新・ドキュメント太平洋戦争 「1941 第1回 開戦(前編)」

NHK
2021年12月4日 午後9:49 公開

番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

(2021年12月4日の放送内容を基にしています)

もし80年前、太平洋戦争の時代にもSNSがあったなら、人々は何をつぶやいたのだろうか?今、研究者たちが注目するのが、戦時中に個人が記した言葉の数々「エゴドキュメント」だ。膨大な言葉をAIで解析。激動の時代を生きた日本人の意識の変化を捉えようとしている。

1941年12月に始まった太平洋戦争。長きに渡った戦争で国は焦土と化し、日本人だけで310万もの命が失われた。なぜリーダーたちは判断を誤ったのか。そして、なぜ多くの市民が大国との戦争に熱狂したのか。それを解き明かす鍵が、近年発掘が進むエゴドキュメント。個人がつづった日記や手記だ。表現の自由が制約された時代。誰にも言えなかった本音が記されている。会社員や学生などの市民。最前線の兵士。国のかじ取りを担う指導者たち。ひとりひとりの視点から、新たな戦争の姿が浮かび上がる。個人の視点から歴史のうねりを追体験していくシリーズ「新・ドキュメント太平洋戦争」。第1回は「開戦」。国家を破滅へと導く戦争の入り口で、日本人の多くは歓喜した。しかし、時計を巻き戻すと、開戦の前年、社会には戦争とほど遠い空気が漂っていた。都市部ではアメリカブームに沸き、ハリウッド映画やジャズが流行した。国の指導者たちも、国力で圧倒的に勝るアメリカとの戦争を避けようとしていた。なぜ、わずかな期間で急激な意識の変化が生まれたのか。開戦の前年から太平洋戦争に至る道のりを、市民と国の指導者のエゴドキュメントから探っていく。

<開戦 なぜ日本人は熱狂したのか>

『住代ちゃん 昭和十五年二月六日。あなたは高らかに産声をあげました。スヤスヤと眠っているあなたを見るとママは涙ぐましい程の感激にふるえて、胸はゴムマリのように弾んでなりません』

東京・四谷に住む金原まさ子さん。開戦前年の2月、一人娘の住代ちゃんが生まれたことで、育児日記を書き始めた。

『四月十八日。おっぱいを出そうとして この暖かいのに昨日も今日も「すきやき」。住代ちゃん あくびをするときの甘い甘い息の匂い ママは大好きなり』

一人一人の言葉「エゴドキュメント」からは、当時を生きていた人々の息づかいが聞こえてくる。開戦前年、都市部では戦争とはほど遠い豊かな暮らしがあった。

『野球見物 イーグルスがタイガースに勝つ』(6月15日 評論家 青野季吉日記より)

『今日は宴会だ 二次会で街の飲食店にて騒ぐのが目的である』(1月2日 農家 小長谷三郎日記より)

大阪で精米店を営む井上重太郎さん。子供のために、大きな買い物をしたことが記されていた。

『ピヤノの如き(ごとき)は贅沢(ぜいたく)品ではあるが、一家の慰安として身分に過ぎるかもしれぬが、買うことにしたのである』

当時、ピアノの金額は、公務員の初任給8か月分。日夜仕事に励み、稼いだお金でやっと手にした宝物だった。現在と変わらないようにも見える穏やかな人々の営み。それがなぜアメリカとの戦争に歓喜するまでに至ったのか。

日本人の心境の変化に迫ろうと、全国600か所の資料館や個人宅をまわり日記を探した。会社員・学生などの市民、国の指導者など、男女あわせて250人以上。人々の心の内がつづられた「エゴドキュメント」だ。今回、それをAIに読み込ませ、SNS上の「つぶやき」に見立てて解析。投稿数に換算すると、12万件のデータから心の変化を読み解いていく。

