新・ドキュメント太平洋戦争1943 国家総力戦の真実 前編

NHK
2023年8月29日 午後3:30 公開

番組のエッセンスを5分の動画で紹介

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(2023年8月12日の放送内容を基にしています)

今から80年前、国家の存亡をかけ、この地に5000人を超える子どもたちが集められた。

太平洋戦争が始まって1年余り。度重なる敗北で、多くの兵士を失った日本は、14歳から20歳までの健康な男子を、連日訓練した。後に、ここから多くの若者が特攻作戦に参加し、命を落とすことになる。

シリーズ「新・ドキュメント太平洋戦争」。1941年から45年まで、個人の視点から歴史のうねりを1年ごとに追体験していく。

手がかりとなるのは、個人が記した日記や手記、エゴドキュメント。そこには、表現の自由が制約された時代の本音が刻まれている。

第3回は、3年8か月に及んだこの戦争の中間地点にあたる1943年。

戦死者が増加していく中で、銃後の市民は何を思い、何に直面していったのか。国家が推し進めた際限なき戦争動員の実像に迫っていく。

この年、拡大したのが、「徴用」。兵役に就いていない人々を、軍需工場などに強制的に動員する制度だ。

「私に徴用令がくる。家業をたたんでゆく身が、何となくうらぶれた感傷を伴い、敗惨者の感じがしてならない」(漆職人・森伊佐雄「昭和に生きる」)

徴用された人々は、戦場にも赴くことになる。技術者や船員などが、前線の島々で飛行場の建設や物資輸送にあたった。彼らはやがて、想像もしなかった過酷な運命に直面することになる。

「待ちたるも、友軍機来たらず。応援部隊も来ず、心細し」(アッツ島守備隊・軍属)

連合国軍の攻勢が強まる中で、拡大を続けた戦争動員。銃後の人々が、いかにして国家総力戦を受け入れていったのか、あまり語られることのなかった、一人ひとりの心の変遷に迫る。

<徴用が強化される中で銃後の生活はどうなっていったのか>

1943年に徴用された1人の男性の日記が見つかった。竹鼻信三。京都の呉服店に勤務していたが、妻子を残し、1月、大阪にあった陸軍の工場で働くことになった。

工場内の仕事は軍事機密とされ、日記やメモなどを、外に持ち出すことは許されていなかった。

長男/信昭さん「外で書いたやつもあるけども、工廠(こうしょう)の中で仕事中に書いた。これをたたんでベルトに隠して、そして表に出たという」

身体が弱く、兵役につけなかったことを負い目に感じていた竹鼻。軍のために働き始めた時の喜びを綴っていた。

「朝、町内、隣組の人々に万歳と送られ、表門をくぐった。初めて見た工廠の姿は、赤煉瓦の建物、どす黒いけむりと蒸気の白い湯気に、空は曇り勝ちとなり、時々半裸の工員が駆け足で走って行く中に、大きい力を感じた」(竹鼻信三 日記)

開戦以来、太平洋の島々を次々に占領し、攻撃拠点となる飛行場の建設を行ってきた日本。一方のアメリカは、南太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を日本から奪い、反攻を開始した。

そして43年。戦局の中心は、日本軍の一大拠点があったラバウルに移る。連合国軍はニューギニアとソロモンの二方面から攻勢を強め、消耗戦が続いていた。

しかしこの時、国民にミッドウェー海戦、ガダルカナルの敗北はまだ伝えられていない。

銃後の人々は、ささやかな日常を記録していた。

「この日記帳もはや四冊目!年毎(ごと)に包装も粗末になり、紙質の落ちたことおどろくばかり。こんなにインクがにじんでしまう」(2月6日 金原まさ子 日記)

育児日記をつけてきた、東京の金原まさ子。この日は娘・住代の3歳の誕生日だった。

「お誕生日の御馳走として何もしてやれず。お母様達がどんな生活をしているか想像が出来ますか。さあ今年も二人してガンバリましょう」(金原まさ子 日記)

その一方、消耗戦の影響が、国内の生産現場に及んでいた。失った航空機や武器を増産するため、国は徴用を強化する。

「かしこくも天皇陛下には決戦下、軍需品の増産増強を御軫念(ごしんねん)あそばされ、工員らは感激もひとしお。いよいよ生産戦に奮励」(日本ニュースより)

