「キーウの夏 戦争の中の“平和”」

初回放送日: 2022年9月10日

戦争が始まって以来、キーウの人々を撮り続けているディレクター、ゴシャ・ヴァシルークさんの映像で、世界の誰も知らないキーウの今を伝える。路上のカフェでは市民が語らい、ビーチは日光浴を楽しむ人であふれる。しかし平和のベールをめくると戦争が現れる。度々の空襲警報で、人々は不眠症に苦しむ。東部では多くの人が死んでいるのに、キーウでは平和を享受する罪悪感が広がる。一枚岩だった国民の団結にも亀裂が走っている。

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(2022年9月10日の放送内容を基にしています)

「あなたは、私たちの街・キーウのことを、どれだけ知っているだろうか」

ウクライナで、ドキュメンタリーのディレクターとして活躍するゴシャ・ヴァシルークさんは、国内外の映像コンクールで多くの受賞歴を持つ。2月に戦争が始まってから、仲間のウクライナ人と撮影チームを組んで、キーウの人々を撮り続けてきた。ゴシャさんの映像には、戦争を戦っている国の首都とは思えない光景が記録されている。レストランやカフェは営業を再開し、多くの人でにぎわっている。ドニプロ川沿いに広がるビーチでは、短い夏を逃すまいと、たくさんの人たちが日光浴を楽しんでいる。

2月24日、ロシアから真っ先に攻撃を受けたのは、首都キーウだった。人々は外国や国内の西部に避難し、350万いた人口は半分に減った。戦場が東部や南部に移った今、人々が避難先から戻っている。人口は240万まで回復した。しかし今も、人々の生活は死と隣り合わせにあり、戦争の終わりは見えない。戦争という非日常が日常となる中で、一枚岩に見えた国民の団結にも亀裂が走っている。ゴシャさんの映像は、キーウを覆うひとつの現象を記録していた。「ギルティシンドローム」。東部では激しい戦闘で毎日多くの人が死んでいるのに、キーウは平和を享受していていいのか。市民全体が、多かれ少なかれ罪悪感を抱いている。

ディレクター ゴシャ・ヴァシルークさん「現在のキーウは一見、日常の暮らしが行われているように見えます。しかしそれは、まるで恐ろしい戦争の現実を隠すカモフラージュのようです。世界中の人たちに、そのことを知ってほしいのです」

これは、戦争の中の平和の街・キーウのこの3か月間の記録。ゴシャさんの映像から、世界の誰も知らないキーウの今を伝える。戦場だけが、戦争ではない。

2022年8月。

「こんにちは。これからウクライナの首都・キーウを紹介したいと思います。キーウはとても美しく、激動の歴史を刻んだ街です。今、私がいるのはキーウの中心地『独立広場』です」

私は、ゴシャ・ヴァシルーク。この広場は、ついこの間まで銃声が鳴り響き、バリケードで封鎖されていた。今はご覧のとおり。楽しげな声が聞こえるようになった。

広場の地下にある商店街も、続々と営業を再開している。今いちばんの売れ筋は、このプーチンのトイレットペーパーらしい。

ウクライナを貫くドニプロ川では、幸せそうな新婚カップルが記念撮影をしていた。国内で結婚するカップルは、戦前に比べ8倍にも急増している。夫婦となって、戦争に立ち向かおうというのだろう。

いやおうなく、私たちが戦争を戦っていることを突きつける場所がある。

「この広場には、平和なころは巨大なクリスマスツリーが置かれていました。でも今は、撃退したロシアの戦車が展示されています。子どもたちがはしゃいで遊んでいるのを見ると、なんとも複雑な気持ちになります。この映像はキーウで私たちがどう感じ、どう考えて生きているのか、その記録なんだ」

戦争が始まって半年になる。いつまでもおびえるばかりでは、人生は台なしになる。街が動き出している。

5月。150年の歴史を持つウクライナ国立歌劇場も再開していた。キーウは、オペラとバレエの街。現在は週末3日間だけの公演だが、チケットはソールドアウトが続いている。

