戦火の放送局~ウクライナ 記者たちの闘い~

NHK
2022年8月30日 午後1:00 公開

(2022年8月7日の放送内容を基にしています)

<戦火の放送局 母国が戦地となったとき、どう戦争を伝えるのか>

「亡くなったウクライナ軍の兵士が迎えられている様子を見たことがありますか?街のみんなでひざまずくように迎えるのです。誰かが死ぬたびに、私たちの心の一部が欠けるからです。ウクライナのジャーナリストは、ウクライナ人をただの物語の主人公として見てはいないのです。自分と重ねるように彼らを見ているのです。撮影するたびに、頭に浮かびます。『それは私だったかもしれない』、『自分の家族だったかもしれない』と」

母国が戦地となったとき、ジャーナリストたちは戦争をどう伝えるのか。

戦火の放送局、5か月の記録だ。

<戦火の放送局 1次情報を伝える>

首都キーウにあるテレビ塔。ロシア軍にねらわれた放送局があった。

ウクライナ最大のネットワークを誇る公共放送、ススピーリネ。放送に加え、ネット配信やSNSで国内外に発信を続けていた。砲撃を避けるために設けられた臨時拠点。建物の場所が分かる映像は撮影しないという条件で、内部の取材が許された。

ススピーリネ・キャスター「空襲警報が鳴ったので、地下から放送します。皆さんも避難してください」

ロシア軍による侵攻でどんな被害が生じているのか。臨時拠点では、全国に24ある支局を通じ、状況の確認に追われていた。

スムイ支局記者「私の後ろに見えるのは、完全に破壊された広場です。鉄道の駅とバスターミナルがありました」

ハルキウ支局記者「今私がいるのは、ハルキウ環状道路から南東に数キロ。住民は進むことも引き返すことすら許されず、その場で射殺されたのだ」

記者たちが大事にしていたのは、自分の目で確認した情報を伝えることだった。

ハルキウ支局記者「情報がないことは、銃と同じくらい人を破滅させます。誤った情報や嘘の情報で混乱した人々が私に問い合わせてきます。私は根拠を明らかにして、できるだけ迅速に打ち返しています」

<戦争報道 アナスタシヤ記者の葛藤>

ロシア軍が迫るキーウにとどまり、取材を続ける記者がいた。記者歴20年のアナスタシヤ・オブラズツォヴァ。侵攻直後、攻撃にさらされていたキーウ近郊の町・イルピンに真っ先に入った。

アナスタシヤ「イルピンでは、ロシア軍に鉄道を破壊されました。地元住民が避難するためには、ここでバスに乗り、その後再びバスを乗り換えないといけません」

世界中で報じられたこの攻撃の被害者も取材していた。

2022年3月6日、避難しようとしていた人たちを襲ったロシア軍の砲撃。犠牲者の中には、母親と二人の子供たちがいた。アナスタシヤは父親を探し出し、その無念を伝えた。

家族を失った父親「顔は隠されていましたが、子供の服やスーツケース、2匹の犬を入れたバッグで、亡くなったのは自分の子どもたちだと分かりました。友人たちは私を信じてくれませんでした。私が勘違いしているのだと。『いいえ、100%間違いない』と言ったんです」

このリポートは、軍人だけでなく、民間人も攻撃の対象となっている実態を浮き彫りにした。

戦争の現実を伝え続けていたアナスタシヤ。ところが、私たちに「もう現場に立ちたくない」と明かした。

アナスタシヤ「他国の悲惨な現場に行ったこともあります。人が殴られたり、殺されたり。だけど、自分と同じ国の人たちを失ったときとは比べものになりません。同じ言葉を話し、同じ町に住み、同じ音楽を聴く人たちなのです」

アナスタシヤは、父親の仕事の都合で、ソ連時代のロシアで生まれ育った。記者となってからもモスクワのジャーナリストと交流するなど、親しみを感じる身近な国だった。

しかし、取材を続けるうちに見えてきたロシア軍の残虐な行為。抑えきれない「怒りの感情」が記者としての自分を苦しめたという。

アナスタシヤ「ロシア軍の恐ろしい話を聞きました。大事な話だったので、私は泣かずに取材のメモを取っていました。でもやつらに、強い憎しみを感じたのです。人間として当然の感情ではないでしょうか。ジャーナリストとしてそれが良いことなのか、悪いことなのか、分かりません」

