玉鋼(たまはがね)に挑む 日本刀を生み出す奇跡の鉄

NHK
2022年9月9日 午後2:41 公開

番組のエッセンスを5分の動画でお届けします

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(2022年9月3日の放送内容を基にしています)

世界中で、ただここにしかない「ものづくり」がいよいよ始まる。職人たちが作るのは「玉鋼(たまはがね)」。強さとしなやかさを合わせ持ち、しかもさびにくい。最先端のテクノロジーでも製造困難とされる奇跡の鉄だ。それは日本刀を生み出す、唯一無二のスーパーマテリアル。玉鋼から生まれる日本刀は、鉄を使った人類最高峰の芸術品として、海外でも高い評価を獲得している。

「玉鋼なくして、日本刀なし」。

その玉鋼づくりを一手に担ってきた職人たちが、試練に直面した。毎年1月から2月にかけて行われる「たたら製鉄」と呼ばれる玉鋼づくりの操業が、今年は新型コロナ第6波と重なったため、ただ1度かぎりとなってしまったのだ。しかも、その1度かぎりの玉鋼づくりは、相次ぐ危機に見舞われた。人の力と自然の素材だけを使った日本古来の鉄づくり。12人の職人たちが挑む一発勝負の玉鋼づくりに、日本のものづくりの神髄を見た。

島根県・奥出雲町。ここに世界でただひとつ、日本刀のための玉鋼を作る製鉄所「たたら場」がある。4日間にわたる玉鋼づくりは、その成功を祈願する神事から始まった。玉鋼づくりを指揮するのは、木原明さん。「村下(むらげ)」と呼ばれる、たたら職人の棟りょうだ。たたら製鉄に携わって45年。玉鋼づくりを、先頭に立って率いてきた。その木原さんも、86歳。操業には総監督として、日中のみ参加する。

玉鋼づくりの成否を握るのは、木原さんの背中を追ってきた11人の職人たち。身につけた技を存分に発揮し、たたら製鉄の継承者であることを自ら証明できるのか。今年のチャンスは1回かぎりだ。

玉鋼の作り方は、一見シンプルだ。木炭が燃えさかる粘土の釜に、材料となる砂鉄と木炭を、三日三晩30分おきに釜の上部から入れる。木炭で加熱された砂鉄は、純度を上げながら釜の底に落ちて固まっていく。こうしてできた鉄の塊を、カネヘンに母と書いて「鉧(けら)」と呼ぶ。この鉧の内部に銀色の玉鋼ができるのだが、出来高は鉧を割って中を見るまでわからない。

釜には、相撲の土俵の東と西のように、「表」と「裏」がある。今回、4人の次期村下候補が表と裏に分かれ、木原さんに代わって砂鉄を入れる仕事を交代で務め、玉鋼の出来を競う。

4人の後継者の力量が試される、1回かぎりの玉鋼づくりが始まった。表の一番手・堀尾薫さん。次期村下候補の筆頭とされている。地元、奥出雲町の出身で、24歳のとき木原さんに直談判(じかだんぱん)し、弟子入りした。

木原さんは、まな弟子の仕事ぶりがどうにも気になるようだ。

木原明さん「堀尾君よ、幅が広すぎる。もうちょっと狭めに入れや」

表 一番手 堀尾薫さん「はい」

しかし堀尾さんも、いまやキャリア29年のベテランだ。

堀尾さん「任せてくれとは言わないですけど、自分の思いでやらせてくれというのはあるんです。ですけど、やはり師匠ですので」

実は去年(2021年)も、コロナ禍で1度かぎりの操業を強いられたのだが、できた鉧の中身はさんざんだった。最高品質の一級の玉鋼が、例年の半分にも満たない、およそ180kgしかとれなかった。

