2015年12月25日。大手広告会社・電通に入社した年に過労で自殺した静岡県裾野市出身の高橋まつりさん。翌年に労働災害の認定を受け、社会が「過労」について考え、働き方改革を進める大きなきっかけになりました。
ひとり親家庭でまつりさんを育ててきた母親の幸美さんは、講演や国の会議への出席などを通じて過労死防止を訴えています。去年(2022年)子宮体がんを告知されて手術し、今も治療を受けながら活動を続けています。
まつりさんが東京大学に進学する前に通っていた母校・沼津市の暁秀高校で、3月8日に1年生を対象に行った講演の全文と、生徒たちの感想を掲載します。(記者 三浦佑一)
【高橋幸美さんの講演全文】
みなさんこんにちは。高橋幸美と申します。これは、私の娘で、高橋まつりと言います。暁秀の卒業生で、今日は娘と一緒に暁秀に戻ってきたかったのですが、残念ながら娘は2015年のクリスマスの朝、マンションから飛び降りて亡くなりました。大学を卒業してわずか9か月、過労自殺でした。今日は娘の話をします。
<写真:小学3年生のときの高橋まつりさん(左)と、母親の幸美さん(右)>
娘は2004年4月、暁秀中学校に特待生で入学しました。和泉良太先生とは同級生です。バスケットボール部では松下俊明先生にお世話になりました。担任は井堀先生でした。たくさんの先生たちにお世話になりました。暁秀高校の入学式では生徒代表で誓いの言葉を読みました。「私たちに失敗という言葉はない。何度でもやり直せるから」という内容でした。
体育祭のクラス対抗リレーではアルファ(クラス)の代表で3年連続で優勝しました。進路選択では私の実家のそばの広島大学に進んで祖父母の家から通うことを考えましたが、暁秀の先生たちから東京大学を目指すように勧められると、東大にも授業料免除の制度があると知り、東大を第一志望に決めました。それから毎日学校で補習授業を受け猛勉強をしました。
高校の卒業式のあと、新幹線に乗り、合格発表を見に行きました。学校で合格体験を話しました。
<写真:東京大学合格発表の日>
東大に入るとラクロス部に入部しました。経済的な理由で塾に通えない中学生に勉強を教えるボランティア活動にも参加しました。
入学式のあとにテレビ番組の取材を受けたことがきっかけで、週刊誌の編集部でアルバイトをすることになりました。編集長のアシスタントで、ネット生放送に出演したり、参議院選挙の取材にも行きました。夢だった海外留学は、文部科学省の試験を受け、政府の奨学金で北京の精華大学に1年間留学しました。娘は自分の夢を、努力で1つずつ実現していきました。
<写真:中国留学中のまつりさんと万里の長城で>
留学を終え、東大に復学すると、就職活動では日本最大の広告代理店に就職を決めました。テレビのコマーシャルの制作や、東京オリンピックや、Jリーグの大会運営を手がけている有名な企業です。
私は娘の会社の評判をインターネットで調べると、学生にとても人気がある企業でした。しかし激務ランキングでもトップクラスでした。1991年に入社2年目の社員の自殺は会社に責任あるという判決が「電通事件」として有名なこともわかりました。私は娘に「もっとホワイト企業に就職してよ」と言いましたが、娘は「私は大丈夫。今までハングリー精神で乗り越えてきたんだから。年収が高い仕事はどこも激務だよ。それより、早くお母さんに仕送りしてあげられるようになるからね」と笑って答えました。
2015年、大学を卒業して会社に入社すると、新入社員研修では娘の考えたラジオのコマーシャルが放送されたことや、「若者の新聞購読を増やすには」というプレゼンで優勝したことをうれしそうに電話してきました。「大変だけど、アイデアを何度もほめられたことを励みに頑張るよ」と張り切っていました。5月にインターネット広告の部署に配属され、ヤフーのトップページに出す自動車保険の広告を担当しました。広告にどの画像を使うか、文字の色を何色にすれば契約に効果があるのか、データの分析とレポートの作成を担当しました。毎週水曜日の会議で話し合うために、火曜日の勤務は深夜になりました。
入社して半年、9月に私にこう言いました。
「今は試用期間だから原則夜の10時で帰れる。残った仕事は先輩に頼んで、遅くても終電で帰れるけど、来月正社員になると残業に際限がなくなるから怖いんだ」と言いました。
就業規則では仕事は朝の9時から夕方5時まで、土日祝日は休みでしたが、10月に正社員になると、本当に終電で帰れなくなり、翌朝4時まで会社にいるようになりました。土日も休めなくなりました。朝9時から翌朝4時まで、19時間も仕事して、タクシーで部屋に帰るとシャワーを浴びてまたすぐ会社に行きました。日曜日から火曜日まで連続3日も会社にいることもありました。
