映像記録 関東大震災~帝都壊滅の三日間~(後編)

NHK
2023年9月12日 午後5:00 公開

(前編はこちら)

(2023年9月3日の放送内容を基にしています。当時の災害の実情を伝えるため、遺体の画像も一部含まれます)

首都・東京の玄関口、東京駅。

100年前、全く同じ場所で撮影された映像がある(下画像)。

1923年9月1日の関東大震災、ここには火災から逃れて10万の人々が身を寄せていた。東京駅の象徴、大時計に目をやると、午前11時58分。針は地震発生の時刻で止まったままである。

私たちは、100年前に撮影されたモノクロ映像を、8K映像に高精細化、さらにカラー化した。すると、建物の形や人の表情など、フィルムに記録されていながら不鮮明だった情報を引き出すことができた。そしてこれらの映像を専門家とともに読み解き、混乱の中、不明だった撮影場所と日時を特定していった。

100年の時を経てよみがえった映像と生存者の証言音声によって、謎に包まれていた震災の全容を解き明かす「映像記録・関東大震災」。後編では、地震発生の9月1日夕方から3日までを追体験する。震災最大の悲劇が、始まろうとしていた。

<1923年9月1日 午後4時>

9月1日 午後4時前。隅田川沿いの“ある場所”に、避難者が殺到していた。軍服工場が移転したあとにできた、広さ2万坪の広大な空き地「陸軍被服廠跡(ひふくしょうあと)」である。

震災の2か月前、この場所を、空から撮影した貴重な映像が残っている(下画像)。左下に見える三角形の広場が「被服廠跡」だ。左上の1万人を収容できる「両国国技館」と比較すると、被服廠跡の広さがよくわかる。「何かあったら被服廠跡へ」。地元住民の合い言葉だった。

被服廠跡に避難した人の証言「おまわりさんがね、自転車ですよ、『被服廠へ逃げなさい』『皆さん火事が起きたら、被服廠へ逃げろ』と連呼して歩いた」

被服廠跡に避難した人の証言「大八車、引っ張っていく人もいますし、通れないくらい大変でした。いっぱい混んでいるんですよ。ほっとして、やれやれって座って」

被服廠跡に避難した人の証言「ずいぶん大勢人がいるなと驚いたことがひとつと、すごく荷物が多いなと。これでいくらかは落ち着けるのかなと思った。最後にそう感じましたけど、子ども心にね」

上画像は、地震発生直後に撮影された被服廠跡。広場のあちこちで水道管が破裂し、足元は水浸しになっていた。ここへ避難した人は4万人。1人1畳ほどのスペースを分かち合っていた。安どの表情を浮かべている人もいる。

しかし数時間後…。

被服廠跡は焼け焦げた遺体で埋めつくされていた(下画像)。避難した4万人のうち、実に3万8000人が命を落とした。下画像・左上に土管のようなものが映っている。これは、避難した女性たちが座っていた土管だと思われる。数時間のうちに一体何が起こったのか。

被服廠跡があった場所には、今、震災や空襲の犠牲者を悼む東京都慰霊堂が立っている。中に掲げられているのは、被服廠跡で何が起こったのかを語る1枚の絵だ(下画像)。炎に人々が巻き上げられている。高さ数十メートルにも及ぶ炎の竜巻“火災旋風”が、この場所を襲っていたのだ。

火災旋風を見た人の証言「私たちが(被服廠跡に)入って、ほんの30分ぐらいしたかなと思ったら、もう真っ暗になりましてね。それと同時に旋風だった。竜巻が起きましてね」

火災旋風を見た人の証言「人が飛んで空に舞い上がるのも見ました。それから公衆電話みたいなボックスも(飛びました)」

火災旋風の映像は記録されていない。なぜここで火災旋風が発生したのか、今も謎のままである。

私たちは専門家の協力を得て、当時の被服廠跡の自然環境を簡易的に作り、火災旋風発生のメカニズムの解明を試みた。

国土技術政策総合研究所 樋本圭佑さん「黒く塗ってあるコの字の内側の部分が被服廠跡にあたる部分。大体100分の1のスケールで再現しています」

今回の実験と当時の地図とを重ね合わせると、下の画像のようになる。奥に東京湾を望み、右手に隅田川が流れる位置関係だ。9月1日の午後、中央気象台の観測データでは、下画像の奥から手前の方向へ、強い南風が吹いていた。実験では、その風を再現した。

