「戦禍の国のキックオフ 〜サッカーが映すウクライナのいま〜」

初回放送日: 2022年12月10日

ウクライナ西部のスタジアムを訪ねた。スタンドは無観客。空襲警報が鳴ると試合は中断。異例の状況下でサッカーが行われていた。代表チームで活躍してきたトップ選手たちは数奇な運命をたどっていた。本拠地を占領され各地を転々する選手。家族と連絡が取れず、不安の中でボールを追う選手。所属先のモスクワのクラブにとどまり、「裏切り者」と非難を浴びる選手。そして人々も、それぞれの思いを抱えながらサッカーを見つめていた

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(2022年12月10日の放送内容を基にしています)

世界を熱狂の渦に巻き込む、FIFAワールドカップ。

その陰で、戦時下のウクライナでも、サッカーが行われていた。ウクライナの国内リーグだ。

たび重なる空襲警報によって、プレーが中断されても。スタジアムが攻撃の対象になっても、試合は続けられる。

そこには、私たちの知らないサッカーがあった。

軍事侵攻が始まる前に撮影された、ウクライナ代表の写真。

かつてワールドカップを目指した選手たちも、戦争に翻弄されていた。

国外に、避難を余儀なくされた選手。同じように国を追われた人たちの、支えになろうとしていた。

「この戦争での私の使命は、サッカーで人々を笑顔にすること」

ふるさとを占領された選手。家族の安否が分からず、不安のなかでプレーしていた。

「サッカーに集中できない。いつも通りのプレーができない」

そして、ロシアのチームに所属していた選手は、ウクライナの人々から「裏切り者」と呼ばれていた。

「ウクライナに彼がサッカーをする場所はない」

サッカーを通して映し出される、ウクライナの現実。

選手たちと、それを見つめる人々を追った、3か月の記録だ。

<異例の状況下で行われるサッカーリーグ>

私たちが取材を始めたのは2022年9月。軍事侵攻から半年が経ち、国内のリーグが再開された直後のことだった。

試合は被害が比較的少ない、西部を中心に行われていた。ロシア軍の攻撃を警戒し、スタンドは無観客。危険物を探して巡回が行われるなど、厳重な警備態勢が敷かれていた。場内に入れるのは、地元メディアと運営スタッフだけだ。

前半が終了する直前。試合が中断された。

会場アナウンス「選手は避難所へ向かってください」

記者やスタッフも、シェルターに避難した。

取材班「今不安を感じますか?」

記者「空襲警報におびえていては、サッカーはできません」

試合は通常の倍以上の時間をかけて終わった。

選手の中に、話を聞きたい人がいた。タラス・ステパネンコ。強豪、シャフタール・ドネツクのキャプテンだ。

FCシャフタール・ドネツク/タラス・ステパネンコ選手「試合中に1時間半もシェルターにいたのは初めてです。それでもベストは尽くしました」

ステパネンコは12年に渡って、ウクライナ代表の一員としても活躍してきた。

しかし今、国外に避難を余儀なくされていた。

<タラス・ステパネンコ選手 サッカーで国民を励ましたい>

ステパネンコが所属するシャフタールは、今、隣国ポーランドに拠点を置いている。本拠地であるドネツクが、ロシアに占領されているからだ。

FCシャフタール・ドネツク スタッフ「国境の渋滞によりますが、移動には6、7時間はかかります。今はバスが、私たちの家のようです」

拠点を置くワルシャワに到着した。

シャフタールは国内リーグで13回の優勝を誇る。ヨーロッパのビッククラブとも肩を並べるチームだ。しかし侵攻後、主力である外国人選手のほとんどが退団していた。

ステパネンコら選手たちを突き動かしているのは、奪われたふるさと、ドネツクへの思いだ。

シャフタールが作られたのは、今から86年前の1936年。ウクライナがまだソビエト連邦のひとつだった頃だ。炭鉱で栄えた町、ドネツクの象徴として誕生した。

「シャフタールは、地域の誇り」。ホームスタジアムのドンバス・アリーナは、いつも大勢のファンで賑わった。

タラス・ステパネンコ選手「シャフタールは『炭鉱労働者』という意味です。彼らがチームをつくりました。大変な仕事でした。その精神を受け継がなければなりません」

しかし8年前、ドネツクの中心部を、親ロシア派勢力が占拠。 ドンバス・アリーナも破壊された。さらに今回の侵攻によって、戦闘は州全域に広がり、多くの住民も避難することになった。

