新・ドキュメント 太平洋戦争 「1942 大日本帝国の分岐点(前編)」

NHK
2022年8月30日 午後3:12 公開

ミッドウェー海戦を追体験する 敗軍の将・山本五十六と海に沈んだ若き命

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(2022年8月13日の放送内容を基にしています)

1941年から1945年まで、個人の視点から歴史のうねりを1年ごとに追体験する、シリーズ「新・ドキュメント太平洋戦争」。手がかりとなるのが、日記や手記などの「エゴドキュメント」だ。会社員や主婦などの市民、最前線の兵士、国の指導者たち。表現の自由が制約された時代に、誰にも言えなかった本音が記されている。

今回は、1942年「大日本帝国の分岐点」。連戦連勝だった日本が、一転して苦境に陥っていく。激戦のさなか、兵士たちは何を見たのか。開戦から2年目、太平洋戦争の分岐点を見つめる。

「おだやかなお元日!あわただしい世相をよそに、風一つない静かな元旦!住代ちゃんも、とうとう2歳になりました。よいお洋服を着て、朝、外堀公園へ行く」(1月1日 金原まさ子日記)

東京・四谷に暮らしていた金原まさ子。一人娘の子育てにいそしみながら、戦時下の日々の思いを日記につづっていた。

「皇軍、連戦連勝。今年は、なんというおめでたいお正月だろう」(1月5日 金原まさ子日記)

東京で新聞記者をしていた森正蔵。真実を追求するジャーナリストでありたいと願っていた森は、新年を、すがすがしい気持ちで迎えていた。

「鯛など手に入れられるはずがなく、わが家の新春の食卓は、いつにもなく貧しかった。それでありながら、この新年を迎える心持ちは、格別である。十二月八日が、日本を包むすべてのものに、一大転機を与えたのだ。この戦争は、希望の持てる戦争である」(1月1日 森正蔵日記)

元日の午後、森は新聞社で、あるニュース映画を見た興奮を日記につづった。

「これほどの大戦争を、その最中に撮影したフィルムというものは、いまだ例を見ないだろう」(1月1日 森正蔵日記)

およそ1か月前の1941年12月8日、日本は、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃。それを記録した映画は、正月に封切られ、立ち見が出るほど大ヒットした。

「いよいよ母艦から離れて死地に臨もうとする将兵が、みな笑っているのだ。これほど荘厳な気分を表したものが、またとあろうか。拍手を送る余裕もなく、瞼(まぶた)にあふれる涙を止めることができなかった」(1月1日 森正蔵日記)

今回番組では、戦争の時代を生きた市民や兵士、国の指導者など250人以上の日記を調査。日にちに換算すると、14万日分になる。日記のテキストを抽出し、単語ごとに分解。その数は630万に達した。そこから、戦争に関する単語をより分け、時系列に沿って、どのように変化していくのかを調べた。

1941年、アメリカの経済制裁が強まる中、グラフは右肩上がり。人々の戦争への関心の高まりは、12月8日の真珠湾攻撃で最高潮に達した。年が明け、1942年。いったんグラフは下がるが、再び上昇に転じる。何が起きていたのか。

―マニラ陥落―

ニュース音声「首都マニラに日章旗翻る。アメリカは早くも敗走し去って、一兵もとどめず」

「突然、『ニュースを申し上げます』とラジオが言い出した。みんなはシーンとなった。マニラ完全占領。うれしいうれしい、待ちに待ったニュース。私の心はおどっていた」(1月3日 和田恭子日記)

京都に暮らす12歳の和田恭子は、日本の占領地が拡大していく様を、色鮮やかに、日記に描いた。

日本軍は、アジア・太平洋地域で、アメリカ軍やイギリス軍を次々に撃破。占領地の拡大は、日本人一人ひとりの日常に、明るいものとして現れてくる。

大阪で米の配給の仕事をしていた井上重太郎は、日記にこう記した。

「午後、百貨店に開催のシンガポール展を見る。南洋方面の特産物が出ている。ゴムの原料、ヤシ油、コーヒー豆、ボーキサイト、スズの鉱石、タングステンなど、初めて見ることができた。将来の南洋の有望を思わせるものがある」(2月25日 井上重太郎日記)

