新・ドキュメント太平洋戦争 「1941 第1回 開戦(後編)」

NHK
2021年12月7日 午後1:14 公開

(2021年12月5日の放送内容を基にしています)

80年前、人々は日本中でそのラジオ放送を耳にした。

「臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部12月8日。帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり・・・」

太平洋戦争開戦。

この新たな戦争が、中国との長引く戦いで鬱屈した社会の空気を変えてくれるかもしれないと、人々は歓喜した。一方、最前線の兵士たちは、銃後の熱狂とはかけ離れた現実に直面していた。

個人の視点から歴史の大きなうねりを追体験していく、シリーズ「新・ドキュメント太平洋戦争」。

今、専門家たちが注目するのが、戦時下に個人が記した日記や手記、エゴドキュメントだ。全国各地に眠っていた、兵士や市民、指導者たちの膨大な言葉。そこには、表現の自由が制約された時代の本音が刻まれている。

シリーズの第1回は開戦。後編は、兵士たちの言葉を紐解く。開戦の舞台となったハワイと東南アジア、ふたつの戦場。そこで兵士たちは何を見たのか。

真珠湾攻撃に参加した元航海士・原口静彦さん「壮快から壮絶になりました。少し天国と地獄を見ましたよ」

わずかな生存者の記憶や、当時の作戦記録なども手がかりに、彼等の見た光景を探る。

『茜色に輝く東方の雲に映え、 上空を大きく旋回しながら、次から次に南の空を目指す』(航海士・原口静彦 日記より)

国は焦土と化し、日本人だけで310万もの命が奪われた日本の戦争。

なぜ、とめどなく拡大していったのか。太平洋戦争開戦をめぐる、当時を生きたひとりひとりのエゴドキュメントから探っていく。

<戦場のエゴドキュメントから見る真珠湾攻撃>

アメリカ軍の太平洋の拠点、ハワイ・オアフ島。今からちょうど80年前の1941年12月。日本の大艦隊が、ひそかにハワイに迫っていた。

『初めて航海士として艦橋に立つ。波高し。嘔吐を催すも誰1人、慰めの言葉を掛ける者なし』(航海士・原口静彦 日記より)

航空機の搭乗員770人ほとんどが10代から20代の若者だった。

『死に対する恐怖は、その瞬間までつきまとうものだろうか。果たして、余はその後に臨んで、狼狽しないだろうか。決せよ、覚悟を』

これを記したのは、艦上爆撃機のパイロット後藤元、21歳。故郷を思っていた。

病で夫を亡くし、一人となった母が気がかりだった。祖国を守ることが自分の役目だと信じた。

『ふるさとの老いた母にも、亡き父の御霊にも訣別は告げた。二人の姉さん、私は元気で力一杯やります。日本の将来の発展するか否かはひとつに我々双肩にかかるのだ。海の兵(つわもの)は、あらゆる困苦に堪え忍んで、必ず戦いに勝つのだ』(二飛曹・後藤元 日記より)

圧倒的に国力で勝るアメリカやイギリス相手の戦い。何のための戦争なのか。昭和天皇が発した「開戦の詔書」には、こう記されている。

「自存自衛」。自力で国を防衛するという意味だ。

日中戦争が4年に及び、日本は中国を支える米英との対立を深めていた。アメリカは日本への経済制裁を重ねた末、石油の全面禁輸に踏み切った。石油の9割をアメリカからの輸入に頼っていた日本は、豊富な天然資源が眠る東南アジアに狙いを定める。しかし、そこには米英の軍事的拠点があり、攻撃すればハワイから援軍が来ることは必至だった。

日本は、「南方作戦」とほぼ同時に「ハワイ作戦」を行う決断をした。

そして、12月8日未明。瀬戸内海に停泊中の聯合艦隊の旗艦「長門」。その作戦室に司令長官の山本五十六をはじめ、幹部たちが集まってきた。

『一日千秋の思いとは、まさにこのことである。国家の運命と多数の人命を賭したる、人類最大の「ドラマ」である』(聯合艦隊参謀長・宇垣纏 日記より)

