新・ドキュメント太平洋戦争1943 国家総力戦の真実 後編

NHK
2023年8月29日 午後3:30 公開

番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

https://movie-a.nhk.or.jp/movie/?v=c9fwinu6&type=video&dir=XAw&sns=true&autoplay=false&mute=false

(前編はこちら)

(2023年8月13日の放送内容を基にしています)

今から80年前の太平洋戦争。十代の若者が、特攻作戦に向かった。命も、未来も、全てを国に捧げることが求められた。

1941年から45年まで、日本が繰り広げた戦争を個人の視点から1年ごとに追体験する、シリーズ「新・ドキュメント太平洋戦争」。

その手がかりとなるのが、戦時下を生きた個人の日記や、手記「エゴドキュメント」だ。

市民や学生、そして兵士が残した膨大な言葉。そこには、表現の自由が制約された時代、誰にも言えなかった本音が記されている。

今回は、1943年。国の存亡を賭けた国家総力戦の真実に迫る。

敗北を重ね、戦力を消耗した日本。あらゆる資源や人材を飲み込む戦争動員が、市民の暮らしを一変させた。それまで戦火から遠かった子供や若者までが、戦争の時代のうねりに巻きこまれていく。

学業半ばで、銃をとることになった学生。その先には、過酷な運命が待っていた。この年、前線にさらなる兵士を送るため、国は志願兵を大量募集。そこに、中学生ら3万人(※海軍甲種飛行予科練習生への志願者数)が名乗りを上げる。

「陸海軍合格者の通知がとどき、喜ぶ者、絶望的な者、色々と居た。家でぐずぐずしている自分は、はづかしい気持になった」(長野 中学生)

子どもを送り出した親や教師。そこには、戸惑いや葛藤があった。

際限なき戦争動員によって、子どもや若者の命まで捧げることになった日本。

市民一人ひとりが、何を想い、何に悩みながら、戦争を受け入れていったのか。揺れる心の軌跡をたどっていく。

<銃後の市民が感じ始めた戦局の悪化>

「今日中に待避壕を掘ることになり、汗みどろ。お母様、スコップの扱い方がとても上手になった。住代ちゃんはそばで泥ンコいじり」(8月3日 金原まさ子 日記)

一人娘の成長記録として育児日記をつける東京の主婦、金原まさ子。

戦局が悪化した1943年、将来への不安を日記に記すようになっていた。

「お母さま 近頃は心境の変化を来し、住代をおいてお母様が死ぬような事があっても仕方ないとあきらめられるようになった」

「空襲があった場合、自分が果たしてどれだけの力を出せるか」

「住代チャン、お母様と一緒に空襲になったら死のうか」 (金原まさ子 日記)

連戦連勝で、アジアや太平洋の広大な地域を占領下に置いた日本軍。しかし、連合国軍が、日本への進攻ルートを策定し、反撃を開始。日本軍は劣勢に立たされていた。

米軍機に撃墜され、戦死した連合艦隊司令長官、山本五十六の無言の帰国。多くの将兵が戦地から変わり果てた姿で帰ってきた。

これまで国は敗北の事実を市民に正確に伝えていなかったが、もはや戦局の悪化は隠しきれなくなっていた。そうした事態に、メディアに携わる人々の意識も変わっていく。

東京の新聞社に勤める森正蔵。

「帝国を中心とする戦争大観を社説に書く。国民の心の締りも一層ゆるぎがあってはならぬ」(7月30日 森正蔵 日記)

「戦局を甘く見ていると、それがある段階に入って国民の眼を覆えなくなったとき、国民の踏ん張りがつかなくなる」(8月25日 森正蔵 日記)

開戦時、森は、真実を届けるジャーナリストでありたいと願っていた。しかし、アッツ島の戦いで日本軍が全滅した後には、国民を鼓舞し、愛国心を高める記事を書いていた。

この頃、新聞やラジオなどに頻繁に現れる言葉がある。死を美化する「玉砕」や、敵がい心をあおる「鬼畜米英」など、戦意を昂揚(こうよう)させるスローガンだ。

そうした言葉は、人々の日記の中にも浸透していた。

今回、集めた日記や手記、手紙などエゴドキュメントは1190人分。のべ19万日分に上る。そこから、戦意昂揚に用いられた言葉やスローガンを抽出した。それを時系列にそって並べる。