人々の気持ちを高揚させたのは、リーダーの言葉。1942年2月18日、内閣総理大臣・東條英機が演説する祝典には、10万人が押し寄せた。

内閣総理大臣 東條英機「聖戦目的の完遂に向かって、諸君と共に、一路邁進(まいしん)せんことを誓うものであります」

金原まさ子も、祝典の様子をラジオで聞いていた。

「東條首相のマイクの前における万歳発声。全国の民草、街頭にあるものも、家庭にある者も、一斉に日本バンザイを叫ぶ。盛大に挙行された今日の感激を、一生忘れないだろう」(2月18日 金原まさ子日記)

愛国心、民族意識の高まりを刺激したのは、今で言うインフルエンサー。人気を集めた思想家や学者たちだった。

「我等の大東亜戦は、単に資源獲得のための戦でなく、実に東洋の最高なる精神的価値及び文化的価値のための戦であります」(大川周明「米英東亜侵略史」)

「大東亜では、同じ水準に達しているのは日本だけで、あとの民族はレヴェルの低い民族だ。そういうものを引っ張って育てて行き、民族的な自覚をもたす」(西谷啓治 座談会「大東亜共栄圏の倫理性と歴史性」)

今回集めた日記のテキストを、単語に分解すると、1942年に最も多く使われていた単語は「日本」だった。この「日本」と、強く結びつく単語を調べると、「戦争」「報国」「精神」「大東亜」などが浮かび上がった。愛国心の高まりは、市民の外国への意識を変化させていった。

「排日、侮日の数々に、おごり高ぶるアメリカ!鬼畜とも等しい行為を、あえてなしてきたイギリス!今こそ思い知らせるべき時が来たのです。国を挙げての大決戦下にある、我々、大日本の上に栄光あれ」(2月6日 金原まさ子日記)

アジア・太平洋各地での戦争の状況は、軍の作戦指導を担う「大本営」を通じて発表されていた。日々ラジオで報じられる大本営発表を、大阪の井上重太郎は、欠かさず日記に書き写していた。

「大本営発表。我方の損害、沈没・輸送船一隻」

「大本営発表。インド洋の戦況。敵艦船六十四隻を屠る。わが方、十七機を失える」

大本営発表は戦果だけでなく、日本側の損害も報じるなど、戦況をほぼ正確に報じていた。軍の発表をいち早く知ることのできるラジオは人気を集め、1942年には、全国の半分の世帯にまで行き渡った。

ラジオ放送を一手に担ったのは、日本放送協会。軍との結びつきを強めていた。

「番組内容は悉(ことごと)く、戦争目的の達成に資するがごときもののみと致しました。全国五千の職員は、この重大なる使命に感激しつつ、いよいよもって職域奉公の誓いを固くし、懸命の努力を致しておるのであります」(日本放送協会 会長 小森七郎)

このころ、新聞もさかんに大本営発表を掲載。メディアがおかれた状況は、大きく変質していた。

権力に立ち向かうジャーナリズムに憧れ、生涯一記者でありたいと願っていた森正蔵は、開戦前、軍とメディアの接近に危機感を抱いていた。

「当局の新聞に対する、いわゆる統制政策、いよいよ露骨となる。これまで便宜主義一途(いちず)に何の勉強もせずに来た古い新聞幹部。無経験、無鉄砲のサーベル連に押されて、右往左往するのみ。醜態、これほどはなはだしいものは少ない」(1941年10月22日 森正蔵日記)

しかし、人々は戦争報道を歓迎し、新聞の部数を押し上げていった。

軍との接近に異を唱えていた森も、読者の期待に応えるため、軍に協力することを受け入れるようになる。

「新聞が何でも彼でも書けるなら、ジャーナリストにとって今日ほど面白い時期はあるまい。もっとも、国策的見地から見て、今日の新聞記事は、かなり抑制されるべきはずである」(6月3日 森正蔵日記)

1942年4月18日。連戦連勝に沸いていた人々に、衝撃を与える事件が起きる。

「高射砲のとどろき、とうとう帝都、敵機襲来。近くの士官学校裏手から、もくもくとした煙。大爆撃。敏感な住代ちゃん、おびえてかわいそうだった」(4月18日 金原まさ子日記/四ッ谷)