今回、堀尾さんは、木原さんを説得し、砂鉄の配合から釜を作る粘土まで思い切って変えた。見事成果を上げ、自らの力量を師匠に示すことができるのか。

釜の調子がよくなると、低く青みがかった炎に変化が生じるという。

ディレクター「心なしか、炎がやまぶき色を帯びてきた感じがしますね」

堀尾さん「色が変わってきましたよね」

やまぶき色の炎は、順調な滑り出しの証しだそうだ。

日本美術刀剣保存協会 たたら課長 黒滝哲哉さん「調子がいいときは、炎が3メートルぐらい上がります。ばーっと」

主催団体のたたら課長こと、黒滝哲哉さん。今年、定年を迎える。コロナ禍での操業実現に向け、裏方として奔走した。その黒滝さんが、裏の村下候補に何か話しかけている。どうやら「表に比べ、炎の上がりが悪いのではないか」と指摘しているようだ。

裏の一番手・三上高慶さん。去年は、裏の玉鋼の出来が特に悪かったこともあり、今年にかける思いは強い。村下になるには、砂鉄ひとすくい4kgの感覚を、体で覚えなければならない。しかも、炎の様子から釜の状態を読み、砂鉄の量や入れる場所をうまく調整しなければ、玉鋼はできない。

裏 一番手 三上高慶さん「今回は、なんとかヒットを打ちたい。やっぱり全国の刀匠さんが喜ぶものを出してあげるのが、我々の仕事じゃあないですか。ある意味ね」

そう話す三上さん自身が、全国に200人以上いるという刀匠のひとりです。刀匠名は、三上貞直。30代にして大きな賞を総なめにし、「無鑑査」という刀匠としての最高の称号を手にしました。

日本刀をつくるのに、なぜ玉鋼が必要なのか。三上さんが普通の鉄と比べながら、実際に見せてくれました。まず、普通の鉄。熱してハンマーで打っても伸ばすことができません。それでも打ち続けると、鉄が崩れてしまいます。

それに対し玉鋼は、熱してハンマーで打っても崩れることはなく、少しずつ伸びて広がります。さらに折り返してハンマーで打つと、鋼どうしがくっついてひとつになります。

こうした性質を生み出す一因が、玉鋼に含まれる不純物にあるとみられています。通常、不純物は鋼が割れる原因となり忌み嫌われます。ところが玉鋼に含まれる不純物はひものような形をしており、鋼に粘りを与えるというのです。この不思議な鋼が生み出される原理は、いまだ完全には解明されていません。

文化庁長官賞を受けた三上さんの太刀(下写真)。玉鋼を何度も折り返して打ち延ばすことで、日本刀の地金にはきめこまかな文様が現れます。この太刀も、三上さん自身が生み出した玉鋼で作られました。

三上さん「自分たちで素材を作れる。それは魅力じゃないですか。愛着もわいてくるしね。ケチをつけられなくなりました。玉鋼に」

日本刀は鉄で作られた芸術品として、海外でも多くの人の心をわしづかみにしています。8月、サンフランシスコで行われた日本刀の展示即売会。アメリカの刀剣商や愛好家が年に1度開催してきたこの会は、32回目を迎えました。

戦国時代の名品・村正(むらまさ)の短刀の気になるお値段は、鑑定書付きで日本円にして、およそ1,150万円。年代物から現代の刀匠の作品まで、一ふり100万円を超える日本刀が次々と売れていました。

来場者「日本刀は世界でも別格の存在です。その魅力は、なんというか…『危険な優美さ』なのです」

アメリカでの日本刀人気は、終戦後、進駐軍の兵士が日本刀を大量に持ち帰ったことから始まったとされています。ところで、来場者は、日本刀が何から作られているのか知っているのでしょうか。

少年「『玉鋼』という宝石のような鉄です。宝石をちりばめたような姿をしています」

ディレクター「よく知っていますね。日本人も驚きますよ」

少年「そうなんですか?」

日本刀の文化を支える玉鋼づくりは、操業初日の夕刻、早くも難しい局面を迎えようとしていた。裏の村下候補で刀匠の三上さんは、釜の側面にある小さな穴と格闘していた。釜に空気を送る管のすぐ上に開けられた、のぞき穴だ。穴の奥で煮えたぎっているのが「ノロ」と呼ばれる不純物。そのノロの塊が、穴をふさぐように垂れ下がっている。

