■ダイジェスト動画
■まとめ記事
(2022年5月8日の放送内容を基にしています)
脳性まひの母親の介護。担うのは、高校生の息子です。料理、洗濯、着替えの介助・・・。1日5時間に及ぶことも。
ヤングケアラー。
家族の介護やケアを担う、18歳未満の子どもたち。中学2年生の17人に1人、小学6年生の15人に1人と言われています。多くが、周囲に『助け』を求めません。
さらに18歳を過ぎても、過酷な人生が。30年間、母親を介護し続けてきた男性(43歳)。進学、就職…。全て諦めました。
30年間 介護を続けた男性「生きる理由がなくなった。お母さんが亡くなって、僕も終わった」
なぜ、SOSを発しないのか?
私たちは、ヤングケアラーと、支援を担う自治体にアンケートを実施。子どもたちからは、悲痛な叫びが。
「家族の状況を周りに話すな、と言われていた」
「友達や知り合いに、『つらいねー』と同情されて終わりました」
いかに支援の手を差し伸べるか。
一緒に考えていくのは、大空幸星(おおぞら・こうき)さん。現役大学生でありながら、ヤングケアラーなど孤独に苦しむ若者からの相談に乗るNPOの代表です。
大空さんも複雑な家庭環境で育ち、過酷な生活を送る中、生きる意味を見失ったといいます。
ヤングケアラーの心の叫び。一緒に聞いてみませんか。
<『相談しても解決しない』 ヤングケアラーたちが直面する現実>
2020年の夏、高校1年生の健人くんと出会いました。
両親は幼いころに離婚し、障害のある母親、弟と3人で暮らしています。
夜8時半。学校を終えた後、ケアが始まります。
まずは、洗濯。並行して、他の家事も進めるためです。続いて、夕食の準備。
母親の弘子さん(当時44歳)は、脳性まひの障害の影響で手足を動かすのが年々難しくなり、家事のほとんどができません。
健人くんはいつも、できるだけ安く済むメニューを考えます。夜の買い物は週に3、4回。
母親に教えられ、食事を作るようになったのは小学5年生の頃。
健人くん「(母は)手先をやっぱり器用に使えなかったりすることもあるので、自分がやろうっていうのはあります」
この日と翌日の3食分をまとめて作りました。家事の手間を少しでも減らすためです。
さらに、小4の弟の世話。弟は、食事を待ちきれず寝てしまいました。
健人くん「口につかない?」
母・弘子さん「ティッシュ1枚ちょうだい」
口をふくティッシュを渡したり、飲み物にストローをさしたり、落ちたフォークを拾ったり。常に気を配ります。家事を終えたのは夜中の12時でした。
健人くん「1日が短く感じます。家事とかをやっていても、また次のやることがあるって考えちゃうんで、疲れちゃうんですけど。(こういう生活は)当たり前ですね」
取材4日目。健人くんの高校生らしい姿に出会いました。入学と同時に飛び込んだダンス部。家のことで忙しく、練習に参加できなかったため、送ってもらった動画が練習相手です。
健人くんは、家庭の状況を周りに詳しく伝えてきませんでした。小さい頃から、車いすの母親の姿をバカにされるなど、傷ついた経験があったからです。友達には「家の手伝いがあって予定が合わない」と説明する程度です。
健人くん「家事できる人はかっこいいよねって。バカにしてとかじゃないですけど、全然。周りの子は何もしなくても、お風呂とご飯ができてて、みたいな感じが普通なのかなって」
健人くんには、頼りにできる大人はいません。家には日中、家事のサービスが入る日はありますが、あくまで母親のための支援。健人くん自身の悩みを相談できるわけではありません。
健人くん「大人はそんなにいないです、そんなにっていうか、全くですね。別に相談して解決するわけじゃないから」
番組ではLINEで抽出したヤングケアラー当事者1000人にアンケートを行いました。
介護などについて「誰かに相談したことはあるか」聞いたところ、「相談したことはない」「あまり相談していない」と答えたのは72.9%。
理由は「相談しても意味がない」が最も多く28.7%。「他人に相談しづらい(28.0%)」「相談する必要がないと思った(25.3%)」も多くいました。
<就職も進学も諦める 元ヤングケアラーの過酷な人生>
孤立を深めるヤングケアラー。その後の人生にも大きな影響が。
カズヤさん(仮名)に初めて会ったのは2020年、41歳の時でした。カズヤさんは小学生の頃から、母親が亡くなった5年前まで、30年介護を続けてきました。食事は、パンや野菜ジュースをミキサーにかけたもの。介護のストレスから摂食障害となり、固形物を食べられません。母親のために作っていたミキサー食。今は自分用です。
