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開戦 太平洋戦争 ~日中米英 知られざる攻防~(後編)

NHK
2021年8月18日 午後1:04 公開

(前編はこちら)

(2021年8月15日の放送内容を基にしています)

< 「三国同盟」という選択 日本の思惑>

日中戦争勃発から2年。アメリカへの働きかけが功を奏し始めていた蔣介石。日本が選択したある外交戦略が、中国を期せずして有利な方向に導いていきます。

1940年9月27日。

「このニュースが事実であれば、我が抗日戦の困難はまた一つ減ったことになる。人知の及ばない、まさに神の助けである」(蔣介石日記1940年9月27日)

実はこの半年ほど前。蔣介石は、最大の危機に陥っていました。       

ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年に入るとナチスドイツの圧倒的な攻勢によって、ヨーロッパ諸国のアジア権益をめぐる状況が激変しました。援蔣ルートと呼ばれる中国への支援経路が断たれ、蔣介石は持久戦の維持が困難になったのです。

そうした中で日本が選択したのが、日独伊三国軍事同盟でした。

近衛会見「今回、政府は世界歴史の一大転換期に際し、ドイツおよびイタリー三国条約を締結し、世界恒久の平和と進歩とのため、協力邁進(まいしん)するに決したのであります」

三国同盟によって、国際社会における中国の価値は高まると見た蔣介石。部下に送った電報にその考えが記されています。

「日本は独伊と互いに利用しあおうとしたが、実際の効果は得がたく、却って自身の孤立を深め、危機を招くのだ。日本が手に入れたのは、有名無実の同盟関係だけで、反対に中国は強大な戦友を獲得したのだ」

三国同盟の仮想敵国はアメリカでした。イギリスとの戦争に参戦させたくないドイツ、中国との戦争に介入させたくない日本。枢軸国のその思惑が、アメリカと中国を接近させると蔣介石は見ていたのです。このとき、日本が別の思惑も抱えていたことが明らかになりました。三国同盟の条約案の骨子を作るための、外務省、陸軍省、海軍省の中堅官僚による会議の議事録が残されていました。

実務を担う官僚たちが口々に語っていたのは、アメリカではなくドイツへの懸念でした。

柴中佐(海軍省)「戦後ドイツは、南洋・支那などを狙って経済的に大いに進出してくるだろう」

安東課長(外務省)「蘭印仏印については、ドイツが日本に政治的指導権を認めまいとするのではないか」

高山中佐(陸軍省)「今の所、日本としてはドイツが仏印蘭印をも、政治的にとらんとする意向のものとして考え、これに対処しなければならぬ」

(昭和15年7月12日及び16日 「日独伊提携強化ニ関スル陸海外協議議事録」より)

戦前戦中の外交史料を発掘してきた東北学院大学の河西晃祐(かわにし・こうすけ)教授。

河西教授「ドイツの勝利というものを信じ過ぎて、それに賭けてしまった外交交渉であったことは間違いがないと思います」

三国同盟の条文には、ドイツとイタリアがヨーロッパで、日本がアジアで、それぞれ指導的地位を占めることが盛り込まれていました。ドイツ勝利のあと、イギリスやフランスのアジアの植民地や権益を分け合うのが、日本の大きな狙いだったと河西教授は分析します。

河西教授「複数の外交資料で述べられているのですが、もはやこのまま戦争はドイツの勝利によって確実に終わってしまう、そのように多くの政策決定者が考えだしていきます。このまま戦争が終わってしまえば、フランスやオランダの本国をドイツが占領しておりますので、国際的な政治の流れからいえば、蘭印や仏印といった、日本にとって非常に重要な東南アジアの植民地が、ドイツの手に渡ってしまうということを深く危惧していました。三国同盟というのは、それを防ぐために締結された側面が非常に大きいと考えております」

