。

「ここまで明確に、上海戦を中国側が準備をして始めたということは、これまでの回想などでも述べられてはいなかったので、そういう意味では非常に新しい」

上海をあえて戦場にすることで、日本の行為を広く海外に伝えようとしたという蔣介石。太平洋戦争開戦に至るまで、この極東での戦いを国際化し、大国の介入を引き出すことが、一貫した戦略の根幹でした。

岩谷教授「いわば中国側の戦略に日本がうまく乗せられたと。その戦略につかまってしまって、非常に苦しい戦いを強いられるということになるという意味では、これがその後の日中戦争に与えた影響は、非常に大きかっただろうというふうに思います」

思わぬ苦戦を強いられた日本軍。当時、検閲されていた兵士の手紙が見つかりました。

「今度の戦争は新聞で見るような話ではありません。敵の陣地は堅固でなかなか前進することかできませんで、不利の戦争です」

「ほとんど飲まず食わずの戦にて、このようなことなら、いっそひと思い、戦死したらと何度思ったか知れません」

国際社会を味方につけるための、蔣介石の布石は周到でした。通信を所管する部局に出した命令書も残されていました。当時、高額だった海外への記事の電信料を大幅に割り引くよう、指示していました。外国人ジャーナリストたちに「中国の民衆が犠牲になっている」という情報を、世界に発信させることが狙いでした。

しかし、上海での戦いを思惑通りに進めていた蔣介石の日記に記されていたのは、意外にも「苦悩」でした。

「国際情勢は、徐々に不利な状況に陥りつつある。それでも、極東の情勢に変化を引き起こさなくてはならない」(蔣介石日記1937年12月5日)

<世界は日本の侵攻侵略を“黙認”した>

第一次大戦後、世界一の軍事力と経済力を誇るようになっていたアメリカ。大統領はフランクリン・ルーズベルトでした。アメリカは、伝統的に他国の戦争に介入しない「孤立主義」を堅持し、当時もそれを貫いていました。

1937年11月。中国の訴えをうけて、日本への対応を検討する国際会議が開かれました。しかし、日本に対して非難声明は出されたものの、具体的な制裁には踏み込みませんでした。会議を主導するアメリカが、制裁の回避を主張。ほかの国も、これに同調したのです。

アメリカ国務省の政治顧問・ホーンベックが作成した国際会議に関するメモが残されています。

「アジアにおける平和と安定の回復を望むなら、政治上ならびに、経済上の安全が保証されているという感覚を日本に与えなければならない」

蔣介石が望んだ日中戦争の国際化は、実現しませんでした。そして、中国側に20万近い犠牲者を出し、国際都市・上海は陥落しました。

<「ポイント オブ リターン」和平工作の誤算>

蔣介石に相対していた近衛文麿は、事態の収拾を急いでいました。

当時の陸軍は、国力を増強させていたソビエトを最大の脅威とみなし、その対応が最重要課題でした。

満州国建国を機に、国際連盟から脱退していたため、世界からのさらなる孤立も避けなければなりませんでした。国際会議と同時期、日本はドイツを仲介とする和平交渉に乗り出します。

抗日政策の放棄や、上海地方を非武装地帯にすることなど、中国も妥協可能と思われた和平条件を水面下で伝達しました。この和平交渉の実務を担っていた外務省東亜局長、石射猪太郎(いしい・いたろう)の日記が残されていました。そこには交渉への強い決意が記されていました。

「中国側にこちらの本心が伝わるか。この和平工作に東亜の形勢がかかっている」(石射日記 昭和12年10月28日)

国際社会の介入を引き出すことに失敗していた蔣介石も、この条件をもとに交渉に応じる姿勢を示していました。しかし、その直後、和平交渉をめぐる状況が一変します。日本の派遣軍が首都・南京を一気に攻略したのです。新聞やラジオは、「敵国の首都占領」を大々的に報道。国民の間には戦勝気分が広がりました。

高揚したのは国の指導者たちも同じでした。南京陥落の翌日に開かれた、「大本営政府連絡会議」。日中戦争を機に近衛が設けた、事実上の最高国策決定機関です。強気だったのは、作戦に責任を持つ軍人ではなく閣僚たち。和平条件をつり上げるよう強硬に主張したのです。そして、蔣介石との交渉を推し進めようとしていたはずの近衛もそれを追認しました。

和平交渉の実務を担っていた石射。強硬な条件を、改めて中国に示すことになった際の心境をつづった石射の日記です。

「仲介のドイツ大使は『蔣介石はこれでは聞くまい』と。その通り。こんな条件で蔣が講和に出てきたら、彼はアホだ」(石射日記 昭和12年12月22日)