場内アナウンス「観客の皆さま。戒厳令の中での開催のため、空襲警報が鳴った場合、演目は中断されます。すぐに地下のシェルターに避難してください」

ここは、旧ソ連時代に作られた地下シェルター(上写真)。450人を収容できる。

劇場スタッフ「トイレは2か所あり、快適です。出口もいくつかあるので、万が一でも安心です」

公演再開にあたって、劇場は観客の数を3分の1にまで絞っている。それ以上だと、空襲があったとき観客をシェルターに収容しきれなくなるからだ。

観客「戦争が始まって3回も見に来ています。前に来たときは公演中に空襲警報が鳴って、地下シェルターに2時間、閉じ込められました。でもその後また再開して、最後まで楽しんだわ」

このバレエ団の最大のスターが、プリマバレリーナのアナスタシア・シェフチェンコだ。ウクライナ最高の栄誉と言われる名誉芸術家にも選ばれた、世界で活躍するバレリーナだ。

プリマバレリーナ アナスタシア・シェフチェンコさん「もちろん空襲警報があると毎回不安に襲われます。夜になって窓から外の景色を見るときも怖いです。でも、文化と芸術の中心であるこの劇場を、これからも守っていきたいです。少なくとも人々が芸術に触れている1~2時間の間だけは、ウクライナに戦争があるという事実を忘れることができますから」

戦争が始まり、180名いる団員は各地にちりぢりになったが、今は戻ってきた45名で、なんとか公演を続けている。アナスタシアも、知人のいるスウェーデンやエストニアを転々としながら、3か月間避難していた。その間に、悲しい出来事があった。キーウに残っていた父親が病死したのだ。父の最期に、外国に逃れていて何もできなかった自分を、アナスタシアは責め続けていた。

アナスタシアさん「私は両親のことをとても心配していました。父は『おまえはまだ若いから、自分の人生を生きなさい』と送り出してくれました。つらいです。私が避難している間に亡くなったのですから。避難したことは正しかったのか、今でも分かりません。あのときの決断で、私の人生は止まってしまったかのようです」

誰もが戦争と無縁ではいられない。今でも空襲警報は1日に何度も鳴る。キーウにミサイルが飛んでくるという知らせだ。

アメリカ軍から提供された迎撃システムのおかげで、幸いここ2か月、キーウには被害はない。しかしひとつ間違えば、誰にも突然の死が訪れる。私の部屋に撮影スタッフが泊まっていたこの夜も、警報が鳴った。そんなときは、玄関の前で寝ることにしている。すぐに外に飛び出せるし、寝室の窓が破壊されるとガラスの破片を浴びてしまう。

「一晩に3回も空襲警報が鳴ります。ほとんど眠れないし、朝になっても、けん怠感で働く気にすらなれません」

私の家族について語りたい。

5年前に結婚した妻のマヤは、テレビ局の記者をしていた。結婚後はふたりで制作会社を作り、ドキュメンタリーを撮ってきた。マヤは、私の仕事上の大切な仲間でもあった。

2月にキーウへの爆撃が始まり、ふたりで避難しようと考えたが、成人男性である私は国を出ることが許されなかった。ひとりマヤだけを、ニューヨークへ逃がすことにした。そこには多くの友人がいたからだ。バラバラの生活が、もう半年続いている。

キーウとニューヨークの時差は、7時間。マヤが目覚める時間と私が眠る時間、1日に二度のテレビ電話がすっかり日課となった。

ゴシャさん「こっちにいる人たち、僕も含めて、今の生活に慣れ始めている。君はアメリカ、僕はウクライナ。そんな環境にも慣れてきてしまっている。まったく会えていないのに、それに慣れてしまっていくことが怖いんだ」

マヤさん「私もつらい。ブルックリンの橋に行くと、ふたりでニューヨークを旅行したときに、この橋をよく渡ったことを思い出すの。私はいつも無意識にあの橋に行ってしまうの。そのときだけは、心が安らぐから。あなたを見ると泣きたくなっちゃう」

