証言ドキュメント 日銀 “異次元緩和”の10年【前編】

NHK
2023年4月27日 午前10:50 公開

番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

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(2023年4月16日の放送内容を基にしています)

「通貨と物価の番人」と言われる日銀。この10年、2パーセントの物価上昇を目指し、「異次元の金融緩和」と呼ばれる政策を推し進めてきた。

陣頭指揮を執ったのは、総裁の黒田東彦。

今回、その黒田を支え、政策の中心を担った当事者たちが、日銀の意思決定の舞台裏を明かした。

かつてない規模で巨額のマネーを供給する「異次元の金融緩和」。10年間に投じた額は、あわせて1500兆円を超える。

日本経済に強力なカンフル剤を打ち込み、デフレ脱却をめざす。アベノミクスの第1の矢と位置づけられた。株価は2倍以上に上昇。雇用は、女性や高齢者を中心に400万人以上増えた。

2023年4月7日、退任会見に臨んだ黒田。自らの政策の成果を強調した。

日銀/黒田総裁(当時)「わが国は、物価が持続的に下落するという意味でのデフレではなくなった」

しかし、異例の政策をもってしても、実現できなかったことがある。

黒田は、2年で2パーセントの物価上昇を実現すると宣言したが、それがかなわぬまま10年が過ぎた。

10年もの間、金融緩和を続けてきたことで、副作用も生じている。

膨らみ続ける政府の国債発行残高。今やその半分以上を日銀が保有する、いびつな状況が生まれている。「財政規律をゆるめている」との指摘も根強い。

当事者の証言から浮き彫りになる異次元緩和の現実。日本経済に何をもたらしたのか、迫る。

<“異次元緩和”はこうして始まった>

2011年6月、異例の金融政策が動き出す、ひとつのきっかけがあった。

黒田のもとで副総裁を務めた、岩田規久男。学習院大学の教授を務めていたとき、ある勉強会に招かれた。そこにいたのが、元総理大臣の安倍晋三。第1次安倍政権で失意の辞任をして以降、復権の時をうかがっていた。

岩田は1枚の図を見せた。

日銀元副総裁/岩田規久男「安倍元首相に、デフレを脱却するにはどうしたらいいのか、これを説明したんです」

「長期国債買いオペによるデフレ脱却のメカニズム」と題したペーパー。日銀がそれまでの政策を大転換し、国債を大量に買い入れて金融緩和を推し進めれば、長年苦しむデフレから脱却できると説明した。

日本経済低迷の原因は、デフレにあるという岩田。モノやサービスの価格が下がると、企業の売り上げが減る。すると、働く人の給料が下がり、消費が抑えられる。この結果、モノやサービスが売れなくなり、企業はさらに価格を下げるという悪循環が続く。

この悪循環を止めるため、金融緩和によって物価を上げるようにする。すると企業の売り上げが増え、給料が上がり、モノやサービスが売れるようになり、企業は更に価格を上げる好循環が生まれるというのだ。

日銀元副総裁/岩田規久男「インフレというのは雇用をよくしたり、景気をよくしたりする手段なんですよ。日銀は間違った政策しているから、金融政策をちゃんとやれば、こういう効果が出るって言ったわけです。これを理解した政治家は、安倍さんだけだったんです」

当時の日本経済は、リーマンショックや東日本大震災、歴史的な円高で苦境に陥っていた。そこから脱するため、日銀は市場に供給するマネーの量を増やす政策を行っていたが、岩田はその量が不十分だと批判。これを、かつてない規模まで増やせば、デフレから脱却できるとしたのだ。

2012年12月。安倍は、日銀と連携し大胆な金融緩和を行うことを公約の1つに掲げ、総選挙で大勝。第2次安倍政権が誕生した。

当時、日銀で金融政策を担当する部門のトップである理事を務めていた門間一夫。日銀批判が世論の強い支持を得たことに衝撃を受けた。

理事(当時)/門間一夫「日銀としては、おおもとの日本経済をよくするという、大きな目的に対して、金融緩和だけで実現できるとは考えてはいませんでしたが、多くのエコノミスト(経済専門家)や有識者が言っているような路線にある程度すり寄っていかないと、人々の理解も得られにくいし、日銀として出来ることを全部やっていないんじゃないかという批判も抑えることができなくなっていくと。そういう思いもありましたね」