アメリカの体制が整う前に、勝負を仕掛け、戦意をくじく。それが狙いだった。

『世紀の朝が来た。晴れの征衣に心身共に軽く、数々の思い出も何もかも忘れ捨てて、思い残すこと更になし』(一飛曹・小板橋博司 日記より)

空母から183機の第一次攻撃隊が発進する。

故郷の母への思いを記していた後藤。直前まで心境をつづり、その日記を船に残し飛びたった。

『心は澄んでいる。世紀の鳥人となるのだ。ハワイ上空、快晴であってくれ』(二飛曹・後藤元 日記より)

『軽快なジャズが、高い感度で入ってきた』(総指揮官・淵田美津雄 自叙伝より)

攻撃隊を率いる淵田美津雄。淵田の飛行機には「クルシー」と呼ばれる、帰投の際に使う無線装置が備えられていた。

『クルシーというのだから、苦しいときに使えとのシャレかと、あまりあてにしていなかったのであるが、今は少し苦しいから、いじってみようと思い立った。スイッチを入れ、ダイヤルを回すと、電波はまさしくホノルル放送局である。そこで私はその方位を測った』

ジャズがホノルルへの道標となった。海上を目視する必要がなくなり、飛行機は、隠れるように雲の上に出る。

この頃ハワイでは、その後の命運を分ける出来事が起きていた。アメリカ軍が試験的に導入していたレーダーが偶然、日本軍の編隊を捕らえた。しかし、報告を受けた将校は、この日到着予定だった米軍機と思い込んだ。住民も日本軍だとは思いもしなかった。

「驚いたな。今日の演習は徹底的だ。飛行機に日の丸を描くなんて」(ハワイ住民 ケントン・ナッシュ証言)

アメリカは日本軍の奇襲に気づくチャンスを逃した。

総指揮官の淵田の合図で、183機が次々に襲いかかった。狙いは、アメリカが誇る太平洋艦隊の主力戦艦など、航空機や飛行場の設備も破壊し、反撃の目をつむことだった。日本軍は、真珠湾の浅い海でも、効果を発揮する特別な魚雷を準備。秘かに訓練を繰り返してきた。

『あちこちに高い建物や柱が立っているので、思うように高度が下げられない。ようやく障害物を飛び越えて、高度5メートルに下げることが出来た』(二飛曹・森拾三 日記より)

『「発射!」その瞬間、自分の飛行機がひょいと軽くなった。 「当たったぞ。万歳だ!」。大任を果たせさえすれば、死んでもいいと思っていたが、無事に済んでしまったら、今度はやたらに生きて帰りたくなった』(二飛曹・森拾三 日記より)

聯合艦隊の旗艦「長門」では、山本五十六ら首脳たちが、事態の推移を固唾をのんで見守っていた。

『飛行機の電を直了せるところ、鮮やかなるものなり。作戦室に座り込んで、来る電報、電報に耳をそばだてる』(聯合艦隊参謀長・宇垣纏 日記より)

打電されてきた暗号は「トラトラトラ(われ奇襲に成功せり)」。

攻撃の間、終始言葉少なだったという山本五十六。

『味方電報とあわせ、敵の電報が最も興味を引き、戦況は手に取るように分かる。「SOS-attacked by Jap bomber here」とか、途切れ途切れのものであったようだが、その中の「Jap-this is the real thing(これは演習ではない)」というのを聞くと、山本が一瞬ニヤリとしたように見えた』(聯合艦隊参謀長・宇垣纏 日記より)

日本との外交交渉を続けてきたアメリカ。真珠湾攻撃の一報が入った後、日本から交渉打ち切りの通告文が届けられた。日本は攻撃の前に通告する予定だったが、不手際が重なり遅れた。

アメリカ中が、「だまし討ち」だと捉えた。真珠湾では、アメリカの猛反撃が始まっていた。

『高角砲に包まれ一刻の猶予もない。敵艦めがけて急降下に入った。真っ逆さまである。爆弾は、戦艦後部の煙突の中央部を突抜け、火柱が吹き上げた。その瞬間、私の尻の下に爆風がとんと来た。燃料がもれていれば、たちまち引火、自爆しなければならない。とたんに、ぽうと顔があつくなった。(仲間の飛行機の)引火の瞬間、手を出して引き込みたいやるせない気持ち』(三飛曹・板津辰雄 日記より)