目撃したのは、アメリカ軍による初めての本土空襲。市民の日記から、各地で被害があったことが浮かび上がった。

「買い物に三越へ入った。突如としてドンドンと空に響く轟音(ごうおん)。私は窓際を離れ、思わず急ぎ足になりながら、階段を下りかけた。若いお母さんたちは、子どもの手を引きずるようにして階段を下りてくる」(4月18日 山内泰子日記/銀座)

アメリカ軍の爆撃機に対し、日本軍は地上から高射砲を撃ち、撃墜しようとした。

「黒い飛行機が低空状態で、全速力で来る。それが我々の頭上に来た。目撃した者の全部の顔色が青くなった。自分だって全く理性を覆されて、ただ生きようとする動物の本能になった」(4月18日 小長谷三郎日記/横浜)

後に「ドーリットル空襲」と呼ばれる奇襲作戦。そのきっかけとなったのは、4か月前の真珠湾攻撃だった。開戦以来、劣勢に立たされてきたアメリカのルーズベルト大統領は、一矢報いる機会を狙っていた。

アメリカ大統領 フランクリン・ルーズベルト「日本に爆撃する作戦はどうだ。日本をできる限り早く爆撃することが、アメリカ国民の戦意のために、なによりも重要だ」(大統領側近の手記)

アメリカ軍が立案した攻撃計画の要となったのは、日本軍による真珠湾攻撃を逃れた空母部隊だった。日本近海まで接近し、空母から発進した爆撃機B25で奇襲するという決死の作戦だった。

16機のB25が、東京、横浜、名古屋、神戸など、各地の都市を爆撃し、甚大な被害を与えた。死者87名。アメリカ軍の本土空襲による、初の民間人の犠牲者だった。日本を震撼させたドーリットル空襲は、戦争に関する情報の伝え方を、大きく変えていくことになる。

日々の戦果を書き留めていた井上重太郎の日記には、「東部軍司令部発表(午後二時)。現在までに判明せる敵機、撃墜数は九機」と記されている。

軍は、アメリカの爆撃機9機を撃墜したと発表。ラジオと新聞で華々しく報道された。しかし、作家の伊藤整は、市民の間に広がった疑念を記している。

「昨日、小島君より聞いた所では、落ちた飛行機を写真にとろうとして歩いても、どこにもその現場がない。多摩川辺に落ちた由を聞き出かけると、憲兵が番をして、そこへは立ち入らせない。九機撃墜と発表しているのだから、落ちた敵機の姿が写真に出ないのは変だ」(4月22日 伊藤整日記)

作家の山本周五郎は、軍のあやふやな発表への怒りをつづった。

「少年が敵機の落とし去った焼夷弾を持ってきて見せる。民家に落ち、三、四軒全焼したとのことだ。敵機のいずれより来しや。戦果どうなりしや。軍の発表明確ならず。よって人々の不安は、不必要なるほどに複雑深刻なり。報道法拙劣」(4月19日 山本周五郎日記)

新聞記者の森正蔵も、いくら探しても、爆撃機の残骸は見つからなかった。

「昨日の空襲に際して、九機を撃墜したという当局の発表も嘘らしい。まさに、わが国防史上の一大汚点である」(4月19日 森正蔵日記)

実は、9機撃墜は、迎撃した部隊による見間違えだった。実際にはアメリカ軍の爆撃機は、すべて国外に飛び去っていた。あってはならない誤報を出してしまったのである。軍のメンツに関わる事態に怒ったのが、首相の東條英機だった。

「東條大臣は大変興奮のおももちで、『陸軍から九機撃墜したとの公表がでたが、どこにも撃墜した跡が見当たらない』『こんなでたらめな報道をやったのでは、今後の戦果の発表の信を内外に失う』恐ろしい立腹であった」(佐藤賢了「軍務局長の賭け」)

軍は、誤報を訂正せず、報道機関にあらたな方針を通達した。

「空襲被害状況は新聞、ラジオは今後は一切不可」

「空襲関係の発表は大本営一本に統一する」

敵機に爆撃を許し、誤報を流し、市民に疑念を広げてしまった軍。以降、情報を、大本営が一元管理する方向へ進んでいく。

アメリカによる本土空襲。それは、戦争の行く末を左右する作戦につながる。連合艦隊司令長官・山本五十六は、真珠湾作戦で敵の空母を取り逃がしたことが、空襲を招いてしまったと考えていた。

