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原爆初動調査 隠された真実(後編)

NHK
2021年8月10日 午前11:46 公開

(前編はこちら)

(2021年8月9日の放送内容を基にしています)

<見つかった極秘資料 続けられていた調査>

調査によって高い残留放射線が計測された長崎 西山地区。戦後、住民の体調不良や突然亡くなるケースが相次いでいました。実はその背後で、アメリカは西山地区の人たちを、長期にわたって調査し、観察し続けていたことが分かりました。

原爆投下から5年後にまとめられた残留放射線の報告書には、詳しい聞き取りと共に、住民の写真も添付されていました。

原爆調査報告書「農家の中尾夫人は、原爆が投下された時に、かぶっていた綿のほおかぶりを倉庫から持ってきてくれた。彼女は原爆の後にやってきた泥の雨が、この手ぬぐいの上に降ったと語った」

中尾恒久(なかお・つねひさ)さん、86歳。写真の女性は、母親のタカさんでした。原爆が投下された時、10歳だった中尾さん。アメリカの調査団が家を訪れ、雨について調べていたことを覚えていました。

中尾さん「原爆落ちた時は、暑かったですもんね。それで、雨降ってきたっちゅうて、外に出よったとですよ。雨といってもドロドロした油っこい雨やったとですよ」

報告書では、残留放射線と雨との関係について分析していました。

原爆調査報告書「住民によると、西山地区に降った雨は赤みがかった黒色で、異物が混じった大粒の雨だったと言われている。排水管が詰まるほど濃い雨で、貯水池の水には苦みがあり、1週間ほど飲めなかったと語った」

中尾さんの母親が、8月9日に使っていた手ぬぐいについても調べられていました。

原爆調査報告書「中尾夫人のほおかぶりをX線フィルムでサンドイッチ状態にした。そして横田基地のラボで、そのフィルムを現像すると、お馴染みの放射性物質の斑点が見られた」

放射性物質を含む雨、いわゆる「黒い雨」にあたった中尾さん。その後、甲状腺の異常に悩まされ続けています。

取材班「残留放射線の説明を受けたことは?」

中尾さん「ない。放射能がそんなに残っているのに知らせずに調査して。事実を教えてくれれば」

なぜアメリカは西山地区を調査し続けていたのか?

私たちは、報告書を作成した人物の遺族を訪ねました。マーグレット・レベンソールさんは、今年、父親の遺品を整理した時に、膨大な「原爆の資料」を発見しました。父親は核科学者のリオン・レベンソール。放射線を分析する装置を開発する会社「トレイサーラボ」に勤めていました。

レベンソールの残した手記には、西山地区を訪ねた理由が書かれていました。

レベンソールの手記「トレイサーラボは空軍と契約していて、『AFOAT-1(Air Force Office of Atomic Energy1)』と呼ばれる秘密組織が存在した。その目的は、ソビエトの核実験の爆発の際に出る放射性物質の検知であった」

当時、ソ連は初めての核実験を成功。米ソの核開発競争が激しさを増していました。レベンソールは、大量の放射性物質が降り注いだ西山地区をモデルに、核爆発で放射性物質が、どのように広がるかを掴もうとしていたのです。レベンソールのもとで働いていた部下の核科学者のロドニー・メルガードさんは、西山地区には、大量の放射性物質が残されており、研究に格好の場所だったと言います。

取材班「広島・長崎の原爆による残留放射線は存在しましたか?」

メルガードさん「はい。もちろん。原爆を開発した科学者たちは正確に把握していました。爆発直後、放射性物質の90パーセントは空気中にあり、小さな粒子が風にのって浮遊していたはずです。風下であれば、数キロ離れた場所でも命を脅かすような放射線の影響が出ていたでしょう」

<極秘資料が語る “人体影響の手がかり”>

西山地区の土をアメリカに持ち帰ったレベンソールは、人体への影響の手がかりも見つけていました。放射性物質の「核種」です。「核種」とは、原子核の種類のことで、陽子と中性子の数によって放射性物質の種類を特定できます。