砂鉄を入れると、その一部が釜の粘土と反応してノロになる。ノロには釜を高温に保つ役割がある一方、たまりすぎると送風管をふさいで、釜の中に空気が届かなくなる。最悪の場合、炎は消え、操業は失敗に終わる。そうなる前に「湯路穴(ゆじあな)」と呼ばれる穴から、ノロを適度に外に出さなければならない。

砂鉄を入れ始めて12時間。釜にたまったノロとの戦いが始まっていた。表の様子をうかがうと、2つの穴から流れ出たノロが、溝にきれいにたまっていた。ノロをうまく出せたようだ。

堀尾さん「まあまあ。悪くはないですよ」

一方、裏は…。ノロがいっこうに出てこない。

次の村下候補と交代する時間を迎えた。

裏 一番手 三上さん「有終の美を飾りたかったんですが」

裏 二番手 佐藤秀行さん「これからですけん」

佐藤秀行さんは、大阪大学の大学院で研究員として金属の精錬技術と熱力学を学んだ理論派だ。

「やってがっしゃい」(砂鉄を入れる時間の合図)

まず送風管の状態を確認すると、かなりつまっている。すぐ下にある送風口が、すでにノロにふさがれているかもしれない。急ぎ、ノロを出そうと湯路穴を探るが…固まったノロでふさがれている。特に左側の湯路穴は手ごわそうだ。佐藤さんの流儀は、論理的であること。釜の状態を分析し、ある作戦に打って出た。砂鉄より先に、木炭を入れるよう指示を出した。釜の温度を上げることでノロが固まるのを防ぎ、さらに固まってしまったノロを少しでも溶かそうという計算か。

まず、右の湯路穴。狙いどおり、ノロが少し柔らかくなり始めたようだ(上写真)。

佐藤さん「ここだ。ワテ(右の壁)の境ぐらい。もうちょい内側。この境目から左に向かって斜めに。溶けてきちょるけんね、ノロが」

ノロが出てきた。

次は左の湯路穴。鉧と壁との隙間に狙いを定め、思い切って棒をねじ込んだ。大きな塊がとれた。なんとかノロ出しに成功したようだ。しかし、ノロ出しの遅れは、玉鋼の出来にどんな影響を及ぼしているのか。操業を終え、鉧を割って中を見るまでわからない。

佐藤さんはふだん、島根県安来市にある鉄鋼メーカーの工場で働いている。120年ほど前、たたら製鉄から始まったこの工場。たたら職人12人のうち村下の木原さんを含む8人が、この工場の社員だ。佐藤さんは、工場で使う設備の設計や保守管理をしている。松江の工業高校を卒業して入社。「たたら製鉄を科学的に解明せよ」という社命を受け、研究員として大学院に派遣された。

佐藤さん「10年ぐらい仕事をすると、大体なんかわかってきます。業界の標準みたいなものが。(でも、たたら製鉄は)ようわからんのですよ。やってもうまくいかんことがある。それでまた次やってみるんですけど、なかなか…わからんことがあるけん、ずっとやっているみたいな」

技術面や人材面でたたら製鉄を支えてきたこの会社は、投資ファンドに売却されることが決まっている。この奥出雲の地にただひとつ残された、いにしえのたたら製鉄は、一体どうなるのだろうか。

棚田の風景が広がる奥出雲町。百数十年前までは、日本を代表する工業地帯でした。棚田の多くで砂鉄がとられ、たたら製鉄が盛んに行われていたのです。奥出雲を流れる斐伊川(ひいかわ)に磁石をさすと、いまでも砂鉄を容易に目にすることができます。

良質な砂鉄に恵まれた中国山地の山陰側では、山を崩してその土砂を水で流し、棚状にしつらえた浅い池で砂鉄を集めていました。その砂鉄を原料に行われた中国山地のたたら製鉄。西洋式の近代製鉄が導入される明治初期まで、日本の鉄の実に8割以上を生み出していました。

終戦とともに姿を消したたたら製鉄は、昭和52年、1977年に復活します。戦時中に携わっていた2人のたたら職人に、木原さんたち製鉄技術者が弟子入りする形で再開しました。

