昭和20年7月26日の朝、アメリカ軍の爆撃機が突然、島田市の住宅街に一発の爆弾を投下し、市民ら47人が亡くなりました。あれから77年。島田市では7月26日、爆心地近くの公園で空襲の犠牲者を追悼する慰霊祭が行われました。空襲の経験者としてただ1人、慰霊祭に参列した男性を取材しました。
(記者 木村友)
島田市の中心部に広がる住宅地。77年前、この場所に突然爆弾が投下され、47人の命が奪われました。
爆心地近くの公園では犠牲者を追悼する慰霊祭が行われました。
冨田昌弘さん(86)は、空襲の体験者の高齢化に伴い、当時を知る人としてただ1人参列しました。
(冨田昌弘さん)
「戦争っていうのはね、一番弱い者が犠牲になる。だからあってはならないことだ」
冨田さんが空襲の被害にあったのは、9歳のときでした。小学校に登校した直後、自宅の方向が突然、煙で真っ黒になったといいます。
(冨田昌弘さん)
「普通だと、警戒警報が鳴り、空襲警報が鳴って、避難する。警戒警報と同時ぐらいに爆弾が落ちたから、逃げられなかった」
空襲の翌日、自宅の近くに向かった冨田さん。家族は無事でしたが、爆風で家は跡形もなく吹き飛ばされていました。そのときに目にした凄惨な光景を、いまも忘れられないといいます。
(冨田昌弘さん)
「まさに戦場だった。みんな知ってる人は亡くなった。何人かは亡くなったけど、死体がないんだもの。散らばって肉片が木にくっついてた。その光景を見て、いつ死んでもいいなと思った」
終戦から46年後。空襲で投下されたのは、長崎での原爆投下の訓練などを目的に作られた模擬爆弾だったことが明らかになりました。長さ3.5メートル、重さ4.5トンほどの大型の爆弾は、色や形から「パンプキン爆弾」と呼ばれ、太平洋戦争の末期、日本各地に投下されました。
訓練のために多くの犠牲者が出た事実を、冨田さんは、冷静に受け止めたといいます。
(冨田昌弘さん)
「戦争をやってはいけないことは当然だけど、今のウクライナの状況と同じで、戦争が行われると、そのようなことも起きてしまうと思った」
悲惨な戦争の記憶を語り継ごうと、動き出した若者がいます。地元の高校3年生、舩島珠凛さん(18)です。島田市の募集に自ら手を挙げ、慰霊祭の運営を手伝いました。高校に入るまで、空襲の歴史について知らなかったといいます。
(舩島珠凛さん)
「長崎に落とされたものを模した爆弾が、島田市に落とされたことをおととしに初めて知りました。それまで知らずに来たことに大きな衝撃を受けました」
舩島さんはいま、地元で空襲があった事実を同世代の若者に知ってもらおうと、終戦の日にあわせた展示づくりを進めています。この日、一緒に活動に取り組む生徒たちと意見を交わしました。
(男子生徒)
「被爆した人たちは戦争のつらさを知っているけど、たとえそれがどれだけ悲惨であっても、今の若い世代は『ふーん』で終わってしまっている気がします」
(女子生徒)
「伝えていかないと、悲惨な戦争の記憶が途切れてしまうのではないかと懸念しています」
(舩島珠凛さん)
「もうあとわずかで体験された方がいなくなってしまう。また同じような空襲の被害が起きないようにしていきたいと思っているので、伝えていけたらと思っています」
冨田さんは、こうした高校生の活動を心強く感じています。
(冨田昌弘さん)
「高校生がこういう取り組みをしてくれることはありがたいです。戦争のない社会、それがいいよ」
高校生たちが手がけた島田空襲についての展示は、8月13日から16日までの間、島田市の「市民総合施設プラザおおるり」の展示ホールに掲示されるということです。