認知症の母と脳科学者の私

NHK
2023年2月15日 午後3:20 公開

(2023年1月7日の放送内容を基にしています)

♪ハッピバースデー、ママー。ハッピバースデー、ママー♪

私は、この7年間、母が母ではなくなるのではないかと怯えてきた。7年前、私の母は、アルツハイマー型認知症になった。この7年間、母の中に残っている、母らしい感情を探し続けてきた。

私は、脳科学者として、ヒトの感情と脳の働きの関係について研究してきた。だから、通常の介護とは違う向き合い方になった。

脳科学者/恩蔵絢子さん「(認知症が)理解不可能な像ではなく、理解可能な像になる。そういう意味では、(脳科学には)たくさんの救いがありました」

認知症には、根本的な治療薬はない。進行自体を、抑えることもできない。母の脳は、記憶がほとんど定着しない状態になっていく。

医師「2以上が相当萎縮してますね。で、前回1.99。今回の結果が3.93ですよね。数値的には倍くらいになっている」

医師「時計、描いてみる?」

絢子さん「描けるよ、ママ」

恵子さん「もういいからいいよ。いいよ、いいよ」

医師「描けないか」

それでも、私には、今も母らしさが失われているとは思えない。

恩蔵絢子さん「重度になっても、知らない母はまだまだ出てくる。認知症になろうが何しようが、母は残っていると思っているから、その母を理解したい」

認知症の母に向き合い続けてきた7年。それは、私にとって、母と出会い直す日々でもあった。

<母が65歳で認知症に>

2021年5月。脳科学者、恩蔵絢子さんの母親、恵子さん70歳です。

恩蔵さんが料理をしているのを見ると、必ず台所にやってきます。このころ、ひとりでは料理ができなくなっていました。

絢子さん「またカレーなんですけど」

恵子さん「いいじゃないそれで」

絢子さん「いいですか。よかったです」

絢子さん「ママ、トマト切る?」

恵子さん「トマト切るよ」

絢子さん「うそ?マジ?切ってみる?すごいじゃん。はい、お願いします」

絢子さん「すごいじゃん、ママ」

恵子さん「よいしょ、よいしょ。よいしょ。よいしょ、よいしょでした。そうでしたねえ」

何を作っているか途中で忘れてしまう恵子さんは、ひとつの料理を作りきることはできません。それでも、長年続けてきた「包丁で切る」という動作は、体で覚えた記憶として残っていました。

恩蔵さんが、恵子さんの異変を感じたのは、8年前のことでした。

当たり前にできていた料理をやらなくなったのです。嫌がっていた恵子さんを病院に連れて行くと、認知症と診断されました。65歳の時でした。

認知症は50代や60代で発症すると、症状の進行が早い傾向があります。

「母が母でいられる時間が、残り少ないのではないか」恩蔵さんは、怖れを抱きました。

恩蔵絢子さん「『私のこと忘れたら、それは母なの?』って。それはもう違うじゃんっていうか、人が変わったってことじゃんって。理解可能じゃない姿に、母がなってしまうってことだったら、困っちゃうっていうことだった。つながりようがないイメージ」

<認知症になっても 変わらない母も存在していた>

料理が得意だった恵子さん。口癖は、「なんでもやってあげるよ」。毎日違うメニューが並ぶ食卓。家族はいつも、楽しみにしていました。

音楽大学を出た恵子さんは、歌やピアノも得意で、40年以上自宅で音楽教室を開いていました。仕事をしながら、家事もこなす完璧な母親でした。

恵子さんが認知症になって以来、恩蔵さんは、父親の實(みのる)さんと、自宅で介護を続けてきました。できなくなることは次第に増えていきましたが、これまでと変わらない母親からの愛情を感じることも、少なくありませんでした。

