ビルマ 絶望の戦場【後編】

NHK
2022年10月18日 午後4:05 公開

(前編はこちら)

<司令部撤退の衝撃 大東亜共栄圏の断末魔>

アウンサンが反乱を起こしてから1か月がたった、1945年4月23日。いまも、当時のまま残されているビルマ方面軍司令部。ここで、異常事態が発生する。上層部数人が、突如、陥落の危機が迫ったラングーンから、飛行機でタイ国境付近に撤退。現地部隊や民間人が置き去りにされたのだ。

高木俊朗の取材記録。司令部に見捨てられた前線の参謀が、その衝撃を語っていた。

第28軍参謀・山口立少佐「要するに、前線に頑張れ頑張れ言って、下がるとは何事だと。頑張れ頑張れ言っておいて、急にやった(撤退した)から悪いんです。非常に錯乱しとったんじゃないですか、司令部内の指揮はですね」(高木俊朗 取材テープより)

司令部撤退の決定を下したのは、木村兵太郎司令官だった。東條首相が陸相を兼務していた内閣で陸軍次官を務めていた人物である。サイパン島の陥落で東條が失脚したのち、ビルマに派遣されていた。

イギリス軍は、この突然の撤退についても、木村司令官から詳細に聞き取っていた。

ビルマ方面軍・木村兵太郎司令官「寺内南方軍総司令官から電報があり、ラングーンを最後まで防衛することが急務であると言われたが、その指示には従えなかった。イギリス軍の驚異的な進軍を考えれば、ビルマ方面軍がラングーンで孤立し、断絶することは許されないはずである。ラングーンを放棄するという私の決定は、立派に筋の通るものであると確信している」

イギリス軍の猛攻が続くラングーンには、多くの市民が取り残された。

現地にあった日本の商社、日綿実業では、反乱を起こしたビルマ兵によって社員が殺害された。さらに、186人の社員が急きょ招集され、防衛隊としてラングーンの守備を命じられた。支店長の松岡啓一さんは、小隊長を命じられた。突然司令部に見捨てられ、多くの部下を失った無念を書き残している。

「軍司令官は『ラングーンを死守すべし』と命令を下したまま、ラングーンに残された吾々は、司令部の撤退を数日後に知り、あぜんとしたのでした。吾が部隊の行く手には、いつも敵が待ち伏せして邀撃(ようげき)し、世にいう“白骨街道 死の行進”が続きました。日綿支店員も百八十六名のうち、五十二名が戦死の憂き目を見て仕舞ったのです」

松岡啓一元支店長の娘・小刀襧氷見子さん「自分が支店長で、ちゃんと皆さんの命を守れなかった。父の心の痛手だったんだろうなと思います」

辻本富子さんの兄は日綿実業の社員だったが、防衛隊に編入され戦死した。

亡くなる直前まで、ビルマから家族の元に手紙を書き送っていた。

「相変わらず、元気で暮らして居る由、安心いたしました。この前の便りには、お母さんと二人で撮った写真が入っていて、久しぶりに会ったような気持ちになりました。机に飾って朝晩顔を見ている次第です」

ラングーンに海と陸から侵攻したイギリス軍。木村司令官らの撤退から11日後、首都奪還に成功した。ラングーン奪還作戦に参加したイギリス軍の少尉は、当時の状況をこう証言しました。

イギリス軍 第27野戦連隊元少尉・スチュアート ギルドさん(98歳)「『攻撃計画を立てましょうか?』と隊長に聞いたら、『その必要は全くない』と言われました。上陸したラングーンは汚くて、汚物が山のように積み上がっていました。大量の日本の紙幣が舞っていた光景が忘れられません」

戦場で日記を書き続けていた若井徳次少尉。ラングーンを再び奪還するよう命じられていた。

「司令部は、己達のみ逃げ去っておきながら、僅かな在蘭将兵と共に此の無防備な蘭貢(ラングーン)を、『固守すべし』との一片の冷厳な命令を残して去っている。こんな矛盾した考えがどこにあろうか」

1945年6月、アウンサンのビルマ国軍は、完全にイギリス軍の指揮下に入った。大東亜共栄圏は、断末魔の様相を呈していた。

ビルマ国軍元少尉・バティンさん(96歳)「日本の将校が『これは兄弟ゲンカだ、みんな戻ってきてください』と私に言ってきました。でもそれに従わず、私の上官がその将校たちを殺したのです。その時は、独立のことで頭がいっぱいで、ただ戦うことだけを考えていました」

歩兵第144連隊 元兵長・和田邦美さん(99歳)「ビルマ人がこっちへ、なすびか何か作りよるのを、わしらの陣地の下の土地を持っておって、そこで毎日作りに通ってきているのを、中隊長が『あれはスパイじゃけに殺せ』ということになってね。どうしても殺さなしかたのうなってね、もう、撃った。いやじゃ。罪も、とがもない人じゃけんどね。それを中隊長の命令で。どうしようもない。スパイじゃけん、あれ撃てってなって・・・」

歩兵第56連隊 元二等兵・重松一さん(99歳)「ビルマの服装の人がウロウロしておったです。そんなんで捕まえてですね。結局、命令で私たち初年兵ばっかりが殺す。だから結局私なんかも十何人か殺している。もうしょうがない」