カズヤさん「今はもう、生きているために食べている感じです」
思春期を介護に費やしたカズヤさん。進学も、就職も諦めざるを得ませんでした。
カズヤさん「普通だったら、会社に入ったり、サラリーマンとか、そういうのが普通かなと思ってたんですけど。でも一日を乗り切ることで精いっぱいで、自分のことは考えてなかったですね」
カズヤさんは、父親を早くに亡くし、祖母、病気がちな母親、2人の面倒を見ていました。
カズヤさん「お母さんとおばあちゃんと3人で暮らしてきたので・・・大切な時間ですね」
とりわけ大変になったのは、カズヤさん25歳の頃。母が大腿骨を骨折し、寝たきりになりました。精神的にも不安定になった母。医師やヘルパーの関わりを拒むようになったのです。
カズヤさん「ほとんど僕しか触らせてもらえなかったんで、トイレ介助とかも僕がやってたんですけど、大変でしたね。僕がいないとお母さんも困るという、そういう使命感みたいな物があったんですけど」
5年前、カズヤさん38歳のとき、母は亡くなりました。介護からは解放されましたが、カズヤさんは家の外に出ようとはしませんでした。
カズヤさん「ずっと2人で助け合って生きてきたので、僕だけ1人残ってしまって、生きていることが、卑怯なことみたいな感じがして・・・。自殺するのが正しいことなんじゃないかって、だいぶ悩んでいた時期があって」
今も、『自分の存在意義』を見つけられずにいるカズヤさん。母親の傍らで読んでいた本を、毎日のように読み返しています。
カズヤさん「主人公が山でずっとひきこもりみたいになるんですけど」
進学、就職・・・。諦めた自らの人生に重ね合わせていました。
カズヤさん「失われた青春という所なんですけど、大学生活とか、飲みに行ったりだとか、就職したり結婚したりだとか、そういうことが、もしかしたらあったかもしれないと思って。でも現実は涙する場面なんですけど、自分と重なるような所が、ちょっとあって、1番好きなシーンですかね」
番組が当事者に行ったアンケートでは、ヤングケアラーの経験が「進学の壁となった」と答えたのは36.2%。「就職」や「結婚」に影響があったと答えた人も少なくありませんでした。
NPO法人「あなたのいばしょ」代表・大空幸星さん「カズヤさんは、家族のケアをしながらすごした時間を『大変だったけれども大切な時間ですね』と話しています。まわりからみると、悲惨で支援が必要な状況だったとしても、当事者にとっては『人生の全てだ』という場合もあります。国は2022年度から、行政と支援団体をつなぐコーディネーターを配置するなどのモデル事業を始め、ヤングケアラーを3年間かけて集中的に支援することにしています。しかし、番組が全国の自治体に行ったアンケートでは、『専用の相談窓口さえ決まっていない』という回答が6割に。さらに、ヤングケアラーの問題ならではの思わぬ壁があることもわかってきました」
<”家族による支援拒否” 全国初の相談窓口が直面>
2021年、全国で初めてヤングケアラー専門の相談窓口を立ち上げた神戸市。
「介護保険課」や「教育委員会」など8つの部署が、組織の壁を越えて窓口を一本化。さらに「学校」や「病院」、「民生委員」などにもネットワークを広げ、1人1人に寄り添って支援します。
担当課長「ヤングケアラーという視点がたりなかったというか、ケアラーの存在というものを理解できていなかった」
昨年度、支援が必要だと判断したケースは62件。そのうち、直接本人や家族とつながることができたのは、3分の1。大きな壁は「家族による支援拒否」でした。
相談員「(子どもは)一人っ子ですし、家の中でお母さんたぶん大変な状況なので、本来だったら介入が必要な家なんですけど、拒否されているような状況です」
母親には下半身にまひがありますが、介護サービスを使っていません。子どもに過度な負担がかかっている恐れがありました。
相談員「ケアマネージャーも入りたくても入れない状況。家の周りに支援者らしき車が止まることにも、非常な抵抗感を持っているので」
番組のアンケートで、全国155の自治体に「支援の難しさ」を聞いたところ、「本人が支援を拒む、求めてこない」が76.1%。さらに「家族が支援を拒む」が77.4%と最も多くなりました。
<“支援拒む” 母親の切実な思い>