さらにアナスタシヤを追い詰めたのは、受け入れがたい「光景」を目の当たりにしたことだった。

アナスタシヤ「たくさんの子供が亡くなりました。そのすべてについて取材することはできませんし、したくありません。あるとき、子供の死について取材しようとして、2歳の男の子の葬式に参加しました。私は母親です。亡くなった子供たちの映像をもう撮影したくありません。将来一切、死亡した子供たちを撮影したくないのです。ごめんなさい」

<4月 検察庁との異例の協力 戦火の公益とは何か>

ロシア軍がキーウ近郊から撤退した2022年4月。400人以上の市民が殺害されたとされるブチャの虐殺など、ロシア軍の戦争犯罪の疑いが明らかになった。

ところが、ロシア側は「ウクライナ側が発表した映像を拡大すると、遺体が手を動かしている」(ロシア国営放送)と放送するなど、虐殺を否定する主張を繰り返した。

こうした中、ススピーリネは、各地で戦争犯罪の取材に力を入れていた。

チェルニヒウ支局の記者アリナ・クリメンコは、ロシア兵による性暴力の実態をいち早く明らかにした。

『16歳の少女は、ロシア兵が毎晩彼女のベッドに来たと、話してくれました。

少女「ロシア兵はいつも私の隣で寝て、レイプしないと言いながら、私をずっと触っていたのです」』(アリナ記者のリポート「少女が受けたロシア兵の性暴力」より)

事実を掘り起こし、記録し続けるアリナ。侵攻下の体験が原点にあった。

チェルニヒウ支局・アリナ記者「買い物から父親が帰ってきて、外見は落ち着いていたんですが、目はそうではなかった。『パンは?』って聞いたら、まだ熱そうな砲弾の破片を見せて『パンはないよ。あそこでいま人が死んだから』って答えたんです」

戒厳令のもと、ウクライナ軍の規制が敷かれる被害の現場。アリナは規制をかいくぐり、記録した。犠牲となった市民14人を映したこの映像。各国のメデイアが、戦争犯罪が疑われるロシア軍の攻撃として報じた。

アリナ記者「この出来事が多く取り上げられたのは、証拠映像があるからです。この犠牲について全世界が語っていましたし、ロシアは言い訳せざるを得ませんでした。事実は記録される必要があるのです」

この頃、ススピーリネのもとに、ある国家機関から一通の要請書が届いていた。

戦争犯罪の証拠の収集・分析のために、取材情報の提供を求めるウクライナ検察庁からの異例の要請。ススピーリネは、これを受け入れた。

チェルニヒウ支局・編集長「正直に言うと、非常に頭を抱える問題です。ジャーナリストはいつも中立的でなければいけません。中立の立場で、どちらの側にも立たないのが理想だと思います。しかし、現状ではそれができません。今は私たち自身や、その家族が侵攻によって、直接危険にさらされているからです」

権力からの独立。それは、ススピーリネが設立以来、求められてきたことだった。

民主化を望む市民が蜂起し、親ロシア派の大統領を追放した2014年のマイダン革命。当時、“政府の広告塔”とも揶揄されたススピーリネの前身の国営放送は、会長が辞任に追い込まれる事態にまでいたった。

ウクライナ公共放送「ススピーリネ」 ミコラ・チェルノティツィキー会長「政権が変わるたびに、国営放送がその意向に左右されるのを見てきました。本当に奇妙でした」

革命をきっかけに、市民のための放送局として再出発することになったススピーリネ。予算は国家予算から出るものの、経営陣は外部の第三者機関が選ぶことによって、権力からの独立を模索してきた。

ミコラ・チェルノティツィキー会長「どんな政権であってもメディアをコントロールしたいものです。戦時下の放送は、特有の軍事的な制限を受けます。私たちにとってこの軍事的制限が、政治的制限に変化しないことが重要です」

ロシア兵による性暴力を追及してきたアリナ記者が、容疑者を特定しようとしていた。手がかりにしたのは、アリナが依頼し、検察庁から提供された捜査資料。この地域に侵攻していたとみられるロシア兵の個人情報から容疑者を特定。この取材結果も検察庁に提供することになった。

取材班「メディアとして、公平公正でいるのは難しいですか?」

ミコラ・チェルノティツィキー会長「この質問には戦争が終わってから答えた方がいいでしょう。どれぐらい公平公正でいられたか、後から評価するのです。私たちは今できることはやっていますが、行いを振り返ってジャーナリストとして正しかったのか、どう改善できるのかを考えることは、このあと待っている大事な責務です」