さらに、被服廠跡を取り囲むように3方向から迫っていた火災も再現した(下画像)。

実験開始直後、

高さ3メートルに迫る巨大な火柱が立ちのぼった(下画像)。これが“火災旋風”である。実験では、立て続けに何度も火災旋風が発生していた。

なぜこの環境で火災旋風は発生するのか。そのカギは、「風」にあった。

煙で風の流れを可視化してみる(下画像)。すると、風は“コの字”の内側、つまり被服廠跡の広場へと勢いよく吸い込まれていく。

さらに時折、煙が巻き上げられ、気流の渦が発生していた(下画像)。

樋本圭佑さん「火災旋風は風の流れに偏りがあるところで発生しやすくなっている。隅田川の上は障害物がないので、風がまっすぐ通りやすい。一方、市街地は家屋等の障害物があるので、緩やかな流れになっている。隅田川と市街地の境界で速度の差が生じ、偏りが生じて渦が発生しやすい」

被服廠跡は、すぐ脇を隅田川が流れている。この立地こそが、火災旋風を発生させた可能性が指摘された。

当日に吹いていた南風は、隅田川上では障害物がないため、スムーズに流れていた。一方、市街地を流れる風は、家屋や火災によって流れが遮断され、風は弱くなっていた。被服廠跡の外側と内側で、風の速度差が生まれていたのだ。隅田川上空を流れる風は、被服廠跡付近に到達すると一気に中に入り込む。そのとき、風の速度差から渦ができ、炎をまとい、火災旋風へと成長していったと考えられる。

証言などによると、火災旋風が発生したのは、午後4時頃。被服廠跡の北側に、高さ数十メートルの火災旋風が現れた。だがこの時点では、まだ火災旋風は被服廠跡の広場の外側にあった。

しかし、火災旋風がまき散らす“火の粉”が、被服廠跡に持ち込まれていた家財道具に燃え移り、新たな火災が広場の中でも発生した。火災旋風は、火災が起きている場所に移動する性質がある。瞬く間に、火災旋風は、火災が起きた被服廠跡の広場の中へ引き寄せられ、まるで凶暴な獣のように被服廠跡2万坪の広場を駆け回り、人々を舞い上げ、焼き尽くしていった。

樋本圭佑さん「被服廠跡に避難をされていた方は、自分の家財道具も一緒に持って避難をされていましたので、それが燃え草となって火災の領域を拡大させて、火災旋風の通り道を作ってしまった可能性はある」

火災旋風を見た人の証言「家財道具やなんかね、身一つで逃げりゃいいのにみんな持ち込んだでしょ。そこへ火の粉がポンと落ちたと思うと、ボーッとライターに火がついたように燃え出す」

火災旋風を見た人の証言「ポリボックスというポリスのボックスがあった。そこの中にお姉ちゃんにおんぶされて入って、それごと旋風で巻かれて、空へ巻かれちゃった。それで落ちたけど助かった」

火災旋風が過ぎ去ったあとの様子を撮影したのは、東京シネマ商会のカメラマン・白井茂。後年、そのときの様子を語った肉声が残っている。

白井茂「被服廠跡に行ったら、おまわりが立っているんですよ。『これは後の世のために撮っておきたい』と言ったら、『いいでしょう。お撮んなさい。だけども、この死骸の山だけは撮らないでくれ』と。『何でです?』と言ったら、『これはあたしの家族なんだ』と言うんだ」

