Jリーグのジェフや日本代表、そして祖国・ユーゴスラビアの監督を歴任したイビチャ・オシムさんが亡くなりました。2003年、オシムさんはタイトルとは無縁だった当時のジェフ市原の監督に就任しました。
サンデースポーツは、オシムさんに抜擢されて目覚ましい活躍をみせて日本代表にも選ばれた佐藤勇人さんを取材しました。放送ではお伝えしきれなかったインタビュー詳細です。
ー オシムさんの訃報を聞いたのは?
勇人) 解説の仕事の帰り間際に携帯を開いて知りました。電車に乗って帰宅しているときに当時のいろんな感情とか思いが込み上げてきまして、電車の中はなんとか我慢できたんですけど、そのあと駅から自宅につくバスの中では、涙が止まりませんでした。
ー 最初に思い浮かんだのは?
勇人)一番初めて会ったときの鋭い表情、またナビスコカップでタイトル取った時に優勝トロフィーのカップを持ってニコッとした笑顔、この2つが自分の頭の中に浮かびましたね。
ー オシムさんが選手をほめるときは「ブラボー」という声をかけていたそうですね。
勇人)自分に限らず、当時の選手はオシムさんからブラボーをもらうために練習してたと言ってもおかしくないぐらい、オシムさんのブラボーは何倍も本当にパワーになりました。めったに褒めることがないオシムさんのブラボーは、目に見えるところ、一般的に評価されるところでなくて、違った視点からのブラボーなので、余計うれしいんですよね。例えば、ゴールした選手にはブラボーとは言いませんでした。ゴールする前の過程で何があったか、誰がどうすることによってゴールが生まれたのか。それに対してのブラボーなので、「あっ、こんなとこ見てくれてるんだ」って。オシムさんのブラボーは特別なものがありました。
ー オシムさんは2003年に市原の監督に就任しました。監督に決まったときにオシムさんのことは知っていましたか?
勇人)当時市原にDFのミリノビッチという選手がいたんですけど、彼から「次の監督がすごいぞ」と。 とても練習ハードだし、厳しい。 だけど若い選手はすごく成長できる、すばらしい監督だから楽しみにしたらいいと聞いていたので、本当にわくわく感とちょっと気が引き締まるような思いがありましたね。
ー 初めて会った時の印象は?
勇人)韓国キャンプのときでした。本当に体が大きくて目力があった。だいたいは監督が一言あいさつしてチームに挨拶するんですが、オシムさんは「そんなの必要ない」と。テーブルを回ってコンコンたたく儀式をされて食事についていたので、ミリノビッチ選手に聞いていた通り、今までの監督とは違うオーラを感じました。また翌朝からどんな練習をするのかという、少し怖さみたいなのがありましたね。
ー 実際、練習は厳しかった?
勇人) すごい寒い季節だったんですけど、寒さを忘れるぐらい練習の量も質も本当にハード。今までやったことないようなものが求められたので、一日一日の練習が終わったときは体よりも頭の方が疲れて、もう何もする気は起きないような状態で毎日宿舎に帰って寝てたのを思い出します。
ー 繰り返しかけられた言葉があったそうですね?
勇人)走りなさいと。オシムさんは、チームと選手を見て走らなさすぎだと感じたんだと思います。まずは走ることと、そして規律(ディシプリン)をかなり求められたなと思いますね。ここからここまで走りなさいとか何分で走りなさいとかは一切ないんですけど、練習の中に走るというのが落とし込まれていて、走らないと成り立たない。自分にとっても、当時の選手たちにとっても、すごく衝撃的でした。
ー 勇人さんはシーズンが始まって数試合はベンチスタート。初めてスタメンに起用されたときはどういうふうに告げられた?
勇人)オシム監督からのメッセージは何もなかったです。 試合直前のミーティングで自分の名前があって。想像もしなかったですし、もちろん準備は常にしてましたけど、まさかこのタイミングでと思いました。あとはやらなくちゃいけないなっていう思いと、オシムさんなりのメッセージだなと受け取ったので覚悟を持ってピッチスタジアムに足を運んだのを覚えています。ジェフというチームを変えなくてはいけない、その変えるためのピースが、自分や(ともにスタメン起用された)羽生選手だったんじゃないかなと。
ー 抜擢されたのはなぜだと思いますか?
勇人)人よりも負けず嫌いですし、走れる、ハードワークできる。自分よりうまい選手がたくさんいる中、それを認めてもらえたのでは。自分が出せるものは100%出せることが自分の特徴だと思っていたので。 そういうところをオシムさんは見抜いて抜擢してくれたのかなと。 若い選手がピッチで走る事でチームがいい方向に行く可能性を感じてくれたのかもしれません。
ー 最初のシーズンでチームは一時首位に立つなど躍進しました。チームが変わった?