「帝都の空を汚されて、一機も撃墜し得ざりしとは、なさけなき次第にて」

「米残兵力をおびきだして、一挙に撃滅できれば結構」(山本五十六 手紙)

山本が目を向けたのが、太平洋に浮かぶ小島・ミッドウェー。アメリカ軍の飛行場などがある重要拠点だった。この作戦の最終目標は、敵空母を壊滅すること。日本軍の精鋭部隊がミッドウェー島を攻略、それを知ったアメリカ軍の空母部隊がハワイから駆けつけたところを、迎え撃つ計画だった。

大橋丈夫主計中佐。戦闘の一部始終を記録することが任務だった大橋は、空母「赤城」に乗り組んでいた。

「赤城」には、「戦えば必ず勝つ」という楽観的な空気が満ちていた。

「印度洋で、英空母ハーメスを易々と撃沈したときのような気分で、又、

ミッドウエイの周辺に群棲する伊勢蝦(いせえび)のテンプラを夢みながら、黙々として行進した」(大橋丈夫 手記)

日本時間6月5日、日本海軍がミッドウェー島を奇襲攻撃。戦いが始まる。日本は、島の燃料タンクや発電所などに損害を与えた。

ところがこのあと、事態を一変させる報告が入る。

「偵察に出ている水上偵察機から『敵らしきもの十隻見ゆ』」

「『後方に、敵空母らしきものあり』」(大橋丈夫 手記)

実は、アメリカの空母部隊は、ミッドウェー周辺で、待ち伏せしていたのだ。作戦を指揮したのは、ニミッツ大将。部隊に命じたのは、日本軍の暗号を、徹底的に解読することだった。

「限界まで探り続けよ。それに基づいて最善を尽くせ」(ニミッツ 「Some Thought To Live By」)

解読できた暗号の断片をつなぎ合わせると、次の攻撃地点が浮かび上がってきた。

「AF」。日本軍が独自に定めた符号だった。

「『AF』とはどこなのか。複数の意見がある中、結論に至るために、我々は、あるメッセージを平文で送れと現場の部隊に命じた」(戦闘諜報班 証言)

「ミッドウエー島で、真水が不足している」「すぐに送れ」

傍受した日本軍の通信隊は、アメリカのワナだと気づかず、「AFは水不足だ」と打電してしまった。

米軍の諜報班がこれを解読。日本軍の攻撃地点を突き止めた。

「『AF』が『ミッドウエー』であることが、ここに確認された」(米海軍 戦闘諜報班 資料)

作戦を察知されたとは知らずに、ミッドウェーを目指していた日本海軍。攻撃開始直前、さらに決定的なミスを犯していた。連合艦隊司令部は、米軍の通信状況から、敵の空母が近くにいるらしいという情報を得たが、

「赤城」も情報をつかんでいるだろうから知らせる必要はないと参謀が判断。山本も了承する。その結果、アメリカの空母から奇襲を受けることになったのである。

想定外の事態。最前線の空母「赤城」に、衝撃が走った。

参謀長 草鹿龍之介「心底ショックを受けた。えらいことになった」(ゴードン・W・プランゲ「ミッドウエーの奇跡」)

爆撃機には、陸用の爆弾をつけさせていたが「敵空母発見」の報を受け、指揮官は「空母を攻撃するために、魚雷につけ換えろ」と命令する。突然の指示に、現場は大混乱に陥った。作業を急ぐあまり、取り外した爆弾は、広大な格納庫のあちこちに無造作に置かれた。まさにこのとき、「赤城」の艦上を、米軍の急降下爆撃機が襲った。格納庫に大火災を引き起こし、放置された爆弾にも炎が迫った。艦内には、およそ1700人がいた。

現場にいた大橋中佐は、何を見たのか。

「見張員が又向って来ます又向って来ます!と怒鳴っている。ポツンと黒の一点が急に大きくなるのが眼に映った。火の粉が両国の花火のように円を画いて八方に飛び散り、ムクムクと真黒い煙が甲板から立ち登る。