陸軍の工場に徴用された竹鼻が配属されたのは、陸軍が密かに開発する兵器の、組み立てを行う部署だった。

「機械やこうした仕事に、以前より興味を持っているので、参考書を買って作業や旋盤等に付いて勉強している。決戦下、御国の為に、銃後第一線に直接働いている気持ちが、何より自分の生活を意義づけてくれる」(竹鼻信三 日記)

生産力の多くが戦争に振り向けられたことで、人々の生活にも影響が出ていた。

「朝から、木綿糸を売る、というので2人で行ったところ、100人以上も並んでいて、この分ではお昼頃までかかりそう」(山内泰子 日記)

「今日もまた食ふものあさらむとて千住に行く。名物の佃煮売る店ありしが、今は残らず戸を閉したり」(永井荷風「断腸亭日乗」)

東京の主婦、金原は娘の好物、キャラメルの配給が減っていたことが気がかりだった。

「住代ちゃんが見えなくなったのでさがしに行くと、広チャンたちと寝ころんで本を見ていた。配給のキャラメルを一箱持たせたら、お友達に気前よくわけて上げてしまい、またたくまにカラ」(金原まさ子 日記)

日に日に厳しくなる暮らしにあくせくしながら、銃後の人々は、その日をしのいでいた。

<悲鳴を上げる農村>

しかしこの時、深刻な事態に直面する場所があった。食糧の生産を担う農村部だ。

日本有数の米所、新潟県の深才村(現 長岡市)。村長の日記には、徴用などで人手をとられ、頭を抱える様子が度々記されていた。

「昨日16名に徴用出頭要求」(1月9日 村長・遠藤倉治 日記)

「8月末までに、200~300名を炭坑へ送らせる。厄介なことだ」(2月25日 村長・遠藤倉治 日記)

兵役や徴用の負担に加え、政府からはもっと米を供出せよ、と求められていた。

「(国は)少なくとも100万石(100万人が1年間に食べる米の量)供出して生産者、地主ともに不自由を味わってもらわねばならぬという。(村民に)強制もできるが、今回の供出の結果、配給を受ける者より一日の飯米量が少ないことになると、これは厄介な話だ。国家は川向こうに眺めている有様だ。誠に嘆かわしい。私も指導者たる職にいるが恐ろしくもなる」(2月25日 村長・遠藤倉治 日記)

農家からは悲鳴が上がった。首都圏の業者に米を売ったため、供出したくても出す米がないと泣きつく者もいた。

「白状して曰く、保有米を横流ししたため、今供出すればあと3俵位で、1か月か1か月半しかないが、如何にして食を続くべきかという」(村長・遠藤倉治 日記)

都市部ではこの頃、食糧の配給が滞りがちになり、闇での売買が横行していた。

「米でも酒でも靴でも何でも闇で手に入る。純白米が1俵150円とか言うそうである。自分たちが卵や牛肉を少しばかり闇値で買っているのとは、まるでクラスが違う。金持連中など決して生活に困ったりはしないであろう」(2月8日 作家・伊藤整 日記)

主婦の金原も、闇で食料を買うことがしばしばだった。

「誰も闇で買えないような仕組みにすればよいのにと思う。それなら自分だけ買わなきゃよいのに、買っている人もいると思うとあきらめきれぬ。自己嫌悪を感ずる」(2月10日 金原まさ子 日記)

43年に国が作成した内部資料がある。農民や労働者の思想を分析し、反戦思想を取り締まるためのものだ。供出による不安や動揺から、離農や農地返還が相次いでいたことがわかる。

「供出再割り当てするなら、食べて行かれぬから首をつる」「百姓を泣かすな。農相を葬れ」(特高月報 昭和18年2月分)

別の資料には、工場で働く労働者の姿も報告されていた。

「賃金値上げ要求をなしたるところ、拒否せられたるため作業上の手抜き。欠勤率は15%以上。労働者の増産への熱意は、良好なりとはなしがたき」(「現下の思想動向」)