重松一さんは、99歳になった今も、仏像を掘り、ミャンマーに送りつづけている。

<“忘れられた戦場” 最後の1か月>

1945年7月。アメリカ軍による空襲で焦土と化していた日本。敗戦はすでに決定的だった。

終戦まで、残り1か月。

司令部の突然の撤退で取り残された3万4千の将兵と、ラングーンから逃れてきた多くの民間人は、密林でイギリス軍とビルマ国軍に包囲されていた。

敵中を突破し、眼前に広がる大河・シッタン河を渡るしか、生き残る道はなかった。

逃げる日本人を目撃したオンマウンさん(97歳)「日本人との別れを思い出すと、今でも泣きたくなります。彼らは、靴下の中に米を詰めて、それを食べながら逃げるんだと言っていました。どこまで行けるか、どこで死ぬか分からないけど、とにかく行くんだと言っていました。悲しかった。胸が痛くなります。思い出したくない」

若井徳次少尉も、シッタン河を渡るために、密林に身を潜めていた。マラリアや飢餓で衰弱し、自決する兵士も相次いでいた。

「時々遠く近くで爆発音が起こる。それは手榴弾による、自決者の増加を意味している。衰弱し切った病兵に、無情にも豪雨が追い打ちを掛ける。この生き地獄の転進は一体いつまでどこまで続けねばならぬのであろう」(若井徳次少尉の日記より)

7月20日。3万4千の将兵と民間人は、一斉に敵陣突破を開始した。しかし、イギリス軍はこの情報をいち早く察知していた。イギリス軍の機密文書には、こう記されている。

「日本軍は7月末に、シッタン河を渡りタイ方面に進軍する予定」「突破はXデーに開始される」

この情報を突き止めたのが、後に日本軍に尋問を行うことになる語学将校、ルイ アレンだった。日本軍を待ち受けていたイギリス軍とビルマ国軍。圧倒的な火力で一斉に攻撃を加えた。

第55師団第2野戦病院 元伍長・塩崎薫樹さん(101歳)「日本軍をやっつけようと構えとったんや。ビルマ人の義勇軍みたいなのがおるわけ。日本軍がこの道路を利用するって、地雷を設置しておった。だから、そこで、うちらの部隊も15、6名はかかってね、亡くなったんもおる」

シッタン河は、雨季で増水し、川幅が200メートルを越えていた。

海軍第17警備隊 元一等衛生兵曹(陸戦隊)・髙須賀隆さん(95歳)「対岸にいるビルマ兵が、日本兵を撃ってくるんです、河を渡りだすと。みんな溺れて死んでしまいますよね。本当に死体がぼこぼこ浮いてインド洋に流れてしまって。戦場のことが思い出されて、いまだに涙出るんですよ」

日本赤十字社 救護看護婦 岐阜班・北澤松子さん(99歳)「川が流れてたの。そこに3人(兵士が)座っているのね。3人のうちのもう1人の方は、もう虫の息だったんで『肩で担っていくから歩きましょう、一緒に行きましょう』と言っても、『もういいです』とおっしゃった、その言葉がまだ今でも残っています」

自ら突き止めた情報によって、多くの日本人が命を落としたことに、苦悩していたというルイ アレン。

戦後も、日本の元将兵から聞き取りを続け、ビルマ戦の記録を書き残した。

ルイ アレンの息子・ティム アレンさん「父の情報で結果として、非常に多くの日本兵がシッタン河で命を落としました。ある意味、直接的な責任を負っているわけではないにしても、あの戦争において大きな役割を果たしてしまったのです。それは、おそらく時がたつにつれ、父の心の中の重荷になっていたのでしょう」

将兵や民間人は終戦を知らないまま、9月になっても撤退を続けた。死者は最終的に1万9千に達した。この惨劇について、ラングーンから撤退していた木村司令官は、ルイ アレンらの尋問に、次のように語っていた。

「シッタン河における第 28 軍の敵中突破作戦は、どの地点で試みても、重大な困難に遭遇し、それに耐えることは難しいと考えていた。私は第28軍がほとんど全滅するだろうと思っていた」

インパール作戦で、疲弊しつくしたあとの最後の1年間。戦局がすでに決した中で、あまりにも多くの血がビルマの大地に流れた。

そして、ミャンマーでは、今も血が流れている。

ミャンマー国軍と、一部ゲリラ化した市民との戦闘が各地で深刻化している。

終戦後、軍服をぬぎ、外交でイギリスから独立を勝ち取ろうとしたアウンサン。しかし、政敵の凶弾に倒れ、志半ばでこの世を去った。

アウンサンらが抗日蜂起した3月27日は、いま、ミャンマー国軍が軍政を誇示する国軍記念日となっている。

死線をさまよいながら、日記をつづっていた若井徳次少尉。戦場から帰還し、88歳で亡くなるまで、ビルマ戦の惨禍を書き続けた。

「もう総ての感覚も感情も、血も涙もかれて、敵襲の恐怖も死の恐怖も失って、屍臭(ししゅう)の漂う生き地獄の状況を脳裡に焼き着けながら、一歩一歩と軍刀を引きづってゆく」

あの戦争から77年。生き残った者たちが懸命に伝え残そうとした、忘れられた戦場の記憶。

それは、大東亜共栄圏建設という大義を掲げて遂行された、日本の戦争の末路だった。

「今こうして生き残ったとしても、いつ彼らと同じ運命をたどらぬとも限らない。白骨街道に醜い屍(しかばね)をさらさないとも限らない。彼らの姿はいずれ次の己の姿でもある」