ウクライナでは、60才以下の成人男性の出国は禁じられている。しかし、全ての男性が軍隊に入っているわけではない。まだ強制的な徴兵制ではなく、志願制だからだ。入隊しているのは、成人男性の3パーセントに過ぎない。

これは、当局の、市民に入隊を促すリクルート活動である。公園、ライブハウスなど、若者が集まる場所で無作為に徴兵カードが渡される。受け取った者は出頭し、入隊するかどうか決めなければならない。しかし、拒否するのは覚悟がいる。拒否すれば、裏切り者のらく印が押されかねない。

キーウの若者の多くが、いつ戦争に駆り出されるか分からない不安を抱えている。プロのトランペッター、ミハイロもそのひとりだ。キーウ郊外の家はロシア軍に攻撃され、何度も命の危険を感じてきた。

ミハイロ・バレンシコさん「窓に大きな穴があるだろう。銃で撃たれて、ガラスを2枚突き破ったんだ」

ロシアは憎い。しかし戦争には行きたくない。でもそんな気持ちを今おおっぴらにできない空気が、キーウにはある。ミハイロが、勇気を出して語ってくれた。

ミハイロさん「僕は、自分が戦争で戦える人間だとは思っていません。武器を持つ姿なんて、想像すらできません。もし徴兵されても、車の運転くらいしかできませんよ。運転免許は持っていないけどね」

私はまだ徴兵カードは受け取っていない。しかし、受け取ったらどうするか。いつも自問自答している。私は戦争が始まってから、従軍ジャーナリストに志願して戦場取材を続けてきた。これだけ多くの悲劇を目の当たりにしながら、自分自身は戦わずにいていいのだろうか。ただ記録するだけでいいのか。ずっと、後ろめたさがある。

ゴシャさん「僕が兵士に向いていないことは分かっているけれど、男としての義務を果たしていないと感じているんだ」

マヤさん「あなたはその義務を違う形で果たしている。あなたは撮影することで貢献しているよ」

ゴシャさん「分かっているよ。しかし、国のために命を犠牲にすることと撮影とは比べものにはならないよ」

この感情は私だけではない。今キーウでは、戦闘に参加していない人たちが、強い罪悪感に苦しむ「ギルティシンドローム」という現象が広がっている。

精神科医 イリャ・ポルドニーさん「ウクライナ人はミツバチにたとえられるほど、一体感があります。ミツバチは巣が誰かに占領されそうになったとき、みんなで一緒に戦います。だから今、自分たちの巣を守るために十分に戦っていないと罪悪感を抱いてしまうのです」

中でも最も深刻なギルティシンドロームに苦しむ人たちがいる。海外に避難している人たちだ。ニューヨークには、ウクライナ系の人たち13万人が暮らす世界最大のコミュニティ「リトルオデッサ」がある。戦争が始まると、親戚や友人を頼り、数千人のウクライナ人がニューヨークに避難した。妻のマヤも、そうしたひとりだ。

5月。ニューヨークに暮らす娘を頼り、海を渡ったオルガとイワンの夫婦。この夫婦を、ニューヨークにいる妻・マヤが取材していた。マヤは、自分と同じようにウクライナから逃れてきたこの夫婦が、どんな生活を送っているのか知りたいと考えていた。

私がマヤから聞いた話を、ここから語ろう。ふたりは、安住の地であるはずのニューヨークで苦しんでいた。特に、オルガのギルティシンドロームが深刻だった。24時間、テレビやスマホから飛び込んでくる祖国の戦争。見ないようにしようとしても、目がくぎづけになる。娘のアナとも、衝突を繰り返していた。

オルガさん「この動画を今見せるわ。ロシア兵を捕虜にしている映像よ」

アナさん「ママ、私は見られないわ」

オルガさん「私たちの街が攻撃されている写真を見せたいの。アナ、これは大事なことなのよ。私たちに起こった現実なのよ」

夫婦が住んでいたのは、キーウから300km離れた小さな村。たびたび爆撃を受けていた。娘の悲痛な呼びかけに応じて、アメリカに渡ることを決めた。夫のイワンは54才。本来なら出国が許されない年齢である。しかし心臓に持病を抱えているため、兵役を免除された。それが近所の人との亀裂を生んだ。村を離れるとき、別れを惜しんでくれると思っていた人から「戦争から逃げた裏切り者」という言葉を浴びせられた。

