(2022年9月24日の放送内容を基にしています)
<国家に人生を狂わされた「中国残留婦人」>
年老いた女性たちが必死に訴えかける証言映像があります。映っているのは、祖国を思いながら、人生の大半を中国で生きてきた人たちです。
神津よしさん(撮影2015年/当時88歳)
「いいな、日本へ帰りたいなと思った。私は29年いて、だんだん中国語を覚えてきたけれど、月を見ては泣いてさ、『ふるさと』の歌を歌っていた」
田中信子さん(撮影2015年/当時83歳)
「『お父さん、お母さん、信子は生きて帰って来ましたよ』。涙がこぼれて止まりませんでした」
30年にわたって撮影されてきた、200時間に及ぶ映像。
女性たちは戦前や戦中、日本での厳しい暮らしなどから逃れるために、旧満州、現在の中国東北部に渡りました。しかし終戦前後の混乱の中で、中国に留まることを余儀なくされました。
終戦時、おおむね13歳以上だった女性たち、「中国残留婦人」と呼ばれる人たちです。
終戦間際に、ソビエト軍が突然、旧満州に侵攻したときには。
村上米子さん(撮影1990年代)
「『ダヴァイ、ダヴァイ(やるぞ)』とソビエト兵が夜、襲撃してきて、みんな強姦(ごうかん)された」
日本政府は当初、残留婦人を帰国させることに積極的ではありませんでした。
池上静江さん(撮影2013年/当時91歳)
「私のせいじゃない、政府のせいなの。日本が帰してくれなかった」
中国でおびただしい犠牲を出した文化大革命の混乱に、女性たちも巻き込まれていきました。
山﨑倶子さん(撮影2015年/当時88歳)
「私は死にたいと思った。つらくてね。日本の鬼とか、日本の犬とか、さんざん憎まれてきた」
なぜ女性たちは長きにわたって、苦難の人生を歩むことになったのか。
日中両国の内部資料から、女性たちが、二つの国の国策の中で翻弄されてきたことが分かってきました。
2022年9月に国交正常化から50年を迎えた日本と中国。
二つの国家のはざまで生きることを強いられた、中国残留婦人たちの告白です。
<中国残留婦人の人生が語られた証言映像>
証言映像に残された中国残留婦人は37人。あの戦争から77年、そして日中国交正常化から50年が経った今では、想像もできない人生を送っていました。
5年前に撮影された映像に映る篠崎鳩美(しのざき・はとみ)さん。
このとき初めて、残留婦人としての体験を口にしたと言います。
篠崎鳩美さん(撮影2017年/当時87歳)
「私のお母さんが『私ら生きとったら一緒に生きとろう。死ぬときは一緒に死のう。分かった?』って。私らは怖いばかりで『お母さんと一緒におる』って。あの人が死んだ、この人が死んだ。よう死んだよ」
佐藤千代(さとう・ちよ)さんは、9年前に撮影された映像の中で、見ず知らずの中国人男性と結婚したことについて語っていました
佐藤千代さん(撮影2013年/当時85歳)
「中国人の独身がいっぱいいるのよ。そして嫁さんをもらいに来るんだよね。1軒1軒ずっとまわって『どこの娘がきれいだ』、『どこの娘はまだ若い』とか。やっぱり生娘もらいたいんだよ、中国人だってね。そういうとき、私も覚悟はしていたんだね」
この37人、200時間の映像は日本と中国、それぞれで記録されてきました。
日本語教師として、帰国した残留婦人と接してきた藤沼敏子(ふじぬま・としこ)さん。女性たちの人生を後世に残したいと、1990年代から撮影してきました。
元日本語教師・藤沼敏子さん
「同じ女性として、こんな思いをしている人がいるということ。何を喜びにして、何を悔しがって生活しているのかということは、一人ひとりの話を聞くまでは、分からなかった」
中国で撮影していたのは、日本映画史を研究してきた王乃真(おう・ないしん)さん。残留婦人の記録映画を作るために撮りためてきました。