<傷ついた人々と痛みを分かち合えるからこそ>

2022年5月。本部からの放送再開に向け、国内外に避難していたスタッフたちが戻り始めていた。そこには、現場の取材から離れていたアナスタシヤの姿もあった。

アナスタシヤの同僚「カメラにハグを撮ってもらおう」

アナスタシヤ「こんな映像いらないわよ」

この頃、アナスタシヤが心を痛める出来事が起きていた。

アナスタシヤが出演し、ブチャの虐殺を伝えたネット動画。そこに、ロシアの主張を信じる人たちからの中傷コメントが数多く寄せられたのだ。

「これはウクライナ軍の自作自演」、「嘘をつくのは簡単だ」、「ロシア兵がこんなことをするはずがない」

アナスタシヤ「信じたくない気持ちは理解できます。それが人間の本質でしょう。彼らが納得することはありません。何があったのか、起きたことを伝えても、疑われることが増えました。ロシアのプロパガンダが、真実よりも効果的に機能しているのです」

事実がゆがめられていくなかで、記者として自分に何ができるのか。

アナスタシヤが向かったのは、侵攻下での取材の原点となった場所だった。

アナスタシヤ「イルピンで初めて取材した場所です。当時は、今よりずっと怖かった。町中あちこちで爆発があったし。あのときはこの国旗はなかったわ。ここに住んでいた人が持ってきたのね」

アナスタシヤ「どなたが国旗を掲げたのか、ご存じありませんか?」

女性「あの窓はご近所さんですが、まだウクライナに戻ってきていません。誰が掲げたか、わかりませんが、義理の息子さんは戦争に行ったはずです」

出会ったのは、避難先から一時的に戻ってきていた住民。

女性「花が多い中庭で居心地がよかったけど、今はみっともないですね」

アナスタシヤ「またロシア軍が襲ってきたら、どこに逃げたらよいのでしょうか」

女性の夫「もう全部盗んでいった。何も残っていないから来ないでしょう」

女性「前は『あれも足りない、これも足りない』と思って、買い足さないとって思っていましたが、今思えば、何でもありました。今はフライパンや鍋さえありません。なんとかなればいいけど」

アナスタシヤ「泣かないでください。私もこみ上げてきました」

女性「泣かないと決めていたのに・・・良い生活を思い出すと・・・」

戦争で傷ついた人たちと共に生き、痛みを分かち合えるからこそ、伝えられる現実があるのではないか。

アナスタシヤ「この砲撃されたマンションの国旗は象徴的ね。魂みたい。あなたも全部取り戻せるはずよ」

アナスタシヤは、再び取材に戻ることを決めた。

アナスタシヤ「私たちウクライナ人のジャーナリストが、これほど痛みを感じていることが、良いことなのか、悪いことなのか、私には分かりません。ただ、その感情が事実を伝える妨げにはならないと、今は確信しています。痛みを理解して、自分自身に向き合わなければ、この悲劇を伝えることはできません。諦めたくなることもあります。この1年を乗り切れないんじゃないかって。だけど、私は逃げたくありません」

<東部の戦闘激化 ススピーリネが受けるプロパガンダ、脅迫>

侵攻から3か月。東部のマリウポリが掌握されるなど、ロシア軍の支配地域が拡大。ススピーリネの支局も閉鎖され、情報が届けられない空白地帯が生まれていた。

この日、ススピーリネの本部に衝撃的な映像が飛び込んできた。

ロシア軍に占拠されたへルソン支局から、親ロシア派と見られる男性が、内部をリポートし、ススピーリネをおとしめようとする動画が配信されたのだ。

「へルソンで代表的な汚職会社であるススピーリネの放送局は、あらゆる点で時代遅れです。これほど古い機材は見たことがありません。彼らの思想は、『ウクライナはロシアではない』に始まり、その後『ロシアは敵であり、歴史的な宿敵だ』としているのです。本棚には極右の本とパンフレットまでありました」(新ロシア派と見られる男性がアップした動画より)

ススピーリネ報道局長「こんな古い機材は見たことがないと言っていますが、実際には新しい機材はありました。私たちの知る限り、それは盗まれたか、オフィスから運び出されたのです。そして単なる戦争の本を、ウクライナの極右本だと言っています。胸が痛いです。ここはへルソン支局の職員が全力で魂をこめて働いてきた場所なんです。彼らは何年もそこで働いてきました。これは略奪です。誰かがあなたの家を略奪し、それを見ることを余儀なくされているようなものです」