「デフレからの脱却と経済成長を実現するため、政府と日銀が一体となって取り組む」。

選挙の翌月(2013年1月)、日銀側では門間が中心となって政府との間で「共同声明」をまとめた。

日銀は物価安定の目標を「2パーセントの上昇」と定め、金融緩和によってできるだけ早期に実現する。政府の成長戦略も明記された。政府は「経済の競争力と成長力の強化に向けた取り組み」を推進する。

理事(当時)/門間一夫「構造改革という難しい課題も政府が全力で取り組んでほしい、そういうメッセージもそこには入るわけなので。ですから、金融緩和と民間の活力を引き出すための規制緩和とかさまざまな成長戦略とが相まって、そこで初めて経済成長が生まれてくる」

<“黒田バズーカ”の舞台裏>

2013年3月。日銀の新たな体制がスタートする。

総裁を任されたのは黒田東彦。財務省の財務官を務めた後、アジア開発銀行の総裁に就任。これまでの日銀の政策に異を唱えていた。

就任の翌日。黒田が日銀内部に衝撃を与える。日銀本店9階の大会議室。立ち並ぶ行員を前に、こう話したという。

「いま、日本銀行は岐路に立たされています。中央銀行の主たる使命が物価安定であるとすれば、日本銀行は、その主たる使命を果たしてこなかったことになります。世界中で、15年もデフレが続いている国はひとつもありません」

当時、経済や物価の動向を分析する調査統計局の局長だった前田栄治。黒田の言葉に衝撃を受けた。

調査統計局長(当時)/前田栄治「非常に厳しいお言葉があって、緊張感が走ったといいますか、職員も戸惑ったといいますか。私も含めて、みんな一生懸命やってきたので、自分たちがやってきたことを、否定されているような感じを持ったことは覚えています」

この2週間後、黒田は“黒田バズーカ”と称される金融政策を発表した。

「量的に見ても、質的に見ても、これまでとは全く次元の違う金融緩和を行います。戦力の逐次投入をせず、現時点で必要な政策を全て講じた」

日銀は、銀行から買い入れる国債の規模を年間50兆円のペースで増やし、市場に供給するマネーの量を2年で2倍にする。これで企業などに資金が回りやすくなると考えた。ETFと呼ばれる様々な株式を集めた投資信託を年間1兆円のペースで買い入れ、不動産の金融商品の購入額も増やすことにした。

大量のマネーをつぎ込み、経済全体を活性化させ、2年で2パーセントの物価上昇を実現するとしたのだ。

この政策を副総裁として支えたのが安倍に政策提言をした岩田と、日銀の理事から昇格した中曽宏だった。

副総裁(当時)/岩田規久男「長期停滞、デフレで売り上げが伸びない、賃金も伸びないというのが安定しちゃっている状況を「デフレ均衡」、均衡は安定しているということ。黒田さんはそのことをよく分かっていて、そこから脱出するには地球の引力と同じだと。ロケットが成層圏から出るときに、地球の引力が成層圏に出るまで働くから、いつでも引き戻されるから、すごい推進力がいる。ということは『量的緩和、黒田バズーカ砲みたいなものがいる』ということにつながってくる」

岩田が政策の狙いを説明するために使用していたペーパー。そのポイント。直接的な効果が出るのが、株価や不動産、そして円高の修正だ。これらの効果が波及し、消費や企業の設備投資、輸出が増える。それが雇用の増加や賃金の上昇をもたらし、消費が増える。この良い循環が生まれることで、デフレから脱却。2パーセントの物価上昇がもたらされるとした。