アメリカ側の死者は、軍民あわせて2402人にのぼった。

「手の施しようがないように見えた。皮膚は焼け、重油まみれのぐちゃぐちゃになった傷口からは、骨が見えていた。何人かは骨から生肉がぶら下がっていた」(米兵 ヴィクター・カモント証言)

「鋼鉄の破片や炎、油、なんだか分からないあらゆるものが、空に舞い上がった。木材の切れ端、甲板の切れ端、死体の切れ端まで」(米兵 マーティン・マシューズ証言)

火薬庫に直撃を受け爆発した戦艦アリゾナ。1000人を超す兵士が船とともに海底に沈んだ。太平洋艦隊の主力戦艦4隻が撃沈され、300機以上の飛行機が破壊された。

甚大な被害にもかかわらず、アメリカの閣僚たちは冷静だった。協議のため、緊急に集まった時の様子を、大統領ルーズベルトの側近はこう記している。

『協議の雰囲気はあまり緊張したものではなかった。遅かれ早かれ、わが国が第二次世界大戦に参戦するに違いないこと、そして日本がその機会を与えてくれたからである』(大統領側近 ハリー・ホプキンス 回想録より)

世論に配慮して、第二次世界大戦への参戦を躊躇してきたアメリカ。その潮目が変わるのではないか。

『宙ぶらりんの状態が終わり、国民を一つにまとめるような形で、危機が到来したという安心感があった』(陸軍長官 ヘンリー・スチムソン 日記より)

内閣総理大臣 東條英機「帝国は、あくまで平和的妥結の努力を続けましたが、米国はなんら反省の色を示さず、今日に至りました。事ここに至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うするため、断固として立ちあがるのやむなきに至ったのであります」

大国アメリカ相手の勝利に国中が歓喜した。

育児日記をつけていた、金原まさ子さん。

『血湧き肉躍る思いに胸がいっぱいになる。一生忘れ得ぬだろう、今日この日。しっかりとしっかりと大声で叫びたい思いでいっぱいだ。大変なのよ、住代ちゃん、しっかりしてね』(主婦・金原まさ子 日記より)

学生や子どもたちも、興奮の中にいた。

『朝の軽い眠りを楽しんでいた自分は、待ちに待った臨時ニュースの知らせに床をけり、階段をかけ下り、ラジオの前に立った。心臓が破れそうの興奮である』(学生・西脇慶弥 日記より)

『この時に生まれ合わせたことは、とても幸福なことであると思う。五時間目、住吉神社へ戦勝祈願に行った。皆、真心込めてお祈りした』(国民学校六年生 絵日記より)

繰り返し華々しい戦果が報じられる陰で、伝えられなかった事実があった。真珠湾で水中からの攻撃を担っていた潜水艦部隊。2人乗りの特殊潜航艇5隻は、すべて帰ってこなかった。さらに、日本軍機の搭乗員55人が命を落とした。

船に日記を残して飛びたった21歳の後藤もその一人だった。後藤は故郷の母に宛て、別れの手紙もしたためていた。

『此処では霜は全く影を見られませんが、村は、朝は霜が置き、吐く息も真白く凍る頃ですね。 益々寒くなって参りますが、十分お体を大事にご注意ください。多忙につき、当分の間、音信は出せなくなるだろうと思います。母上様。さよなら』(二飛曹・後藤元 日記より)

後藤の死から半年、日記が遺族の元に届けられた。後藤は、村の英雄とされ、戦意昂揚のシンボルとなっていく。

<AI解析で見えた市民の心の変化>

華々しく伝えられた緒戦の大勝利。市民の心の中にどんな変化が生まれていたのか。日記に記された630万語をAIで解析。開戦をはさんで、急激に増えた言葉を抽出した。「愛国」や「感激」、「喜び」などだ。

その中に、同じ意味を指し示す言葉のグループがある。開戦1か月前から増えていた。

「大東亜共栄圏」。日本がアジアを欧米支配から解放し、一大勢力圏を築く構想だ。

『大東亜共栄圏建設の世界史的偉業は、光栄ある大和民族の双肩に、すでに現実のものとして、さん然と登場しているのである』(埼玉の役場職員)