日中戦争の早期収拾を目指していた日本。その最初の機会を、自ら失いました。

これを受けた蔣介石の日記です。

「もし日本が柔軟な条件を提示していれば、政府内で対立が起き、動揺すると懸念していた。いまこのような過酷な条件を見て安心した。我が国は、これを受け入れる余地はない。政府内で対立が起こることもない」(蔣介石日記1937年12月26日)

そのころ、中国の政府内では、蔣介石の日本への強硬な姿勢に反発が強まっていました。しかし、日本が和平条件をつり上げたことで、指導者としての足場を固め直したのです。

そして、1938年1月。日本はさらに強気の態度に出ます。いわゆる第一次近衛声明です。

「帝国政府は、爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」

近衛のこの声明は、中国国民政府との交渉の道を自ら断つものでした。しかし政府内にも、この対中方針に異論はありました。

和平交渉に関わっていた、あの石射猪太郎が、外務大臣に提出した意見書が残されていました。

「『国民政府を相手にせず』という声明は、中国政府に対しては痛快な一撃を与えたし、それは日本の国民が好む政策ではあるから、政府として非常に楽な道ではあるが、このような見栄をきっていても、それは田舎の宮相撲みたいなものだ。つまり、中国国民政府を相手として話し合いをする以外、事態打開の道はない」

当初、「対支一撃論」を掲げていた日本軍は泥沼の戦いに突入していきます。日本軍は、主要な港湾都市や内陸部の中枢都市を次々と占領。

しかし、蔣介石は広大な国土を盾に、険しい山岳地帯に位置する重慶に臨時首都を移して、対抗したのです。国際社会が中国に味方するまで耐え抜くという「長期持久戦」が、蔣介石の新たな戦略でした。日中戦争がはじまって1年あまりで100万の兵力を投入することになった日本軍。その後も作戦のたびに多くの将兵が大陸にかり出されました。

蔣介石の日記を10年かけて精読した鹿教授。日本の外交戦略が、何度も中国の窮地を救っていたと指摘します。

鹿教授「本当に中国を成功させたのは誰か。私は日本ではないかと思いますね。すなわち重要な転換点において、日本は中国を自分の誤りでもって助けたのではないか」

<奏功し始めた蔣介石の「国際化戦略」>

長期持久戦に戦略を転換した蔣介石。最大の課題は、アメリカの関心を極東に振り向けることでした。蔣介石のアメリカへの宣伝戦略。その貴重な資料が見つかりました。アメリカ駐在の中国大使・胡適(こてき)が、本国に送った電報です。

「本国から送ってもらった2万ドルの資金は、スティムソン委員会などに使い、良い成果が出ている」

スティムソン委員会とは、元国務長官が名誉会長を務める「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」という団体でした。全米の主要都市に支部を設け、1万人を越える会員を抱えていました。

このころ中国の主要都市は、日本軍から激しい爆撃を受けていました。民間の被害も甚大でした。臨時首都・重慶への最も激しい爆撃では、死傷者は2日間で8000人に上りました。しかし、日中戦争の国際化を図る蔣介石に、この窮状が逆に追い風となっていきます。中国の宣伝経費が渡っていたスティムソン委員会は、大量のビラをアメリカの主要機関に配布。アメリカの姿勢が、日本の中国侵略を支えていると訴えたのです。

中央大学・土田哲夫教授「中国が前面に出てしまうというのは、かえって疑念を招いたり、反発を招いたりする。中国側にとって好ましい宣伝にならない。むしろ中国人は後ろに控えて、アメリカ国内の組織、アメリカ国内の運動としてやらせて、それを背後から中国が援助した方がいいという、そういう戦略を立てていたんだと思います」

アメリカは他国の争いに介入しない、「孤立主義」的な政策を修正していきます。1939年7月、日米通商航海条約の破棄を通告。日本への経済制裁をちらつかせたのです。スティムソン委員会などによって、中国の惨状を伝えられていたアメリカ市民の8割以上が、この経済政策の転換に賛成しました。

蔣介石が国民政府の高官に宛てた命令書。プロパガンダに対する考えが記されていました。

「毎月の10万米ドルの対米宣伝経費は惜しんではいけない。現在の外交情勢を見ると、イギリスは深思熟慮の国であり、説得が難しい。アメリカは世論を重視する民主国家であるため、動かしやすい。世論が同意し、国会も賛同するならば、大統領は必ず行動する」

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