避難した4万人のうち、3万8000人が命を落とした。その数は、関東大震災の死者の3分の1に当たる。

9月1日夕方。家を失った100万以上の人々が、安全な避難場所を求めて東京中をさまよっていた。

東京駅の広場には、10万人が避難していた。9年前に開業したばかりの駅舎は無事だった。駅舎やホーム、停車中の列車は、即席の避難所となった。

50万人が避難した上野公園では、大群衆の中で離れ離れになった家族を探す声が飛び交った。

上野公園に避難した人の証言「上野広小路に行ったら、もう人がいっぱい。家族みんな手をつないで、はぐれないようにしていました」

皇居前広場も臨時の避難場所となり、30万人が避難していた。

この場所に逃げ込んだ9歳の少年がいた。繁田裕司。後に昭和を代表する作曲家・三木鶏郎として知られる人物である。

三木鶏郎の手記より「父は決断を下して、宮城(皇居)前の広場を選んだ。 天皇陛下が焼け死ぬことはまさかあるまいし、そのときはそのときで仕方がないというのであった」(「三木鶏郎回想録①」/三木鶏郎)

三木鶏郎の手記より「火炎の包囲陣の中に宮城があった。私たちはその熱を肌で感じ、その真っ赤な光を顔で受けた。人びとの顔は酒に酔ったように赤かった」(「三木鶏郎回想録①」/三木鶏郎)

恐怖の一日が終わろうとしていた。家を失った人たちは、眠れぬ一夜を過ごした。

<1923年9月2日 午前6時>

上の画像は、二日目の朝、上野駅近くの線路上に避難する人々の映像である。浅草など周辺の火災の勢いは弱まりつつあり、人々は安どの中にいた。しかしこの4時間後、上野を猛火が襲うことになる。巨大災害時にしばしば見られる、安どした心を襲う“二日目の恐怖”である。

“二日目の恐怖”を撮影していたカメラマンがいる。上野公園の近くに住んでいた映画カメラマン・岩岡巽である。岩岡が撮影した映像は2分あまり。私たちは、その映像を専門家とともに読み解き、”二日目の恐怖”に直面した人々の心の動きを明らかにしようとした。

最初のカットが撮影されたのは、上野駅北側の線路上(上画像)。時刻は朝6時ごろ。右側の高台が、上野の山である。避難者たちは線路上に座り込み、安どしているように見える。火災の脅威は過ぎ去ったと思っていたのだろう。洗濯物を干す人もいた。火災の広がりを見ると、上野の近くまで迫っていた火災が、前日の夜に勢いを弱めていた。

事態の急変を捉えた映像がある。多くの人が休んでいるが、上画像の右側、どこから持ってきたのか、はしごを急斜面にかけ、必死に崖をよじのぼる人がいる。岩岡はカメラを左に向けた(下画像)。止まったかのように見えた浅草からの火災が近づいていた。前日昼間の南風が、夜のうちに北風へ変わり、じわじわと上野の方へ火の手を伸ばしていたのだ。それにいち早く気づいた人が、高台にある上野公園によじのぼろうとしたと考えられる。

岩岡は上野公園にのぼり、撮影ポイントを移した(下画像)。ここからは浅草方向の煙が見えるようになり、不安げに火災の行方を追う男性がいた。

さらに上にのぼると、多くの人たちの目が、火災が迫る駅方向にくぎづけになっていた(下画像)。線路上に避難していた人も火災に気づいた様子で、続々と上野公園にのぼってくる。安どの時間は、つかの間だった。

下の画像は、最初の映像から4時間後、午前10時頃の映像だ。火は容赦なく迫っていた。手前に映っているのが、今にも炎に飲み込まれそうな上野駅だ。

上野公園に避難した人の証言「夜が明けまして、上野なら大丈夫だろうと。午後ぐらいかな、だんだん火が上野駅まで来たからね。向こうの方からね(浅草寺の方からね)、だんだんだんだん。それでもう『これじゃ、上野も危ないや』と」

上野公園に避難した人の証言「これは大変なことになったなと思ってね。上野の山で『どこそこの誰ですが、いませんか』とか、そういう声があちこちで聞こえてひどかった。本当に心細い思いをしました」

