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中国新世紀 中国共産党 一党支配の宿命(後編)

NHK
2021年10月7日 午後4:56 公開

(前編はこちら)

(2021年10月3日の放送内容を基にしています)

<鄧小平が遺したくびき 改革開放>

長年にわたり、李鋭が書き残した日記には、80年代以降、「大人(たいじん)」と書かれたある人物の記述が増えていく。李鋭が「大人」と書く人物、それは、鄧小平のことだった。

「鄧大人の考えはこうだ。『思想をもっと解放し、もっと大胆になり、歩調をさらに速める』」(李鋭日記・1991年12月17日)

毛沢東が82年の生涯を閉じ、文化大革命は終焉を迎えた。

その後、権力を握ったのが、これまで毛沢東の下で、幾度となく失脚を繰り返してきた鄧小平だった。

鄧小平「白猫であれ、黒猫であれ、ネズミを捕るのが良い猫だ」

中国の大転換を決定づけた1978年の中央委員会全体会議で、鄧小平は、過程はどうあれ、結果が伴えば良いという現実的な考えのもと、「改革開放」路線を打ち出した。外国資本や先進技術の導入を担ったのは、沿海部の深圳などの「経済特区」だった。

「文革」のいびつな熱狂から解放された人々のエネルギーは、「豊かさ」へと向かい、爆発的な経済成長の原動力となっていった。

さらに鄧小平は、対外政策でも巧みな手腕を発揮する。経済発展のため、宥和的な方針を打ち出したのだ。中国の指導者として初めてアメリカを訪問し、国交の樹立に合意。米ソ冷戦体制が続く中、中国が打ち出した開放政策に、世界は大きな期待を寄せた。

アメリカで対中政策の立案に関わってきた余茂春(マイルズ・ユー)は、近年まで、「関与政策」と呼ばれる考え方が、アメリカの基本姿勢だったと語る。

余茂春「中国と接触することにより、中国の国際的な行動を変え、中国を全世界のいわゆる『大家族』の中に引き入れようとしたのです。アメリカは1972年からこのような夢を持っていました。異なる政治経済イデオロギーについては脇に置いて話さず、触れない。いわば『求同存異』で数十年の長い道を歩み続けたのです」

毛沢東への強固な個人崇拝が、文革の大混乱を招いたことへの反省から、政治体制の変革も進められた。個人独裁を防ぐため、集団指導体制を導入。憲法を改正し、国家主席ら党指導者の任期を2期10年と制限して、終身制を否定した。

「革命ロマン主義の毛沢東に対して、現実派の鄧小平。これが2人の決定的な違いだろう」(李鋭日記・1990年7月15日)

李鋭は20年に及ぶ、下放、牢獄での生活を終え、復帰を果たしていた。党内で改革が進む中、当時、党員、数千万人のうち、わずか200人程しか選出されない中央委員に抜擢され、党中枢の運営に携わっていた。

当時、党内最大の課題は、文革に至る時期の毛沢東をどう総括するかだった。

李鋭が遺した党内の議論を記録した史料では、当初、毛沢東を厳しく評価すべき、という意見が大勢を占めていた。

「政治、思想、組織のあり方に対して、重大な過ちがあり、国家の経済、そして、党の伝統を著しく破壊した」

しかし、鄧小平は「誤りを含めて、毛沢東の全生涯を見た場合。中国革命における功績は、その過失を大きく上回っている」と結論づけた。

個人崇拝を完全には断つことができず、その後の中国共産党の、ひとつのくびきとなっていった。

<鄧小平が「共産主義の墓を掘った」 天安門事件>

経済に急速に舵を切った共産党は、新たなひずみを生んでいく。

「経済特区」を中心に、目覚ましい発展が成し遂げられる中、中国経済は異常な過熱を見せ、物価が上昇した。その中で、幹部や党員が特権を利用し、不正に蓄財する汚職が頻発していった。