タラス・ステパネンコ選手「住民にとって、シャフタールは今もふるさとのチームです。私の使命は、避難した人々を少しでも明るくすることです」

<“チーム”と“自分自身”を重ねる避難民>

ポーランドには今も、ウクライナから150万人以上が避難している。

避難所運営スタッフ「ワルシャワで最も大きな避難所の1つです。今も帰るところのない人たち1200人が避難しています。いつまでここにいられるか、みんな不安に思っています」

避難民の中にシャフタールの帽子を被った、男性がいた。

ドネツク州出身の、ヴォロディミール・ズブコフさん。身ひとつで避難するときも、この帽子だけは手放さなかったという。

取材班「シャフタールが好きですか?」

ヴォロディミール・ズブコフさん「もちろん。私自身が、シャフタール(炭鉱労働者)ですから」

取材班「何年前から応援していますか?」

ヴォロディミール・ズブコフさん「1961年からです。ドンバス・アリーナの104列の14番席が私の指定席でした」

脳卒中を患い、体は思うように動かないズブコフさん。唯一の楽しみが、インターネットのラジオを聞くことだ。

この日、ウクライナではシャフタールの試合が行われていた。

実況:シャフタールが来た!しかしパスがつながりません。芝生に滑って転びました。

ヴォロディミール・ズブコフさん「やっぱり、ドンバス・アリーナとは違いますね。ドンバス・アリーナなら、芝生はよく手入れされていました」

実況:ステパネンコ、ボールを奪った!シャフタールのゴール!

取材班「故郷を思い出しました?」

ヴォロディミール・ズブコフさん「ゴール裏にあった私の居場所が浮かびました。いちばん近くで見られる最高の場所でした。試合を見られなくても、聞くだけでうれしい」

ウクライナの人々にとって、サッカーは辛いときに支えとなる存在だった。

<ウクライナにとって 大切なサッカー>

国内リーグが作られたのは、ウクライナがソビエト連邦から独立した翌年の、1992年。社会が混乱し、厳しい生活を強いられた人々にとって、サッカーは最大の楽しみだった。2006年にはワールドカップに初出場し、ベスト8に進出。このとき多くの市民が、ようやく国際社会の一員になれたと実感したという。

ウクライナ/ゼレンスキー大統領「ウクライナ国旗が、サッカーリーグの開幕戦で掲げられます」(2022年8月23日)

こうしたサッカーの力を、ウクライナ政府も重視。戦時下でのリーグ再開を強く後押しした。政府の調整の下、軍もリーグに協力。他の競技に先駆けての再開だった。

<占領地に家族を残し葛藤する カラヴァエヴ選手>

私たちが取材を始めて2週間。ウクライナの人々に衝撃を与えるニュースが飛び込んできた。

ロシア/プーチン大統領「ルガンスク、ドネツク、ヘルソン、ザポロジエ4州の住民は、永久に我々の国民となる」(2022年9月30日の演説)

ロシアのプーチン大統領が、ウクライナの4つの州の併合を一方的に宣言したのだ。

その中の1つ、ヘルソンに家族が暮らす選手がいる。ステパネンコとともに、代表の中核を担ってきた、オレクサンドル・カラヴァエヴだ。カラヴァエヴは、リーグで最も古い歴史を持つ、「ディナモ・キーウ」に所属している。代表でも様々なポジションをこなし、献身的なプレーが高く評価されてきた。