北京電影学院 元教授・王乃真さん
「中国人であろうと日本人であろうと、この歴史を避けることはできません。日本の若者たちや、私たちの世代、未来の中国に残すのです」
<残留婦人たちが襲われた悲劇 ~軍に見捨てられた開拓団~>
中国残留婦人が強いられた厳しい人生。その始まりは、戦前、日本が推し進めた国策でした。
肥沃な大地が広がる中国東北部。日本は、かつてこの地に、傀儡(かいらい)国家「満州国」を建国しました。「五族協和」「王道楽土」を掲げ、27万人の開拓民などを送り出しました。
しかし、その肥沃な土地は、そこに暮らしていた中国人から安く買い取ったり、立ち退かせたりしたものでした。
田中信子さん(撮影2015年/当時83歳)
「旧満州の中国人の家を日本人が奪い取ったみたいで、日本人が中国人の家に住んで。畑も田んぼも家も全部」
1945年8月9日、この日から女性たちの運命は暗転していきます。157万を超えるソビエト軍が日ソ中立条約を一方的に破棄し、突如、侵攻。この時すでに、開拓団のほとんどの男性は召集され、関東軍は南への後退を始めていました。老人や子ども、女性ばかりが取り残されたのです。
終戦の前日。日本政府は、ある緊急電報を東アジア各地に送っていました。
「居留民はでき得る限り、定着の方針を執る」
日本人を帰国させず、現地に定着させる方針を決めていたのです。
混乱のなか、開拓民の約3人に1人にあたる8万人が死亡したと言われています。
池上静恵さん(撮影2013年/当時91歳)
「子どものいる人は、上の人から『連れて行ったらあかん』って。泣くから。(敵に)聞こえるから、『殺せ』『自分で殺せ』って言う。自分の子を自分で殺していた」
齋藤タツさん(撮影2013年/当時81歳)
「犬がけんかしながら、死んだ日本人を食べてるんだ。恐ろしい。私は見てて泣きたくなって、お母さんも泣いていた」
そして、この混乱を生き延びた4000人以上の女性が、中国で生きることになったのです。
<中国残留婦人としての知られざる人生>
過酷な人生を辿った女性たちは、どんな思いで二つの国を見つめてきたのか。
私たちはさらに深く知りたいと思い、証言を残した37人のうち、存命の7人に改めて話を聞くことができました。
証言映像で、「母親から一緒に死のうと言われた」と語った篠崎鳩美さん。現在は92歳になっていました。34年前に帰国し、広島市で暮らしています。
篠崎鳩美さん
「(中国には)43年おった。だから私の第二の故郷よね。日本へはどうしても帰りとうて、帰りとうてね」
篠崎さんが、満蒙開拓団として家族で旧満州に渡ったのは、15歳のとき。終戦のわずか4か月前のことでした。
篠崎さんが暮らしていた集落にも、ソビエト軍が侵攻してきました。父親は召集されていたため、母親と幼いきょうだいとともに、難民収容所に逃げ込みました。そこで恐ろしい光景を目にします。ソビエト軍の兵士が代わる代わるやってきては、若い女性を連れ去っていったのです。
篠崎鳩美さん
「お母さんが言うとった。ソビエトの軍隊がおるでしょう。轮奸了(輪姦した)。 収容所に帰ってきた人は本当によろよろで、病気になったようで、みんな亡くなられたよ。私は髪をバサバサにして、顔を汚くして、母が『私のそばへおりんさい』と」
そして、篠崎さんは、証言映像でも語らなかった胸の内を明かしました。
「助けてあげる」と言われ、ついて行った中国人の家で、無理矢理、乱暴されたときのことでした。
篠崎鳩美さん
「あのことは、誰にも言ったことがない。お母さんにも言わなかった。あれが初めてじゃった。前にひと言も言ったことはない。当时(あのとき)の痛さ、悔しさ、怖さ、胸がいっぱい。死ぬのかと思いよった」