市民の声「ある官僚は汚職で何十万ドルも使って懲役2年、ところが、スイカを盗んだ人は無期懲役。法律はどうなっているんだ」

学生や知識人からは、政治体制の根本的な改革を求める声が高まっていった。

「現在の情勢について、社会主義をやっているのか、資本主義をやっているのか、憂慮している。経済分野の犯罪行為は、こんなに酷くなっている。この党は純粋さを失い、変質している。今やっているのは、マルクス主義でもなく、社会主義でもなくなった」(李鋭日記・1983年7月26日)

民衆の不満は、爆発する。きっかけは、鄧小平の下で、政治体制の改革に取り組んだ、胡耀邦元総書記の急死だった。学生たちは、改革を掲げながら、道半ばで倒れた胡耀邦を悲劇の人として追悼したのだ。

学生たちによるデモは、社会や党に対するうっせきした不満、閉塞感を打ち破ろうと熱気を帯びていった。デモは次第に、一般の人々を巻き込みながら、党への批判、民主化の要求へと発展していく。

そして、運命の日が訪れる。

人民解放軍が武力で鎮圧し、多くの死傷者を出した。学生らのデモを「反革命動乱」と断定した鄧小平による判断だった。

「一体、何のための党なのか。涙流れてやまず」(李鋭日記・1989年6月4日)

「中国数千年の歴史の中で、培われてきた封建制度や、農民意識からは、秦の始皇帝、毛沢東や鄧小平のような人物しか出てこない。ワシントンやリンカーンのような人物が出てくることはないのだ」(李鋭日記・1989年5月22日)

80年代、党内で政治体制改革に携わった、厳家其(げん・かき)。天安門事件後、当局から逃れるため亡命し、いまはアメリカで暮らす。

厳家其「鄧小平の時代は徐々に非毛化が進み、改革開放に向かいました。ところが、6月4日になってそれが完全に止まりました。この『六四』でもうひとつの変化が起こりました。中国で共産主義イデオロギーが完全に消滅したのです。中国の社会制度は共産党の専政下の資本主義です。鄧小平が共産主義の墓を掘った人と言っても過言ではありません」

<「1人の言うことがすべて」 鄧が選んだ道 社会主義市場経済>

中国に対して、国際社会の対応は厳しいものにはならなかった。巨大市場の潜在力に大きな期待をかけていたのだ。当初の経済制裁も、次第に解除されていった。

こうした西側諸国の姿勢を最大限利用したのは、88歳にしてなお、最高実力者の座にあった鄧小平だった。

鄧小平「早く経済を発展させよ。中国は何千年も貧乏だった。今こそチャンスだ」

「社会主義市場経済」。市場経済を推し進める一方で、中国共産党による一党体制は堅持しようというものだった。鄧小平は、毛沢東が大躍進運動を進めた時と同じ表現を使ったスローガンで、国民に呼びかけた。

南巡講話(1992年)より

鄧小平「改革開放は、肝っ玉をもっと大きくし、大胆に試みよ。纏足の女みたいではダメだ。これと見定めたら、大胆に実験し大胆に突き進め」

中国が外国資本に提供したのが、安価な労働力、そして、国有化していた土地だ。それを可能にしたのは、あの強権的な「土地改革」によって党が一括管理していたからだった。世界経済は、中国への依存度を深めていった。

李鋭の日記には、最晩年の鄧小平が、後継者に語っていた言葉が綴られていた。当初は、個人独裁を防ぐ改革を行おうとした鄧小平だが、その考えは変化していた。

「鄧小平は江沢民に対して、こう言った。『毛沢東が生きていた時は、毛沢東が全てを決めた。私が生きているうちは、私が決める。いつか君が決められる時が来たら、私はもう安心だ』」(李鋭日記・2001年5月11日)