関西学院大学 計量歴史社会学 渡邊 勉教授「どこの時点で何を考えて、どこで変わったのかということを追っていける。かなり意味のある大きなデータかなと思っている」

SNSのトレンド分析をモデルに、日記のテキストを分解。単語の数は630万に達した。それをジャンルごとに分け、頻繁に登場するものほど、大きくビジュアル化する。

1940年の前半。市民の関心の最も多くを占めているのが「生活」だ。その中の「食」をのぞいてみよう。

オムレツ、ポタージュ、アイスクリーム、マカロニ、そしてビフテキ。多彩なメニューを楽しんでいたことがうかがわれる。しかし、この年の後半、食生活に変化が起こる。

代用品、配給、外米。一転して、不自由さを示す単語が現れ始めた。子育てにいそしむ金原まさ子さんの日記には、子供のごはんが質素になってきたことがつづられている。

『八月十一日。外米になってから子供の腹こわしが増えた。今月からは麦が入る。7割外米の麦入りときては大変なり。大人は我慢するが子供はかわいそうだ』

実は住代ちゃんの兄は、幼くして食中毒で亡くなった。そのため、金原さんは娘の体調をひときわ心配していた。

大阪で精米店を切り盛りしていた井上さんは、ピアノを楽しむ余裕も消え失せ、政府に不満を抱くようになっていた。

『政府はいたずらに統制統制といって配給が遅れている。米の入荷がないので配達することもできぬ』

生活の変化の背後にあったのは3年に及んでいた日中戦争だった。戦時体制が強化され、政府は食料を統制。農村部では、軍への米の供出を強いられた。食糧難の影響は、都市部にも広がり、市民の贅沢が禁止された。暮らしに影が差し始めた開戦の前年。市民がアメリカを戦争の相手国として意識し始めたのは、いつだったのか。

埼玉県・浦和に住む女学生、笠原 徳さん。当時17歳。この年1月の日記につづられていたのは、アメリカへの夢や憧れだった。

『午後、シネマを観に行った。昨年度のアカデミー賞を得た「スタア誕生」といふの。ロスアンジエルス、ロマンティックで美しくあざやかだった』

笠原さんは、アメリカの友人と文通し、見知らぬ国への憧れを募らせていた。

これは当時の映像。人々は、ハワイアンやジャズに夢中だった。アメリカ文化が流行し反米感情より、むしろ親近感を抱く市民も多かった。しかし、次第に笠原さんの日記では別の国の存在が増していく。ドイツだ。

『六月二日。訓練されしドイツ軍。中でも英仏より数世紀も進んだ機械化部隊の活躍めざまし。今度の戦い、ドイツに凱歌(がいか)あがらん』

当時、ヨーロッパでは、第二次世界大戦が勃発。ドイツ軍は破竹の進撃を続けていた。笠原さんのドイツへの関心は、日を追って高まっていった。

『九月二十七日。日独伊、積極的な同盟生まれる』

『軍事・政治・経済 あらゆる方面から完全に一体となり、世界の民族のリーダーとなれる三国の力強さ。ますます心ひきしまる』

17歳の心を捉えた三国同盟。日米開戦の1年3か月前、日本はドイツ・イタリアと同盟を結んだ。日本の狙いのひとつは日中戦争の解決。中国を支援するアメリカやイギリスを、ドイツと組んでけん制することだった。日本は、ナチスドイツの人気に沸いた。デパートにはためくカギ十字の旗。両国の絆を祝うダンスショーに人々は喝采した。アメリカを強く刺激し、太平洋戦争開戦の大きな要因となったとされる三国同盟。危機感を抱く人物もいた。のちに真珠湾攻撃を指揮する山本五十六はこう訴えた。

『三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は、日米戦争を回避する様、極力ご努力願いたい』

ドイツとの同盟が戦争をもたらすリスクを、市民はどこまで認識していたのか。今回集めた市民の日記から、戦争に関連する単語を抽出。その数は延べ2万に達した。それを時系列にそって並べ、戦争への危機感や関心がどのように変化していったのかを探っていく。