オルガさん「地元に残った多くの人たちは、私たちを裏切り者か逃亡者だと思っています。私たちが国を去ったからです。みんな夫が心臓に病気があることは知っているはずなのに。そんなこと、なかったようにされて。また涙がとまらなくなってきたわ」

アメリカに渡って1か月になる。いつまでニューヨークにいるか、何も決めていない。娘からは、「戦争が終わるまでは、絶対に帰らないで」と言われている。

オルガさん「いつもウクライナのことを考えています。戦っている男たち、兵士のことを。私も何かできることはないかと思っているけれど・・・」

ふたりを取材したマヤは、まるで自分の苦しみを見ているようだったという。戦争から遠く離れれば離れるほど、生活が平穏であればあるほど、罪悪感に苦しめられる。キーウに残り爆撃の恐怖におびえるほうが、まだましなのかもしれない。取材を終えたマヤはそう語っていた。

そして、そのマヤにも異変が起こっていた。マヤもギルティシンドロームに襲われ、食事をほとんどとれなくなり、不眠とうつの症状が深刻になっていた。マヤは、もうウクライナに戻りたいという。しかし、ニューヨークに渡るとき難民申請をしているため、認定されるまでアメリカから離れることができない。精神科医によるカウンセリングを受けるようになったが、症状は改善していない。

マヤさん「私はおかしくなりそうです。少しでも快適な気分になったり、幸福感を抱いたりすると、私の脳が潜在意識レベルで、やめろやめろと言ってくるのです。これはギルティシンドロームの症状なのでしょうか」

精神科医「今起きていることは、絶対にあなたのせいではありません。それなのに、あなたは自分の責任なのではと罪悪感を抱いてしまっています」

マヤさん「でも何の役にも立てていません。死にたくなります」

マヤの孤独を考えると、たまらなくなる。こんな苦しみを抱えるウクライナ人が、世界中にいるのだ。

マヤさん「私にはウクライナのためにできることがあるのに、やっていないのではないかと罪悪感にさいなまれます。誰かが私の平安な気持ちを奪い、それは二度と取り返せない気がしています」

ゴシャさん「いちばん大切な人が体調を崩し精神的に追いつめられているときに、テレビ電話しかできないのは本当につらいです。電話で『ハーイ、心配しないで。元気出しなよ』と言ったって、まったく無意味だって分かっているんだ。だからこそ、私はこのドキュメンタリーを撮り続けようと思っています。なぜなら今は希望や明るい出来事を探すことが、最も重要だと思っているから。この国に残っているポジティブなものを、私は全力で見つけ出そうと思っているんです」

6月になって、キーウの人口は、戦前の7割近くまで戻ってきていた。大統領は、まだ国外に避難している人たちに向けて、帰国を促す呼びかけを盛んに行っていた。大統領からの呼びかけに応じるように、続々と避難していた人たちが戻っていた。

この女性は、スウェーデンに5か月間避難していた。

「複雑な気持ちです。とにかく涙だけが出てきます」

駅から出た彼女の表情は、解放感にあふれていた。

「ようやく自由を感じます。戦争のない外国にいるより、戦争があってもウクライナにいるほうがずっと楽だわ。ずっとリラックスできる」

ニューヨークの娘の元に避難しているオルガとイワンは、とうとう心を決めた。ウクライナへ戻るのだ。きっかけは、車でアメリカの畑の風景を見ていたときのことだった。

イワンさん「ここの畑は日当たりがいいな」

オルガさん「でも見て、畑が全然耕されていないわ。まるで土じゃなくて石みたい」

丹精込めて耕した自分の畑が、たまらなく懐かしくなった。

ふたりは娘のアナに、帰国の決心を伝えた。

オルガさん「私たちは自分の家に帰るつもりよ」

アナさん「ダメ」

イワンさん「何が起きるか分からないから、いつまでもおまえの世話にはなれないよ」

アナさん「泣いてお願いしているのよ」

オルガさん「車で走ってアメリカの畑を見たとき、やっぱり故郷と同じ風景はないと感じたわ。私たちには、ウクライナしかないんだって思ったの。私たちが育てたウクライナの野菜が恋しい。空の色だって違うのよ。心配しないで。なんとかなる」