6月、山本五十六の国葬。9月、アッツ島守備隊の慰霊祭。

あらゆるメディアで大々的に報じられる中、戦意をかき立てる言葉の数は増えていった。

「アッツ島軍神部隊!全員悉く玉砕し果てられた悠久の大義に生く尊い御精神を思う」

この日記を書いたのは新潟の教師・佐藤禮子、18歳。国民学校で教え始めて一年目、子供達に慕われる人気の先生だった。

「決戦下の教育は、いいかげんなものでないのだ」

「どの子もどの子も実に元気がよい。さすが決戦下の子供たちである。みんなはり切っている。この無心な子供たちを皇国民たらせるのこそ、私に課せられた使命であるのだ」(佐藤禮子 日記)

京都の呉服店で働いていた竹鼻信三、28歳。この年のはじめに陸軍の兵器工場に徴用されていた。

「生きるか死ぬか、祖国重大な秋(とき)」(7月3日 竹鼻信三 日記)

「我々兵器生産にたずさわる者の重大使命を思い、一意徴用工員の本分をつくさん」(7月21日 竹鼻信三 日記)

この年、国は国家総動員法に基づく徴用を拡大。兵役に就いていない市民を強制的に動員していった。軍需工場では、潜水艦や飛行機、砲弾まで、戦争遂行に不可欠な兵器が市民の手で作られていた。

竹鼻は、自分の店を持つことが夢だったが、その気持ちは押し殺すことにした。

「くにの為 昔の夢は皆捨てつ 職場に生きん今日の喜び。砲けずる たのむぞ砲よ 我にかはりて」

「人生三十年、自分をすてて、新しい出発だ」(竹鼻信三 日記)

<総力戦の渦に巻き込まれた若者や子どもたち>

徴用された市民の働き先は、戦地にも広がっていた。南太平洋ソロモン諸島のブーゲンビル島。日本から5千キロ離れた、この島が、連合国軍との戦いの前線となっていた。日本軍はこの島に、飛行場を建設。反撃に転じた連合国軍を食い止めようとした。

山本五十六の搭乗機は、米軍機の待ち伏せ攻撃にあい、撃墜された。連合艦隊司令長官の死は、現地の将兵に衝撃を与えた。

当時、海軍・設営隊の一員として、飛行場の建設に従事していた赤羽恒男。工業学校を出たばかり、18歳の技術者だった。アメリカ軍の爆撃にさらされながらの突貫作業。設営隊は、物資や食料の不足に苦しんでいた。

「物資の補給は途絶え、ヘビやトカゲを捕まえる。口に入るものなら、毒でさえなければ、何でもかんでも海水で煮て食べる。味など問題外」(海軍第16設営隊・赤羽恒男 _手記)_

この頃、アメリカは日本の輸送を絶つ作戦に本格的に乗り出し、船は次々と沈められていた。撃墜された飛行機の数も増えていった。

戦局の悪化は、兵士ではない赤羽の目から見ても明らかだった。

「迎撃に飛び立った戦闘機が、爆弾で大穴だらけの滑走路へ戻ってくる。それまでに穴を埋めなければならない。破壊されたゼロ戦の機体に、悔しさで胸が詰まった」(海軍第16設営隊・赤羽恒男 _手記)_

激しい消耗戦で、失われていった戦力。国は、動員の強化に動いた。目をつけたのが、これまで戦場から遠く離れていた、若者や子供たちだった。

海軍は、彼らを航空兵・パイロットとして育成しようと、宣伝に力を入れる。

飛行予科練習生、通称・予科練。海軍の教育機関で大空を目指す少年たちの姿が、繰り返しメディアで紹介された。

この年、海軍は、志願の条件を一部見直した。対象となる年齢を1年引き下げ、15才から志願できるようになった(※甲種飛行予科練習生の場合)。身長や体重など、満たすべき基準を緩めて、より多くの子供たちの獲得を狙った。

