「公害の原点」と言われながら、その被害を認めて欲しいと裁判が続く水俣病。現在、熊本や大阪で続く裁判は佳境を迎え、判決の時が迫っている。長い年月がたっても司法の場に救いを求めるのはなぜなのか。提訴から現在までの道のり、そして、原告たちの思いを見つめる。
(熊本放送局記者・西村雄介)
【提訴から9年・今なお続く裁判】
2022年10月。熊本県水俣市や天草市、鹿児島県出水市などに住むおよそ30人が熊本市中央区にある熊本地方裁判所の門の前に集まった。
手に持つ横断幕・のぼり旗には「すべての水俣病患者を救済せよ」、「ノーモア・ミナマタ」の文字。
2005年に結成された水俣病の最大の被害者団体「水俣病不知火患者会」の会員で、国や熊本県、原因企業・チッソに損害賠償を求める裁判「ノーモア・ミナマタ第2次訴訟」を続ける人たちだ。
66年前に公式確認された水俣病。チッソが水俣市などの海に流した有機水銀に汚染された魚介類を食べた人たちは、手足のしびれを始めとした多くの症状を発症した。
補償を受けるためには、行政の審査を乗り越えなければならないが、この10年で認められた人は、申請したうちの1%以下。厳しい国の基準では水俣病と認められない人たちに実施された2度目の救済策で、その対象とならなかった人たちが、司法に救いを求めて裁判を続けている。
裁判が始まってから9年が経過し、原告の数は熊本地方裁判所に訴えた人だけでも、1400人を超えた。長い年月で亡くなる人も100人を超す中で、原告本人への裁判官や弁護士による尋問が10月から始まった。
【原告の訴えは】
「同じ魚を食べていた兄弟が救済され、自分だけが救済をされないのはなぜなのか。納得がいかない」
この日、法廷に立ったのは藤下節子さん、65歳。弁護士の尋問にあわせて、みずからの生い立ちや症状を赤裸々に語った。
藤下さんが生まれ育ったのは、天草市河浦町。自宅の目の前には海が広がり、両親は漁業を営んでいた。1日3食、煮付けや刺身など、不知火海で獲れた魚が食卓に並んだという。水俣や天草が囲む海は豊かな漁場で、長い間、人々の生活の糧となってきた。
体の異変を自覚したのは、12歳のころ。“からすまがり”という体がつる症状が、1日に3度ほど、ふくらはぎに出始めた。15歳のころには手先が「不器用になった」と感じ、ノートに線がうまく引けなくなったほか、両手の親指を除く4本の指が、付け根からつるようになった。看護師として働くなかで、手がしびれて注射が打てず、薬剤の瓶などの物を落とすようになると、医師から何度も怒られた。誰かに代わってもらえなければならなかったことに引け目を感じていた。
同じ症状があった人が救済策の対象となったことを知り、受診を勧められた。医師の診察を受けたところ、「水俣病」の診断を受けた。激しいふるえを伴う劇症型が水俣病の症状と思っていただけに、大きな衝撃を受けたが、「症状がなぜあるのかわからなかった分、診断を受けて安心をした部分もある」という。
兄弟2人は救済策の対象となった。両親は漁業者であり、近くの漁師から魚をもらうこともあった。水銀を摂取したこと、症状が水俣病であることに疑いはないという。思い返せば、みそ汁を茶碗につぐ時、手元がふるえ、床にこぼしていた両親の姿が記憶に残る。
「私たちの症状は見た目にはわからない。そういった人たちはたくさんいて、今も苦しんでいる。これから体がどうなっていくのかという不安をわかってほしい」
【特措法とは】
水俣病被害者特別措置法。13年前、紆余曲折の末に成立したこの法律をもとにして実施されたのが、水俣病史で2度目となる救済策だった。
[2010年5月撮影]
水銀を摂取したことを証明した上で、水俣病に特有の手足の先などにしびれがある人に、一時金と医療費が無料となる「水俣病被害者手帳」が交付された。申請期間は2010年5月から2012年7月の2年あまり。この間、救済を求めて手をあげた人は熊本・鹿児島あわせて6万3000人以上。このうち、3万6000人以上が、被害者として一時金などを受け取った。
しかし、現在に至る裁判の火種は、被害を受けたと行政が認める上での「線引き」にある。行政が定めたのは、「地域」と「年代」の線引きだった。
[紫色の地域が救済策の対象地域]