唯一のよりどころだった母親も、その後、病を患い、35歳で亡くなりました。
母親が履いていたもんぺの切れ端を、いまでも大切に持っています。
<生きるために迫られた選択>
見ず知らずの中国人に嫁いだ佐藤千代(さとう・ちよ)さんも、存命だと分かりました。
93歳の佐藤さんは、ことし(2022年)に入ってから、寝たきりになっていました。
長男・一男さん
「今はつらいし、『テレビのインタビューを中止しようか』って私が聞いたら、『だめ。私は受けたい』と」
佐藤千代さん
「(話を)しなかったら誰が残すの?残す人がいない。私は残しておきたいの。みなさんに聞いてもらいたい」
10歳のときに、開拓民として旧満州に渡った佐藤さん。終戦後、逃げ込んだ収容所で、家族10人、冬を迎えました。マイナス30度にもなる厳しい寒さの中、食料が底を尽きます。
その頃、中国人が頻繁に収容所を訪れるようになっていました。食べ物と引き換えに、若い女性を妻にしようとしていたのです。
佐藤千代さん
「今と違ってお金がなかったら、お嫁さんもらえないんだ。ちょうどいい機会だから、若い娘さんを嫁にしたいんでしょう。私は若くもないけれど、17歳。恥を忍んで、親を助けるために、私は25キロのトウモロコシで、私の身を売ったんです」
家族にトウモロコシを残し、佐藤さんは中国人の妻になりました。しかしその後、家族のほとんどが亡くなったと知りました。
佐藤千代さん
「中国人の所へ行ったら、何とかして生きていける、お母さんたちも助けてもらおうと思ったんだけど、中国人も何にもない人で。それっきり(母と)別れてから、一度も会ったことはありません。だから今、私が病気になったのは、自分だけが生きてきているから、バチがあたっているんだ」
<日本人の引き揚げを主導した 中国の思惑>
女性たちが中国人の家庭に入った頃、中国は、蒋介石の国民党と、毛沢東の共産党による内戦状態にありました。その戦いに勝利した共産党は、1949年に中華人民共和国を建国。
女性たちは証言映像の中で、この頃のことを振り返り、感謝のことばを口にしていました。
池上静恵さん(撮影2013年/当時91歳)
「中国の政府も、よくしてくれたよ。普通だったらお米とか、油とか、そんな物をもらえなかったけれど、私たちには、よけいにくれたよ」
家村郁子さん(撮影2015年/当時83歳)
「『戦争で日本人は罪を犯したけれど、子どもたちには罪はないから』と言って。死ぬはずだったのに生きてきたのは、やっぱりこちらの人たちのおかげ」
当時、毛沢東が日本の戦争責任について唱えていたのが、“二分論”と呼ばれる原則でした。
「少数の軍国主義者と、多くの日本国民を区別する」。戦争責任は軍国主義者にあり、一般の日本国民にはないとしたのです。
この“二分論”の象徴が、1953年から始まった集団引き揚げ。中国側が主導し、民間団体を通して、3万2千人の日本人を帰国させました。そこには、中国に残留した日本人の存在を外交カードとして利用しようとした、中国の思惑がありました。
引き揚げについて、中国外交部が残した内部資料では、日本人に対して手厚い支援を表明していました。
「なるべく早く日本人が船に乗れるよう喜んで協力する」
「乗船に至るまでの費用を全面支援する」
一方で、地方の下部組織に送った通知には、こう記されていました。
「彼女たちへの思いやりによって、日本への影響を拡大する」
当時、中国は朝鮮半島で戦火を交えるアメリカと対立していました。そのアメリカと日本の関係を切り崩そうと、引き揚げ支援などで友好的な姿勢を見せ、日本への接近をはかったのです。
福岡大学・大澤武司教授
「日本を中国側に少し引っ張り込むことによって、日米間にくさびを打ち込んで東アジア・世界における中国の行動空間を広げていこうと考えていたと思います。日中関係を実質的に積み上げていくことで、日中の政府間関係を促進し改善して、最終的には日中国交正常化を実現していこうと」