たたら製鉄の復活には、玉鋼を求める全国の刀匠からの声に加え、伊勢神宮による強力な後押しがありました。20年に1度行われる式年遷宮(しきねんせんぐう)。その際に奉納する太刀を作るのに、玉鋼がどうしても必要だったのです。

神宮技師 宮本史典さん「こちら皇大神宮神宝(こうたいじんぐうしんぽう)の須賀利御太刀(すがりのおんたち)です。古来、大神宮の宝刀として非常に知られた刀剣になります」

「須賀利御太刀」。まっすぐな刀身に、板の目のように浮き上がる細やかな地金の綾。柄(つか)にはトキの尾羽が2枚あしらわれています。式年遷宮で奉納されるご神宝の中でも、優美な姿で際立っています。これは昭和28年、戦後初めての式年遷宮の際に打たれたもの。残っていた玉鋼をかき集め、なんとか作ることができました。

宮本さん「そういった材料も払底致しまして、昭和52年のたたらの復興に向けては、伊勢の神宮も大きな関心を寄せ、いろいろなお手伝いをさせていただきまして、その復興につながったということがございました。こういった巧妙細緻(さいち)な明るく澄んだ地金、すがすがしさを備えた刃文(はもん)というのは、日本の古来の和鉄、和鋼といわれる玉鋼でなければ表すことができないと言われておりまして、玉鋼を私どもでは特に重用しております」

たたら製鉄で生み出される鉄は、日本刀の他にも茶の湯で使われる茶釜に、また寺院や仏像など文化財の修復には欠かせない、1000年もつとうたわれる「くぎ」や「かすがい」などにも使われます。日本の経済ではなく、文化を支えるものづくり。それが、たたら製鉄です。

操業開始から丸1日が過ぎた。やまぶき色の炎は高さを増し、湯路穴からも炎が勢いよく吹き出している。鉧はかなり大きく育っているはずだが、この時期、釜はまだ不安定だ。5分、目を離せば、様子は一変するという。油断はできない。

ディレクター「堀尾さん、30時間を超えていますよ」

堀尾さん「計算できません」

ディレクター「堀尾さん、ちょっとやせたんじゃないですか?」

堀尾さん「ホントですか。うれしい」

一睡もせず、さらに夜の8時まで、砂鉄を入れ続けるという。

本来、村下は三昼夜休みなく操業を指揮しなければならないという。村下を目指す堀尾さんは、今回2日にわたって砂鉄を入れる仕事に挑戦していた。しかし、疲労で体の感覚が鈍ってきたのか、気がつくと秤(はかり)を使い始めていた。鋤(すき)さばきが思うようにいかなくなると、砂鉄を入れる量や位置に狂いが生じる。それが続くと、釜に問題が起きる。

夜8時前。堀尾さんに続く、表の二番手・三浦靖広さんが、それに気付いた。

表 二番手 三浦靖広さん「難儀しちょる」

ディレクター「どこを見ればそれがわかりますか?」

三浦さん「炭の下がり具合とか」

ディレクター「炭がなかなか下がっていないですね」

木炭が釜の中に下がらないということは、釜の内部の燃焼が悪くなって砂鉄がうまく溶けていない恐れがある。

堀尾さん「下がるかな。どれくらいで下がるか」

三浦さん「うーん」

師匠の木原さんがいない時間に起きたトラブル。堀尾さんは、解決できないまま交代となった。

ディレクター「どうでしたか、ここまでは」

堀尾さん「うーん、決して調子がいいとは言えません。原因はいろいろある…例えば、原材料ですね」

ディレクター「新しい砂鉄を使われました…それがちょっとうまくいっていない?」

堀尾さん「その可能性もあるし、釜土もちょっと変えましたけど…それも可能性がありますね」

ディレクター「まだきょう2日目ですからね」

堀尾さん「挽回です」

堀尾さんと交代した三浦さんが、木炭の下がりをよくしようと試行錯誤を重ねていたが、木炭は依然として釜の中に下がらない。そこで、奥の手に出た。竿炭(さおずみ)と呼ばれる燃えやすい大きな木炭を入れるよう、炭入れ役の安藤さんに指示した。