レベンソール資料「我々は、バークレーに戻って土を分析したところ、放射性ルテニウム(Ru-103)とセリウム(Ce-144)が見つかった。これらは最初のプルトニウム原爆(長崎原爆)から出たものであることが確認された」

私たちはレベンソールの資料を、残留放射線を長年研究する物理学者の星正治(ほし・まさはる)教授と、放射線影響科学が専門の大瀧慈(おおたき・めぐ)教授に見てもらいました。

星教授「こういう測定ができるというのは、ものすごい量の放射能があります。このルテシウムとセリウム、これはよく核実験のあとで見つかる『核種』なので、体にもし入ったとしたら、放射能によって体のどこにいくか、『プルトニウム』だったら骨にいくとか、『ストロンチウム』は骨にいくとか、『セシウム』は筋肉にいくとか違うから。だから、核種同定は必要です。広島・長崎の『核種』を同定(確定)したという話はないと思う」

もし「核種」の情報が日本に伝えられていたら、原因不明の死や、体調不良を訴える住民のための研究が進んでいた可能性があります。

大瀧教授「なぜ、いままで隠されてきたか。公的な報告がなされてきてなかったのか、そちらこそ問題があると思うんです。この結果、このデータに関連するような調査とか研究が行われていないとは、考えにくいんですよ」

1950年にレベンソールが、国の原子力委員会で行った報告です。

レベンソール資料「長崎と広島で低レベルの放射性物質が、広範囲にわたって点在し続けている証拠に、多くの関心が寄せられた。被爆地域の肥料に現地住民のし尿が用いられるため、除去された放射性物質は、その地域に戻されるだけでなく、汚染されていない地域にも散布されることが考えられる。残留放射線の影響は、アメリカが行っている被爆者の遺伝子研究にも重要な意味を持つ可能性がある」

アメリカは、日本が独立したあとも、残留放射線の研究を継続しました。しかし、その成果は、西山地区の住民たちに伝えられることはありませんでした。

<明かされた事実 隠蔽がもたらした痛み>

西山地区に住んでいた義理の妹を亡くした松尾トミ子さんは、幸子さんの死に対して、今もわりきれない思いを抱いています。

今回、幸子さんの死因について、1968年に長崎大学がまとめた報告書を入手しました。

飲み水を通して、体内に放射性物質が取り入れられた可能性が指摘されていました。しかし、この1例のみでは、残留放射線との因果関係は断言できないと結ばれています。

私たちは、アメリカが原爆投下の5年後には「核種」を特定し、人体への影響について研究を続けていたことを伝えました。

トミ子さん「はっきり言って腹がたちますよ。これは人として見ていない感じが私、するんですよ。実験みたいにしてるなって。そういうふうにしかとれないんですね」

実は西山地区では、長年、放射線の影響が噂されていました。しかし農業で生計をたてる住民が多く、誰もそれを自分から語ろうとしなかったといいます。

トミ子さん「父もお野菜作ってたんですよ、市場に持っていってたんですよ。野菜を売って生計立ててるから、売らないといけない。だけどそれ(放射線が残っている)と言ったら、自分たちの生活が成り立たない。何か言ったら、みんなから変な目で見られる。村八分になる、そういう気持ちがあったんじゃないかなと思いますけどね」

松尾幸子さんの死から10年後、西山地区で、2例目の「白血病」を発症した住民が亡くなりました。しかし今も、残留放射線との因果関係は証明されていません。

長年、西山地区の白血病について研究を行ってきた、長崎大学の朝長万左男(ともなが・まささお)名誉教授は、原爆との関係を証明するのは、容易ではないとしています。

朝長名誉教授「普通の人からも10万人に1人か2人は慢性骨髄性白血病は出るんですよ。『それと混同してませんか』と言われると、『いやいや、やっぱり、原爆の放射線で起こっているんですよ』というのは、相当な根拠がないといかんのですよ。そこですね。(残留放射線は)累積していくわけだから、本当はそれが計算できないといけないけど、福島でも同じような問題が起こっていて、外にどのくらい出てて、家の中でどのくらい生活してたなんて、それを毎日記録してる人なんていないでしょ。そういうところに壁があって、福島でも正確な被ばく線量を出すことは非常に難しいんですよね」