ヘルソン支局から避難してきた記者のオレーナ・プロトポポヴァは、ロシア軍による占領後、ジャーナリストは命を狙われるようになったという。

へルソン支局・オレーナ記者「ロシア軍にメディアが捜査され、何人かが地下室に連れ去られ、一人は地下室で拷問されました。もう一人の記者は殺されました」

身の安全を考えて、夫と娘を連れ避難したオレーナ。地元にとどまることを望んだ両親と祖父母は、ヘルソンに残ったままだ。

オレーナ記者「体調はどう?」

祖母「大丈夫よ。こっちは落ち着いてるよ。いまは誰もいない。お金は必要かい?」

オレーナ記者「送らなくても大丈夫だからね。こっちから送る必要があるくらいよ。必要なものは全部あるから」

祖母「ウクライナがきっと勝つわ」

オレーナ記者「そうね キスを送るわ」

<拘束された職員を使った脅迫 難しくなる取材>

ススピーリネの幹部が、緊急の対応を迫られる事態が起きていた。ロシア軍に拘束された職員から、  妻のもとに連絡が入ったのだ。

夫「元気にしてるかい?」

妻「もっと元気なときもあったよ。家であなたの帰りを待ってるの」

職員の夫は妻に、これまで口にしなかったことを話し始めた。

夫「(ウクライナ軍の)意味のない動員に応じないように、みんなに知らせてほしい。捕虜になってからもあらゆる面で見捨てられた」

「自分はウクライナ軍から見捨てられた」、このことをススピーリネを通じて報じてほしいという。

夫「会えてうれしかった。心配しないで、うまくいくから。このことをみんなに知らせてくれることで、私が解放されるかどうかが決まるんだ」

夫婦が会話する映像を見た幹部たちは苦しい決断を迫られます。

ススピーリネ理事「この電話は、ロシア軍のプロパガンダ作戦のひとつだと私たちは理解しています。ススピーリネの人間が捕虜になったので、ロシア軍は彼を利用して目的を達成しようとしているのです。いまは国のために全力を尽くしているときで、ロシア軍に手を貸すことはできません」

要求は受け入れず、軍に救出を求めることにしたススピーリネ。この職員は、その後も解放されていない。

<アナスタシヤ記者が向き合ったある少年の死>

2022年6月、ウクライナ軍の戦死者はおよそ1万人にのぼった。東部の戦闘で亡くなった55歳の男性。妻と二人の子供が残された。

再び現場の取材に戻ったアナスタシヤ。シングルマザーとして二人の子供を育ててきた。ドイツに留学中の長男とは、年明けを最後に会えていない。

アナスタシヤ「そっちの天気はどう?」

息子・イリヤ「暑くて大変だよ」

アナスタシヤ「お願いだから朝ご飯を食べてね。わかった?」

息子・イリヤ「わかったよ」

アナスタシヤ「じゃあね、ママの子」

娘・ダリヤ「最初のころは、サイレンの音にすごく反応したけど、今は大丈夫」

アナスタシヤ「どこかでサイレンが鳴っている気がするわ」

娘・ダリヤ「どうでもいいよ。爆弾だったらしょうがない。今は何ともないよ」

アナスタシヤ「何もかも諦めて、死に向かうしかないような、そんな思いを娘にさせたくありません。あなたのママは、そうならないように懸命に頑張るんだと知っていてほしい。それだけです」

戦争が次第に日常となっていく中、アナスタシヤは一人の子供の死と向き合おうとしていた。

ブチャの虐殺で亡くなったとされた少年についてだった。当局が公表したのは、学年と「アルテム・デンチク」という名前のみ。3ヶ月が経っても、ほかには何も分かっていなかった。

アナスタシヤ「多くの子供たちが亡くなっていますが、その一人一人については、ほとんど語られていません。私にとっては、それぞれに名前があって、生年月日や命日があり、生き続ける親族がいるのです」