ところが…。

三浦さん「竿炭、やめる」

炭焚(すみたき) 刀匠 安藤祐介さん「はい、やめる」

三浦さん「激軽で」

指示を撤回した。釜を見ると木炭が少し下がり始めて、燃焼がよくなっている。どうやら、炭入れ役を務める安藤さんが、独自の判断で木炭の大きさと入れる場所を調整していたようだ。

安藤さん「炭がよく燃えて落ちるところに、最初に小さい炭を入れる。下がりの悪いところは、大きな炭になるように。普通に入れているように見えるんですけど、結構考えてやっています」

三浦さん「彼みたいな炭焚さんは、ほんにありがたいですよ。何を言わずとも、思っちょることがわかるというか、ほんにありがたいですよ」

たたら製鉄は、全員参加のものづくり。それを実感するのが、操業開始前に行われる下灰(したばい)という作業だ。力を合わせ、声を合わせ、釜を作るための下地となる床を、3日かけて作り込む。

もちろん、釜も全員で作る。4人の村下候補に注目する私たちに、三浦さんは「これだけは言っておきたい」と語った。

三浦さん「村下がおらんと、たたらはできんです。だけど村下だけが頑張っても、たたらはできんのですわ。ここに集まっちょる全ての人が一所懸命やっての成果だと、わしは思っちょります」

2日目の深夜は、釜との一進一退の攻防が続いた。うまくいけば3日目には鉧はますます育ち、釜の壁が崩れるぎりぎりのところまで大きくなるはずだ。

3日目の朝を迎えた。

ディレクター「木原さん、いまどんな状況ですか?」

木原さん「いまいち…トラブルが発生していますんでね。それをとりあえず修復させています。そこの湯路も、あそこから火勢(ほせ)が、もっと勢いよく出ないといかん。トラブルが多すぎますよね。いまの状況は」

たしかに、湯路穴から吹き出す炎の勢いは弱い。釜の中を空気がうまく流れていない恐れがある。

木原さん「まあ、村下代行がやっていますからね。十分な技術が身についていないから」

最高の玉鋼を生み出すために、常に精進を重ねてきた木原さん。弟子たちに、もどかしさを感じているのだろうか。

朝まで釜を離れていた堀尾さんには、状況がわからない。「村下は三昼夜の操業に立ち会うべし」というのは、こういうことか。

一方、徹夜で釜と向き合ってきた三浦さんは…。

ディレクター「木原さんは、いま状況があまりよくないとおっしゃっていますが?」

三浦さん「そうですか?そうはないと思います」

暴れる釜を、チームの力で夜通し収めてきた。「一時的な不調」というのが、三浦さんの見立てだ。

しばらくして、たたら課長の黒滝さんが、炎の変化に気付いた。炎が釜のヘリからせり出してくるのは、釜の内部の状態がよくなってきた兆しだそうだ。

釜が調子を取り戻したところで、三浦さんの村下役は一旦終わった。やけどと泥が、釜との闘いの時間を物語っていた。

裏の村下候補・刀匠の三上さんが、秤を使い始めた。操業も3日目。交代制とはいえ、三上さんは66歳。炎に体力を奪われ、体も悲鳴を上げているはずだ。

ディレクター「三上さん、顔、やけどされている?」

三上さん「(肌の)タイプが柔らかいタイプだから。たくさん仕事をしているみたいに見えて得じゃないですか」

表の炭入れ役・田中文徳さんが、休憩時間を返上して裏の助っ人に駆けつけた。大きくなった鉧が、ノロの出口をふさいでしまったようだ。

三上さん「あんまりやりすぎると、釜が壊れていく。まだ今晩やらにゃあ」

それにしても、ここには釜の状態を把握するためのデジタル機器も、作業を効率的に進めるための電動工具もない。原始的な道具を手に、我が身ひとつで見えない釜の奥を探る。楽をしないものづくりを貫く、12人のたたら職人たち。楽をしないからこそ、楽しんでいるようにも見える。テクノロジーに身を委ねず、肉体をセンサーにするからこそ、得られる気付きや発見がある。それこそが、かつてメイド・イン・ジャパンに輝きをもたらした、日本のものづくりの神髄だったことを思い出した。