熱い火煙を吸うと針を呑むように咽喉が痛い。いよいよ俺も駄目かなあと思った。心の中で家族に別れも告げた。しかし妙に無感傷だった。一人死ぬんだったら堪え切れないさみしさを感ずるのであろうが、二千人も道連れがある。

兵員が百名くらい避難しておった。血だらけになった兵員も居た。

魚雷の誘爆であろう、時々物凄い大爆発を起す。舷側を吹き飛ばして真赤な火を両舷から吹く。ひょっとすると沈没するぞという気がした。いつでも海に飛び込めるように、軍服のフックを外した」(大橋丈夫 手記)

飛行甲板の下、受信室には、10代の通信兵が取り残されていた。三等水兵の土屋良作(15才/下写真・右)と三等水兵の戸塚喜七郎(16才/下写真・左)。海軍通信学校の同期生だった。

二人がいた受信室に、突然、炎とガスが吹き込んだ。熱さに耐えきれず、ふたりは15メートル下の海に飛び込んだ。

「土屋が『艦を離れよう』というが、泳ぎの不得手な私は躊躇していたら、ハンモックが海上に浮遊しており、それを使い艦を離れようと思い、土屋と話し合いすがりついた。『戸塚、早くこっちに来い』の呼びかけに見ると、浜育ちで泳ぎの得意な彼は、巧みな泳ぎ。あとに続こうと水をかき、懸命に努めたが、まもなく土屋の姿を見失った」(戸塚喜七郎 「若き海軍兵の青春懐古」)

戸塚は、3時間半漂流し、味方の船に救助された。そこで対面したのは、土屋のなきがらだった。遺品の腕時計は、共に海に飛び込んだ午前9時13分で止まっていた。

祖母と両親、兄弟に囲まれて育った土屋。故郷・熱海の家族のもとには、部隊から書き送った手紙が残された。

「おばあちゃん、その後、お変わりございませんか。軍務生活のなか、一番うれしいと思うのは、食事のとき、床につくとき。家からの便りが一番うれしく、楽しく思います。」

「家の方でも稲刈をして、稲こきでもしていることだろうと思い、眼に浮かんできます。また父母の写真を送ってください」(土屋良作 手紙)

アメリカ軍の猛攻撃は、息つく間もなく続いた。炎上する日本軍艦艇の映像(下写真)。爆弾が直撃し、航行不能に陥った。

機械室で、船を動かそうとした兵士は、ハンドルを握りしめたまま息絶えた。死の間際、壁に言葉をのこした。

「最後迄頑張り、戦死す」

「時まさに10時43分。親よ、不幸 許せ。妻へ たのむ」

生き延びた大橋中佐は、日本海軍の敗北を、目の当たりにした。

「誠に目をそむけざるを得ない光景である。敵機動艦隊の発見が遅れたのが、ミッドウエイ敗戦の最大原因である。我が艦隊が、敵の肉を斬っている間に、敵は、我が骨に切りつけた」(大橋丈夫 手記)

攻撃開始から22時間。山本五十六は、作戦の中止を命令する。

この戦いで日本が失ったのは、空母4隻。死者3057人。遺骨は船と共に、5000メートルの深海に沈んだ。

ミッドウェー海戦の結果を報じる新聞では、空母4隻喪失の事実は伏せられ、日本側の戦果が強調されていた。

日本軍は負けていないと受け取った市民。なぜ、真相が隠蔽されたのか。

1942年6月5日、大本営に、ミッドウェー海戦の敗北が伝えられた。衝撃が広がるなか、海軍報道部の士官たちは、大本営発表の準備にとりかかった。

「驚愕(きょうがく)の一語に尽きた。ハワイ海戦、マレー沖海戦の赫赫(かくかく)たる勝利も、一度に吹き飛んだ思いであった。大本営発表文中、最大に苦しかった発表であった。軍令部と軍務局の意見が真っ向から衝突して、容易にまとまらず、私は両方を走り回るのみであった」(田代格「海軍大佐 田代格回想録」)

議論は三日三晩続いた。報道部は、真相を国民に知らせるべきだと、主張したという。

「すぐに作戦部の強硬な反対を受けた。軍務局も同意しなかった。課長と主務部員は、国民に真相を知らせて奮起を促す必要ありとして、夜の目も寝ずに、関係者の説得に、重い足を引き摺りながら飛び回った」(冨永謙吾「大本営発表 海軍篇」)