炎が迫る中、岩岡はこの日最後の撮影ポイントに移動した(上画像)。午前11時頃の上野の山のふもと、公園の入口「上野広小路」である。ここからは浅草の火事が近づいているのは見えない。電車の上に腰をかけ、安心して休んでいる人もいる。

そして下の画像は、その後撮影された「上野広小路」の映像である。人々が電車の上で休んでいた12時間後、猛火がここにも到達し、一面、焼け野原となってしまった。助かったと思った安心感を打ち砕いた火災の威力。人々は、“二日目の恐怖”を思い知らされた。

上野公園に避難した人の証言「上野広小路のところに松阪屋ってあるでしょう。あそこが燃え出したのが(二日目の)夜中でした」

上野公園に避難した人の証言「みんな焼けちゃった。確か3階か5階か、ビルが焼けちゃったぐらいだから。電車も丸焼け。まるで地獄ですよ。焼けて原っぱになっちゃって」

しかし幸いなことに、猛火は上野公園までは及ばなかった。手前の上野駅を焼き尽くしたが、寸前のところで火の手は止まった。線路上にいた人も上野広小路にいた人たちも、上野公園に逃げ込んでいたため、命を落とした人はほとんどいなかった。

人々を救ったのは、上野公園の中に広がる不忍池だった。水道管が壊れ、消火栓は使えなかったが、消防隊は、不忍池から水をくみ出して火を消し止めたのだった。上野の火災を最後に、東京中で猛威をふるっていた火災は、ほぼ収束。3日にわたり燃え続け、東京市のおよそ4割を焼失させた。

家を失い、東京西部など、郊外へ避難する人も多かった。

上の画像は、飯田橋周辺で撮影された映像である。映っているのは牛込駅のホーム。疲れ果てた様子で座り込む人々を捉えている。線路上の貨車に避難した家族もいた(下画像)。よく見ると、何か貼り紙がしてある。書いてあったのは、「繁田保吉」なる人物の名前。後の作曲家・三木鶏郎こと、繁田裕司の父親である。一家は、皇居前に避難したあと、より安全な場所を求め、3キロ離れたこの場所にたどりついていた。背格好から、下画像・右から3番目の少年が三木本人だと思われる。

三木鶏郎の手記より「『貨車にお住まいとは珍しい。撮影させていただけませんか?』『いいですよ。どうぞ』と父が答えた。自分が撮られるなんて、夢のようだった」(「三木鶏郎回想録①」/三木鶏郎)

この映像を撮ったと考えられるのは、被服廠跡の悲劇を撮影したカメラマン・白井茂である。白井は、焼け野原となった東京で撮影を続けた。9月3日、上野で撮影しようとしたときのことだった。

白井茂「くりから紋紋(入れ墨)の兄ちゃんが立っていて通さない。『お前たちはのんきだ』と言うんだ。『こんなときに活動写真なんか写しやがって、ひでえ野郎だ』って。その時分、何でも『殺してしまえ』という言葉がはやってね、何かのしまいには『殺してしまえ』と」

家族を失い、家を失った人々の心はすさみ、疲れ切っていた。そこから、新たな危機が生まれる。

<1923年9月3日~ >

これは、現在の文京区にあった警察署が、関東大震災の直後にまとめた報告書である。その中に、“ある現象”が報告されている。“流言浮説”。根拠のないうわさの広がりである。「地震は、富士山の爆発のせいだ」といううわさ。「混乱に乗じて、誰かが飲み水に毒薬を流し込んだ」といううわさ。平常心を失った人々の間で、根も葉もない“デマ”が広がっていった。

上野での証言「『上野の動物園の猛獣が来ないか』といううわさが流れたのね。動物園の獣たちが檻(おり)を破ってこっちへ逃げ込んだらどうしようかなと」

月島での証言「あっちでもこっちでも、ポンポンポンポン音がするんです。例えば缶詰みたいなものが膨張して破裂すれば音がするし、竹が焼けてくれば、節が音を出す。そんな音だろうと思うんだけど、『いや今のはピストルだ』とか、『鉄砲だ』とか、そういう流言デマが飛んで…」