10月半ばに娘は私に言いました。「この会社おかしい。今週10時間しか寝てない。こんなにつらいと思わなかった。部署異動頼んでみて、できなかったらやめるから。休職か退職か、自分で決めるから、お母さんは口出ししないでね」。このとき、私にきっぱり言いました。
11月、娘は勇気を出して、人事や上司、労働組合の先輩に相談しましたが、この会社では誰もが徹夜や休日出勤をしていて、娘を助けてくれることはできませんでした。11月になっても朝4時帰宅は続いていました。上司は朝まで会社にいる理由を仕事ではなく会社で食事していたと申告するように命じていました。娘のSNSには死に関する言葉が増えていきました。この頃、うつ病を発病していたと、娘が亡くなった後に診断されています。
娘のSNSを読みます。
「残業するなって話なのに1年目は死ぬほど働けとか、他にも理不尽なこといっぱい言われて意味わかんないです」
「噂に聞いた47時帰宅47:40出社もあり得る」「いまからお風呂はいって出社します( ・ᴗ・̥̥̥ )死」これは、2日連続会社にいて、40分後にまた出社したということです。
「誰もが朝の4時退勤とか徹夜とかしてる中で新入社員が眠いとか疲れたとか言えない雰囲気なので、火事とか地震の時でも逃げることに罪悪感覚えて最期までPCの前にかじりついて死ぬやつだわ」
「もう4時だ 体が震えるよ 死ぬ」
「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」「会議中に眠そうな顔をするのは管理ができていない」「髪ボサボサ、目が充血したまま出勤するな」女子力がないと上司は言ったそうです。
「これが続くなら死にたいな・・・と思いはじめて、道歩いてる時に死ぬのに適してそうな歩道橋を探しがちになっているのに気づいて今こういう形になってます」これは相談していた先輩に送ったLINEでした。
「死にたいと思いながらこんなにストレスフルな毎日を乗り越えた先に何が残るんだろうか」
「今から帰るんですけど、うけません?もうすぐ朝の4時です」
「1日20時間とか会社にいると、もはや何のために生きているのか、わからなくなって笑けてくるな。目も死ぬし、心も死ぬし、なんなら死んだほうがよっぽど幸せに思えて、遺書メールのCCを誰にするか考えてた」
12月20日に最後に私と最後に会ったときには、「お母さん、年末には静岡に帰るから一緒にすごそうね。日帰り温泉にも行こうね」と言いました。その5日後に命を絶ってしまうとは、思いもしませんでした。娘の最後のLINEには「大好きで大切なお母さん、さようなら。いままでありがとう。仕事も人生もすべてがつらいです。お母さん自分を責めないでね。最高のお母さんだから」と書いてありました。
私は当時、娘に「死ぬぐらいなら会社辞めて」と何度も言いました。でも「お母さん口出ししないでね」と言った娘を信じていました。娘は小さいころから自分の強い意志を持って困難を乗り越えてきたからです。そんな強い娘でも眠れない仕事に追い込まれていきました。娘と同じような状況で働くと、誰でも同じようになる危険があるということを覚えておいてください。
これは入社直前に娘がくれたカードです。
「お母さんお誕生日おめでとう。私も春から社会人になります。23年間育ててくれてありがとう。ようやく自分で稼いだお金で生きていきます。私はお母さんの子として生まれてきたことが本当に嬉しいよ。これからはなかなか会えなくなるけど、弟と3人で楽しく暮らしていこうね。お母さん大好き」
私は自分の命より大切な娘を助けられなかったことをずっと後悔しています。あの会社にさえ入っていなかったら。悔やんでも悔やみきれません。私は娘の幸せだけを願って生きてきたのに、娘を守れませんでした。たった24歳で亡くなってしまうなら、もっと楽しい人生を送ってほしかったです。楽しい高校生活を送ってほしかったです。勉強も頑張らなくてもいい。仕事もやめてもいい。ただ、生きていてほしかったです。私は、深い悲しみと、後悔と、憤りの中で7年間これまで生きてきました。去年はがんを告知され、手術をして、今は生きるための治療を続けています。娘が亡くなってから7年のあいだ、娘の後を追って死にたいと何度も思いましたが、今は生きるために治療を続けています。私が生きる理由は、娘が生きてきた記録を失いたくないからです。娘と同じように仕事で苦しむ人を救うために少しでも力になりたいと思うからです。
みなさんは2年後には大学生になり、将来は希望の職業に就くと思います。社会人になると、先生や両親に守ってもらうことはできません。もしも職場で理不尽な問題が起きても、自分の身は自分で守らなければならなくなります。つらいと思った時にはぎりぎりまで我慢しないで、逃げる勇気も大切だと覚えておいてください。「これっておかしいよね」と気付けるように、これからしっかりと学んでおいてください。命より大切な仕事はありません。自分を大切にして、幸せな人生を生きてほしいと思います。将来もし悩んだ時には今日の授業を思い出してほしいと思います。