「地域」は、救済策よりも審査が厳しい患者認定を行うにあたって定められた公害健康被害補償法で指定された地域にのっとって決められた。水俣市をはじめ、対岸の天草市、上天草市の離島、鹿児島県の出水市や長島町など、不知火海の沿岸に沿うように救済策の地域が定められた。法廷に立った藤下さんが生まれ育った天草市河浦町、水俣市や芦北町などの山間部は対象外となった。
「年代」は、生まれた年に上限がかけられた。チッソが排水の流出を停止した翌年、1969年11月までに生まれた人が、水銀を摂取した可能性があると定めている。
これらの線引きによって、地域の外にいたり、年代が外れていたりする人たち、また、特措法の存在や2012年に申請が締め切られたことを知らなかった人たちが、線引きの妥当性を問うために、裁判に訴え始めた。
【集団訴訟、争点は】
裁判の争点は大きく2つ。水銀による汚染が不知火海全体に広がっていたことを証明した上で、原告たちが水銀を摂取したことが認められるかどうか、そして原告たちが訴える手足のしびれなどの症状が水銀によるものかどうか、だ。
1つめの争点について、地域外に住んでいた人たちに救済策が求めたのは、過去に水銀を摂取したことを証明する資料だった。例えば、当時、魚を購入したことを証明するレシートや家計簿、体内の水銀の濃度が分かる毛髪などだ。
しかし、公式確認から66年が経過した現在、その証明はたやすくない。原告たちが訴えるのは、激しいふるえを伴うものではなく、目に見えないしびれなどの症状で、みずからが水俣病とは考えていなかった。ゆえに水銀に汚染された魚を食べたことを、のちに証明するための証拠を用意するという発想は浮かばなかった。
そもそも、不知火海の沿岸に住む人たちがどこから魚を入手し、水銀をどの程度摂取して、どのような症状があるのかを確認する「健康調査」が、国や熊本県によって行われたことはない。被害を訴える人たちは、みずからその証明をしなければならないという高い壁に突き当たっている。
また、症状が水俣病によるしびれで、水銀によるものといえるかどうかが、もう1つの争点だ。多くの人が裁判を起こした時点ですでに高齢となり、何らかの病気を持っていた。手足のしびれや“からすまがり”などが水銀によるものなのか、他の病気が原因なのかどうか、厳密な因果関係を明らかにすることは、長い年月を経た現在では難しい。
そのため、原告たちは、地域での病気の広がり、その原因を突き止めるための「疫学」を用いて、摂取を証明したいと考えている。実際に、民間の医師たちが行った調査の結果、藤下さんが生まれ育ち、不知火海で漁をする漁業従事者などが多い天草市河浦町などの地域外に住む人たちは、水銀に汚染されていない地域として選ばれた鹿児島県奄美大島に住む人たちと比べ、多くに手足先のしびれの症状があった。
しかし、被告側の国などは、「疫学」は集団の因果関係を明らかにするものであるとして、個人に当てはめることはできないと主張する。
行政による不作為が積み重ねられてきた水俣病。厳しい条件が被害を訴える側に強いられるなかで、汚染の広がりや摂取の有無、症状の因果関係などについて、裁判所がどう判断するかが注目される。
【正念場迎える集団訴訟】
10月から始まった本人尋問は2023年春まで続き、その後、双方が最後の証拠を提出して結審し、来年度中の判決を目指している。
熊本の裁判のほかに、不知火海沿岸から東京や大阪などに移り住んだ人たちも同様の裁判を起こしていて、大阪は、2022年12月に結審する。ことし9月には、大阪地方裁判所の裁判長らが水俣市などを訪れ、海上から不知火海沿岸を視察した。弁護団は「汚染の広がりを実感してもらえた」と成果を強調する。
熊本地方裁判所の提訴から9年。火種となった特別措置法の条文には次のように記されている。
「国、関係地方公共団体、関係事業者及び地域住民は、前条の趣旨にのっとり、それぞれの立場で、救済を受けるべき人々があたう限りすべて救済され、水俣病問題の解決が図られるように努めなければならない」
法律が規定する「あたう限り」の救済に向け、手はさしのべられるか。今度こそ「ノーモア・ミナマタ」は実現されるのか。集団訴訟はいま、正念場を迎えている。
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