<”子どもは連れて帰れない” 女性たちが迫られた選択>
集団引き揚げによって始まった帰国。しかし、中国人の家庭に入っていた女性たちに、ある障害が立ちふさがります。
佐藤千代さんには、このとき、中国人の夫との間に生まれた子どもが2人いました。
佐藤千代さん
「公安局の人がいらして『佐藤さん、今回はいい知らせ、日本に帰る機会があります』って来たの。そのあとが嫌なの。『中国人の子どもは、一切連れて帰れません』って言われたの」
当時、日本政府は集団引き揚げの対象を「日本国民」に限定していました。残留婦人と中国人の夫との間に生まれた子どもは中国国籍とされ、帰国が認められなかったのです。
多くの日本人が引き揚げの手続きをするなか、佐藤さんは中国に残る決断をしました。「もう2度と家族を失いたくない」という思いからでした。
佐藤千代さん
「何十年前、親を捨てた。だから私は子どもだけは離さないと思って。それから私は子どもを大事に大事に育てました」
<“帰国の意思がない” 国の論理で閉ざされた帰国の扉>
民間団体によって集団引き揚げは行われていたものの、日本と中国は依然として国交がない状態でした。
引き揚げが始まって4年後の1957年、岸信介が首相に就任。アメリカや台湾を相次いで訪問すると、日中関係は急速に悪化しました。そしてその翌年、集団引揚げは終わりを告げました。
国はその後、海外に残留していた日本人の最終戸籍処理を進めます。生存がわからない人について「戦時死亡宣告」を行い、中国に渡った1万3千人以上の戸籍を抹消したのです。
その一方で、生存者については個別の引揚げ支援を用意し、帰国意思の確認を始めます。
今回入手したその時の調査票です。
「姉の通信によれば、幸福に暮らし残留希望」
「帰国を希望しない。現地結婚したらしい」
わずかな手がかりから、1000人以上を「帰国の意思なし」と独自に認定しました。
当時、厚生省の幹部は、中国に残留する日本人について、ある見解を述べています。
厚生省 引揚援護局長(当時)・河野鎭雄
「いわゆる国際結婚した人、あるいは向うの中国人にもらわれていった子どもという、実質的に中国人になった人が大部分でございまして。さしあたり帰る希望を持っておられる方は、非常に少数であろう」
広島市に住む篠崎鳩美さん。このとき、2人の子どもがいました。当時、広島県から文書で、帰国する意思だけを繰り返し聞かれたと言います。
篠崎鳩美さん
「帰りたい気持ちはいっぱいですよ。帰りたくて、帰りたくてしょうがない。どうして、そう問うの。それが分からんのよね、私は。子どももおるし、お金もないし、『どうやって生活していくんですか?』と聞いても、返事はなかったんよ」
自分の意思で中国に残ったとされた残留婦人たち。その存在は、高度経済成長のただ中にあった日本社会から忘れられていきました。
<”日本鬼子” 文化大革命で迫害された女性たちと家族>
200時間の証言映像では、1960年代に入ると、それまで日本人に寛容だった中国国内の空気が、一変したと語られていました。
西岡瑞江さん(撮影2013年/当時86歳)
「私なんか本当にもう最低だった。子どもたちを学校にも入れられない。だって私はスパイ嫌疑とかなんとか、でっちあげだけれど。本当に貧乏な生活しているのに」
終戦の2年後、中国人に嫁いだ西岡瑞江(にしおか・みずえ)さん。6人の子どもたちとの平穏な暮らしが、徐々に奪われていきました。
当時、盛んだったのが、野外映画。よく上映されていたのが、日本兵の残虐性を描いたものでした。
西岡瑞江さん