<三国同盟が中国を利した>

日本の三国同盟締結に活路を見出した蔣介石。このとき展開したのが、老練な外交戦略でした。アメリカ同様に支援を求め続けてきたイギリスの大使に、日本への抗戦をやめることを示唆していたのです。

イギリスは、本土攻撃を狙うドイツと「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる熾烈な戦いを強いられていました。蔣介石が対日戦から手を引くこと。それは、日本の眼がイギリスのアジア権益に向けられてしまうことを意味していました。

蔣介石「我々がイギリスとアメリカに切望することは、外からの手助けだけでなく、仲間として利害をともにすることです。我々は2か月のうちに新しい局面に適応する新たな政策を決めるつもりです」

英大使「英米の提携がない場合、中国はどうしますか?」

蔣介石「検討中です。いまは言えません」

抗日戦の中止をほのめかすなど、イギリスやアメリカに様々な形で働きかけた蔣介石。

三国同盟締結後、アメリカは鉄鋼業に不可欠な「くず鉄」の日本への輸出を禁止。一方、中国はアメリカから、5000万ドルの借款の追加と航空機の提供を受けたのです。

<蔣介石  目的のために手段を選ばず>

蔣介石の膨大な日記を読み解いてきた中国人研究者、鹿錫俊(ろく・しゃくしゅん)教授。

日本が三国同盟を結んだ1か月余りあと、1940年11月の日記に、世界史を変えていたかもしれない記述を発見しました。

「アメリカやイギリスと同盟が結べなければ、日本との戦争を継続するかどうか考え直さねばならない。今日の外交政策には、英米路線、独日路線、ソ連路線という3つがある」(蔣介石日記1940年11月14日・15日 雑録)

「独日路線」。米英ではなく、日本など枢軸国側と講和し、連携するという選択肢も念頭に置いていたのです。

鹿教授「『三国同盟の締結によって、日本の国際的な立場はもう決定的に悪くなった。だから、もし日本がちゃんと自分の置かれている立場を理解しているならば、対等・平等な講和に応じてくれるはずだ』と蔣介石は思っていました」

当時、刻一刻と変化していた国際情勢の中で、どの国とどの国が切り結ぶか、一寸先が見えない状況が続いていました。蔣介石は、国家の再興という目的のために、状況に応じて手段を変えることをいとわなかったのです。

「中日の平和を実現したあと、中日提携の気勢を利用して、米英ソに中国との切実な提携を実行させる。これによって中国は国際社会において、真の平等な地位を獲得し、中華民族を解放し、我が抗日戦の最終的な目的を達成する」(蔣介石日記1940年11月27日 雑録)

<既成事実への屈服 日本の誤算>

1940年7月、近衛文麿が再び総理大臣の座に就いた日本。日中戦争に関する新たな方針が打ち出されました。陸軍は、それ以前から工作活動を通じて、国民党ナンバー2の座にあった汪兆銘(おう・ちょうめい)を懐柔。別の国民政府を南京に作り、汪兆銘に担わせようとしていました。

そして、この汪兆銘の政権を日本が正式に承認することで、日中戦争の解決を図るという奇策でした。 この方針が既定路線になる中で、近衛内閣は、蔣介石との和平も模索していました。汪兆銘との交渉が大詰めを迎える中で、蔣介石との和平工作を担ったのが、外務省の田尻愛義(たじり・あきよし)。香港で蔣介石との仲介者と接触した田尻が、日本へ送った暗号電報が今回見つかりました。

「速やかに日本との和平に向けた協議を開始する旨、正式に日本側に通告された。ここまでの経緯から、蔣介石側の誠意は、極めて信頼性の高いものと判断してよいだろう」

蔣介石の使者が、交渉開始の条件として田尻に伝えたのが、「汪兆銘政権を承認しない」こと。そして「中国からの撤兵」でした。田尻の報告を受けた近衛文麿のメモが残されていました。かつてない大幅な譲歩となるものの、この二条件を原則「承認する」と記されていました。