アメリカが残留放射線を否定したことは、何をもたらしたのか。

朝長医師「残留放射能の研究が進んでないでしょ。例えばプルトニウムが人体に入ってて、これも残留放射能でしょ、ある意味でね。それ今頃分かってんのよ。その当時、一生懸命やればもっといろんなデータがあったはずでしょ。そういうことですよね。そこに、科学者でもない陸軍のトップが『残留放射線がない』と判断するのは、もう政治以外何ものでもないですよね」

<被害から目をそむけ 世界は核を求めた>

その後、核兵器の開発を推し進めた世界は、残留放射線の存在から目をそむけ続けました。

1954年。アメリカはビキニ環礁で核実験を実施。爆発の際に出た放射性物質が、広範囲に降り注ぎ、日本の第五福竜丸が被ばくしました。

さらに、核の平和利用をかかげた原発で事故が発生。放射性物質が放出され、その影響が議論されます。そして、1986年、チェルノブイリ原子力発電所で、史上最悪の放射能汚染事故が起きます。原子炉から出た大量の放射性物質が外部に拡散。WHOでは、被ばくによる死者は9000人にのぼる可能性があると推定しています。

<ソビエト原爆初動調査 否定された被害>

広島・長崎以来最悪の、放射能汚染問題に直面したソビエト。実はソビエトも、76年前に原爆初動調査を行っていました。

ソビエトが被爆地に調査員を派遣し、まとめた報告書です。

ソビエトの報告書「被爆地は報道されていたほど、恐ろしい状況ではないようだ。放射線で多くの人が亡くなったのは、医療支援をおこなわなかったためである」

原爆の被害は、ほとんどないと報告していたのです。

私たちはウクライナで、当時、報告書をまとめた人物の遺族に会うことができました。クズマ・デレビヤンコ。当時の指導者スターリンに高い外交手腕をかわれ、日本に派遣された人物です。

デレビヤンコが残した手帳には、報告書とは異なり、原爆の被害の凄まじさを物語る内容が記されていました。調査員は、地元の人から残留放射線の被害とみられる実態を耳にしていました。

ソビエト原爆調査員「被爆地で目にしたのは、酷い被害だった。警察官から『街なかでは、恐ろしい病気がまん延しているから行かないほうがいい』と言われた」

デレビヤンコは帰国から4年後、すい臓がんで、死亡しました。 

デレビヤンコの遺族ラリーサさん「脱毛が始まって、他にも不調があるようでした。原爆投下から間もない時期に被爆地で調査したことが原因だろうと思っています。こんなことになるなんて」

なぜ、ソビエトの原爆調査員は、実態と異なる報告をしたのか。

スターリンの政策を研究する歴史学者のニキータ・ペトロフさんは、当時スターリンは、アメリカへの対抗意識から「原爆のあらゆる威力」を否定していたと指摘します。

ペトロフさん「報告書はソビエトが原爆を恐れていないことを示しています。これはスターリンが当時個人的な会合で『原爆は報道されているほど恐ろしくない』と語った政治方針に沿ったものでした。調査員には、報告書を読む側の政治的な要求を満たすことが求められたのです」

ロシアの核政策に長年携わり、チェルノブイリ事故の医療対策責任者を務めたレオニード・イリイン博士です。イリイン博士は、科学が政治に左右される状況は、今も変わっていないと言います。

イリイン博士「私たちがチェルノブイリの大惨事を調査した時もそうでしたが、放射線の値を引き上げたり、引き下げたりする問題はかなり恣意的なものでした。例えばストロンチウムの汚染度など、全て恣意的に決定していたと非難されたものです」

そして、2011年。東京電力福島第一原子力発電所で水素爆発が発生。

今も世界は、放射線をめぐる難題に直面し続けています。

<「黒い雨」 被害を訴え続けて>

アメリカとソビエトが否定する残留放射線の影響に、日本はどう向き合ってきたのか。

原爆投下直後に降った放射性物質を含む「黒い雨」。健康被害を受けたと訴える住民は、自分たちも「被爆者」と認めるよう、長年国と争ってきました。

国は、住民が主張する、黒い雨による健康被害の科学的根拠はないとし、一定の条件が認められた人以外は「援護」してきませんでした。

先月(2021年7月14日)、広島高等裁判所は住民の主張を認め、国が指定する区域以外でも、健康被害が及んでいると判断。国も上告を断念しました。しかし未だに「被爆したこと」を認められない人もいます。西山より遠い、爆心地から7.5キロに位置する「間の瀬地区」です。