「川に洗濯に行ったら、みんな女の人が洗濯してる。すると、日本人が虐殺したり、強姦(ごうかん)したりする映画の話が出るの。日本は戦争したから嫌われたのよ。日本人っていったら人殺しみたいに言われるの」
1966年から始まった文化大革命。資本家や知識人などとともに、日本人も糾弾の対象になりました。西岡さんもスパイの容疑をかけられて、家を荒らされました。日本と関係する、日本の雑誌や家族の写真は根こそぎ奪われたと言います。日本人を妻にした夫は、毎日のように街の広場で吊るし上げられ、帰宅すると家族に暴力を振るうようになったと言います。
西岡瑞江さん
「胸を殴られたら息ができなくなる。どこにも言うところがないから、やっぱり子どもや妻を殴るんだよ。『日本鬼子(リーベングイズ)』って、『日本人、鬼みたいだ』って言われたけれど、私は行いをちゃんとしてる。自分ではやましいことを全然やらない。自分が日本の代表だと思って、自分の行いをよくする」
<国交正常化後も、帰国が叶わない女性たち>
いまから50年前の1972年9月。日本と中国の国交が正常化しました。
終戦から27年を経て、ようやく日中共同声明が調印されました。しかし国交正常化の後も、残留婦人たちの「戦争」は続きました。多くの女性たちが、すぐには帰国できなかったのです。
長野県に住む岩本くにをさん(90)も、その一人です。岩本さんが戸籍を回復し、永住帰国したのは国交正常化の24年後。還暦を過ぎていました。
なぜ帰国がここまで遅くなったのか。
当時、残留婦人が帰国するためには、原則、日本にいる「親族の同意」が必要でした。帰国に同意した親族は、住居の手当てや病気になった際の世話、生活費の援助など、多くの労力を費やすことになりました。
岩本さんは、一家全員で中国に渡ったため、日本に残っていたのは、一度も会ったことがない親戚だけでした。
岩本くにをさん
「きょうだいとか親とか、誰かいれば、早めに帰ってきた。誰もおらんじゃ。親戚はだめ」
親戚には、「中国で暮らした方がいいのでは」と帰国を反対されたといいます。帰国が遅れたことで、子どもたちは中国で独立。家族そろって、日本に戻ってくることはできませんでした。1日の大半を過ごすベッドの脇には、中国に残してきた家族の写真が飾られていました。
岩本くにをさん
「夜になると、寝るときよく泣いとった。涙をこぼして。何というか・・・自分の命不好(生まれた時代が悪い)」
<帰国を阻んだ“自分の意思”>
なぜ残留婦人の帰国に厳しい条件がつけられたのか。
当時厚生省が力を入れていたのが、終戦時の混乱で幼くして家族と離ればなれになり、中国人に育てられた「中国残留孤児」でした。1980年代には、親族の同意がなくても帰国できる制度がつくられ、多くの孤児たちの帰国が実現しました。
一方で残留婦人は、親族の同意を得られた人に限って帰国を果たしていました。
厚生省では、帰国しない人は「自分の意思」だとして、対策の必要はないとされていたと言います。
元厚生相 社会・援護局 中国孤児等対策室長・竹之下和雄さん
「今の制度で帰りたい人は帰ってきているし、残っている人はご自分の都合で残っているのだろう、というような大きな前提でみんな考えていた」
この頃、帰国が叶わない残留婦人たちから、日本の支援者に切実な声が寄せられていました。
「肉親が帰国への道を阻むことが、私たちの一番悲しいことです」
「これが戦後だと思えば、さびしくなります」
残留婦人が「親族の同意」なしに帰国できるようになったのは、国交正常化から22年が経った1994年になってからでした。
元厚生相 社会・援護局 中国孤児等対策室長・竹之下和雄さん