高校生の健人くんの家でも、母の弘子さんが支援を拒んでいた時期がありました。
もともと手足の症状は軽く、中学生の頃には自転車にも乗れた弘子さん。「身の回りのことは自分でできる」と感じていました。20代半ばから身体に痛みが出始め、抱っこが難しくなるなど育児に影響が出始めましたが、助けは求めませんでした。行政に「子育てはできない」と判断されるのを恐れたからです。
母・弘子さん「もう全部が必死だから、自分が今つらいって言っちゃったら、子どもたち児相(児童相談所)に持って行かれるんじゃないかとか、そればっかり心配してた」
でも、次第にしびれも増し、母としてできることは減っていきました。健人くんの3歳年上の兄、大樹さんは10年以上ケアを続け、今は仕事で家を離れていますが、最も苦しい時期を間近で見ていました。
大樹さん「お母さんは、とにかく一番しんどかったんじゃないですかね。家に引きこもる時間も増えて、意欲も低下していって。必死こいて、お母さんをしてたんだなって、いま思いますね」
その後、弘子さんはやむなく週4回、家事のサービスを受け入れました。支援の担当者と決めたことですが、複雑な思いを抱えています。
「子どもたちの負担は減ったけど、母親としての自分の役割は、どんどん小さくなってしまう」。
母・弘子さん「私はいろいろなところから(支援を)受けているけれど、なんかね、こんなんじゃないんだけどな」
この春、高校3年生になって卒業後のことも考え始めた健人くん。この先、母はどう暮らしていくのか、心配は尽きません。
健人くん「自分のやりたいことをやってほしいです。トイレの時以外、動かない時がけっこうあるので、やっぱそれだと将来不安になっちゃうんで。自分のためにリハビリとかをしてみてほしいなと思います」
NPO法人「あなたのいばしょ」代表・大空幸星さん「支援が増えれば楽にはなるけれども、親としての存在意義を失ってしまうというジレンマを抱えている人もいます。ヤングケアラーの問題は、子どもだけでなく、親などの状況や気持ちも含めて、家族全体を支えていかなければならないと痛感します。SOSを出さない子ども、そして家族をどう支援するのか。私が話を聞きたいと思ったのは、奥田知志(おくだ・ともし)さん。生活に苦しむ子どもや親と長年向き合ってきた大先輩です」
大空さん「ヤングケアラー自身がSOSを出しにくい背景の1個には、『悩みというのは、自分1人で対処しなければいけないんじゃないか』というような、かなり懲罰的な自己責任論みたいなのが、蔓延してしまっている現状もあると思うんですね」
奥田さん「特にヤングケアラーの場合は、子どもたち自身の問題と、実は、ケアされている親も孤立しているわけですよね。そして世間は身内の問題にタッチしない。でもね、今、世の中にある自己責任は、周りが助けないための理屈ですよ。『それ、あなたのせいでしょう、あなた、頑張らなかったからでしょう』でも本音は『手伝いたくありません、関わりたくありません』」
奥田さん「『助けてっていう言葉のインフレ』をどう起こすか。こんにちは、さよならの代わりにね、『助けて』、『また今度なみたいな』、そんな社会つくったほうが早いと思う。自立して生きていくためには、やっぱり依存先、どう増やすかっていうことが、絶対的な条件であって、『助けて』っていう言葉はね、みっともないとか、情けないとか、恥ずかしいとか、みんな言うけども、そんなことない、僕から見たら最も人間らしい言葉ですよ」
<”家族全体”を救うカギ 『役割』と『つながり』>
山梨県にある支援団体では、ヤングケアラーの家族全体を支えようとしています。
立ち上げに関わった加藤香さんが気にかけているのが、高校3年生、娘のみどりさん(仮名・18歳)と母親の香織さん(42歳)です。かつて摂食障害など、心の病に苦しんでいた香織さんを、みどりさんが10年以上ケアをしてきました。
みどりさん「昔はこんなだったら産まないでほしかった。今もたまに昔のフラッシュバックとかして、その気持ちに葛藤するときもあるけど」
みどりさんは、親のケアだけでなく、弟や妹の面倒まで見てきましたが、自分の時間が持てず、苦しさを我慢するしかなかったといいます。
みどりさん「母のことを起こして、弟と妹の服を(着させるのを)手伝ってあげたりとか。全部自分で抱えこんで、結構苦しかったですね。母には『ありがとう』って言ってほしかった。受け入れてほしかった、やっぱり」