『共栄圏からの悪手を取りのぞいて、日本を中心に新しい東亜を作ろうとしているのだ』(国民学校六年の少女)

<新たに掲げられた戦争目的>

人々の間に急激に広がった、大東亜共栄圏。

実は開戦前、一部の指導者たちが戦争目的として掲げるよう、強く主張していた。開戦1か月前、天皇も臨席する御前会議にはかられた文書には、「自存自衛」に加えて、「大東亜共栄圏の建設」も戦争目的に掲げられていた。

しかし、この大東亜共栄圏に関して異論が出た。陸軍の中枢で、数々の政策決定に関わってきた石井秋穂もその1人。

『「自存自衛」と「大東亜の新秩序」とが併記されておる。これは失敗であった。戦争目的を規定しておかないと、戦争指導に動揺をきたす』(陸軍大佐・石井秋穂 回想録より)

大東亜共栄圏も、戦争目的に加えるべきだと主張したのは陸軍。米英の経済制裁に対抗するため、アジアの資源地帯をおさえ、持久体制を確立することが重要だと考えた。

一方、海軍や石井ら陸軍の一部は、あくまで自存自衛の範囲内にとどめておくべきだと考えていた。

『この戦争は油が切れるまで、日本国家としての経済的及び、国防的生命をつなぐ必要に迫られ、やむにやまれず立ち上がるのである。もしも米・蘭から従前通り油が買える様になれば、戦争目的は達したことになる。最低限の戦争目的を規定しておかなければ、和平が出来にくくなる』(石井秋穂 回想録より)

昭和天皇が発した開戦の詔書には、自存自衛のみが戦争目的として記された。しかし、緒戦の勝利を受けた総理大臣の施政方針演説で、東條英機首相は、戦争目的として、新たに大東亜共栄圏の建設を掲げた。石井は強い危機感を抱いた。

『首相の施政演説は、大東亜共栄圏の構想だけ述べておる。決起の真情を訴えていない。真に生きんがための戦争には、大言壮語は禁物である。少なくとも国内的には、自存自衛を最初から深刻に解説する必要があった』(石井秋穂 回想録より)

開戦の前後で、戦争目的を変質させた指導者たち。その結果、日本は早期和平の糸口を見失っていくことになる。

<南方作戦 兵士たちがつづった戦場の現実>

日本の開戦のもうひとつの舞台、東南アジアでは陸軍主体の戦いが続いていた。アジアにおけるイギリス最大の軍事的拠点、シンガポールを攻略する作戦。

2か月に及んだ戦場を、若き士官、三好正顕(まさあき)が本音とともに書き記していた。

『蚊の猛爆に悩まされる。本川上等兵が「顔中処置なしだ。パンかヤシの実のように変形してしまった」と眠たそうな顔で言う。「蚊にでも吸われた方が、かえって変形して男前になるぞ」と、前原一等兵が言ってドッと皆を笑わせる』(陸軍中尉・三好正顕 日記より)

日記には、突然の進攻にも関わらず、日本軍は現地住民に好意的に受け入れられたと記されていた。

『(マレー人は)とても従順である。少なくとも我々には、あまり悪い感情を持っていないことは事実だ』(三好正顕 日記より)

もともとイギリスの植民地だったこの一帯。現地住民の中には、日本軍によって解放されると考える者もいた。

『パンクをすればゴムの汁で直し、壊れればマレー人が新車を提供してくれる。新しい銀輪の大隊列が、軽やかに進んでいく』(従軍記者・酒井寅吉 マレー戦記より)

しかし、その内容は次第に厳しさを増していく。

『マレーのジャングルは密林という言葉ではあらわし得ない。泥沼を想像すべきである。しかし、それよりももっと始末の悪い“敵”がいる。山蛭(やまひる)と、赤蟻と、ブヨの大群である。ここを3日間も突破した兵隊は、どんなに頑強な神経を持っていても、神経衰弱になる』(酒井寅吉 マレー戦記より)

その後、日本の戦争が直面する、構造的な矛盾が早くも垣間見えていた。

『食い物も探しながら、戦争せんならん。一昼夜2、3時間眠り、あるいは徹夜で行軍して進み、被服は着の身着のまま、何処へでもごろりと転んで、まるで原始人のよう』(陸軍中尉・三好正顕 日記より)

