日本を代表する美術作家のひとりである奈良美智は、1959年に青森県弘前市で 3人兄弟の末っ子として生まれた。
22歳のときに、愛知県の芸術大学に入学し油画を専攻。大学院を卒業後、修行のためドイツに渡る。
言葉の通じないドイツで過ごした12年、言葉より雄弁に表現できたのが“絵”だったと語る。
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佐藤:モノをゼロから生み出す人の話を聞くと、どこかで全部出しちゃって、そこからいわゆる“スランプ”というか、モノが作れなくなるみたいな話を聞きますが、奈良さんはそういった時期はありましたか。
奈良:いわゆるスランプはなかったんだけど、2011年の東日本大震災のときに、日本の人みんな、災害に対して無力感のようなものをすごく感じたと思うんです。そのときに美術で何ができるのか、自分は何ができてきたのか、社会にどう貢献したのかってふと考えたときに「自分勝手にやってきただけじゃないか」って。
もちろんこれまで自分との対話は真剣にしてきたけど、“余裕”で作るような…うまく言えないけど、とにかく無力感に襲われて、こんなことをしていてもいいのかな、伝わるのかなとか、初めて見る人に対して「見る人がちゃんと受け取ってくれているとしたら、自分は何も考えないで、ただ好きなことしかやってこなかった」。そう思ったとき、描けなくなった。
佐藤:なんでしょうね、筆が止まってしまう原因みたいなものって。
奈良:自分が受け手のことを実は考えてなかった。自分のことしか考えてなくて、自分のことだけだから何でもありみたいな感じになってて、責任というのがついてこなかった。「これでもういいだろう」「これくらできたらいいだろう」みたいなところまでやって、割と楽しかったんですね、その状態も。
実は震災の年に美術館で展覧会が決まってて、(気持ちが)盛り上がっていた頃だったからタイトルが『レッツ・ロック・アゲイン』、ロックでいこうぜみたいなタイトルを考えてた。そのときに震災が来て「俺は何を考えてたんだ」って、自分が楽しむことしか考えてなかった。
自分がやっていることを、もっと社会とかに生かせないかと考えたら、生かせない。歌を歌う人は(現地に)行って歌えるけど、美術って何ができるんだろうって、何もできない。余裕ある人たちだけがやるものじゃないかって思っちゃって、描けなくなったんだよね。
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筆を置いた奈良は、愛知県の母校で陶芸やブロンズ像の制作に没頭。素手で土と格闘することで創作意欲を取り戻していく。パステル調の色彩の中に喜びや悲しみなど震災以降の様々な思いを込めた作品も仕上げた。
そして、作品だけではなく奈良の活動にも変化があった。2016年から北海道各地に滞在。地元の人たちの生活に溶け込みながら、制作活動をしている。
一方で、海外オークションでは自身の作品が27億円で落札されるような過熱ぶり。奈良はこの状況をどう見ているのか。
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佐藤:今、奈良さんの絵は信じられないぐらいどんどん価値が上がっているじゃないですか。
奈良:確かにそうですね。
佐藤:それに対してどう思いますか。
奈良:そこまで価値ないんじゃないかなって自分は思ってて。お金に置き換えることができないことを自分はやってるつもりなので、そうやってお金に換わっていくと、自分がやってることを汚されてる感じが実はちょっとしてて。
今でもお金じゃ買えないものを自分は作ってると思っているし、もしかしたら子どものお小遣いでも買えるかもしんないし、どんな富豪がどんな大金積んでも売りたくないかもしれないし…っていう気持ちは自分の中にありますね。だから割と他人事のように見てて。
佐藤:奈良さんにとって、絵を描くことってなんですか。
奈良:なんだろうね。絵を描くことイコール悩むことだし、体力使うことだし、自分がこの世に存在してるっていう実感が持てるね。
どんな職業でもそうだと思うんだけど、精神的な疲れとか体の疲れがあっても得るものがあって、何枚も描いても、年を取っても、どっかちっぽけでも、いい絵ができたとき新しいものが見つかる。その快感を知ってるから、どんなにちっぽけでも、新しいものが自分の中に入ってくるとまたちょっとだけ自分が大きくなるみたいな。自分の存在証明を、絵を描くことで得られてる気はする。
佐藤:じゃあ世界に誰もいなくても、絵は描いてるんですかね。
奈良 多分、描いてると思うね。
2022/11/21 スイッチインタビュー「佐藤健×奈良美智」EP1より