東京大学の佐藤健二教授は、非常時にデマが広がるメカニズムについて研究してきた。

佐藤健二(社会学)「非常にみんなが不安を抱えている、すごく緊張している、そういう状態の中で、解釈が暴走していく。例えば、池の水が濁ったり、井戸が濁ったりというものが、『毒が投げ入れられたからだ』。『薬が投げ入れられたからだ』。そういう説明も、リアリティーを持つわけです。非常時および緊張している状態の中では、そうした話が暴走してしまう」

このとき、人々は正確な情報を得る手段を失っていた。上の画像は、現在の東京駅八重洲口近辺で撮られた映像である。横切る一台のトラック。「萬朝報」とは、新聞社の名前だ。ラジオがなかった時代、新聞は最大の情報源だった。しかし、東京にあった新聞社は、地震と火災で新聞を発行できなくなっていた。

頼りは警察。人々は交番に駆け込み、流言の真偽を問いただした。しかし、警察も機能していなかった。治安の要、警視庁は全焼。さらに、電話などの通信手段も失われ、警察の捜査能力は壊滅していた。政府は東京に戒厳令を出し、5万にも及ぶ軍隊に治安維持を委ねた。

確かな情報がない中、流言を信じた人たちが異常な行動に駆られていく。

下の画像は、現在の新宿区神楽坂周辺で撮影された映像である。リヤカーなどで道を塞ぎ、即席の検問所が作られていることがわかる。

通行人を鋭い目で検問する男たち。そのひとりの衣服を見てみると、「木炭店」の文字がある(下画像)。地元の一般市民に退役軍人などが加わって組織された“自警団”である。ターゲットは、朝鮮人だった。彼らが混乱に乗じて、放火や井戸に毒を入れたという流言が広まっていた。

江東区永代での証言「みんな気が立っているでしょう。『朝鮮人と見たらもう生かしておくな』となっていた。ピストルで頭をバーンと引っぱたいて殺したり、ずいぶんあった」

江東区永代での証言「大きな声では言えないけど、警察官が『朝鮮人とみたら殺してくれ』なんて言った」

荒川区町屋での証言「父親が集団の中ではリーダー格になりましてね、警護にあたった。自警団を作りましてね。そのときに棒とかそういうものを持って、血のりがついて持って帰ってきたのを見ていまして、子ども心にそれが恐ろしくて。韓国の方たちは濁点が出ませんから、『俺た』と言ったら、もう命はないんです。『ポクた』もダメなんです。『僕だ』と言えば、助かった」

9月3日には、流言を信じた政府や警察までもが、朝鮮人の取締まりの強化を通達する。軍人や警官が、罪なき人に手を下した例もあったと、公式記録にも残っている。司法省刑事局の調査によれば、立件されただけでも、殺害された人は231人。別の調査では数千人が犠牲となったという報告もあり、正確な数は今もわからないままだ。

2か月後にまとめられた司法省の調査では、「朝鮮人が流言にあるような犯罪に走った事実は『認めがたい』」と、否定された。災害時に情報を得る手段としてラジオ放送が開始されるのは、この2年後のことである。

佐藤健二(社会学)「切迫した非常時になったときに、情報が暴走しないとは限らない。今のSNSの中に書き込まれている情報というのは、フェイクニュースみたいなものもたくさんある。だから、(現代の方が)逆にインパクトが大きいかもしれない。通信ネットワークやさまざまな環境が整備されたから安心だとは言えない」

<1923年9月4日~>

東京市の北の郊外に位置していた田端駅。上の画像は、震災から1週間あまりがたった頃の映像である。駅へと続く道に、大勢の人々がひしめきあっている。政府は下り列車を無料化し、食糧不足で困窮する被災者を、東京から地方に送り出していた。

福島へ避難した人の証言「汽車に乗って行くのでもすいていない。山のようにみんな乗りますから。窓から乗る人もいれば、石炭を運ぶところへ乗る人もいて。ぎゅうぎゅう詰めです」