積極的に外国メディアの取材にも対応。ふるさとの状況や、自らの思いを世界に発信してきた。

カラヴァエヴ選手「ヘルソンは占領され、家族は試合を見ることすらできません」

記者「前線で戦う兵士については?」

カラヴァエヴ選手「本当に頭が下がります。ウクライナを守ってくれて、感謝を伝えたいです・・・」

しかし今回、ヘルソンの家族について尋ねても、カラヴァエヴは胸の内を明かしてはくれなかった。

私たちは、国際試合に出場するチームに同行。地中海のキプロスを訪ねた。この頃、カラヴァエヴはプレーに精彩を欠いているように見えた。控えに回る試合が増えていた。

滞在先のホテルで、初めて家族の状況について話を聞くことができた。

取材班「ニュースは見ていますか?」

カラヴァエヴ選手「毎日チェックしています。1日6時間もニュースを見ていました。家族が無事か、遠征先でもずっと考えています」

いつも見返している家族旅行の時の写真。

実はこの1週間、両親の安否が分からない状況が、続いていると打ち明けてくれた。

カラヴァエヴ選手「いまは普通にサッカーができる状態ではありません。常に不安を抱え、その不安と向き合っています。心理カウンセラーに助けてもらいながら、サッカーをしています」

カラヴァエヴは胸に秘めた迷いを押し殺して、ピッチに立っていた。

<“ウルトラス” サッカーと戦争の深い結びつき>

国の強い後押しで再開されたサッカー。取材を進めると、戦争とサッカーとの意外な結びつきが見えてきた。

ディナモ・キーウのファンがあつまるというパブを訪ねた。試合がある日にも関わらず、人影はまばらだ。

パブの店主「試合がある時は、いつも200人がこの店に来ていました。でも今は誰もいません。“ウルトラス”は前線へ行きました。彼らが戦争から帰るのを待っています」

ウクライナで熱狂的なサポーターのことを指す“ウルトラス”。全国のチームそれぞれに、ウルトラスが存在する。彼らはいま、自ら志願して前線に赴いているというのだ。

きっかけとなったのは8年前、市民の抗議活動によって、ロシア寄りの政権が崩壊した「マイダン革命」だ。市民を弾圧した政権に対して、ウルトラスは最前線に立って、戦った。これを機に、各地のウルトラスが結束。ロシアとの戦いに対抗する大きな勢力となっていく。

ウルトラスを支援する団体によると、今も、およそ2000人が戦闘に参加しているという。

ウルトラスの支援財団スタッフ「軍事侵攻でウルトラスの活動の場は戦場に変わっていきました。彼らの前線での貢献はとても大きく、誰もが頼りにしています」

パブでは、前線のウルトラスを支援するため、物資の調達まで行っていた。

この日、南部の激戦地に向かうウルトラスに会うことができた。

ウルトラスの男性「南部のヘルソンに行きます。前線を押し上げ、悪いロシア軍を殺しています。前線には国を守るためのウルトラスのつながりがあります。ウルトラスはサッカーへの情熱だけでなく、国への思いを強く育ててきました」

一方で、ウルトラスの中には、戦闘で命を落とす者も少なくない。

<ウルトラスの夫を失った パルタラさん>

2022年3月、ウルトラスだった夫を亡くしたオレーナ・パルタラさん。東部の激戦地ハルキウから避難してきたパルタラさんは、ウルトラスを支援する団体の援助を受け、生活している。

地元の人気チーム、「メタリスト・ハルキウ」のウルトラスだった、夫のスタニスラヴさん。医療技師として働いていたが、前線に赴き、マリウポリでの戦闘で命を落とした。

オレーナ・パルタラさん「夫が戦死したと知らされたとき、大声で叫びました。『それは本当のことではない』、信じられない」

家にいるときの夫は、詩を書いたり、子どもの遊び相手にもなったりする優しい性格だった。

オレーナ・パルタラさん「今はできないけれど、息子のオレクシーはサッカーが大好きです。夫にとても似ています。外見も、性格も。夫は前線にいたので、子どもとあまり話せませんでしたが」