一方、母親の香織さんも、3人の子育てがうまくいかない気持ちを誰にも言えず、塞ぎ込んでいました。
母・香織さん「『母親なんだからあなたがやらなくて誰がやるのよ』『努力していないからだ』みたいな。誰にも『助けて』って言うのをやめよう」
支援団体の加藤さん。まずはできることから始めてみようと、香織さんに提案したのは、弁当作りでした。誰かのためにメニューを考えたり、お弁当を直接販売したり。自分ならではの役割を見つけてほしいと考えたのです。
香織さんが特にお弁当を届けたいのは、子育てで忙しい母親たち。娘に向き合う余裕がなかった経験から、負担を少しでも軽くしたいと、自ら考えました。
そして、加藤さんたちがとりわけ大切にしているのは、同じような悩みを持つ人同士、本音をぶつけあうことです。
みどりさんと香織さん親子が一緒に参加していました。
元ヤングケアラーの女性「みんなそれぞれ一生懸命生きてただけじゃんね」
支援団体・加藤さん「不器用なりの、かおちゃん(香織さん)の愛情を私はわかってるし」
母・香織さん「わかってくれる人がいるんだなって。ここから先はとにかく(娘の)邪魔はしたくない。『やりたい』って言ったことを、それは応援するって」
黙って聞いていたみどりさん。
みどりさん「そうは言っても、頑張ってくれてたんだなっていう。それを生かして、将来につなげられるようにしたらいいなと思って」
母・香織さん「気がついてみたら仲間がいて、つながりができて、自分が元気になっていた。今はしんどくても、きっと誰かとつながったりとか、動くとやっぱり状況も変わるし、自分自身の考え方とかで価値観が変わってくる」
支援団体・加藤香さん「痛みを取ってあげることはできない。お母さんがほら『痛くない』って背中さすってあげる。あれと一緒だと思うんですよね」
<カズヤさん “つながり”からの再出発>
30年の介護を終え、生きる意味を見失っていたカズヤさん。今年、大きな変化が。
ヤングケアラー経験者などが集まるNPO「ふうせんの会」に誘われていました。
元ヤングケアラーの女性「小学校4年生から24年間、母の介護をしてきたんですけど、ずっと2人で1つだったのが、もう本当に自分の丸ごと半身がなくなったような気持ちで」
自分と似た経験をした人とのつながりが、少しずつ広がっていたカズヤさん。ひとりで抱えてきたつらさを初めて語りました。
カズヤさん「自分も体調が悪く体重が60キロから35キロになり、胃潰瘍、摂食障害と診断されました。経済的にも苦しく、母が寝たきりになって、医療費の負担が大きく、どうにもならなくなりました」
元ヤングケアラーの女性「自分の経験がオーバーラップして、気持ちがすごくわかるんですよ」
そしてカズヤさんは、運営スタッフとして関わりたいと、自ら名乗り出ました。
カズヤさん「スタッフといっても、あまり何もしてないんですけどね。椅子を動かすくらいで。これも扉を開くというか、なんか第一歩みたいな」
実は、カズヤさんに人とのつながりのきっかけを作ったのは、近所に暮らす上村さん夫婦です。母親が亡くなり、体調を崩したカズヤさんを見るに見かねて、病院につれて行きました。そこでの出会いが縁となり、カズヤさんは「ふうせんの会」に誘われたのです。
上村浩子さん「彼の人生を知った時にね、あぜんとしてしまって。彼に寄り添える人って、他にいるかなって思った時に、放っておけないなと心から思ったんですよ」
2022年3月。うれしい話が舞い込みます。会の活動を知った人が、東京に招いてくれました。子どもの頃、修学旅行さえ行けなかったカズヤさん、初めての旅行です。
出発前日、旅行かばんにミキサーを入れていたカズヤさん。
カズヤさん「(ミキサーは)必需品っていうか、晩ご飯のときとか、どうしても(流動食しか)食べられないので。取り返すではないんですけど、より強い思いはありますね。経験ですかね、記憶っていうか」
いよいよ当日。
見える風景すべてが初めてです。
会の仲間「富士山、見えるよ」
カズヤさん「一応、撮っておこう」
この旅で、カズヤさんが最も行きたかったのが東京タワーです。
カズヤさん「子どもの時に味わいたくても味わえなかった。ほんまに修学旅行みたいやなと」
カズヤさん「生きているんだなって。今までは自分の家の中だけの世界しかなかったので。この下にも人々の暮らしがあると思って。当たり前なんですけど、なんかすごいなと」
夜11時すぎ。仲間が部屋に誘ってくれました。