徴用され、陸軍の工場で働いていた竹鼻の日記。

「配給あり。キャラメル等、四個ずつは少し地方の子供にまわしてやりたい。産業戦士の特配も結構だが、机上の役人仕事だ」(竹鼻信三 日記)

竹鼻の日記には、不満が記されるようになっていく。

「社会において人員不足の声やかましく、人的資源が叫ばれる今日、この不経済極まる人の使い方に驚く。今日迄民間で働いた我々には不思議なくらいだ」(竹鼻信三 日記)

竹鼻の不満。それは、届いた部品の寸法がそれぞれ僅かに違うため、組み立てる前にひとつひとつヤスリで削って修正する「現品合わせ」にあった。

「いわゆる現品合わせせねばならぬ、日本の技術の水準では、大量生産も難しい。又、日本重工業の名に於いても恥ずかしいことだ。長年の仕事を捨てて、白紙の令状を手に産業戦士と張り切ってやってきた自分の心に、一抹の淋しさと物足りなさを感じる」(竹鼻信三 日記)

本来、兵器の製造は精密作業が求められる。しかし、熟練工の多くが兵隊にとられ、いわば素人による作業になったことで、思うような生産が出来なくなっていた。

深刻な人手不足に苦しんでいた新潟県・深才村。徴用を逃れようとする農家が相次ぐようになっていた。

「国策に協力する事を嫌う気風の多いのには困る。国としても、徴用とか協力令の改正を要す」(村長・遠藤倉治 日記)

<空と海で激化するアメリカ軍の攻撃>

国家が推し進めた市民の動員は、戦場にも及んでいた。

「信じられないことに、スコップ、ツルハシ、ノコギリの類いを持っての人海戦術だけで工事を進めるのである」(海軍16設営隊・赤羽恒男 手記)

こう綴っていたのは、赤羽恒男、18歳。工業学校の土木科を出たばかりの軍属だった。

軍属とは、軍人ではないものの軍隊に雇用され、施設の構築などのため、働いた人たち。日本軍が占領した島々でも、土木や通信の施設要員として大勢の軍属が働いていた。

赤羽が派遣されたのは、ガダルカナルの北西にあるブーゲンビル島。日本軍は、ここに飛行場を建設し、アメリカ軍の進攻を食い止めようとしていた。

この島を映した記録は、アメリカ軍が上陸するこの年の11月までほとんどない。そこで、遺族を一人ひとり訪ね、赤羽らの活動をうかがい知る資料がないか探すことにした。

生還した元兵士が戦場の絵を描き残していた。77歳でこの世を去った、井手末光。

ブーゲンビルであった悲劇をいつか伝えて欲しい。ひとり部屋にこもり、亡くなる直前まで描いていたという絵には、戦場のリアルが刻まれていた。

ジャングルの中の行軍。アメリカ軍の航空機の下で身を隠す日本軍兵士。

後に負傷し、腕を切断される自らの様子も生々しく描いていた。

「私の左手は一片の肉塊として芥(あくた)の如く捨てられた。何処に埋められたか私は知らない。何時迄生き延びられるか分らない。観念して考えない事にする」(井手末光 手記)

次女/井手逸恵さん「(戦争とは)こういうものだよと。すべてどの場面もそうじゃないですか、小さいことをしっかり描いているので、それがすごく頭の中に残っている。実際に生かされた父が、何を残そうかなと思った時に、描きたかったかもしれない。私たちに残したかったのかもしれない」

さらに、もう一人、別の元兵士が描いた絵も入手。これらの絵と赤羽の回想を頼りに、ブーゲンビルの戦場を追体験していく。

兵士や軍属は、上陸前からアメリカ軍の攻撃にさらされていた。魚雷攻撃をかわしながらの移動を余儀なくされた。

赤羽も、こうした輸送船で島に向かっていた。船室にいた時、強い衝撃を受ける。

「ザザーッと水の流れ込む音がする。前方を見ると、なんと、まさしく本物の潜水艦だ。ここでやっと魚雷を食らったことが納得できた。軍人さんはともかく、われわれ軍属はどうしてよいやら、ウロウロするばかりのお粗末である。のっけからひどい目に遭うたもんだ。この先どうなるのか」(海軍16設営隊・赤羽恒男 手記)