田端駅のすぐそば、ほとんど被害のなかった自宅に、31歳の若き文豪がいた。芥川龍之介である。すでに文壇に不動の名声を築いていた。芥川は焼け野原と化した東京を歩いてまわり、その様子を手記に残している。変わり果てた東京を嘆きながらも、芥川は人々の“ある行動”に心動かされた。

芥川の手記より

「親しさうに話し合つたり、煙草や梨をすすめ合つたり、互に子供の守りをしたりする景色は、殆ど(ほとんど)至る処(ところ)に見受けられたものである。大勢の人人の中にいつにない親しさの湧いてゐるのは、兎に角(とにかく)美しい景色だつた。僕は永久にあの記憶だけは大事にして置きたいと思つてゐる」(「大正十二年九月一日の大震に際して」/芥川龍之介)

東京のあちこちで、復興に向けて人々が立ち上がっていた。震災から2週間あまり。日比谷公園で、被災した子どもたちを集めて「青空教室」が始まった。この青空教室は20日間あまり開かれ、457人の子どもが学んだ。

最大の避難場所だった上野公園の西郷隆盛像は、人探しの貼り紙でいっぱいだった。手紙を出したい人に、無料ではがきの提供を申し出る善意の貼り紙もあった。

これは、園内に設けられた職業紹介所の映像だ。ゼロから暮らしを立て直そうと、人々は列を作った(上画像)。

木陰に開かれた理髪店(上画像)。

有り合わせの品を並べ、路上でたくましく商売を始める者もいた(上画像)。

帝都随一の歓楽街だった浅草では、9月23日、使いものにならなくなった浅草凌雲閣が、爆破されようとしていた。多くの見物人が跡地に殺到。日本一高い建物は、わずか33年で姿を消した。

10月19日、火災旋風で3万8000人が命を落とした被服廠跡で、東京府と東京市が主催する大規模な追悼式が開かれた。うず高く積み上げられているのは遺骨だ(上画像)。震災から四十九日にあたるこの日、遺族らは、誰のものとも知れぬ骨を、亡くした家族の骨として持ち帰った。

関東大震災で、東京市のおよそ4割が焼け野原となり、人口の7割にあたる人が家を失った。亡くなった人は10万5000人を超えた。

実は、この悲劇を予測していた研究者がいる。東京大学の地震学者・今村明恒。関東大震災の18年前、大地震が東京を襲うと警告し、国民に備えを訴えたが、世間に“ほら吹き”と攻撃された人物である。

今村の手記より「意見が當時(とうじ)、世人の容(い)るる所とならなかったのは、全く自分の研究の未熟と自信の薄かったことによるので、思へば思へば、實(じつ)に残念で堪(たま)らぬ」(「地震講話」/今村明恒)

上の画像は、震災後、今村自らカメラを買い求め、撮影した映像である。市民に防災を呼びかけるため、全国各地を講演して回った今村の姿が映っている。私財をなげうち、全国8か所に観測所を設置。次こそは、大地震の兆しをつかみ、地震学者としての使命を果たそうと決意していた。

東京は、“奇跡”と呼ばれる復興を遂げていた。1930年3月には「帝都復興祭」が開かれた。東京は300万の人出でにぎわい、奇跡の復興に酔いしれた。

しかし、防災対策は不十分なままだった。予算不足を理由に、公園の建設、道路の拡張は中途半端に終わっていた。上の画像は、今村が亡くなる4か月前に撮影された写真だ。今村は全国各地を回り、死の直前まで人々に防災の大切さを訴えた。晩年、今村が行った講演の肉声が残されている。

今村明恒「地震は人の力で押さえつけることはできませんが、震災は人の力で防ぎ止めることができます。幼老男女、力のあらん限り、震災をできるだけ軽くすることに勇敢に働かなければならない」

東京都防災会議の報告書によれば、今後30年以内に、マグニチュード7を超える首都直下地震が起こる確率は70%である。

100年前の映像に映る人たちは、明日の私たちかもしれない。