しかし、日本と蔣介石の和平は幻と終わります。

1940年11月28日、事実上の最高国策決定機関・大本営政府連絡懇談会での、蔣介石との交渉の経過を報告するために、会議に呼ばれた外務省職員の回想です。

外務省・太田一郎氏の戦後の証言より「蔣介石との交渉の経緯を報告したところ、誰も発言するものがなかった。沈黙が暫く続いた後に、陸軍出身の鈴木貞一・興亜院政務部長が、『海のものとも山のものとも分からぬ交渉を続けているうちに、もし汪兆銘に逃げられてしまったら、誰が責任を取るのか』と発言した。しかし、これに対して発言するものは、1人もなかった。近衛首相も発言しなかった」

結局、近衛内閣は、蔣介石との交渉継続ではなく、陸軍が既成事実化していた、汪兆銘政権の承認を選択しました。

香港で交渉に奔走していた田尻が最後に日本に送った電報です。

「既定路線にとらわれずに、承認を延期することを切に願います。大局を見誤ることのないように祈ります」 (昭和15年11月29日「在香港矢野総領事より松岡外相宛て電報第670号」より)

汪兆銘政権承認決定を知った蔣介石の日記です。

「日本は無礼で信義のない国である。これ以上の交渉は絶対にしないと部下に強く言った」(蔣介石日記1940年11月28日)

日本と蔣介石との直接和平の道は、ついに絶たれました。

日本が承認した汪兆銘政権は、求心力を持つことはできませんでした。1944年に汪兆銘は病死。そして、太平洋戦争が終わると、政権の要人は反逆罪で処刑されました。

<開戦へ 日中米英の攻防>

日中戦争勃発から4年。1941年7月。日本は、中国との持久戦を維持するために、天然資源の確保を狙った軍事行動を開始します。アメリカの対日石油全面禁輸を招いた「南部仏印進駐」でした。

蔣介石とアメリカの特使との会談記録から、南部仏印進駐をめぐる新たな事実が分かりました。対日石油禁輸だけでは不十分だとして、蔣介石は日中戦争を一気に解決する提案を働きかけていたのです。

蔣介石「ひとつは、ルーズベルト大統領から英ソに、中国と同盟を結ぶよう提案してほしい。もうひとつは、中国がアメリカやイギリスなどによる、太平洋の防衛会議に参加できるようにしてほしい。中国は太平洋の安全を脅かす日本と戦っているのに、参加が認められないのはおかしいではないか」

しかし、アメリカとイギリスは、この求めには応じませんでした。

1か月後の、蔣介石の日記には、激しい言葉で失意が記されていました。

「米英政府の本音と対応は極めて卑劣である。日本に対して、ただ現状維持だけを希望している。現状維持は、日本の中国侵略を容認することで、その本質は黄色人種に殺し合いをさせることだ」(蔣介石日記1941年8月20日)

アメリカを通じた日中戦争の解決に舵を切っていた近衛文麿。首脳会談を提案するなど、アメリカとの関係改善も模索し続けていました。ほとんどの指導者たちは、アメリカとの圧倒的な国力の差を自覚していました。

1941年11月。アメリカもまた、この段階でも、日中戦争への直接的な介入を避けようとしていました。アメリカが各国に意見を求めた、日本との「暫定協定案」。その骨子は、日本が南部仏印から撤退することと引き換えに、アメリカが一定程度の物資を提供するというものでした。しかし、それまでの交渉でアメリカが日本に求めていた「中国からの撤兵」は消えていました。

暫定協定案の詳細を聞いた蔣介石が、アメリカに送ったメッセージが残されています。

「日本軍の撤兵問題が解決されないうちに、アメリカの日本への経済制裁が少しでも緩和されれば、中国の抗日戦は直ちに失敗してしまう。中国の国民は中国がアメリカの犠牲にされたと思い、民主主義に対するアジア民族の信頼も喪失する」(1941年11月24日)