2週間後の6月中旬。オルガとイワンが、アメリカをたつ日がきた。娘のたびたびの説得にも、決意は変わらなかった。

オルガさん「娘にもう会えないかもしれないと思うと、涙が止まりません。でも他に選択肢がありません。家に帰らないと」

イワンさん「行こう、お別れの時間だ」

オルガさん「毎日必ず電話するからね」

アナさん「この戦争を起こした人が憎い」

イワンさん「来年もくるよ。大丈夫だ」

6月下旬、ウクライナ東部ではロシア軍が攻勢を強め、ルハンスク州などいくつかの地域が制圧された。平穏を保っていたキーウ周辺の地域でも、ショッピングモールが空爆されて多くの民間人が死傷し、再び緊張が高まりつつあった。

7月上旬。オルガとイワンはウクライナに到着、故郷に向け車を走らせていた。ふたりの住むスムイは、キーウから車で5時間。10km先は、ロシア国境である。6月ごろから空爆も増えている。私はマヤの取材を受け継ぎ、撮影チームとともに、ふたりの帰郷に同行した。

5か月ぶりの我が家である。

オルガさん「帰ってこれて、とてもうれしいです。落ち着くし、やっぱり我が家がいちばんです」

イワンさん「私はここで育ちました。ここが故郷なのです。これからも、ここでやっていくつもりです」

帰国を聞きつけた近所の人たちが、早速訪ねてきた。

オルガさん「久しぶりね、タマラ。愛しているわ。もう私たちはどこにも行きません。ずっと一緒です。私の大好きなターニャ」

近所の人たちの反応が心配だったが、ほっとした。

「なぜ安全なアメリカに残らなかったの?」

オルガさん「ここには家も畑もある。向こうに残る理由はないわ」

「そうだな。ここでもやっていけるさ」

ニューヨークでギルティシンドロームに苦しんでいたオルガの表情は、別人のようだった。

8月24日、ウクライナの独立記念日。私たちの大切な日をねらって、ロシアが大規模攻撃を仕掛けるという情報が流れた。

ゼレンスキー大統領「今週、ロシアは特に卑劣で残酷なことをするかもしれない」

政府は、キーウ市民に外出自粛を呼びかけた。街は、戦争が始まった半年前に戻ったかのような不穏な空気に包まれた。光が見えたと思ったら、すぐにかき消される。そのことの繰り返しに、私の心も折れかけていた。そして、私もうつ状態に陥った。

マヤさん「精神科医の診断を受けたんだよね?どんな症状なの?」

ゴシャさん「答えるのが難しいんだけど、僕もよく分からないんだ。座っていると突然頭が痛くなる。パニック障害、手汗、息苦しさ。外に飛び出したくなる」

マヤさん「あなたのことがとても心配だわ」

ゴシャさん「泣かないで」

マヤさん「きっと大丈夫」

ゴシャさん「僕のほうこそ、君のことが心配だよ。きっとうまくいくよ」

8月下旬。スムイに帰郷してひとつきがたったオルガとイワンを訪ねた。ふたりが、故郷でどう人生を立て直そうとしているのか。心沈む日々を過ごす私もマヤも知りたかった。オルガの笑顔は変わらなかった。しかし、その生活は決して楽ではないという。

オルガさん「戦争が続いているので仕事がありません。食べ物の値上がりもすごいです。花を買うお金もありません」

オルガは、ニューヨークに逃れている間に、20年間勤めていた食肉加工の工場の仕事を失った。仕事のあてもなく、ふたりは畑仕事に精を出す日々を送ってきた。ここでどう生計を立てていけばいいのか、オルガにひとつのアイデアが浮かんだ。