平和だった頃は、一緒にサッカーを見ていたというパルタラさん。今、サッカーについてどう思っているのか、尋ねてみた。

オレーナ・パルタラさん「サッカーがなければ、夫が前線に参加していたかはわかりません。仲間がいなければ・・・強いつながりがなければ・・・。ただ、夫にとってサッカーは、最も大切なものでした。私は受け入れました」

戦いが終わったら、夫との記憶が残るハルキウに帰りたいと、パルタラさんは考えている。

<サッカーに映し出される怒りの中で“裏切り者”となった選手>

2022年9月末。ウクライナ代表は、ヨーロッパの国際大会に出場していた。

国外に避難する多くのウクライナ人がかけつけた。人々は熱狂。声援が変化していく。

「ウクライナに栄光を!国民に栄光あれ!敵に死を!国民に栄光あれ!敵に死を!」

ついに、プーチン大統領を侮辱する言葉の大合唱になった。

サッカーに映し出される、人々の怒り。その矛先は、1人の選手にも向かっていた。

ウクライナ市民「彼は“敵の協力者”、あるいは“裏切り者”です」

ウクライナ市民「ウクライナに彼がサッカーをする場所はない」

非難の対象となっていたのは、イヴァン・オルデツ。かつて、ステパネンコやカラヴァエヴと共に、ウクライナ代表として活躍した人気選手だった。

3年前からモスクワのチームに在籍していたオルデツ。軍事侵攻を批判せず、ロシアに留まったことが、ウクライナの人々の怒りに火をつけた。さらに、パーティーに参加していた姿がSNSで拡散。炎上が加速した。

「裏切り者」という烙印を押されても、沈黙を続けたオルデツ。実は侵攻直後、母国への思いをSNSに「ウクライナに戦争はいらない」と投稿していた。

その本心はどこにあるのか。

オルデツはその後、ドイツのチームへ移籍していた。私たちは、オルデツに直接、取材を申し込んだ。しかし、口を開くことはなかった。

取材を進めると、オルデツと今も連絡を取り合う人物にたどり着いた。元ウクライナ代表の、アンドリーイ・ヴォローニン。オルデツと同じロシアのチームで、コーチを務めていたが、軍事侵攻の直後、チームを離れた。

アンドリーイ・ヴォローニンさん「ロシアのチームに残ることは、私にはできませんでした。故郷が攻撃されていることを許すことはできなかった」

しかしヴォローニンによると、オルデツには複雑な事情があった。ロシアのチームとの契約は再来年まで残っており、ロシアに戻らないといけない可能性がある。ロシアを批判したら、戻ったときに、身に危険が及ぶかもしれないというのだ。

アンドリーイ・ヴォローニンさん「オルデツは侵攻の後、ロシアのチームと距離を置きました。スタジアムや練習場に姿を見せることはありませんでした。それを言ったところで、いまさら誰も信じません」