1940年から翌年にかけて最も高い値は、日米が開戦した41年の12月だった。一方、グラフの値が最も落ち込む時期がある。三国同盟が結ばれた40年の9月から11月にかけてだ。アメリカとの戦争の危機を感じるどころか、戦争への関心が薄らいでいたと考えられる。

慶應義塾大学 近代日本政治・社会史 玉井 清教授「本来なら国際的危機が、反米論が巻き上がっておかしくないんで意外だったです。この日独伊三国同盟の意味、真意が国民に伝わらなかったという問題を考えないと」

市民の戦争への意識が高まらなかった要因として専門家が指摘したのは「言論統制」だ。政府は三国同盟への批判的な意見を禁止。同時に、反米感情の高まりも警戒していた。

『アメリカへの敵性感情を煽(あお)る記事を禁止する』(内務省 日独伊三国条約 記事取り締まりに関する件)

当時の陸軍大臣・東條英機が言論統制の意図を語ったエゴドキュメントが残されていた。

『英米に対して三国同盟が衝撃を与えるのは必然である。いたずらに排英米運動を行うことを禁止する』

東條ら軍の指導者たちは、この時点ではアメリカとの決定的な対立を避けようとしていた。すでに陸軍は100万を超す大兵力を日中戦争に投じていた。その上、アメリカと対立する余裕はなかったのだ。

これは、この年に撮影された政府のプロパガンダ写真。

日本とアメリカの青年たちによる卓球大会。日米親善がことさらに強調されていた。アメリカとの戦争を招きかねない三国同盟を結んだ日本。その一方で「親米」を演出するという矛盾に満ちた政策を推し進めていた。しかし、そうした日本のご都合主義は、アメリカには通用しなかった。ドイツと結んだ日本にアメリカの世論が反発。厳しい経済制裁を求める声は8割に上った。飛行機の燃料やくず鉄などの重要資源の輸出禁止が矢継ぎ早に決まった。

1941年、太平洋戦争開戦の年が明けると、日本はアメリカの経済制裁の影響であえぎ始める。国は不足した鉄などの資源を補うため、市民から供出させた。街中から金属が消え、経済全体が冷え込み始めていた。

作家・永井荷風は、散歩の途中で見た光景を日記につづっている。

『道すがら虎ノ門より櫻田(さくらだ)へかけて立ちつらなる官庁の門を見ると、今まで鉄製だったのをことごとく木製に取り換えていた。これは米国より鉄の輸出を断られたためである』

市民の日記から、「品切れ」「枯渇」など物資不足に関する単語を抽出。1941年1月以降、増加傾向が顕著になっていく。同じ時期、戦争への関心も高まっていた。戦争に関する単語数も増加に転じていた。

生活の不満の高まりを背景に、アメリカに対する過激な論調が目立つようになっていた。当時のオピニオンリーダー、徳富蘇峰は、1月、ラジオでこう呼びかけた。

評論家・ジャーナリスト 徳富蘇峰『米国は日本が積極的に進んでいけば、むろん衝突する。しかしボンヤリしていても米国とは衝突する。早く覚悟を決めて、断然たる処置をとるがよい』

さらに、当時のベストセラー作家が刊行した本。「日米戦わば」。

『米国なお反省せず。我が国の存立と理想を脅かさんとすることあらば、断然これと戦うべし。日本は、難攻不落だ』

今でいうインフルエンサー的存在。戦争をあおるような言葉が、人々を捉え始めていた。

この頃、雑誌が「日米戦は避けられるか」というアンケートをおこなった。4割もの人々が「避けられない」と回答した。

『米英の妨害を 断然排除して進まねばなるまい』

静岡・伊東市で書店を営む竹下浦吉さんは不穏な未来を予測していた。

『日本がドイツと同盟して東亜に新秩序を確立せんとする以上、どうしても米英との衝突は免れぬと思う』

子育て中の主婦・金原さんも、危機感を抱くようになっていた。

『日米間の情勢についてだいぶ悲観的な話を聞くようになり、ママたちも本気で心配するようになっている。本当に日米戦が起こったら東京空襲も免れないし、住代ちゃんのような弱い子を、お医者もいない田舎に連れて行って、もしものことがあったらと思うと暗然とする。しかし、何という時代に生まれ合わせたものか!強い母にならねばならない』