この地に暮らす鶴武(つる・たけし)さんは、黒い雨にあたった姉が、がんで亡くなったと訴えています。

鶴さん「喉と首がはれて、胃がんにもなって腹が大きくなっとった。人間もあんなふうになってしまうのかと思った。結局政府の人にも認めてもらえないで、誰に頼めばいいのか。言いたいことは何も通じない。情けない」

国は、間の瀬では「健康に影響を及ぼすような放射性物質が降ったとは認められない」としています。

<アメリカでも訴え 残留放射線の影響>

一方、アメリカでも、「残留放射線」による被害を訴える人がいます。ジェームス・スネレンさん。94歳です。原爆投下から5週間後、長崎に駐留していた時に被ばく、帰国後に皮膚がんを発症したと主張しています。

スネレンさん「異なる2人の医師から、私の皮膚がんは放射線による被ばくの可能性が50%以上であると診断されました。同じ部隊の上官は白血病で亡くなり、砲術将校も胃がんで亡くなりました。仲間の多くが放射能で亡くなっているんです」

<核を求め続けるアメリカ 変わらない“公式見解”>

アメリカ政府もまた、スネレンさんの訴えを却下しています。今も核兵器の開発を続けるアメリカ。

トランプ政権で、国防次官補代理を務めていたエルブリッジ・コルビーさんです。アメリカの核戦略と、残留放射線の認識について、聞きました。

コルビー氏「アメリカは中国と覇権争いをしており、戦争を抑止するための “準備”が必要でした。そのための選択肢として、小型の核兵器の配備が議論されようとしています」

取材班「それは残留放射線を出さないのですか?」

コルビー氏「地中で爆発させたら、多くの残留放射線が発生しますが、空中だと最小限で済みます。爆発させる高度が非常に重要です」

「高い地点で爆発させれば、残留放射線の影響はほとんどない」その論理は、76年前と変わっていませんでした。

<原爆初動調査 隠された真実>

76年前のあの日。原爆初動調査に携わった人たちは、残留放射線の実態を把握しながら、国家の大義を優先し、沈黙しました。

被爆地を調査した医師や科学者たちは、その後どんな人生を送ったのか。

ジェームズ・ノーラン医師。マンハッタン計画に参加し、その後、広島で調査を行った放射線の専門医でした。

ジェームズ・ノーラン教授「祖父に『日本はどうだった』と聞くと『想像を絶する惨状以外の何ものでもなかった』と答え、それ以上何も話しませんでした。祖父は生涯、深い苦悩にさいなまれていました」

残りの人生を、患者の命を救うことに捧げたというノーラン医師。「真実を言えなかった」という負い目があったと、遺族は考えています。

ジェームズ・ノーラン教授「グローブスは『医師たちがこう言っています』などと言うことで、医師の専門性を利用していました。ある意味では、祖父たち科学者も『共犯者』になっていたのです。祖父は戦後核実験が行われたという記事を読むたび、こう嘆いていました『あいつらは核の恐ろしさを分かっていない』」

長崎 西山地区で、白血病のために命を落とした松尾幸子さん。亡くなってから54年がたちました。幸子さんが亡くなる年に、家族にあてた手紙です。原因が分からないとされた病に苦しむ無念がつづられていました。

幸子さんの手紙「私の病気は、今の医学ではどうすることもできないものです」「どんなに立派な薬を飲もうが、名医であろうが、同じことです」「くれぐれも、体に気をつけてくださいね」「さようなら」

「原爆初動調査」。そこで分かった事実が明らかにされていれば、救えた命があったはずでした。

なぜ調査は隠蔽されたのか。

そして、なぜ痛みは放置され続けるのか。

被爆地からの訴えです。