こうして、子供たちには、早く兵士になって敵と戦うという選択肢が提示されることになった。

新潟で教師をしていた佐藤禮子。中学生の弟・健一郎が、予科練を志願した日のことを日記に綴っていた。

「弟が甲種飛行予科練習生を志願すると言っている」(7月23日 佐藤禮子 日記)

「『検査迄まっていられない。戦争にまに合わん、早くヤンキーをやっつけるんだ。うんとがんばって来るぞ』とはり切っている」(8月5日 佐藤禮子 日記)

佐賀の中学校に通う於保昌二。15歳。電気関係の技術者を目指して、勉学に励んでいた。

学校には予科練の募集のポスターが貼り出されるようになっていた。

「勇壮なポスターの掲示を見ても、我々は特段の関心を示さなかった。無視した訳ではない。中学生が空の勇士を希望する、それは英雄を冒涜する様なものとしか映らなかった」(佐賀 小城中学校・於保昌二 手記)

友人からは、戦地に行くことは危険だとして、志願に否定的な声も上がっていた。

「近所に遺骨が帰ってきた。中には髪の毛しか入っとらん。飛行兵は消耗品」(佐賀 小城中学校・於保昌二 手記)

予科練に入ることは強制では無く、あくまで志願。於保は、兵士として戦うよりも、学業を優先したいと考えていた。

<子どもを戦地に送りだす大人たちの葛藤>

子供を戦場に動員しようとする計画。国の指示を受けて実務を担わされたのは、全国の市町村だった。

長野県、旧・南向村(現・中川村)。予科練の志願者を、どのように集めていたかを明かす、貴重な資料が残されていた。

学芸員/米山妙子さん「敗戦後に国から、『関係書類は廃棄するように』と通達があったが、残してくださって、今に伝わるとても大事な物になります」

記されていたのは、国から村に割り当てられたノルマ。志願と言いながら、数値目標の達成が厳しく求められていた。逐一、志願者数を報告させられた。

この資料を残していた役場職員、平澤善吉。学校とともに、ノルマを果たそうとしていたことを日記に書いていた。

「海軍志願 募集打合せ会、四時までかかる。募集慰労会、学校より五名、村長、助役、収入役」(南向村 兵事係・平澤善吉 日記)

「8月23日、海軍志願兵二十名出来る。喜ばし」(南向村 兵事係・平澤善吉 日記)

教え子を送り出す教師の中には、苦渋の決断をする者もいた。

福岡県・朝倉中学校。校長の石飛朋一は、生徒を集め、志願を呼びかけた。

「本校には七十五名が割当てられて来た。是非七十五名は志願致さなければ必勝の計画が立たないと云(い)うのである。後で君等の決心を聞くつもりであるが、志願をするに就いては、両親の許しも得なければならぬ」(_福岡 朝倉中学校 石倉朋一校長 訓示)_

志願を呼びかけられた生徒たち。石飛は、校長としての言葉の後に、こう続けた。

「私にも子供が二人この中に居(お)る。これらの意志は既に聞いている。二人共直ちに応じて呉れたので安心をした」_(福岡 朝倉中学校 石倉朋一校長 訓示)_

親として我が子を送り出すという校長の言葉。息子の学友たちは、次々と手を上げた。その数は生徒の8割、453人にのぼった。

石飛校長の息子、英二さん・97才。国のノルマに応じ、子どもたちを戦場に送り出す父の苦悩を感じ取っていた。生徒に呼びかけた日、父は疲れ切った様子で帰宅したと言う。

英二さん「籐いすに、どたーんと寝ていました。結局、人数合わせ。できるだけ考えまいとしていたんでしょうね。考えたって後戻りできない」

予科練に続々と志願した子供たち。教師の中には、教え子を戦地に送り出したくないと、口にするものもいた。

「『お国のために尽くすのはええが、命は最後まで大事にせにゃイカンぞ』と言い、目に涙を浮かべて項を垂れたまま『早すぎる・・・ばかだなぁ』と呟(つぶや)いておられた」(_広島 府中中学校・瀬尾齊 手記)_