勇人)サッカーに集中して、オシム監督からすべてを学ぼうと意識が変わったので、自然と試合でも結果が出るようになってきた。自分たちが今やっていること、オシム監督が来てから毎日過ごしていることが間違ってない方向に進んでいるなっていう確信を持てたので、いい方向につながっているのかなと思いました。
ー 勇人さん自身は変化した?
勇人)アカデミーからプロに入ってからも、自分はまだまだ高校生の感覚でした。サッカーに向き合う姿勢、ふだんの私生活も本当になんとなくやっていて、サッカー練習もなんとなくでした。けど、オシムさんと出会ってからは、それではいけないと自分自身について考えることが増えました。それまで1人の時間でサッカーについて考えることは全くなかったですけど、1人でもサッカーのことを考えるようになりました。自分がこの先サッカー選手としてどうなりたいか。 また佐藤勇人の人生としてどういうふうになっていきたいか考えるようになりました。
ー 変化のきっかけは?
勇人)オシムさんは、すごく一人一人のことを見てくれて、愛情深く接してくれました。 当時双子の弟の寿人が仙台でプレーしていて、「日本史上初」の双子対戦があったんですけど、その試合で自分が2得点とってジェフが勝ったんです。そのとき、「寿人じゃなくて自分が2点取ってジェフが勝った」とちょっと調子に乗りかけたんです。メディアの取材もたくさん来て。けど、バスに乗る直前にオシムさんにおしりを蹴られました。「2点とってチームに勝ち点3をもたらしたのに、なんで怒られなくちゃいけないんだ」って思いながら帰ってる途中で、ニュースで「2点取ったのは佐藤でも勇人でもなく、ジェフがとったんだ」というオシムさんのコメントを知りました。オシムさんは、若い選手がメディアに持ち上げられて、つぶされていくのを何人も見てきたと。そうなってほしくないと。直接言われたわけではないですけど、やはり本当にそういうところは見てくれてるなと感じました。
ー 結果が出ても調子に乗るなということですね。
勇人)失敗から学ぶ事のほうがすごく大きいとオシムさんは常々言っていました。 そういうのもすごくサッカー人生に生きてますね。
ー 失敗から学ぶことの大切さについて、オシムさんからはどういう言葉をかけられた?
勇人)敗戦の仕方によって伝えることが違いました。あまりハードワークができず、走れなかった試合なんかは「今日の試合は何も得るものが無い」と。逆にしっかりと走ってそれでも負けてしまったときは、「きょうは得るものがあった、君たちはしっかりプレーした、それでも負けてしまった。これは間違いなく次につながるだろう」というメッセージをもらいました。 そういうふうに、思うような結果がでなかったときでも、オシムさんからはひとつひとつ次に向けてのメッセージがありましたね。 勝ったときには何がよかったから勝ったとか、それこそ自分が2点とったから勝った場合すごいポジティブに思うことが多いんですけど、負けた時はあんまり考えたくないし、なんで敗戦したのか考えるのはメンタル的にも厳しいので深掘りしてこなかったんです。ですから、オシムさんから「なぜ負けたのかを考える必要がある」「敗戦から学ぶことがある」といわれ、すごく考えさせられました。
ー オシムさんの言葉で一番残っているものは?
勇人)今でも自分の中でずっと響いているオシムさんの言葉は「それでも人生は続く」。 自分の中ではその言葉が一番強く響いていますね。 足を止めずに走り続ける事、これはオシムさんから常に言われたことでもあります。それも、ただ走るんじゃなくて考えながら走ること。もちろん思うようにいかない事、ぶつかる事もあると思うんですけど、オシムさんはいつも「チャレンジしなさい」「リスクを冒しなさい」「リスクを負わないと得るものがない」と強く言われていたので、そういうオシムさんの強いメッセージが今後の自分の人生の糧になって突き進んでいけると思いますし、またやらなくちゃいけないっていう覚悟もありますね。
ー オシムさんはどういう存在?
勇人)本当に鋭いまなざしの中にものすごい優しい目をしていました。たまに見せる笑顔がたまんなくて。試合に出た選手に限らず、試合に出ていない選手のことも常に考えてくれていましたし、本当に人情深いというか。 今まで出会った事ないような方でしたね。 出会いたくても出会えないぐらい偉大な方だと思います。その偉大な方に自分がプロサッカー選手として「なんとなく」やっていたタイミングで出会えたことがすべてだと思いますし、そのあとのサッカー人生にもつながりました。サッカーが終わったあとの残りの人生にも大きく影響を与えて下さってるので、これからも、オシムさんは嫌がるかもしれないですけど、オシムさんとともに人生を生きていきたいなと思います。