真相の公表に反対したのは、作戦指導の中核を担っていた部署だった。公表することは、戦争遂行を危うくすると訴えた。

「これは当然発表すべきではありません。これだけの大損害を、大本営発表をもって確認することは、敵に一層、傍若無人な積極作戦をとらせるだけであります。抗戦持続不可能になる恐れありとすら言えます。戦争中の報道は、当然、作戦の目的にそわしめることが、第一義であります。そのため同胞が欺かれる結果となっても、戦争中のことゆえ、真にやむをえないと考えます」(吉田尚義「大本営発表はかく行なわれた」)

実際の損害を公表すれば、アメリカの攻勢を招きかねない。戦争を続けていくという大義のために、国民を欺くことは正当化された。こうして、大本営発表は、真相とはかけ離れたものになった。

発表された損害は、空母1隻喪失、1隻大破。戦果は、空母2隻撃沈。損害は半分、戦果はほぼ倍。戦果が喪失を上回り、勝ったことになってしまった。

ミッドウェー海戦で従軍したニュース映画のカメラマンは、日本へ逃げ戻る船のなかで、大本営発表を聞いた。

「ラジオを聞いていると、軍艦マーチとともに、例の聞きなれた平出大佐の声が聞こえてきた。ミッドウェー強襲の大戦果だった。『平出大佐のバカ野郎っ!』『こんなでたらめな放送をして、国民をいい気にさせておいていいのか!』と叫びたくなった。ダイアルをまわすと、今度はアメリカの放送が入ってきた。アメリカの勝利と日本の敗北を報じていた」(牧島貞一「ミッドウェー海戦」)

天皇はどんな反応を示したのか。去年、重要な資料が公開された。日々、天皇のそばに仕えていた、侍従長の日記だ。

「ミッドウエイ海戦につき、米側報道及び宣伝、上聞(じょうぶん)に入る。天機(てんき)麗しからず、恐懼(きょうく)の至なり」(6月11日 百武三郎日記)

天皇は事態を憂慮していた。しかし日本軍の上層部は、根本的な対応策を取ろうとはしなかった。主力空母4隻を失い、当初の戦争計画が大きく揺らいだ日本軍。ミッドウェー海戦については、かん口令が敷かれ、誰ひとり責任をとることなく、真相は封印された。

その後、戦況は悪化の一途をたどった。しかし報道は、その事実を正確に伝えようとはしなかった。

ラジオとニュース映画で使われた言葉から「大戦果」や「撃破」「圧倒」など、勝利に関連した言葉を抽出した。ミッドウェー海戦以降も、日本軍の優勢を示唆する言葉が、ニュースでさかんに使われていく。大本営発表は、太平洋戦争全体で見ると、損害はおよそ5分の1に、戦果は6倍に修正されたという。情報の隠蔽や改ざんが、当たり前となっていった。

1942年。日本軍の連戦連勝に歓喜し、勝利に酔っていた人々。知らぬ間に敗北が積み重なり、日本は暗がりへ落ち込んでいく。

東京四谷で、子育てにいそしんでいた金原まさ子。ラジオが伝える大本営発表に、この日も聞き入っていた。

「午後三時のニュース。『敵は幾万』のレコードが始まったので、胸とどろかせて待っていると、『我が精鋭なる陸軍は、アッツ島に敵前上陸敢行。同島を占領せり』と力強い報道があった。今度の大東亜戦争ほど雄大なことは、古今にその例を見ないであろう」(6月25日 金原まさ子日記)

「欧米の植民地だったアジアを解放する」という大義を掲げた大日本帝国。戦況の悪化とともに、その矛盾も噴き出していく。激動の1942年を、一記者として見つめた森正蔵は、明くる年の元日にこう記した。

「国家はこの年において、存亡の危局に立つであろう。この時代に生きかつ栄えるためには、また異常の努力と工夫とを要する。ただ、われらは一切を戦争のために捧げ、勝ってはじめて生きるのである」(1943年1月1日 森正蔵日記)

偽りの戦果を信じ、真実に向き合わないまま、戦争に突き進んだ日本。虚構に身を委ねた代償は、あまりにも大きなものとなる。