乗っていた船は座礁。赤羽らは身一つで他の船に救助され、九死に一生を得た。機材がないまま飛行場建設が始まったが、そこには想像を超える困難が待ち受けていた。

その飛行場が今も残されていると聞き、現地へ向かった。大半がジャングルに覆われた島のあちこちには、今も、戦争の爪痕が刻まれている。

熱帯雨林のこの島は雨が多い。不意に降り始め、ひとしきり激しく降ると、身動きは制限される。一番近い町から飛行場まで、直線距離で135キロ。3時間の道のりだった。現れたのは、土と草に覆われたでこぼこの大地。赤羽らが切り開くまでは、うっそうとしたジャングルだった。

「大きな枯れ木の根元がいたるところに立ち残っており、ノコギリでは歯が立たないから、ノミを使って穴をあけ、そこへダイナマイトを詰め込んで爆砕。その破片をモッコで担いだり、ロープで引きずって運び捨てる。能率の悪いことおびただしく、工事は遅々としてはかどらない」(海軍16設営隊・赤羽恒男 手記)

さらに、赤羽らを苦しめたのは、ガダルカナルから飛来するアメリカ軍機の空襲だった。

「生きた心地がしない。軍属とはいえ、われわれは、この島の最前線ともいえる飛行場から逃げ出すわけにはいかないのであった」(海軍16設営隊・赤羽恒男 手記)

連合国軍の攻勢を前に、押し込まれる日本軍。中でも深刻だったのは、兵士や物資を運ぶ輸送船の被害が相次いだことだ。

これは、潜水艦の攻撃による船舶の損失量を示したグラフ。4月以降は、ひと月におよそ10万トン、平均して毎月20隻以上を失う大打撃を受けた。

アメリカ軍は、この年、極力、地上戦を避け、海上輸送を絶つ作戦に重点を置いていた。その影響は戦場にとどまらず、回り回って、銃後を更なる窮地に追い込んでいく。

「敗戦(輸送船沈没)の悲報を聞くたびにノイローゼになっていた」(田中申一 手記)

国の輸送計画を担っていた、企画院の田中申一。輸送船が沈められるたびに、陸海軍の要求に応じて、民間の船舶を軍の管理下に置いたり、新たに造船したりして調達してきたが、それも限界を迎えようとしていた。

田中の危惧は現実となる。

「一般民需が徹底的に圧縮される羽目になった」(田中申一 手記)

船の沈没で、輸送量が236万トン減り、生活に必要な物資の輸入を削減するしかなかった。田中は、綿花を4万9千トン、医薬品に使われる油料作物を6万3千トン。さらに、ガラスや紙の生産に必要な工業用の塩や、業務用の砂糖などギリギリまで削った。

「これだけ思い切った斧鉞(ふえつ)を加えても、未だ目標の40%にも達してはいなかった。削減不足量96万トン。これ以上何を切れというのだ」(田中申一 手記)

<戦場で見失った希望>

戦場では、アメリカによる空と海からの攻撃で、補給を思うように受けられず苦しんでいた。

「いよいよ激戦を肌で感じるようになってきたが、それに伴って仲間の負傷者、戦死者の数も増していった」(赤羽恒男 手記)

暗雲がたれこめる中、ブーゲンビルの赤羽を喜ばせる一つの知らせがもたらされる。

「もう大丈夫だ。そんな感慨がだれの胸中にも湧いた。あの山本長官が来られるかぎり、戦況好転は間違いなし」(赤羽恒男 手記)

伝えられたのは、聯合艦隊司令長官・山本五十六がブーゲンビルにやってくるというものだった。真珠湾攻撃の成功以来、国民のカリスマだった山本。司令官が前線を訪れるのは、異例のことだった。

出発前、山本は、旧知の陸軍第8方面軍・今村均司令官に、このまま消耗戦が続けば、戦局の前途は暗い、と語っていた。

「補充率がこっちの3倍を上回っているので、率直に言って難戦の域に入っている。補充能力の関係で、やっつけてもやっつけても、まもなく彼(アメリカ)が優位に立つ」(今村均の手記に記された山本の言葉)