居場所を失った、オルデツ。異国の地でひとりピッチに立ち続けていた。

取材を始めて、およそひと月が経った2022年10月10日。ロシアの攻撃がウクライナ全土を襲い、大きな被害を生んだ。ウクライナは再び、緊迫感に包まれた。

キーウ/クリチコ市長「いまは生き残る方法について、考えなければいけません。正直なところ、サッカーについて考える余裕はありません」

<「サッカーは平和だった日常とつながっている」 グリゴーリイさん>

それでも、サッカーは続けられた。

厳しい状況の今だからこそ、サッカーが必要だと語る人に出会った。グリゴーリイ・ニコライチェンコさん。偶然乗り合わせたタクシーの運転手だ。

グリゴーリイ・ニコライチェンコさん「ウクライナにとってサッカーは、“とても美しい鳥”です。ソ連代表の多くはウクライナ出身。それは大きな誇りでした」

南部の激戦地、ミコライウで小さな会社を経営していたグリゴーリイさん。家族で西部に避難している。

グリゴーリイさんには、30年にわたって応援してきたチームがあった。

グリゴーリイ・ニコライチェンコさん「家の近所にあったFCミコライウのスタジアムです。爆撃を受けました」

6月にスタジアムが攻撃を受け、活動休止に追い込まれていた。

応援していたチームは失った。けれど、ウクライナからサッカーは失われなかった。グリゴーリイさんは、サッカーだけが、戦争前の暮らしを思い出させてくれるという。

グリゴーリィさんの妻・マリーナさん「サッカーは戦争が始まる前の人生、平和な時の記憶とつながっているんです」

グリゴーリイ・ニコライチェンコさん「悲惨な戦争から日常を取り戻すために、今の私たちにはサッカーが必要です。サッカーがないと困るんです」

<ステパネンコ選手の葛藤 カラヴァエヴ選手の決意>

「サッカーは平和だった日常とつながっている」。その思いを託された選手たち。ふるさとを失った人々のために戦うと語っていた、ステパネンコ。葛藤を抱え続けていた。

ステパネンコが見返していたのは、兵士として前線で戦う友人からのメッセージ。

「今からヘルソンに向かいます。絶対に成果をあげてきます」

ステパネンコ選手「正直、かなり苦しいです。危険な場所で戦っている友人がいる。自分がサッカーをしている間にも、亡くなっている人もいる。それを思うと複雑な心境になります」

戦禍の中で、サッカーに何が出来るのか。

家族の身を案じ、迷いながらプレーしていたカラヴァエヴ。ひたすらボールを追うことで、答えを見つけようとしていた。

カラヴァエヴ選手「前線の兵士から言われました。『あなたのやるべきことをやってほしい』と。私にできることは、サッカーで、あきらめず戦う姿を示すことだけです。この国の現状は、本当に悲惨です。でも、私はプロのサッカー選手です。何があってもピッチに立ち続ける。これが私の仕事です」

「それぞれが自分に出来ることをする」。カラヴァエヴは前に進もうとしていた。

<多くを失ったマクシムくんにとってのサッカー>

2022年10月の終わり。一人でボールを蹴る少年に出会った。

祖母マリアさん「マクシムは今、暗闇の中にいます。すべてを失いました。父親の帰りを待ち望んでいます」

マリウポリから祖母のもとに避難してきた、マクシムくん15歳。男手一つで育ててくれた父親と、連絡が取れなくなっていた。

取材班「どれくらい連絡が取れていませんか?」

マクシムくん「もう5か月くらい」

4年前、地元・FCマリウポリの試合を見たときの写真。

国境警備に当たっていた父は、ロシアに拘束され捕虜となっていた。

マクシムくん「ちょうど昨日お父さんの夢を見ました。1週間後に、捕虜の交換が行われ、帰ってこられると夢で言ってくれました」

父のすすめで11歳の時に始めたサッカー。仕事から帰ってきた父は、毎日練習に付き合ってくれた。

取材班「あなたにとってサッカーとは?」

マクシムくん「人生のすべてです。生きることそのものです。サッカーがなければ耐えられません」

取材班「サッカーだけでは足りないのでは?」

マクシムくん「サッカーがあれば、何もいりません」

<今年最後のピッチ・3か月の取材で見えたもの>

2022年11月。ウクライナの国内リーグは、年内の最終節を迎えた。

この少し前。カラヴァエヴの家族が住むヘルソンが、ウクライナ軍によって奪還された。

カラヴァエヴ選手「両親と毎日連絡を取って、サポートできるようになりました。涙をこらえることができませんでした」

同じ頃。「裏切り者」と呼ばれたオルデツも、ドイツでことし最後の試合を迎えていた。

私たちは試合後、もう一度オルデツに声をかけた。

取材班「ウクライナの戦争が心配ですか?」

オルデツ選手「私は答えません。とても心配です。でも話せないのです」

ワールドカップの陰で続く、戦禍の国のサッカー。そこにあるのは歓喜だけではなかった。

それでも人々は、サッカーが呼び起こす日常の記憶を支えに、今を生き抜こうとしている。