「行政は過去のやり方にとらわれる部分もたくさんあって、この人たちも(残留孤児と)同じような措置をとらなければいけないと思い始めても、じゃあ明日からそうしよう、という訳にいかないんです。婦人たちの層が、若干遅れたのは、結果としては申し訳ないけれど、ある意味ではやむを得なかったと私は思っています」
半世紀にわたって、日本への思いを募らせてきた残留婦人たち。夢にまで見た祖国へようやく帰国することができました。
小林よう子さん(撮影1990年代)
「いろいろな人がいて、親切だよな、日本人は。そこでわんわん泣いた。あまりに親切でね」
山本孝子さん(撮影2015年/当時87歳)
「姉さんや兄さんの顔は、年を取っていたけれど、面影があってね。日本に来られるとは思わなかったけれど、やっと助かったっていう気持ち」
しかし、支給された年金は最大、月に2万円ほど。生活保護に頼るなど、厳しい暮らしは変わりませんでした。
村上米子さん(撮影1990年代)
「何のために自分の国に帰ってきて、こんな苦しい生活しないといけないかと思ったら、もう涙、涙で動けなくなって。気がついたら、ああいけないと思って慌てて涙拭いて、また、にこにこして働いてね」
2001年以降、女性たちは、国の責任を問うために、国家賠償を求めた裁判を相次いで起こします。
原告団代表
「中国に50年置き去りにされました。日本政府に責任を問います」
国は2007年、年金の満額支給と、それを補完する支援金の給付を決めました。その一方で、残留婦人をはじめとする引き揚げ者に対する戦後処理はすでに終わっているとして、賠償の求めに応じることはありませんでした。
<中国に残った婦人の老後、帰国した婦人の老後>
2000年代に入ると、中国は急速に経済発展を遂げ、2010年には日本を抜いて世界第2位の経済大国となりました。
残留婦人の中には、家族を作った中国にとどまった人もいました。
2015年に撮影された証言映像。桂川(かつらがわ)きみさんは、戦時中、岐阜県から旧満州に渡りました。終戦間際の混乱で家族と生き別れになり、中国人と結婚。しかし、その形は意外なものでした。家族写真で夫の隣に映っているのは、中国人の妻でした。
桂川きみさん
「子宮が悪くて子どもが産めないの。それで、しかたないから、日本語ではなんて言うの?妾(めかけ)ではないけれど。2番目の妻となった」
桂川さんは中国人の妻に代わって、4人の子どもを産みました。日本の家族に反対されて帰国を諦め、中国で4世代19人にわたる大家族に恵まれました。
桂川きみさん
「これは日本の同級生が送ってくれたものです。♪蛍の光 窓の雪 文読む月日 重ねつつ・・・」
桂川きみさん
「今も日本を思っています」
桂川さんは3年前、自宅で家族に見守られながら93年の生涯を終えました。
次男・郝寶福さん
「母は故郷を捨て、中国を選びました。きっと苦しかったでしょう。しかしその感情は表に出しませんでした。私たちにつらい思いをさせたくなかったのでしょう。最期は心配することなく、静かに息を引き取ったと思います」
篠崎鳩美さんは、中国に渡って43年後に帰国。その後、家族を全員、日本に呼び寄せました。生活は楽ではありませんが、近くに住む孫やひ孫がよく遊びに来ます。
取材の最後に、篠崎さんがあるものを見せてくれました。
篠崎鳩美さん
「総理大臣からもらった、大事な大事なものです」
国から贈られた、1枚の書状。
「御労苦に対し衷心より敬意を表し慰労します」
残留婦人としての人生に、国がようやくくれたことばでした。
篠崎鳩美さん
「つらいときのことは、みな水に流して、前向きにして、自分で自分を慰めるほかはないです。本当に子どももみな、ようしてくれるから、本当に幸せ、幸せ、幸せ」
日本と中国、二つの国家のはざまで翻弄されてきた女性たち。
国家にとって個人とは何なのか。
私たちが忘れてはならない重い問いを、中国残留婦人たちの告白が投げかけています。