山本が懸念していたのは、生産量だけでなく、その質の差にもあった。

「あまり練習せんでも扱い得るように、機械化している彼(アメリカ)の科学向上が(日本との)腕前の差を小さくしている。日本軍の精練主義はもちろん良いものだ。が、それに並行して進ませなければならなかった科学上の改良が遅れていたことが自覚され、大きく責任を感じている」(今村均の手記に記された山本の言葉)

長く日本の航空戦力を率いてきた者として、責任を感じていた山本。前線のブーゲンビルの将兵や軍属を直接訪ね、慰労しようと考えていたのだ。

「胸がわくわくしていた。このときばかりは、飛行場を造りにきてよかったと、しみじみと思ったものである」(海軍16設営隊・赤羽恒男 手記)

しかし、山本が赤羽の前に現れることはなかった。日本海軍の暗号を解読し、山本の行動予定をつかんだアメリカ軍により、山本の機体はブーゲンビル到着の直前に撃墜された。

「まだまだ形勢逆転のときがくると信じ願っていた望みは、ここで断ち切られた」(海軍16設営隊・赤羽恒男 手記)

もうこの戦争に勝てないのではないか。前線の兵士や軍属に絶望感が生じ始めていた。

山本の死が日本の国民に伝えられるのは1か月後の5月21日。その間の日記には、食料を巡って動揺する様子が度々記されている。

「漁夫沖合にて米國飛行機また潜水艇に襲はるるもの甚だ多し。東京の市場に魚類の乏しき」(永井荷風「断腸亭日乗」)

実はこの時、連合国軍の攻撃は、アジアの占領地から食糧を運ぶ日本の船にも向けられていた。

「日本の食糧は目下、極めて窮しており、2・3か月先のことは、当局でも見当つかぬほどだという話出る。心配なことなり」(作家・伊藤整 日記)

「10日に一度くらいのお魚、何とも仕方なし。知り合いから卵を分けて貰うので、住代ちゃんのタンパク原は確保したものの、お母様も栄養不足と過労で、この分では住代ちゃん一人っ子かも知れないと思う。1人では寂しいから、弟妹を与えてやりたいが・・・」(金原まさ子 日記)

<アッツ島“玉砕”の衝撃>

戦争の先行きに不安を覚え始めた市民。それは、ある戦場の出来事によって大きく変わっていく。

北太平洋の最前線、アメリカ領のアッツ島。日本軍は開戦の半年後、この島を占領。2600人あまりの守備隊が置かれていたが、5月、アメリカ軍と地上戦を戦い、全滅することになる。

アッツ島で父を亡くした浅野裕子さん。届けられた最後の手紙の内容に違和感を拭えず、父の真意を考え続けてきた。

「のんきにやっておりますから、どうぞご安心のほど、皆さまによろしく。ではまた」(陸軍中尉・岡崎裕雄 手紙)

浅野裕子さん「安心してもらいたくて、こう書いているのかもしれないけど。せっかくアッツで尊い命が失われたのを、いい教訓にしていけばいいのを、ますますもっとひどいことになって」

アメリカ軍が1万を超える大軍でアッツ島に上陸したのは5月12日。銃後の人々は、その情勢に釘付けになった。

「ラジオに耳を傾けていると、アッツ島へ敵が上陸して激戦中と耳にし、何かしら背中へ水が流れ込んだような様な感じと共に、緊張した瞬間であった」(5月15日 高等女学校・若椙幸子 日記)

ここが占領されれば、北海道から日本に攻め込んでくるかも知れない。そんなこともささやかれていた。

北海道出身の作家・伊藤整。アッツ島の行方が気がかりだった。

「5月17日。アッツ島の米軍は2カ所に上陸したと米側で発表あり。いずれ占領されるかも知れぬ」

「5月18日。米市民はアッツ島戦にやっきとなって、事情を知りたがっているらしい。我々も同様だ」(作家・伊藤整 日記)

しかし、戦況を伝える情報は、次第に少なくなっていく。

「5月29日。アッツ島の日本軍はどうしているだろう。弾丸はあるだろうか。食べ物はどうしているだろう。この戦はこれまでのどの戦にも増して気になる。撤退するとなっても、果たして撤退できるだろうか」(作家・伊藤整 日記)