開戦の8か月前。国の指導者たちは、アメリカとの決定的対立を避けるための外交交渉に乗り出そうとしていた。背景には、陸軍が極秘でおこなったアメリカとの戦力比較のシミュレーションがあった。その報告に立ち会った将校の「エゴドキュメント」が残されていた。そこには指導者たちの「本音」が吐露されている。

『三月十八日、物的国力判断を聞く』

陸軍の中枢で政策決定に関わった石井秋穂中佐。この日、参謀本部で明かされたシミュレーションの結果は、陸軍の首脳に衝撃を与えた。

『誰もが対米英戦は予想以上に危険で、真にやむをえざる場合のほか、やるべきでないとの判断に達したことを断言できる』

資源豊富なアメリカとの戦争が2年以上に及んだ場合、日本側の燃料や鉄鋼資源が不足することが判明。これを受け、陸軍大臣・東條らは、日米戦争は回避すべきと判断した。

軍や政府の決定を知るよしもなかった金原さん。育児日記に、大きな変化が現れ始める。

『今こそ日本の歴史の大転換期であり、住代の育児日記も母の目に映った世の有様(ありさま)を書き記していこうと思う』

6月、金原さんを震撼(しんかん)させるできごとが起きる。

『世界の情勢はまた大変なことになってきた。独ソ開戦、寝耳に水のこのニュースに、世界中大混乱である。日本の立場こそ、デリケートなものになってきた』

ドイツが突如ソビエトへ侵攻し、独ソ戦が勃発。金原さんが敏感に感じ取っていたように、日本の運命を大きく左右することになる。

独ソ戦勃発から10日後。それまでアメリカとの戦争を避けようとしてきた指導者たちが、ここで決定的な判断ミスをおかす。日本軍が南部仏印、今のベトナム南部に進駐したのだ。

『自存自衛上、立ち上がらねばならない場合に備えて、あらためて南部仏印に軍事基地を作るという要求が生まれつつあった』

独ソ戦により、日本にとって背後のソビエトの脅威がなくなった。その隙に、アメリカの禁輸政策のため欠乏する資源を手に入れようと、東南アジアの資源地帯を押さえようとしたのだ。アメリカは、日米のパワーバランスを崩しかねない日本軍の行動に強く反応した。そして、日本への石油の輸出を止めた。石油の9割をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとって、計り知れない打撃だった。軍の指導者たちは、アメリカがそこまで強硬に反応するとは想定していなかった。南部仏印進駐に関わった石井はこう振り返っている。

『大変お恥ずかしい次第だが、南部仏印に出ただけでは多少の反応は生じようが、祖国の命取りになるような事態は招くまいとの甘い希望的観測を包(かか)えておった』

希望的観測が招いた石油の禁輸。アメリカとの戦争に慎重だった海軍も態度を大きく変える。

『ぢり貧になるから、この際決心せよ』

海軍のリーダー永野修身。この捨てばちとも受け取れる言葉の裏には、永野なりの算段があった。

『今後はますます兵力の差が広がってしまうので、いま戦うのが有利である』

石油が底をつけば戦争はできない。その強迫観念が指導者を戦争へと駆り立てようとしていた。事態を冷静に見ていたリーダーもいた。海軍次官、澤本頼雄。開戦に強く反対する。

『資源が少なく、国力が疲弊している状況では、戦争に持ちこたえることができるか疑わしい』

澤本は、戦争に勝ち目はなく、日米の外交交渉での解決を探るべきだと主張した。

『この方向に向かうことこそ国家を救う道である』

開戦まで半年を切っていた7月。市民の生活はいっそう過酷な状況となっていた。物資不足に関するグラフは、さらに高まりを見せる。

『帰りに八百屋に寄り、何でもいいから買おうと思ったが何もなし。あわれ、菜っぱ一束、胡瓜(きゅうり)一本を買うこともできない』 (7月14日 碓井元「戦時庶民日記」より)