戦争を継続していく上で、不可欠な食糧の調達がままならない。敵から奪うしかなかった。

『今日は兵営を占領して、ビールあり、ジンあり、ウイスキーありの盛況だ。兵隊たち、敵の黒パンをおいしそうに食べる。何もかも友軍より贅沢である』(三好正顕 日記より)

すでに日本国内では開戦前から、食糧不足に悩まされていた。戦争で輸入が途絶え、銃後の国民どころか、前線や占領地での食糧補給が厳しくなるのは目に見えていた。

日本の指導者たちは開戦前からこのことに気づいていた。

賀屋大蔵大臣「南方作戦地域の経済を円滑に維持するがためには、わが方において、物資の供給をなすを要すべきも、我が国はそのために十分の余力なきをもって、当分はいわゆる搾取的方針にいづることやむを得ざるべしと考えらる」(1941年11月5日御前会議)

搾取的方針。それを具体的な占領政策に落とし込んだのが、あの石井秋穂だった。食糧の供給が困難になるという見通しのもと、石井は、「作戦軍の自活」を基本方針に据えた。

『占領軍の現地自活のためには 民生に重圧を与えても、これを忍ばしめると規定したことは、大英断のつもりであった』(陸軍大佐・石井秋穂 回想録より)

しかしその後、現地を視察した石井は、想像以上に軍紀が乱れている現実を目の当たりにする。

『夕刻、コタバルに飛び、渡辺大佐と共にケランタン州の政務を聴取す。皇軍の掠奪強姦を嘆す』(石井秋穂 日記より)

『シンゴラ埠頭を見る。ここも皇軍の掠奪強姦に悩めり』(石井秋穂 日記より)

アジアを解放し、共存するという理想も揺らぎ始めていた。

この地域の人口の大半を占めていた中華系の住民。その一部が、日本軍への抵抗を強めていた。

『マレーの動脈として活動している支那人の殆ど全部が、熾烈な反日意識に燃えていた。女や子供でも油断が出来なかった』(従軍記者・酒井寅吉 マレー戦記より)

国が新たに掲げた、大東亜共栄圏という戦争目的。石井はその限界を感じていた。

『これが大東亜戦争の性格を、雄弁に物語るものでもあった』(石井秋穂 回想録より)

<シンガポール陥落 銃後の熱狂と前線の現実>

アジア解放の理想を信じていた銃後の市民たち。アメリカを真珠湾で撃破し、今度は、イギリスの軍事拠点に迫った日本軍。熱狂が続いていた。

『シンガポール敵前上陸!すばらしいことをやったものだ。なんという私たちは幸せな国に生まれたのだろう』(主婦・金原まさ子 日記より)

『今日は、紀元節の良き日にあたる。シンガポール最早、風前の燈』(農家の三男・持田秀之 日記より)

当時、一世を風靡していた喜劇俳優の古川ロッパ。

『2月11日。大本営発表の「シンガポール市内へ突入せり」のニュースを、「ちょんまげ」が終わると、すぐ僕が出て客に発表、拍手。 嬉し涙を感ず』(古川ロッパ 日記より)

『今日は恐らく開演中にシンガポール陥落の発表があるだろう。それを舞台で言おうと、手ぐすね引いて待ってたが、明日らしい。がっかりする』(1942年2月12日 古川ロッパ 日記より)

そのシンガポール手前の戦場で三好は銃撃を受け、重症を負っていた。一時は、手足の切断を迫られるほどの深刻な状況に追い込まれた。

『夜になり、負傷患者たちは、あちこちよりうめき声盛んに聞こゆ。自分の隣に並んで収容されていた兵も「お母さん、お母さん」と唸っていたが、夜半頃は動かなくなった。どうやら死亡したようであった』(陸軍中尉・三好正顕 日記より)

三好は日記の中で、日本に残した婚約者、孝子さんへの思いを綴っていた。

『孝子さま。私がもしやられたら、全て解消してください。私より立派な人に嫁いでください。全ての私のなすべき事を終わって、靖国の神となり、孝子さんの幸福を祈っています』(三好正顕 日記より)