恩蔵さんは、介護を始めて間もない頃から、母親の姿を日記に記録してきました。

「中指が腫れた。ペンも箸も持てない。ママが心配して、『お料理も私がやってあげるから、座っていなさい』。朝も『大丈夫?』と、全然忘れていない。何でもやってあげるんだという気力に満ちて、病気の母では全然なかった」(恩蔵絢子さんの日記/2016年10月15日・診断から1年)

「ママのお誕生日の日が、ちょうど学会で、『あら、じゃあうまくいくわよー』と明るくはげまし祈りの言葉を返してくれたのが本当に嬉しかった。どうか、このまま。神様」(恩蔵絢子さんの日記/2016年10月18日・診断から1年)

<名前も季節も答えられなくなった母>

恵子さんの症状は、少しずつ進行していきました。

2021年6月、恵子さんの要介護度を判定するために、ケアマネージャーがやってきました。

ケアマネージャー「きょうは認定調査をさせていただきたいので、いくつか質問させて下さい。お名前を教えて下さい」

恵子さん「そんなのわからなくなっちゃったよ」

ケアマネージャー「わかんなくなっちゃった?お名前は?」

實さん「さっき言ってたよ」

恵子さん「さっき言ってないじゃない」

ケアマネージャー「夏生まれ?」

恵子さん「夏生まれじゃないね」

ケアマネージャー「10月かしら?」

恵子さん「10月じゃないね」

ケアマネージャー「11月?」

恵子さん「なんだったっけ。忘れちゃった」

名前も誕生日もわからなくなった恵子さん。

恩蔵さんは、娘としてだけでなく、脳科学者としても、母親の認知症と向き合い続けてきました。

都内の大学で、脳科学を教えている恩蔵さん。人の感情と、脳の働きの関係について研究してきました。その知識を、活かすことができないか。

恩蔵さんは、恵子さんの日常を記録し、脳を分析することで、母らしい感情が残り続けることを確かめたいと考えてきました。そして、そのことを通して、認知症の人や、その家族の役に立てればと思ってきました。

「今までできたことができず認知能力の衰えによって、一部『母らしさ』が失われるのは、疑いなく事実である。しかし、認知能力が衰えても、残っている『母らしさ』があるならば、それは一体何なのか?母の感情を拾って、母をもっと深く理解することができたら良い」(恩蔵さんの著書「脳科学者の母が、認知症になる」)

<脳からは“母らしい感情”を証明できなかった>

恩蔵さんは、恵子さんが認知症と診断された時から、脳を定期的にMRIで撮影してきました。脳の各部位の変化を知ることで、恵子さんの行動や感情について、理解したいと考えたのです。

2021年7月に撮影された脳の画像は、恩蔵さんにとって衝撃でした。

恩蔵絢子さん「なんか本当にすごいシワが(目立つ)。後ろに比べて、前側がすごく(脳の)密度が小さくなっている」

脳の中枢「前頭葉」。知性や、複雑な感情に関わる領域です。

これまでの脳の画像を重ねると、黒く見える溝の面積が広がっていることがわかります。前頭葉全体の萎縮が、これほど広がっているとは思いもしませんでした。

恩蔵絢子さん「自分の母の複雑な感情が残っているって言いたいんですけれど、そこ(前頭葉)だけで見ると、意外と自分が思ったよりも、結構ダメージがあるんだなと自覚した写真になっています。自分の示したい人格(母の複雑な感情)は、示せそうもないというのが、今日の感覚。証拠がない」