『食べ物の悲惨。うまいもの食ったのはいつのことなりしか。肉なしデー。ついに冗談ではなく実現す』(7月30日 古川ロッパ「昭和日記」より)

国民の食料不足を補うため、このころ政府がタンパク源として推奨したのは、昆虫食。カイコから絞り出した油を食用油に、絞りカスでうどんを。さまざまなレシピを発表していた。

生活に困窮する市民。人々は、日々積み重なる不満をどこに向けていたのか。井上重太郎さんは大阪で精米店を営み、かつては政府の米の管理に強い不満を記していた。国が米を統制するようになり価格は下落。個人経営では立ち行かなくなっていった。

『組合の人々は集会して米の共同販売のことを相談している。やむをえない時勢に従うほかはないようになってきた』

国策によって追い詰められ、自分の店をたたまざるをえなくなった井上さん。しかし、逆に国に協力する言葉や活動が増えていく。そのひとつが「隣組」だ。食料の配給など生活を国が統制するための地域組織。国防のための奉仕も求められた。

『近衛首相の放送があったが、愛国心を説き、国民の総力をもって困難の克服を強調された。全国一斉に隣組の常会を開くという。今夜は自分のうちで開いてくれと頼まれている。全国民がはりきっている』

戦時体制のもと、言論を取り締まり、愛国教育を強化してきた日本。多くの国民が協力して国の危機を乗り切るべきと考えるようになっていた。娘が1歳を迎えた金原さんの育児日記に、戦争への覚悟の言葉が現れるようになる。

『住代ちゃんにあげるおやつを探し回って、午前中をつぶしてしまった。パン屋さん全部休み。世界戦争も実現するかも分かりません。住代ちゃんも食べるものも不満足ですが、でもしっかりやっていきましょう。大東亜建設のため、次の日本を背負って立つのは、住代ちゃん、あなたがたなのです。丈夫に育って、立派にお国のために尽くしなさい。パパもまた、一命を国に捧げねばならなくなるかもわかりません』

「お国のため」。生活の不満とアメリカとの戦争の予感が結びつき、出てきた言葉だった。

『アメリカの参戦も時期を早めるだろうとの予測もある。肉がないお菓子がないどころの騒ぎではなくなってきたのだ。しかしこれも、お国のためと思えば我慢する』

慶應義塾大学 近代日本政治・社会史 玉井 清教授「自分たちを苦しめているのは政府でなくて、その背後でイギリスやアメリカが経済的に圧迫していくのでわれわれの生活はどんどん追い込まれていく。自分たちの生活を苦しめている敵である英米を叩いたら、われわれの生活も元に戻る。そういう意味で『お国のため』ということが素直に受け入れられたということだと思います」