アナスタシヤは、少年が通っていた学校を割り出した。

同級生の少女「少しだけ映っています。イーホルさんです」

少年の名は「イーホル・デンチク」。実は、当局の発表した名前が間違っていたことが判明した。その人となりも見えてきた。

イーホルの友人「彼はおとなしい性格でしたが、私たちはとても仲がよかったです。彼は公園で本を読むのが好きで、本の話をよくしてくれました」

近くに暮らしているというイーホルの母親。息子が亡くなった後、学校も連絡が取れないという。アナスタシヤは母親を訪ねてみることにした。

アナスタシヤ「ごめんください、少しお話を伺えないでしょうか?無理にとは言いませんので」

イーホルの母親「どこの人?」

アナスタシヤ「ススピーリネです。学校に行ってきました。同級生も先生も彼のことを知っていました」

母「そりゃそうさ」

アナスタシヤ「素敵な女の子が、彼の話をしてくれました」

イーホルの母親「学校で?」

アナスタシヤ「はい。他の子たちもたくさん彼の話をしていました。ただの『イーホルさん』ではなく、イーホルさんは、どんな少年だったのか知りたいのです」

イーホルの母親は、アナスタシヤの説得に、少しずつ重い口を開き始めた。

イーホルの母親「飛行機が飛んでいたみたいで、伏せたらよかったんだろうけど、どうしたらいいのか分からなくてね。それで背中と頭がやられたの。それで息子に向かって『イーホル』って手を置いたら、血がベトベトしていて、それで(死を)悟ったんです。ロシア兵がやってきて、息子を裏返して、もう一人はまだ助かるけど、息子はもうおしまいだって」

イーホルの母親「かわいそうに。何が起きたか、分からないまま亡くなったのよ。息子が地下室の前で倒れているのに、ロシア兵はふんぞりかえっていた。引き取らせてもくれない。結局人間らしく埋葬できたのは、亡くなって5日目のことでした」

シェルターから出てきたところをロシア軍に撃たれたイーホル。亡くなったのはブチャではなく、隣の村だった。混乱の中で、名前や死亡場所は誤って記録されたままになっていたのだ。

イーホルの母親「「恐ろしいことね」

アナスタシヤ「どこで起きてもおかしくありませんでした。伝え続けるのは大事なんです。『戦争なんて、どこか遠いところで起きている』って、思ってしまいがちなので」

イーホルの母親「「私たちが経験したのにね」

アナスタシヤ「そうです。私たちだって戦争が始まるなんて思いませんでした。21世紀にこんなことは起きないって。だけどこんな形で悲劇が思わぬ方向から来ました。お時間ありがとうございました」

イーホルの母親「「話を聞いてくれてありがとうね」

一週間後、アナスタシヤはイーホルの本当の名前、そして、彼がどう生き、どう亡くなったのかを伝えた。

『イーホルは写真が撮られるのが好きではありませんでした。ある日、彼が教室にボードゲームを持ってきて、クラスのみんなが仲良くなったそうです』(アナスタシヤのリポート「ある少年の死」より)

放送の後、アナスタシヤはイーホルの墓を訪ねた。

アナスタシヤ「ほら見てください。イーホルの名前と生年月日がちゃんと書かれています」

近くには、作られたばかりの真新しい墓が並んでいた。

アナスタシヤ「このお墓には、名前も生年月日も命日も書かれていません。誰が埋葬されているのかさえ、分かりません」

犠牲者一人一人の生きた証を刻むこと。アナスタシヤがたどりついた決意だった。

アナスタシヤ「これは私たち国民の痛みです。ウクライナにとって、このような試練は初めてではありません。でも、いつでも誇りをもって乗り越えてきました。私は絶対に見捨てたくありません。軍人でも民間人でも、亡くなった人はみんな、母国の大地で安らかに眠ってほしいのです」

<そして、アナスタシヤ記者は東部へ>

戦火の放送局、ススピーリネ。今も鳴り響く空襲警報のもと、放送を出し続けている。

ロシア軍が攻勢を強め、再び戦況が悪化する東部ハルキウ。

ハルキウ支局記者「いつ占領されるか分からない状態で休めず、友人にも会えない状態が続いています」

取材班「また警報が鳴っていますね?」

ハルキウ支局記者「ええ、警報が鳴り始めました。そろそろ行ったほうがいいですね」

この日、アナスタシヤの姿はバスターミナルにあった。娘を避難させるためだ。今も激戦地に残る人々の声を聞きたいと、東部に赴くことを決めたアナスタシヤ。最後まで行き先を、娘に告げることはなかった。

10日後、その姿は、東部ドネツクにあった。

アナスタシヤ「悲しみは増しました。痛みも増えました。ときには絶望して、もう耐えられないと思うこともあります。だけど、私はこの国にとどまり続けたい。数十万の人々と同じ立場で、やるべきことをやり、あがき続けます。闘い続けます」