大河ドラマ「どうする家康」。家臣団の中でひときわ存在感を発揮しているのが、徳川四天王の1人で、山田裕貴さんが演じる本多平八郎忠勝です。この忠勝が愛用した槍(やり)「蜻蛉切」(とんぼぎり)の実物が、三島市の佐野美術館で保管されています。槍に込められた、主君である家康(松本潤さん)を守り抜く忠勝の思いに迫ります。(NHK静岡 カメラマン・鎌田隆宏)
※文末に動画があります
命をかけて戦った戦国武将のやり。本多平八郎忠勝愛用の「蜻蛉切」(とんぼぎり)です。
三島市にある佐野美術館にはその実物が今も保管されています。
美しい曲線。古武士をおもわせるたたずまい。
とんぼが穂先に触れるや真っ二つになったという切れ味の鋭さに由来しています。
忠勝は50回以上の戦いを経験しながらも、ケガひとつしなかったと伝わる戦国最強の武将です。
やりの裏に彫られた字と剣の形。
それは「不動明王」を意味する梵字(ぼんじ)と、その不動明王が手にする「三鈷柄剣」(さんこづかけん)です。
不動明王は揺るぎない心のあり方を表しています。
(佐野美術館 渡邉妙子理事長)
「この三鈷柄剣を彫ったということは、これを持つ本多忠勝が、家康の為にはすべて戦う。自分の命かぎり戦う。絶対に、家康に逆らう者を許さないって、ものすごい働きをこの槍一本でする」
家康が生まれた愛知県岡崎市。
岡崎市出身で、長年、家康について研究している市橋章男さんです。大河ドラマ「どうする家康」では資料提供者として携わっています。
市橋さんは、忠勝が身をはって家康を守り、武勇をあげた戦いがあるといいます。
元亀3年(1572年)、当時最強と言われた武田軍との闘い。武田軍の圧倒的な戦力を前に徳川軍は撤退を重ねました。
そのとき、蜻蛉切とともに、武田軍の前へ立ちはだかったのが本多平八郎忠勝。
「一言坂の戦い」と呼ばれ、主君家康を無事に浜松城へ逃がす戦いが始まります。
(歴史家・市橋章男さん)
「一言坂の戦いというのがあったんですね。これはあの三方ヶ原の合戦の前哨戦みたいなもので。天竜川を渡った東側の方に『どうも武田の軍勢が来ている』と。その様子を見に、浜松城からおよそ4000の兵で徳川家康と本多忠勝たちが見に行ったわけです」
「斥候(偵察)として忠勝が様子を見に行ったら、おびただしい数の武田菱(武田軍の旗印)が見えたということで、『これはこのまますぐに浜松に戻った方が良い』と。『今ここで戦えば大変な損害を蒙る』ということで、(忠勝が)家康を逃がすんですね」
蜻蛉切を持ち戦う忠勝の姿は武田軍の心をもつかみ、その武勇をたたえる言葉が残されています。
「家康に過たる物ハ二ある。唐の頭に本多平八」
<一言坂の戦跡>
一言坂の戦いが行われた磐田市の教育委員会、室内美香さんに話を聞きました。
(磐田市教育委員会 室内美香さん)
「今こちら(一言坂)は磐田原台地の西の端になりますけれども、台地の急坂を(忠勝は)たくさんの武将たちと戦いながら下がっていく。『早く(家康を)天竜川を渡らせないと』ということで、必死で戦ったんじゃないかなというふうに想像します。しんがりを務めていて、その長い『蜻蛉切」という槍を振り回して戦ったというふうに伝えられています」
徳川軍の最後尾で武田軍の猛攻に耐える忠勝。蜻蛉切を縦横無尽に操り奮戦しました。
家康を守りぬく揺るぎない心で忠勝は武田軍を防ぎ、自らも生還を果たしました。
生涯を通じて家康を守り続けた忠勝。子孫や家臣にその心構えを伝え残しています。
侍というのは、首を獲らなくても、手柄を挙げなくても、難しい局面で逃げることをせず、主君に最後まで従い忠節を守って討ち死にすることこそ、侍のあるべき姿である。
(市橋章男さん訳)
(佐野美術館 渡邉妙子理事長)
「家康に対して、大将に対して、真剣にその命をかけて、自分がこの主人のために戦うという覚悟ですね。それは本当に日本の武士道を、心の底まできちんと覚悟を決めた本多忠勝の姿だと思います」
不動明王が彫られた蜻蛉切。今もやりが伝える、忠勝、覚悟の証しです。
<展覧会情報>
「乱世を駆け抜けた名刀―戦国の動乱から徳川の時代へ―」
2023年2月12日(日)まで
佐野美術館(静岡県三島市)にて開催
【動画】
取材・撮影:鎌田隆宏/音声・照明:小澤達也、足立祐三子/編集:福井菜実子
【NHK静岡「どうする家康」特集】
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