2か月以上に及んだ日本の開戦が大きな節目を迎えていた。

『2月15日。シンガポール陥落のニュースが近々入るから待機せよ、との内報にハリキリ、芝居をのばせということになり、皆でやたらとのばしていたら、やっぱり10時過ぎだろうとのことで、がっかりして幕を閉める。宿へ帰ると、10時半頃か、ラジオで陥落の報入り、万歳を三唱し乾杯する』(古川ロッパ 日記より)

『帝国万歳!英東亜侵略第一の牙城シンガポールは、遂に陥落せり』(農家の三男・持田秀之 日記より)

アメリカ、そしてイギリスに対し、緒戦の勝利を収めた日本。シンガポール陥落の3日後、全国で一斉に戦勝の祝賀式が開かれた。

育児日記を綴っていた金原さん。

『今日の感激を一生忘れないだろう。一斉に日本バンザイを叫ぶ。陥落後の将兵、ただ眠るばかりの由。涙なしにはいられず』(主婦・金原まさ子 日記より)

<兵士たちが見た “殺し殺される”戦場>

日本で祝賀式が行われたその日、憲兵の分隊長として治安維持にあたった大西覚は、「日本軍の作戦を妨害する者、治安と秩序を乱す者、また乱す可能性のある者」などを選別し、処刑するよう命令を受けたという。

元第二野戦憲兵分隊長・大西覚「華僑(中華系住民)に対しては相当深刻な注意をせなきゃならんと。不逞分子をもう虐殺して殺して処分していいと。これはえらいこっちゃ、そんなこと言ったって十分調べてもおらんし、もう本当の容疑で、これが本当の敵性で、抗日分子で何するという確証はない。それをすぐに虐殺せよということはですね、非常に人道に反するしいかん。嫌だった。でも命令ならしようがない」(1978年3月18日収録 日本の英領マラヤ・シンガポール占領史料調査フォーラム調べ)

戦後、イギリス軍による裁判でこの虐殺に関わった大西ら5人は終身刑、2人の死刑が確定した。処刑された司令官は、5千人を粛正したと日記に記しており、裁判の証拠とされた。しかし、シンガポールでは、虐殺は数万人規模にのぼるとみる専門家もおり、研究が続いている。

瀕死の重症を負い、部下も失った三好。殺し殺される戦場で、ある感情を抱くようになっていた。

『戦争とは、何の恨みもない者同士がただ憎しみ合い、殺し合いをして、勝ったり負けたりする事は、他に例えようもない無残な事であり、又無意味なことであるとも思われる。米英との戦争は、いま始まったばかりではあるが、何とか早期に平和が訪れないものであろうか』(陸軍中尉・三好正顕 日記より)

三好は終戦まで南方の戦場を転々としたのち、孝子さんと再会。孝子さんは今回の取材後、98歳で亡くなった。二人の記憶を刻んだ、エゴドキュメントが残された。

<そして戦争は続く>

太平洋戦争はこの後、4年近くにわたって泥沼の戦いが続いていく。銃後の熱狂は、さらに加速していく。

真珠湾攻撃から3か月後。国はようやく戦死者の名前を明らかにした。特殊潜航艇の9人。1人が捕虜になっていた事実は伏せられ、「史上空前の壮挙」とたたえられた。軍は全員を異例の二階級特進。新聞やラジオも「九軍神」として大キャンペーンを展開。戦場での死は美化され、実態はますます覆い隠されていくことになる。

国全体の怒りに火が付いたアメリカ。国力の全てを戦争に注ぎ、反撃に転じていく。アメリカの兵士たちにとっても、その後の過酷な戦場を戦い抜く原動力は、真珠湾の記憶だった。

戦艦アリゾナ元兵士 ルー・コンターさん「みんな燃えていました。足も体も何もかも、とても熱く、みんな大火傷で、助けても手の中で皮膚が剥がれてしまうほどでした。あの現場にいた誰もが、絶対に許さないという怒りに震えました。でも、原爆で戦争は終わりました。あれでようやく我々は良き友人になったのです」

開戦の戦場を刻んだエゴドキュメント。

日本の限界を示す数々のサインがありながら、指導者たちは勝利に幻惑された。大東亜共栄圏という“美名”のもと国家と国民は戦争へと邁進していく。