親や教師たちが抱える葛藤。それをよそに、新聞は石飛校長の学校で、志願者が続出したことを大々的に報じた。学校間の志願競争は全国で加熱していった。

<学徒出陣 強化される戦争動員>

若者や子供を対象とした戦争動員のうねりは、さらに拡大していく。

早稲田大学 学生「一意専心 奉公のまことを尽くし 米英撃滅の決意を固く誓うのであります」

この年の秋、「学徒出陣」が決まった。これまで徴兵が猶予されていた大学生が、戦地に送られることになった。

「学徒の大壮行会が明治神宮外苑で行われる。住代と二人感激を以て見送った。これだけ多くの若い人が全部行ってしまうのかと思ったら少し心細い気がした」(金原まさ子 日記)

「徴兵延期の停止、海鷲への志願。いよいよ一億決戦の秋(とき)なり。流した尊い血潮を無駄にしてはならぬ。今こそ苦難に勝って、世界日本とならねばならない」(竹鼻信三 日記)

全国各地で壮行会やパレードが行われ、社会の空気は大きく変わっていった。

「近所の前田さんに紙の旗飾りあり。上の子の志願という。先日も寺崎さんの十八の子、航空隊とやらに志願にて出る。この時局に子どもながらの雄々しさを感ず」(横浜 主婦・児玉勝子 日記)

「向う三軒両隣り、ほとんどの家が出征軍人の留守家族。我が家は出征軍人の出ていない家ということで、隣近所で父が肩身のせまい思い」(栃木 商業学校・吉川光二 _手記)_

<予科練へ 心変わりした中学生の決断>

際限なき戦争動員。社会を覆う空気は、子供たちを飲み込んでいく。

佐賀の中学校に通う、於保昌二、15歳。技術者になる夢を抱き、予科練に志願する気は無かった。ある日、気持ちを揺るがす出来事が起こる。予科練に入った卒業生が、学校にやってきたのだ。

「自信満々、大音声の挨拶。『前途有望なる諸君の入隊を求めている。来れ!海軍航空隊へ!』 同窓の先輩という。身近に感じられて来る。純白の七つ釦の軍服」(佐賀 小城中学校・於保昌二 手記)

国策映画や雑誌、レコードなどで、空の英雄として描かれてきた少年兵。

その英雄が目の前に現れ、入隊をすすめている。この事実を前に、クラスの生徒たちは、沸いた。

「ワイワイガヤガヤ蜂の巣をつついた状態である。多くの学友が願書を提出している。黙っているのが罪悪の様。心の何処かで卑怯(ひきょう)者と叱咤(しった)される」(佐賀 小城中学校・於保昌二 手記)

周囲の興奮に、肩身の狭さを感じていた於保。予科練の募集要項を見返すことにした。クラスの友人は、志願すれば軍人として出世の道がひらけると希望を語っていた。

「『航空幹部を養成する制度と書いてある。少尉には二十三歳位でなるらしい。悪くはないぞ』先生達の奨めもある。優秀な飛行機、最強の飛行隊、負ける事があるもんか。国が我々を求めている。よし決めた」(佐賀 小城中学校・於保昌二 手記)

<タラワの戦い アメリカの対日観を一変させた激戦>

11月。中部太平洋で、その後の戦局に大きな影響を与える戦いが始まろうとしていた。

タラワの戦い。アメリカ人の対日観を一変させたといわれる、激戦である。

アメリカ軍は、日本軍の基地があったタラワ島に狙いを定めた。日本軍4601人に対し、アメリカ軍は1万8600人。大兵力で一気に攻め落とす作戦だった。

この戦いに従軍記者として同行し、戦時報道の一翼を担った人物がいた。ロバート・シャーロッド。数々の戦場を取材したジャーナリストだった。このタラワで、日本人の驚くべき姿を目の当たりにすることになる。

「我々アメリカ人は、日本人の強さについて全く理解していなかった。それを知らずにこの戦争に突入してしまったのだ」(従軍記者/ロバート・シャーロッド)

タラワ攻略作戦には、撮影隊が同行し、カラーフィルムで記録した。

11月21日、アメリカ軍は猛攻撃をしかけた。

「5時、空が明るみ、巨大な戦艦の砲撃が島にいるジャップに降り注いだ。炎が何百フィートもの高さまで噴き上がった。こんな砲撃を受け生きているものは一人もいないだろう」(従軍記者/ロバート・シャーロッド)