「今日は一日お疲れ様でした!」「カンパーイ!あ~幸せですね」
カズヤさん「新幹線の時から初づくしで・・・ほんと来られて良かった」
カズヤさん「こんな時に聞くのもあれなんですけど、(家族を)ケアしてた時の気持ちっていうか、どう消化できてるかなぁと思って」
仲間「自分のことをいうと、そんなにまだ消化はしきれてない。自分の中でどういうふうに変えていけるかなっていうのは、今まだ探してます」
そして、仲間から。
仲間「優しく受け入れてくれる、カズヤさんの包容力っていうのを、すごい感じてて」
カズヤさん「ちょっとうれしくて泣きそうです」
旅の終わり。カズヤさんは、小学生だった頃の自分を思い出していました。
「僕の6年間は低学年ではあまり思い出がなく、高学年はとにかくしんどかったです。これは並のつらさでなく、一日一日が長く、それまでなんとも思わなかったのに『あれ、こんなはずと違う。こんなんなんかのまちがいやで』と自分にもお母さんにも言っていました。でも、やっぱり、それは本当でした。できれば今年の運動会には出たかったなあと思いました。そして修学旅行。これはもっともっと行きたかったです」(カズヤさんの小学校の卒業文集より)
今は、違って感じられるようになりました。
カズヤさん「今までの時間が無駄じゃなかったと思って、ちょっと自分を認めてあげたいなって思いました。少しですけどでも、よく頑張ってきたかなって。はい」
<ヤングケアラーを救う 私たちにもできる”つながり”>
奥田さん「カズヤさんが東京に行った場面で、上から見てね、『たくさんの人がいる、それぞれの暮らしがある』ということを彼がおっしゃった時に、今までも自分の苦労っていうことにずっと生きてきた人が、いろんな人との関わりの中で、社会化されていっているというか、自分の経験も含めて、再意味づけが始まりだしている」
大空さん「香織さん、母親もそうだし、娘さんもそう。両方に対して、そのつながりを提供していたわけですよね」
奥田さん「こっちの『助けて』とこっちの『助けて』をうまいことつないであげると出番ができるっていう、あの場面は、すごくいい働きされてるなと。何よりもお母さんに出番を作ったっていう。人間って、やっぱ居場所と出番が必要なんですよね」
大空さん「お母さん自身がまさにそういう出番、役割を持って、前に進んで行くと同時に、ヤングケアラーの当事者自身も、例えば自分と向き合う時間が少し増えたりとか、ちょっと自分の好きなことをやる時間が増えたりとか」
奥田さん「本当、そこが大事だと思います」
大空さん「専門家だけではなくて、ごくごく身近にいる一人一人が、ヤングケアラーの話を聞ける存在、つながりとなりえる存在になるためには、何をすればいいと思いますか?」
奥田さん「一番大事なのは、解決してやろうと思わないことですね」
大空さん「そうですね」
奥田さん「『俺がなんとかしてやる』っていうのは、特に傷ついた人達は、ものすごく敏感にわかっちゃいますから。『見てるで』っていう、言葉に出さなくても、『お前のことちゃんと見てるで』って。だから、あんまり詰めない、妙な解決を求めるプレッシャーかけないという、とにもかくにも、つながるっていうことがやっぱり一番、私は大事だと思いますね」
番組のアンケートには、『声をかけられてうれしかったことや、助けになったこと』がたくさん寄せられました。
「わかるーと軽く共感」「ラーメンおごってやるよ」「何も言わずに話を聞いてくれた」
NPO法人「あなたのいばしょ」代表・大空幸星さん「ヤングケアラーの心の叫び。皆さんはどうお聞きになりましたか。心の声に耳を傾けつつ、身近な存在である私たち一人ひとりが、ヤングケアラーやその家族とたわいもない会話をする。『最近どうしたの』と声をかけていく、ということも、ヤングケアラー、そしてその家族の居場所を作る上では、重要となるかもしれません」
この春、健人くんは同級生と専門学校のオープンキャンパスへ。
将来の夢は、慣れ親しんだ料理の道。
母のケアも、自分の夢も両立できないか、新たなつながりの中へ歩み始めている。
健人くん「早く仕事に立ちたいという気持ちがあって。社会に出たい」
初めて、東京の旅を経験したカズヤさん。今はスーパーで週4日アルバイト。
少しずつ社会の一員となった手応えを感じている。
カズヤさん「自分が勝手に諦めていただけで、やってみれば意外とできるんじゃないかなと思って。ちょっと明日のことを考えることが楽しみになった」