<音楽に触れて母らしさがあらわれた>

脳の機能が失われつつあっても、母らしい感情は、残り続けると考えていた恩蔵さん。恵子さんが大好きだった音楽を使った取り組みを始めました。音楽療法です。

認知症になり、自宅の教室を閉めて以来、音楽からは遠ざかっていました。

音楽療法士「何か歌いたい歌が?」

恵子さん「もう歌っていなかったからね」

音楽療法士「そうだね。知ってそうな歌、たくさんありますね」

恵子さん「ないわよ」

音楽療法士「ない?本当?恵子さん歌っていたんでしょう?前」

恵子さん「そうだけどね、もう悪いからね。もうだめ」

恵子さんは、気が乗らないように見えました。

恵子さん「真っ赤だなー真っ赤だなー」

音色に合わせて歌い始めました。

恵子さん「咲いたー咲いた」

音楽療法士「チューリップの」

恵子さん「チューリップの」

音楽療法士「花が」

恵子さん「花が」

音楽療法士「並んだ」

恵子「並んだー並んだ」

音楽療法士「赤白黄色、きれいだな」

恵子さん「きれいじゃないよ。何言ってんの」

実は、前頭葉の萎縮が見られたMRI画像には光明がありました。運動に関わる小脳が、比較的保たれていたのです。この部位は、音楽などでも、重要な役割を果たすことが知られています。

「母は眉毛をよせて、本当に気持ちを込めて歌っていた。こんな芸術の表現ができることは介護認定のチェックリストにまったく入っていない。誰にも認められずに埋まっていた」(恩蔵絢子さんの日記)

<ネガティブな言葉ばかり吐く母>

2021年11月。恵子さんに変化が起きていました。

この日は、恵子さんの71回目の誕生日。恩蔵さんは、母親に喜んでもらいたいと、花束を用意してした。

絢子さん「じゃあ、ママに(生け花)任せるからね、ここからは」

恵子さん「そうなの」

絢子さん「どう花瓶に生けても自由だよ」

恵子さん「すごいじゃない。もうダメだね、ダメだよ」

そう言って、恵子さんは椅子に花をさしてしまいました。

絢子さん「そこはね、どうかな。確かにかわいいんだけど、水がないと花も死ぬんで」

絢子さん「ハッピーバースデー恵子」

恵子さん「何が恵子よ。すごいね」

絢子さん「お誕生日おめでとう」

恵子さん「そうだね。はいはい」

父親の實さんが話しかけると、恵子さんは、思わぬ言葉を口にしました。

實さん「ママ、きょうの花はどう?」

恵子さん「何を?」

實さん「花があるけど」

恵子さん「わからない。バカだから」

絢子さん「えっ、何それママ」

恵子さん「いいの。いいの」

この頃から、恵子さんはひとりで身の回りのことができなくなり、ひとつひとつの動作に時間がかかるようになっていました。

實さん「ここ座って。暖かいのあるから」

恵子さん「なんだかわからないから」

絢子さん「ママ、ここに寝る?」

恵子さん「うん」

絢子さん「じゃあ寝よう。ここに、ボーンと(横に)なってごらん。ママ」

恵子さん「だからね、ね。こっちの方がいいんじゃないの」

布団に寝かせるまでに、20分以上かかることもありました。

絢子さん「ママ、寝よう」

實さん「ここ足を入れて。つま先。足を入れて。こっちを向いて」

恵子さん「ちょっと違うんだよ」

實さん「違うの?」

恵子さん「だって・・・なんだったかな」

實さん「ちょっと寝てみよう。ちょっと斜めだけど大丈夫?」

恵子さん「よし、オッケー」

この時、恵子さんは、また思わぬ言葉を口にしました。

恵子さん「もう早く逝かないとね」

實さん「(電気)消すよ」

恵子さん「いいですよ。バカだからね」

絢子さん「なんでそんなこと言うの」

恵子さんは、何かを求められてできなかった時に、ネガティブな言葉を口にするようになっていました。

<脳からも見えてきた 母らしい感情>

この日、恩蔵さんは、恵子さんの脳をより詳しく分析するために、東北大学の研究室を訪ねました。

分析を依頼したのは、瀧靖之(たき・やすゆき)教授。世界でも有数の脳画像のデータベースを保有し、脳の変化について研究してきました。

今回、解析したのは、黄色く囲まれている脳の灰白質と呼ばれている部分です。この箇所の変化を計測できれば、より正確に脳の状態がわかります。

東北大学/瀧靖之教授「灰白質と呼ばれているのは、主に脳の外側にありまして、神経細胞がメインに集まっているところです。一般に灰白質の体積というのは、例えば、そこを担う様々な認知機能、考えたり判断をしたりする機能と関係がある」