強い危機感を持った蔣介石は、各国の首脳に打電し、協力を強く呼びかけました。このとき、太平洋戦争開戦へと歴史の歯車を回したのは、イギリスの首相、ウィンストン・チャーチルでした。西ヨーロッパのほとんどの国がナチス・ドイツに制圧される中で、ただ一国のみ、枢軸国との死闘を続けていました。

チャーチルはルーズベルトに電報を送り、暫定協定案への懸念を伝えていました。

「日本との交渉は大統領にお任せしていますし、これ以上の戦争も望んでいません。ただ一つの懸念は中国です。もし中国が崩壊すれば、我々の直面する危機はさらに大きくなるでしょう」(1941年11月26日)

蔣介石がチャーチルに宛てた電報も残されています。戦況悪化を過大に伝えることで、イギリスの介入を引き出そうとしていました。

「完全に信頼できる筋から情報が入った。日本が南部からの攻撃によって、中国とイギリスとアメリカとの連絡を切断するというものだ。長期にわたる戦争の中で、初めて私たちの抗戦が崩れる深刻な危機に瀕している。私たちの未来はあなたの手の中にある」(1941年11月2日)

この文書には、チャーチルが自らの手で記したメモが残されていました。

「我々は、彼を助けるべきだ」

太平洋戦争開戦の経緯をイギリスの視点で研究してきたアントニー・ベスト教授は、チャーチルが恐れていたのは日本が交渉条件をのむことで、アメリカが開戦に踏み切らないことだったと言います。ナチス・ドイツと厳しい戦いを強いられていたイギリスにとって、アメリカの参戦は勝利の絶対条件だったのです。

ベスト教授「イギリスはアメリカに従うしかありませんでした。ヨーロッパでの戦いにおいて、アメリカの助けが必要だったからです。最も大事なのは中国が戦い続けることでした。中国が『西欧列強の同情を得られない』と感じたら、日本と講和してしまうことを防げなくなります。そういう政治的な考えが、常に背景にありました」

最終的にアメリカは、日本に妥協的な暫定協定案を破棄。改めて、交渉に応じる条件を示しました。そこでは、中国からの日本軍のすべての撤退が条件とされ、交渉の過程で示されていた日本の立場を理解する言葉も一切なくなっていました。そしてこの条件を、日本は最後通牒と受け取ったのです。

真珠湾攻撃の1か月前の御前会議の議事録です。

「おもうに撤兵は退却なのだ。(中国には)百万の大兵を出し、十数万の戦死者遺家族、負傷者、四年間の忍苦、数百億の国費を費やしてきた。この結果はどうしても結実させなければならない」(御前会議議事録 昭和16年11月5日)

日中戦争を収拾できなかった日本。ついにアメリカとの開戦を選択しました。この翌日、蔣介石のもとに、電報が相次いで届きました。チャーチルとルーズベルトからでした。

チャーチル書簡「イギリスとアメリカは日本に攻撃されました。あなたとはこれまでも友人でしたが、いまは、共通の敵に直面しています」

ルーズベルト書簡「私は貴殿と貴国の勇敢な人々に協力できることを誇りに思います」

甚大な死傷者を出しながら、日中戦争の国際化を達成した蔣介石。開戦のまさにその日の日記です。

「本日、我が国の抗日戦略の成果は頂点に達した。しかし、物事は極まれば必ず反す。警戒しなくてはならない」(蔣介石日記1941年12月8日)

踏みとどまる機会が何度もありながら、開戦への道を歩んだ日本。310万人が命を落とした日本の戦争は敗戦で終わりました。長期持久戦で中国国民の支持を失った蔣介石。この4年後、共産党に追われ、失意のうちに大陸を去りました。

開戦をめぐる指導者たちの選択。戦いのあとに残されていたのは、おびただしい犠牲でした。