この実現のため日銀が重視したのが、人々の心理。将来、物価が上がると考えるようになる、経済学でいう「期待」が高まると、好循環が生み出されるという理論だ。

異次元緩和の力で、デフレで染みついた「物価は下がるものだ」という人々の考えを180度変える。そうすれば値上がりする前に消費や投資をしようと判断するため、経済が活性化されるというわけだ。

副総裁(当時)/中曽宏「日本銀行がそれだけ物価が上がると言っているのであれば、本当に上がるかもしれないということで、予想物価上昇率が上がっていくと。物価がゼロとか、あるいは若干のマイナスで推移していた状態がこれからも続くだろうと予想する状態から、毎年上がるものだと人々の予想が変化することを目指していたわけです」

物価上昇の目標を定め、国債を買って、マネーを大量に供給する政策は当時、各国の中央銀行が採用していた手法だった。

アメリカ、FRBの元副議長、リチャード・クラリダ。日銀が大規模な金融緩和に踏み切ったことを評価してきた。

FRB元副議長/リチャード・クラリダ「中央銀行による金利の上げ下げという従来の手段では限界があり、バーナンキ氏(FRB議長・当時)が『新たな金融政策の手段』と呼ぶ政策を導入するしかなかったのです。黒田総裁は大胆な手段によって、日本に新鮮な空気を吹き込む存在であると応援していました」

黒田バズーカにより、すぐに変化が起きた。

日経平均株価は、1万2千円台から1か月で1万5千円台に上昇。為替は1ドル90円台だったのが、1年後には103円と円安に転じた。新たな雇用も生まれ、1年で46万人増加した。

物価の上昇率は1年後には1.4パーセントに。このままいけば、日銀の目論見通り進むかに見えた。

<日銀に立ちはだかる“壁” 当事者が明かす舞台裏>

ところが、少しずつ雲行きが怪しくなる。物価の上昇率が下がり始めたのだ。

2014年4月の消費税率の引き上げ。消費が手控えられる中、価格を引き下げて販売する動きが広がった。

物価上昇率が低下するのを見て、副総裁の岩田はじくじたる思いを募らせていた。税率が引き上げられる前、「異次元緩和の効果に悪影響が出る」懸念していたのだ。

一方、総裁の黒田は「景気に与える影響は極めて限定的」と主張。

結局、岩田は日銀の外で、自らの考えを主張するのをやめた。

その判断に影響したのが、異次元緩和のカギを握る、あのポイントだった。日銀が重視していた「人々の物価上昇の期待を高める」こと。意見の食い違いが公になると期待が弱まり、政策の効果が失われることを恐れたのだ。

副総裁(当時)/岩田規久男「『やるぞ』とか言って、3人握手している映像があるじゃないですか。もうあれ仲たがいしちゃっている」

副総裁(当時)/岩田規久男「全然、正副(総裁)と反対の方向になっている人が執行部にいて、大丈夫なの?ってなるじゃないですか。やっぱり一丸となっているところを見せないと。要するに政策に関して一丸になっていることが、コミットメントなんですね。そういうことで人々は判断するわけですよ」

「2年で2パーセントの物価上昇は難しいのではないか」。そう黒田に直接伝える幹部もいた。

調査統計局長として、最新の経済情勢を分析する責任者だった前田。原油価格の下落や、海外経済の減速などによって、「今後の物価の見通しが厳しい」と伝えた。

調査統計局長(当時)/前田栄治「物価の先行きはかなり厳しいとなってきたので、その状況を正確に正副総裁には、お伝えしたというのは覚えています」

しかし、黒田は揺るがなかった。

調査統計局長(当時)/前田栄治「戦力の逐次投入はやらない、とおっしゃっていたわけですけれども、当初の2%実現のために何らかやる、という強いお考えを黒田さんはやっぱり持っているんだとは思いましたね」

実は前田が黒田に「2年で2パーセントの物価上昇は難しい」と伝えたのは、これが初めてではなかった。黒田バズーカの直前、「目標の達成は簡単ではない」と伝えていたのだ。