人々に湧き上がる「お国のために」という愛国心。しかし、一部に違和感を抱いていた人もいる。

学校の先生をしていた森下二郎さんは、日本の同盟国・ドイツについて、こうつづっている。

『悪がはびこっている。世界はドイツの戦勝に眩惑(げんわく)されて、その行動を肯定し賛美する。悼むべし、哀しむべし』

日中戦争を祝う式典に出た日。

『この四年の戦果、中国の死傷者三百八十万、日本の死傷者十万と報じられた。これが祝うべきことであるというのか。これが喜ぶべきことであるというのか』

戦争に反対する気持ちを押し殺し、表向きは戦争を賛美する教育に手を染めざるをえなかった森下さん。本音をつぶやく場は日記にしかなかった。

日中戦争の膨大な犠牲は、特に地方で覆い隠せなくなっていた。岐阜の農家・野原武雄さんは、高まる米の需要に応えようと農作業が続き、妻を過労で亡くしていた。

『本日は共同植え付け作業 第四日目で、体の具合も大分(だいぶ)疲れてくる。ついに父も倒れて仕事も出来ず床につくようになりたり』

7月の日記には、この頃、村で立て続けに起きていたことが記されていた。

『本日またもや我が村に五名の〇〇あり。二回目の〇〇故、ひとしお お気の毒の至りに、たまらぬ次第なり』

伏せ字は「召集」と思われる。兵士の動員に関する言葉は、機密に関わるとして軍からとがめられる恐れがあった。農家の次男、三男が続々と召集され、戦地へと送られていた。実は、野原さんの息子二人も徴兵され、中国の戦場へ。一人は瀕死の重傷を負った。農村部が日本の戦争をさまざまな形で支えていた。

4年目を迎えた日中戦争には、100万人以上が動員。戦死者の数は18万人以上にのぼっていた。

10月。開戦の2か月前。日米は対立を深めながらも、ぎりぎりの外交努力を続けていた。アメリカが日米交渉の条件として求めたのは「中国からの日本軍即時撤兵」。しかし、その要求は陸軍にとって受け入れがたいものだった。

日中戦争での戦死者18万人以上。東條たち陸軍首脳は、撤兵はその犠牲を無にするものとして受け止めていた。では、アメリカとの戦争を選ぶのか。東條は悲壮な面持ちで漏らしたという。

『支那事変(日中戦争)にて数万の命を失い、みすみす撤退するのはなんとも忍びがたい。ただし日米戦となれば、さらに数万の人員を失うことを思えば、撤兵も考えねばならないが、決めかねている』

6日後、東條は決断を首相に伝えた。

『撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変(日中戦争)の成果を壊滅するものだ。数十万人の戦死者、これに数倍する遺族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる』

泥沼の日中戦争がもたらした戦死者、耐え忍ぶ人々。指導者たちはその膨大な犠牲に判断を縛られていた。

10月18日。内閣総理大臣となったのは東條英機。このとき、天皇は日米交渉の継続を望んでいた。東条内閣発足の際、側近に打ち明けた言葉がある。

『いわゆる、虎穴に入らずんば虎児を得ずということだね』

アメリカに強く出るべきとする陸軍強硬派を、陸軍の東條に抑えさせる。それにより、戦争を避ける道を探ろうとしていたのだ。しかし国民は、軍人出身の首相の誕生に異なる期待を抱いた。

『いまや死中に活を求めるほかはないのである』(10月17日「頴原退蔵日記」より)

『いよいよ臨戦色濃厚な方向へ進む』(10月20日 山中宏「私の戦時財界日誌」より)

『前内閣に類を見ない思い切ったことを断行できるのではあるまいか』(10月19日「小長谷三郎日記」より)

アメリカから再び、中国からの撤兵を求められた日本。指導者たちは開戦を決定する。

多くの人たちが、新たな戦争は自らのうっ屈を晴らしてくれると信じた。国の米配給事業に携わるようになっていた井上重太郎さん。

『宣戦の詔書(しょうしょ)が放送された。自分はそれを聞いて涙が出た。誰が感泣せずにいられようか』

息子二人を徴兵され、重労働にあえいでいた米農家の野原武雄さん。

『大戦果を得たり。まったく我が海軍の強さに驚くほかない。大東亜戦の開戦ここに始まる』

わずかだが、暗い予感を日記に記した人もいた。長野県の教師・森下二郎さん。

『国民は大よろこびでうかれている。しかしこれくらいの事で米・英もまいってしまうこともないから、この戦争状態はいつまで続くかわからない。あてのつかない戦争である』

金原まさ子さん。娘が1歳10か月になったばかりの日だった。

『血わき、肉躍る思いに胸がいっぱいになる。この感激!一生忘れ得ぬだろう今日この日!爆弾など当たらないという気でいっぱいだ』

開戦の一体感に身をゆだねた日本人。しかし、その先に見たものは、命も国土も焼き尽くしていく戦争の正体だった。

『皆、意気盛る。住代、元気!元気でね。大変なのよ。大変なのよ』