川人先生(※労働問題に取り組む川人博弁護士)と一緒に書いた本を学校にお渡ししてありますので、機会があったら読んでみてください。今回、「KAROSHI」という英語の本と日本語の本も出ました。学生さん向けの「過労死しない働き方」という本もあります。どうかしっかりと学んで、幸せな人生を送ってほしいと思います。
【講演を聴いた生徒】
(講演を聴いていかがでしたか)
まだ大人の世界を知らないのですが、自殺した方だけでなく、周りの共に時間を過ごした人たちも被害者だなということを痛感しました。自分も、会社とか周りの圧力に負けずにちゃんと自分の意見を発せられる人になりたいなと思いました。
(高橋まつりさんのことはご存じでしたか)
知りませんでした。でも改めて知ったことで、協力しあって助けあって生きていきたいと思いました。
(どんなことを考えていかなくてはいけないと思いましたか)
まず会社に対する考え方を変えていくべきだと思いました。トップの人が変わらないと会社全体の雰囲気も変わらないから、まずはトップの人の考えを変えるべきだと思いました。
(いかがでしたか)
ニュースや新聞で過労死という言葉は聞いていたのですけれども、実際当事者の方のお話を聞いて、報道されているよりも過酷なんだなということがわかりました。
(高橋まつりさんのことはご存じでしたか)
どんな事件があってどんな影響があったかというのをちゃんと知らなかったので、意識して初めて知りました。
(どんなお話が印象的でしたか)
まつりさんはお母さんに仕送りをできるように働いていたというのを聞いて、誰かを幸せにしたかったり、自分がお金を稼いで幸せになったりするために働いているのに、過労、不当、違法な環境に巻き込まれてしまって、結局命がなくなってしまうというのはひどいというか、むごいと思いました。
(どんなことを考えていかなくてはいけないと思いますか)
どういう対策をしても不当なことをする人って絶対にいると思うんです。その被害に遭わないように、私たちが自分の身を守る方法を身につけないといけないと思います。上司とか会社の不当を指摘して自分の身を守るためには、勉強して法律がどうなっているのかを知ったり、現実をちゃんと知っていかないといけないと思います。
(「頑張らなくていい」という言葉もありました)
亡くなってしまうなら勉強も頑張らなくていいし、いい企業に就職しなくてもいい。やっぱり命あってこその仕事とかお金とか家族だから。「頑張らなくてもよかったのに」という言葉を自分の大切な人が言わなくていいように、自分で頑張らなくていいというところをちゃんと作って生活していかないといけないのかなと思いました。
【講演を終えて 高橋幸美さんの話】
(生徒さんに伝わっていると感じますか)
そうですね。今日聴講してくれた高校1年生は、娘が中学校2年生の時に生まれた子たちです。7年前、8年前の報道もよく知らない子たちに対してお話ししなくてはいけない。その中で、家族として亡くなった娘への思いを伝えたいと思って話ができたかなと思います。
(まつりさんのことをよく知らない世代に、どんなことをわかってほしいですか)
誰でも娘と同じような状況になったら健康や命に危険があると言うことを知っておいてほしい。自分がもし同じような立場になったら、SOSを出したり、現場から離れることが重要なんだと言うことを伝えられたなと思いました。
(まつりさんのことは、社会が過労について考える大きなきっかけになりました。だんだん時代は変わってきていると実感できていますか)
そうですね・・・娘の問題や過労死の問題は風化しているんじゃないかと感じています。毎年厚生労働省から発表がある精神障害からの労災申請の数は増えていますので、まだまだ日本の労働状況はよくなっていないんじゃないかと心配をしております。
(体調が必ずしも万全ではない中で、こうした活動をされているのは)
娘がこの世に生まれてきて24年間生きてきた。その事実を忘れたくないという思い。娘への思いが私の行動力になっています。
<写真:2014年 旅行先のタイで>
病気をきっかけに「少しゆっくりしてください」ということを言われるんですけれども、過労死防止の活動の方はしっかりとやっていきたい。なかなか学校や会議など対面で参加することはできず、今まではオンラインでやってきました。今日は学校に訪問できてとてもよかったと思います。
※まつりさんと幸美さんの「高橋」の「高」の文字は、正確にはいわゆる「はしごだか」です。
【ニュース映像】
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“死ぬくらいなら、死ぬ気で逃げて”(2020年12月22日「たっぷり静岡」放送)