認知症ではない45人と、恵子さんを比較します。萎縮が進んでいる箇所が赤やオレンジ、進んでいないところが、緑で示されました。

集中力や判断力に関わる、背外側前頭前野(はいがいそくぜんとうせんや)。

さらに、罪悪感や、後悔などの感情に関わる前頭眼窩野(ぜんとうがんかや)が比較的保たれていました。

瀧靖之教授「私たちが考えている以上に、いくつかの高次認知機能というのは、いわゆる質問紙とか検査では分からなくても、案外保たれているところがあるのかなと思いますよね」

恩蔵絢子さん「うれしい、悲しいとかではなくて、少し高次の感情を母が持っているという感覚を持っていたので、そういうのは、どういう脳の部位から説明できるんだと思っていたので、この結果は、私としてはn=1(母だけの結果)なんですが、本当にうれしいなと思す」

恵子さんが口にするようになったネガティブな言葉。逆にそれは、“恵子さんらしさ”のあらわれだったのだと、恩蔵さんは気付きました。

「『バカだから』というような言葉は、結局、母が母自身に思っている感情なのだ。人が自分に何かを求めている。家族が自分に何かを期待している。でも応えられない。『わからないんだよ、バカだから』。母は少なくとも、自分の状態を恥ずかしいと思っている。それは『一生懸命生きたい』という気持ちの裏返しなのではないのかな」(恩蔵絢子さんの日記)

<言葉で伝えられなくても、大切な記憶は残っている>

脳科学者の恩蔵さんが、認知症の母親と向き合い続けて7年。それは、意外な発見の日々でもありました。

この日、ケアマネージャーとの何気ない雑談から、恵子さんが多くのことを記憶していることがわかりました。

ケアマネージャー「何が好きだったんでしたっけ。ごはん」

恵子さん「なんだろうね」

何が好きかを聞かれても、答えることができない恵子さん。

ケアマネージャー「お芋の料理は何が好きでしょう?」

恵子さん「わかんないね」

ケアマネージャー「肉じゃが?」

恵子さん「あ!それはいい」

ケアマネージャー「好き?肉じゃが好き?」

恵子さん「うん」

ケアマネージャー「肉じゃが好き?あとは甘いお芋の料理。大学芋?」

恵子さん「うん」

ケアマネージャー「好き?」

恵子さん「うん」

具体的に問いかけられると、意思を示すことができました。

これは、脳科学では「再認」と呼ばれています。認知機能が低下しても、YESかNOかで答えられる質問をすれば、意思が確かめられることがあるのです。

絢子さん「ママが作ってきた芋料理って何?あっ、ママといえば里芋だね」

恵子さん「里芋だよ」

絢子さん「絶対そうだね」

恵子さん「うん。一生懸命やったんだよ、私」

絢子さん「そうそう、ママ、本当にそう。お正月は3日間困らないように、お雑煮の里芋やってくれたね」

恵子さん「すごいね」

絢子さん「すごいよ」

恵子さん「じゃあ、みんなとやる?」

絢子さん「今度やる?」

恵子さん「どうする?」

絢子さん「やってみる?やってみよ」

<台所に来なくなった母>

恵子さんの脳に残された多くの機能。それでも、日常生活では少しずつできないことが増えていきました。

恩蔵絢子さん「あまり(台所に)来てくれることがなくなってしました。それがもう、来てくれていたことは、ありがたいことだったんだなって感じがしたり」

ひとりで食事をとることも、難しくなりました。

<記憶を失う母と向き合い 脳科学者が思い出したこと>

料理ができなくなった母。名前が言えなくなった母。台所に来なくなった母。

恵子さんの介護を続ける中で、恩蔵さんには、さまざまな母の記憶が蘇るようになっていました。

恩蔵絢子さん「朝、トットットって音がして、階段拭いてるなって、1個1個。そういう音が聞こえて起きるとか。軽快に上って、軽快に下りていく感じとかは覚えていて、とにかく止まっていることがない人だった」