最終日、4日目の早朝。三日三晩続けた砂鉄の装入(そうにゅう)を終え、鉧を取り出す。見えない釜の底で、鉧はうまく育ったのか。

木原さん「いよいよ6時から釜壊しに入ります。非常に危険ですからね。絶対にやけどには特に注意してください」

鉧を取り出すために、釜を壊す。まさに、一期一会のものづくりだ。「作っては壊す」を繰り返すことで、モノは消えてもノウハウは人の中に残り、受け継がれていく。

大量の木炭に蓄えられていた熱が一気に放たれ、数百度の熱風が立ちのぼる。赤く燃える木炭を取り除いた下から、鉧らしきものが姿を現した。

堀尾さん「形状はいいと思います。横に浸食よく鉧が育っていますので。ほぼ平らなので」

鉧の重さはおよそ3トン。冷やされたあと、玉鋼を取り出すために割られる。この鉧の中に、銀色の輝きをどれだけ拝めるのか。去年は、例年にない不作に終わった。

これまでに160を超える鉧を生み出してきた木原さん。玉鋼の出来高に対する予想は、いつも厳しい。

木原さん「いまいち、というところですね。あまりいい鉧になっていないですね」

ディレクター「去年と比べると?」

木原さん「大体ほぼ同じような鉧ではないかとみていますね」

いよいよ、鉧を割る。木原さんの予想を耳にしたからか、一同の表情は硬い。2年連続の不作となれば、日本刀づくりへの影響も甚大だ。まず堀尾さんたち、表の組が受け持った部分を割る。

堀尾さん「いい鋼ですね。一級のAがとれますね」

三浦さん「ここ、見てくださいませ、この光り具合を。びっちりです」

ちょっと前までの不安を、忘れてしまうほどの出来栄えだったようだ。

堀尾さん「狙いどおりですね、狙いどおりです。この鋼なら去年よりはいい。目的どおりにいったかなと」

ディレクター「堀尾さんちょっと一時期、くじけかけていたときがありましたが?」

堀尾さん「2日目がちょっと苦労したんです。その辺を心配しておったんですけど、これを見てホッとしています」

さて、理論派の佐藤さんと刀匠の三上さんが受け持った、裏の出来は…。去年に比べて玉鋼の出来は大幅に上がったが、銀色に分け入るように、黒い組織がくっきりと差し込んでいた。

佐藤さん「これは操業中に不調を起こしたところで、“ス”ですね。操業中に何回もよくなっては悪くなってというのを繰り返していたので、あまりいいものではないだろうと思っていたんですが、悔しいですね。もっと本当はバチッといい鉧を吹きたかったですけど、まだまだ頑張らんといけんですね」

厳しい予想をしていた木原さんは、今年の出来をどう評価するのか。

木原さん「結構いいですよ。鋼の品質自体は非常にいいですね。整っています。あと問題は一級品の歩留まりがいくらあるかが評価の基準になりますからね。それも結構、収量とれると思いますね」

弟子たちの成長を実感した今年の操業だった。

三上さんは、刀匠に戻った。いま自ら生み出した玉鋼を使い、鎌倉時代の名刀の再現に取り組んでいる。

三上さん「いかに安定した素材を手に入れて、安定した仕事をしていくか。世界で1か所しか、あの規模のたたらはないわけですから、自分でも体の続くかぎりはお手伝いできたらいいなと思っています」

そして村下の木原明さん、86歳。三浦さん、堀尾さんとともに、「ミニたたら」を体験するイベントに取り組んでいる。デジタル時代を生きる若い世代に、ものづくりの本当の面白さを伝えたいという思いだ。

木原さん「素手でなるべくやるように。手袋なんかしないの」

参加した学生「軟弱なんで、したままでいいですか」

木原さん「素手で感触を感じるのが、いちばん大事なことなんだよ」

今年、12人のたたら職人が生み出した一級の玉鋼は、およそ400kg。去年の倍の成果となった。刀匠たちに送り届けられた玉鋼は、メイド・イン・ジャパンの一ふりへと姿を変え、また世界をうならせるのだろうか。