調査統計局長(当時)/前田栄治「2年で2%って、そんな簡単じゃない、難しいですよという趣旨のことを申し上げたら、『では、できるように対応するだけです』と。ほほ笑みながらというか、自信と決意を持っておっしゃったのをとてもよく覚えています」

目標とした2年まであと半年。黒田は“バズーカ2”と呼ばれる追加の緩和策に踏み切る。

「わが国経済はデフレ脱却に向けたプロセスにおいて、今まさに正念場。日本銀行は2%の物価安定の目標の早期実現のためには、できることは何でもやる」

日銀が国債を買い入れる規模を30兆円上積みし、80兆円に。株価に連動するETFの買い入れを3倍に増やすとした。

なんとか目標を実現したい黒田日銀。金融政策を決めるメンバーたちの間では、「効果は限定的」と反対する声もあったが、賛成が多数を占めた。金融政策は総裁と2人の副総裁、そして企業経営者やエコノミストなど外部から任命された6人の審議委員、あわせて9人の多数決で決まる。

審議委員を務めていた国際経済学者の白井さゆり。立ち止まるわけにはいかないと、賛成した。

審議委員(当時)/白井さゆり「インフレ予想が上がってきたんですが、2014年にだんだん下がってきていたんです。その時、ここでやめてしまうと、今まで日本銀行がいろんなゼロ金利政策や量的緩和とかやったけど結局中途半端で終わったことになる、十分目的を達成しないで終えてしまったと同じになると思いました。これ以上拡大しないのはいかがなものかと思い、賛成しました」

ところが、政策の効果はすべてが期待通りに表れることにはならかなった。企業の設備投資は増えたものの、その動きは力強さを欠いているという指摘もあった。

愛知県に拠点を置く名古屋銀行。主な取引先に自動車部品メーカーなど、中小企業2万8千社を抱えている。異次元の金融緩和を受けて、企業に対して積極的な営業活動を行ったが、借り入れをして設備投資に動く企業は期待したほど増えなかったという。

頭取の藤原一朗は、企業が守りに入っていると感じていた。手元に残している利益剰余金、いわゆる「内部留保」。日本全体では、異次元緩和が始まった2013年度、2014年度と続けて増え、350兆円を超えた。

名古屋銀行頭取/藤原一朗「資金をどんどん大きく借りて、設備投資をどんどんやるという、従来型の発想ではなかったんではないか。むしろ慎重に、必要なものにだけに投資をして、しっかりと内部留保をためていって、いざというときに備えるというのが、バブル崩壊のあとの中小企業の行動様式になっちゃっていたという気がします」

円高が是正されたにもかかわらず、輸出の伸びも限定的だった。

浜松市で、家電や楽器などの部品を製造する従業員100人のメーカー。超円高と言われた時代、取引先の大手企業は生産拠点を次々と海外に移していった。

2015年になって、この会社もインドネシアに進出し現地生産に乗り出した。円安を利用し、輸出で稼ぐこれまでのモデルには限界があると考えたのだ。

ソフトプレン工業会長/前嶋文明「そもそも日本の市場自体が、どんどん人口が減ってきて、モノを買う人も減ってくるから、市場が小さくなっているわけです。浜松の上場会社もみんなグローバル企業ですから、ターゲットは日本じゃなくて、世界だという考えでやっていますから、うちもいつかは出ないとダメだろうと」

2015年4月。黒田が約束した2年が過ぎたが、2パーセントの物価上昇は実現しなかった。1.4パーセントをピークに上昇率は低下。ついにゼロパーセントになった。

黒田は目標の達成時期を「2016年度前半ごろ」に先送りした。

「2%程度に達する時期が、後ずれするということだけでありまして、2年程度の期間を念頭において、できるだけ早期に実現するというコミットメントにつきましては、これを変更する考えはありません」

副総裁を務めていた中曽。変更を余儀なくされたときの心境をこう振り返る。

副総裁(当時)/中曽宏「結果として、達成時期がどんどん後ろずれしていったわけですが、途中でギブアップするわけにはいきません。そこはもう工夫に工夫を重ねていって、政策当局ですから、諦めるわけにはいかないわけですね」

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