恵子さんは、自分のことよりも、常に家族のことを優先する母親でした。

恩蔵絢子さん「父、私も兄も3人いて、それが毎日朝と夕(車で)送り出すのと、迎えるの6回毎回やって。『夜遅いんだから、危ないんだから電話しなさい』って、終電まで迎えに来てくれて。人が頼んだことに、嫌だっていうことがまずない」

恩蔵さんは、大学院を卒業後、海外留学するなど、自分の好きな研究に没頭してきました。恵子さんが認知症になって初めて、母親の人生について考えるようになりました。

恩蔵絢子さん「今まで本当に何でもやってくれ過ぎて、それが当たり前で、何も振り返らなくてもいいようにしてくれていたぐらい、空気で。異変が起こって初めて考えなきゃいけないものが、ここにあったって気付いて。母のこと何も知らなかったって思った」

恩蔵絢子さん「あれだけ世話になって。なのに能力だけで判断して、それで母が死んじゃったりしたら、母も救われないし、何もできなかったって。1個も。母にとって、やってもらうばっかりで」

<脳科学者でなく、娘として抱いた願い>

2022年の夏。 恩蔵さんは、家族旅行に出かけました。元気だったころ、恵子さんは家族旅行を何よりも楽しみにしていました。

恩蔵絢子さん「本当に最後かもしれないって思ったから。本当に母の感情が残っている、そういうところも見られるし、どういう人か、どういう能力が残っているかというのも、一番見えるような気がして。それは自分自身が確かめたいことでもあるし」

恵子さんは、認知症になってからも、旅先では豊かな表情を見せてきました。

日常生活が難しくなっても、新しい環境を用意すれば感情が動くのではないかと、恩蔵さんは考えてした。

恩蔵絢子さん「一生懸命、客観性を保とうとしても、どうしても無理で。ぼーっとしているような姿を見ていたくないっていう気持ち。はっきりいろいろ見えた世界に引っ張ってこようとするような振る舞いを、やっぱりたくさんしていると思います。母の感情が枯渇しちゃう。本当になくなっちゃう時が来るのかな」

<母らしさを確かめられた大切なもの>

恩蔵さんのために、父親の實さんが、あるものを取り出しました。

400以上のレシピが記された、恵子さんのノート。毎日家族のために、違う料理を作っていた恵子さんが、大切にしていたものでした。

絢子さん「あ!茶碗蒸し。好きだったから引き継ぎたいと思って、自分が台所に立つようになった時にやってみたけど、うまくいかなかった」

茶わん蒸し、4人前。鶏肉、かまぼこ、みつば・・・。だし汁が煮え立ったら塩、醤油、調味料、肉、シイタケを煮る。さめたスープをお茶碗に入れ、かきまわす。中火で15分くらい蒸す。

恵子さんの茶碗蒸しは、具だくさん。ダシが効いていて、家族みんなが大好きでした。

絢子さん「これが知りたかったんだよ、ママ」

絢子さん「(同じ料理を)決して繰り返さないぞという。忙しかったろうに。こんなできないね。牛肉と野菜の炒め方。揚げ物のコツ。カステラまで作ろうとしている。買うだろう、普通。ニンジンケーキよく食べたよね。覚えている。私好きだった」

絢子さん「これを見たら、こういう人だったんだっていう感じがする。できなくない?こんなの。どういう子育てしていたんですかって」

<『やってあげるよ』 久しぶりに母に会えた>

認知症になると、少しずつ脳の機能は失われていきます。恩蔵さんも、その重い現実を突きつけられてきました。しかし、それでもその人らしさは残り続けると、強く思うようになっていました。