<「政治改革いまだ実現せず」 理想求め続けた李鋭>

鄧小平が先べんをつけた「社会主義市場経済」は、驚異的な成長を実現し、中国は世界第2の経済大国となった。

人民は、経済発展にまい進し、豊かさを享受するようになった。政治体制の課題に目が向くことはなくなっていった。しかし、党の管理による市場経済は、幹部らの汚職をさらに深刻化させた。延安の理想を求め続けた李鋭は、この頃の日記に、こう綴っている。

「鄧小平は、経済の改革しか行わず、政治改革を同時に進めなかったため、天安門事件が起こった。いまだに改革を待つしかないが、皆が努力を怠ってはならない。様々な角度から意見して、人民を覚醒させ、歴史を明晰に見極め、大胆に前進しなければならない」(李鋭日記・1998年4月23日)

75歳で党の要職を退いてからも、党大会ごとに、政治改革を求める意見書を指導者たちにぶつけてきた。習近平の父親とじっこんだった李鋭。後の最高指導者と何度も食事をとる関係だった。

「習近平と朝食を取った。昔話や最近の情勢について、ざっくばらんに話す。すると、習近平は言った。『あなただけがものを言う勇気があり、言った後もご無事でおられる』」(李鋭日記・2002年12月4日)

<中国共産党 逃れられない皇帝支配>

創立以来、度重なる混乱と悲劇を繰り返しながら、一党支配を維持してきた中国共産党。いま最高指導者に君臨しているのが、習近平国家主席である。

「反腐敗運動」を徹底し、党幹部らを摘発、自らに権力を集中させた。インターネットが急速に発展する中、高度な監視技術を駆使し、党の基盤を強化、言論統制も厳格化した。

かつては、習近平と食事をする仲だった李鋭が顧問を務めていた雑誌も、事実上の廃刊に追い込まれた。

『炎黄春秋』元編集長・丁東「イデオロギーの面で、党の指導を強化し、メディアを党の代弁者とし世論をひとつにしようと考えたからでしょう」

そして、一つの大きな決定が下される。国家主席の任期が撤廃された。世界がパンデミックの対応に苦慮する中、中国は、新型コロナをいち早く封じ込めたことで、その統治手法に、さらに自信を深めている。

習近平国家主席「中国共産党と中国人民は、自らが選択した道で胸を張って突き進んで行き、中国の発展と進歩の運命をしっかりと自らの手の中につかむ」

かつて、党幹部の養成をする中央党校の教授を務めていた蔡霞(さい・か)。政治理論の専門家は、この統治手法を今後も維持していくことは、決して容易ではないと指摘する。

蔡霞「中国共産党は、すでに思想の袋小路に入っています。これまでの思想や理論の蓄積がすでに尽き、現代文明の思想の成果も吸収していません。これは、2000年以上続いた中国伝統の皇帝による統治です。中国共産党は、皇帝支配の文化なのです」

亡くなる2年前、李鋭は、中国の現状を嘆き、こう語っていた。

李鋭「中国は再び、以前の体制に戻ったといっていいでしょう。『毛沢東がいれば、毛沢東の言うことがすべて』『私がいれば、私が言うことがすべて』と鄧小平は言っていた。現在なら『核心(習近平)のいうことがすべて』、過去に戻ってしまったのです」

<李鋭が思い続けた“中国の夢”>

2019年2月、李鋭は、101歳で波乱の生涯を閉じた。北京で行われた葬儀は、一般市民には非公開とされた。最晩年まで政治改革を訴え続けた李鋭は、亡くなってなお、その影響力を警戒される存在だった。

死の間際まで、中国共産党に見果てぬ理想を託し続けていた李鋭は、よみの国で、どんな「中国の夢」を見ているのだろうか。

「偶然も必然も歴史の致すところで、恨みも後悔もない。革命に勤しむ。流刑と投獄。捲土重来(けんどちょうらい)。昔を思い出し、革命の理想を忘れることはない。独断専行を永遠に断ち、中国の大地に様々な花が咲き乱れることを願う」(李鋭日記より)