島の周囲をアメリカ軍に制圧され、孤立無援に陥っていた日本軍のアッツ島守備隊。

実はここでも、兵士たちは日々の思いを日記につづっていた。そのエゴドキュメントは、戦闘後、アメリカ軍によって収集されていた。日本兵の心理を知るために、遺体から日記を集め分析したのだ。

そこには、日本兵の叫びが記されていた。

「1日2個のおにぎりさえあれば、どんな重労働でもこなせるのに。この8日間寝ていない」(5月20日 氏名不詳)

「私は衛生兵なのに、負傷兵たちが苦痛にうめく中、祈ることしかできない。おそらく、歴史上これほど惨めな戦闘はないであろう」(5月20日 衛生兵・キクチ)

家族に遺書をしたためた者もいた。

「さようなら、タエコ。愛する妻、そして最後まで私を愛してくれた。どうかまた会う日まで幸せに暮らしてください。やっと4歳になったミサコ、すくすくと育ってくれ。ムツコにはすまなく思う。2月に生まれたばかりで、父の顔を知らないのだから。いい子にしてください。さようなら」(5月29日 辰口信夫)

そして、5月29日夜。山崎保代部隊長が、残った兵士とともに最後の突撃を行う。それは、アメリカ軍にとって、到底理解のできない壮絶な光景だった。

「どの兵隊も、ボロボロの服をつけ、青ざめた形相をしている。皆、どこかを負傷しているのだろう。足を引きずり、ひざをするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵は、身の毛をよだてた。大きな拡声機で『降参しろ』と叫んだが、日本兵は耳を貸そうとはしない。ついに、わが砲火が集中された」(米軍中隊長 ハーバート・ロングの回想)

「アッツ島守備のわが部隊は、ついにことごく玉砕しました。山崎部隊長は、ただの一度でも、一兵の増援も要求したことがない」(大本営発表・ラジオ放送)

降伏を許されず、死ぬまで戦うことを求められていたアッツ島の将兵たち。2600人あまりの死は、名誉のために潔く死ぬ「玉砕」と美化された。

「なんと言うことか。悲痛この上もない。いよいよ今度の戦は、その真相を露骨に現してきた。目が覚めたような思いである。実に思い知った形で、身体の奥から、そうだ、本当に何でもやらねばならぬ所へ来ているのだと感ずる」(5月31日 作家・伊藤整 日記)

あまりに壮絶な死を、突然突きつけられた銃後の人々。戦場が人ごとではなくなっていく。

「私は米英兵と戦う場面を想像する。大和魂とか軍人精神だけでは戦もできまい。勝てる自信もない。生きていられないだろう。私はどうすればいいのだ」(漆職人・森伊佐雄「昭和を生きる」)

日記には、戦い抜くしかない、といった言葉があふれ、戦争への疑問や不満が記されることはほとんどなかった。

「大東亜戦下、此の処の攻勢は、我が家にひしひしに身近に深刻に感じさせられるに到った。自分に今、召集令が来たらどうだろう。俺も愈々(いよいよ)しっかりしなければならぬと感ぜずに居られない」(鉄道員・小長谷三郎 日記)

軍需工場で働く竹鼻信三。

「生くるか 死ぬか 祖国重大なとき、工員としてお国にご奉公する身だ。勝つまでは忍ぼう」(竹鼻信三 日記)

アッツ島の玉砕が伝えられた直後。山本五十六の国葬が営まれる。

「山本元帥に続け」と、銃後の戦争動員はますます加速。そして、戦場から遠かった10代の若者までもが、戦争に駆り出されていくことになる。

「宣誓。現下、制空決戦の様相、日を追ってし烈を極むるのとき、今や我ら選ばれて学生航空隊の一員となり」

宣誓しているのは、アッツ島で戦死した山崎部隊長の次男。父の死から2週間しか経っていなかった。

「在天の英霊に続き、断じて仇敵米英を我らの翼にて撃滅せんことを期す。右宣誓す。昭和18年6月13日、新訓練生総代、山崎保之」

兵士、市民、そして若者。誰もが戦争へと巻き込まれていった1943年。

一人ひとりの運命は、さらに大きく狂わされていく。

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