オルガさん「新しい制度が始まるのをご存じですか?女性も軍への参加を、より求められるようになるのです。私は食肉加工の免許を持っているので、それを活かせる可能性があります」

オルガは、軍隊に志願しようとしていた。戦地で兵士に料理を作り、給仕する仕事に就きたいという。戦闘の最前線ではないが、軍と行動を共にする以上、危険が伴う仕事である。夫のイワンも、軍に志願して何か仕事を見つけたいという。

ニューヨークにいる娘・アナは、今もふたりにアメリカへ戻ってきてほしいと訴えてくる。

アナさん「ロシアが攻撃を止めるつもりがないことくらい、分かっているでしょ。お願いだから、またアメリカに戻ってきて」

オルガさん「いいえ、アナ。私たちはどこにも行かないわ。どんな形であれ、戦っている仲間を応援するわ。私にも助けられる方法を見つけたの。兵士たちのために食事を用意してやることが、私のできること」

アナさん「どうしてなの。私には正気とは思えない。理解できない。一体どういうこと?」

イワンさん「もし私たちが今ロシア人を追い出さないと、全部おまえたちの肩にかかることになる。私たちの子どもたちや孫たちがやらなければならなくなる。だから今、私たちがやらないといけないんだ。いつかおまえの子どもを連れてくるといい。孫は、この家で走り回って遊ぶだろう。そのために私たちの土地を守る必要があるんだ」

オルガさん「ここは私たちの土地なのよ。私たちはここで幸せに暮らしていくわ。全てがすぐに終わるわ」

オルガとイワンの選択には、私も驚いた。戦争に参加することで生計も立つし、国に貢献できれば罪悪感も消える。戦争を戦う今のウクライナで生きていくためには、ふたりの選んだような道しかないのだろうか。

マヤさん「こんばんは。今日はどんなことをしたの?」

ゴシャさん「君の友だちでもあるオルガとイワンに会いに行ったんだ」

マヤさん「元気だった?」

ゴシャさん「元気だったよ。オルガはウクライナに戻ってから、体調もだいぶよくなったみたいだ。今、彼女はウクライナ軍のコックとして働こうとしている。兵士のために食事を作るみたいだ」

マヤさん「それはすごい。私にはできない」

ゴシャさん「国のために役に立ちたいという覚悟なんだ」

マヤさん「戦争で私たちは変わってしまったね」

ゴシャさん「僕たちも自分にできることを、ささやかでもやり続けるしかないんだろう」

マヤさん「早く会いたいね」

ゴシャさん「大丈夫、もうすぐ会えるはず」

マヤさん「あなたを空港まで迎えにいくことを想像するわ」

ゴシャさん「空港ね。君にどんなプレゼントを持っていこう。大好きだよ。泣いちゃだめだ。強く生きていこう」

マヤさん「泣いてたって、私は強いわよ」

9月1日。キーウの小学校が半年ぶりに再開した。新学期に向けて、避難していた子どもたちが戻ってきた。

子ども「クラスメイトが恋しくてたまらなかったわ。学校に戻ってくるのが夢だったの」

子ども「先生に花をプレゼントするんだ」

しかし登校したのは、5割。まだ多くの子どもが、キーウから避難したままだ。子どもたちを見ていると、やはり気持ちが明るくなる。

この日は、新入生33人を迎える入学式も行われた。

校長「一年生のみなさん、この美しい学校にようこそ。今日から皆さんは、この学校で家族になるのです。平和な空を取り戻し、夢がかないますように」

最後に、ぜひあなたに見てほしい映像がある。バレリーナ・アナスタシアのパフォーマンスだ。彼女が今、全身全霊で取り組んでいる作品が「Dying Swan 瀕死の白鳥」。もちろん、今のウクライナの姿を重ねている。

アナスタシアさん「今、私たちは死にかけの白鳥です。それでも生きようとして必死にもがいています。どんな人も、そうやってこの国で生き抜こうとしています」

戦争にも決して屈しなかった美しい魂。これからもそれを探し続けること。きっとそれが、ウクライナのために私ができることだ。