圧倒的な戦力で、日本軍を壊滅させたと思い込んだアメリカ軍は、上陸作戦を開始する。

「水陸両用車から水中に飛び込んだ。その時、我々は機関銃の集中砲火を浴びせられることになる。ジャップは死んでいなかった」(従軍記者/ロバート・シャーロッド)

この戦いでアメリカ軍は、火炎放射器を実戦に投入。次々と日本軍の塹壕(ざんごう)を焼き払うも、抵抗は続いた。

「『助けてくれ!』と仲間が叫ぶ声が聞こえた。迫撃砲の陣地から飛び出してきた仲間は、ジャップの狙撃手に心臓を撃ち抜かれた」(ロバート・シャーロッド)

夜の闇に紛れて、奇襲を仕掛けてくる日本軍。そこで、シャーロッドの想像を超えた攻撃が行われた。

「塹壕から飛び出してきたジャップが、戦車の下に身体を投げ出した」(従軍記者/ロバート・シャーロッド)

敗北が避けられないなら、投降し捕虜になるものだと考えていたアメリカ兵。しかし、日本兵は爆弾を抱えて、アメリカ軍の戦車部隊に自爆攻撃をしかけてきた。

自爆攻撃を目の当たりにしたシャーロッド。こうした戦いが、この先も続くであろうことに恐怖を覚えた。

「日本人はここでせん滅しなければならない。やつらが我々の子供たちに、二度と立ち向かえないように。その過程で、何十万人ものアメリカ人が死ぬかもしれない。しかし、それが唯一の方法だ」(従軍記者/ロバート・シャーロッド)

日本を滅ぼさなければならない。アメリカもまたメディアを使い、日本への敵愾(てきがい)心をあおり立てていった。

タラワの戦いは、記録映画として公開され、大きな話題を呼んだ。シャーロッドが見た戦場の現実を、アメリカの多くの人々が目撃することになった。

「アメリカ兵の遺体が波間に浮かんでいる。私たちはただただ打ちのめされた。日本人への嫌悪感は激しいものとなり、ジャップを殺さなければならないと思うようになった。私たちは戦争を終わらせなければならない」(アメリカ市民の声)

タラワの戦いと時を同じくして、連合国の首脳会談が開催された。日本を野蛮な敵国とし、容赦の無い攻撃を加えていくと表明。日本が無条件降伏するまで戦いぬくと宣言した。

アメリカの軍需工場には、多数の市民が動員された。量産されたのは、戦略爆撃機B-29。大量の焼夷(しょうい)弾を搭載し、長距離飛行が可能だった。日本本土への攻撃準備が進んでいた。

<絶対国防圏から外れた島ブーゲンビル>

対する日本は、徹底抗戦のため、新たな戦略を打ち立てていた。

「絶対国防圏」。戦線拡大の方針を見直し、本土を防衛するため、絶対に確保すべき範囲に、戦力を集中することにした。

これによって、国防圏の範囲外とされた島々は孤立し、連合国軍の攻撃にさらされることになった。そのひとつが、山本五十六が戦死したブーゲンビル島。

ここには日本軍の飛行場建設のため働いていた軍属の赤羽恒男がいた。建設作業は、もはや不可能な状態となっていた。

そんなおり、赤羽は思いがけない知らせを聞く。

「第十六設営隊はその任務終了せり、よって陸路転進し、輸送の船舶を待って待機すべし」(海軍第16設営隊・赤羽_恒男 手記)_

兵士に先駆けて、赤羽が所属する設営隊を帰国させると伝えられた。

「やっと無事に内地へ帰れるんだ。よろこびから、隊員のすべてが足も地につかぬ有様(ありさま)であった」(海軍第16設営隊・赤羽恒男 手記)

現在地から輸送船との合流地点までは、180キロ。行く手を阻むのはうっそうとしたジャングルや深い川だった。14日後、ようやく辿りついた目的地。しかし、そこに輸送船の姿はなかった。