ある日、恵子さんの散歩についていった時のことでした。恵子さんが歩き出したのは、昔から、恩蔵さんと一緒によく歩いた道でした。

恵子さん「あとでやってあげるね」

絢子さん「やってくれるの?」

恵子さん「やってあげるよ」

絢子さん「本当?」

恵子さん「そうだよ」

元気な時の口癖だった「やってあげるよ」。そう言って向かったのは、野菜の直売所。再び立ち止まったところも、野菜の直売所でした。

絢子さん「ここでいつも、ママお野菜買ったりしていたものね。知っているところなんだ」

恵子さん「少しね、やってみようか」

絢子さん「うん、やってみようか」

恩蔵絢子さん「昔の母に会えたという感覚に近いかも。『やってあげるよ』って言われると、そうだった、そうだったって。こういう人だった。母親っていう意識も、すごくあるんだと思いますね。娘がここにいるっていう感覚も、もちろんあっての言葉だとは思うんですね。『やってみようか』なんて、あまり他の人にとっては言わないかもって」

脳科学者として、娘として、認知症の母と過ごす日々。

それは、これまで気付けなかった、母と出会い直す時間でした。

<母らしさは、一生懸命生きる姿そのもの>

「なんでもやってあげるよ」

そう言って、いつも私たちのために台所に立っていた母。そういえば私は、小さいころ、台所でいつも母親の顔を見上げていた。

この日、私は母のレシピを見て、あの茶碗蒸しを作ることにした。

恩蔵絢子さん「あまりにも来ないから振り向くじゃないですか、そうすると今もだけど、ああやって目が合う。簡単に目が合って、笑ってくれる」

「母に残っている感情とは何なのか。激しいほどの『何かやりたい』という気持ち、具体的には『人の役にどうしても立ちたい』という気持ちである。今私は、母がじっと私を見つめていることすら、『料理を作りたい』という気持ちのあらわれなのだと感じている。母はそうして今も私と一緒に料理を作っている、と言えるのではないかと」(恩蔵絢子さんの日記)

絢子さん「ママ、来てくれたの?見てママ、ちょっと見て見て。今茶碗蒸しを作っててね、これで合ってる?」

「脳に萎縮が広がって、食べるのが難しいほどになっても、母は私が困っている時に台所に来てくれた。母は一生懸命な人である。他人の役に立ちたいと、ずっと心を動かしてくれる人である。完璧だった母から、認知症になった母まで、すべてを見届けて、母らしさと呼びたい」(恩蔵絢子さんの日記)

絢子さん「どう?合ってる?」

恵子さん「はい」

絢子さん「はい、どうよ?」

恵子さん「チン」

絢子さん「チンって何よ。終わりのチン?」

實さん「合格のチン」

絢子さん「合格のチン?」

<名前を呼ばれなくなっても 母は私を覚えている>

母が、私との思い出をどれだけ覚えているのかはわからない。

でも、私はもう気付いている。この表情は、子供の頃の私を見つめていた母の表情だ。

恩蔵絢子さん「自分に対する笑顔っていうのは、違うなって思うから。それは娘ってわかっているってことじゃないですか。名前を呼ばれなくなったからといって、私のことがわかっていないかっていうと、そうじゃないっていうのを、今私ははっきり感じている」

2022年11月。この日、また嬉しい出来事があった。

私が幼かった時、同じように、この道を母と一緒に歩いた。ふと、母が言った。

恵子さん「あやちゃん行こうよ」

絢子さん「行こうよ。『あやちゃん行こうよ』って言ったでしょう」

恩蔵絢子さん「ずっと人生のなかで持続している、母が持ち続けている感情っていうのがあるんですよね。今でも私は感じていて、それがずっと流れている。その人らしさは能力ではなくて、感情にあるって思うようになった。私の記憶の中に確かな母の像っていうのができて、一生懸命な母っていうのがやっと持てて、『何ができなくなってもいいよ』って、『もう知っているよ。あなたのことは』って思っている」

そう。母は、いつまでも、母だ。