「苦労の末に辿り着いたものの、迎えの船の来ないまま捨て置かれ・・・『迎えの船はもう来ない』といった、暗いうわさが広がり始めた」(海軍第16設営隊・赤羽恒男 手記)

なぜこんな場所に移動が命じられたのか、不安が募る赤羽たちにさらなる試練が押し寄せる。

「われわれを待っていたのは、飢餓と疫病と敵襲。戦友が四散した遺体を確認収容。涙なんかでるものか。俺だって何時(いつ)こうなるか知れたもんではない」(海軍第16設営隊・赤羽恒男 手記)

食料が乏しい中、軍は戦闘要員でない自分たちを、体よく追い払おうとしたのではないか。しかし、そう思ったときには、部隊の幹部の姿はなかった。

「一言(ひとこと)の訓示もなく激励の言葉もかけずに、われわれを置き去り。夜陰に乗じて、潜水艦に便乗して、かえってしまった」(海軍第16設営隊・赤羽恒男 手記)

部隊の幹部は、密かに島から脱出。赤羽たちはジャングルに取り残された。

多くの人が飢えと疫病で命を失っていくことになる。

<果てなき戦争協力 失われた若者や子どもたちの命>

こうした戦場の現実を、市民は知るよしもなかった。

新聞は、相次ぐ玉砕を美談として報じ、人々の戦意をあおり続けた。

「家へ帰った私は何をラジオからきいたか!タラワ守備の陸戦隊の玉砕であった」(新潟 教師・佐藤禮子 日記)

弟が予科練に志願した新潟の教師・佐藤禮子。戦争協力の決意を新たにしていた。

「一機でも多く、飛行機を送ることが出来たら・・・玉砕の兵隊さんに一体どう言ってお祈りしたら良いのか。きっときっと仇(かたき)を討ちます。」(12月22日 佐藤禮子 日記)

兵器工場に徴用された竹鼻信三。遠く離れた戦場への思いを一層強めていた。

「直接、銃をもたぬことは日本人として寂しい。我々生産戦にこの仇を撃つべしだ。玉砕の勇士に恥じぬ生活をせねば申訳がない」(竹鼻信三 日記)

戦争で失われた命を無駄にしてはいけないと、市民の戦争協力はますます熱を帯びていく。

茨城県・霞ヶ浦。12月、海軍に入隊した予科練の子供たちは訓練に励んでいた。この年入隊したのは前年の2288人から、10倍以上の3万1749人(※甲種飛行予科練習生)に急拡大した。

新潟で教師をしていた、佐藤禮子。日記には、予科練入隊の日を迎えた弟・健一郎の姿が綴られていた。

「弟いよいよ出陣の日。たとえ十七の若さでも、烈々たる海軍軍人を思わせて、感謝感激に目がしらがあつくなって来る。『皆さんこの身を大君(おおきみ)にささげて立派にご奉公します。元気で征きます!!」と絶叫した弟の姿』 (佐藤禮子 日記)

今回、健一郎さんが存命であることが分かった。予科練に志願した際、姉には伝えていなかった思いがあった。

健一郎さん「あの頃はやっぱり兵隊に行かない家は、非常に肩身が狭いといいますか。自分としても親孝行も兼ねて、意地もありました」

家族のために戦地に行くことを決意した健一郎さん。その後、上官から思いがけない言葉を聞くことになる。

健一郎さん「途端に特攻隊というのが出てきて、『一人一殺、ひとりで相手をやっつける兵器が開発されてる。君たちは空を選んだかもしれないけど、国防の時期だから、すすんで応募してほしい』と。シーンとしましたね、途端に。5分ぐらい何も音がしない」

敗色が濃厚となる中で、予科練生や学徒が迫られたのは、敵艦への自爆攻撃・特攻だった。

1944年。アメリカ軍の圧倒的な戦力の前にサイパン島が陥落。女性や幼い子供が戦闘に巻き込まれ、日本本土への無差別空襲が目前に迫っていた。

戦争に協力することが正義と信じ、生活や労働力を捧げ続けた市民たち。

その果てに失われたのは、この国の未来を背負う若者たちの命だった。