去年秋に全国公開された映画「MINAMATA」。
水俣病を世界に告発したアメリカ人写真家、ユージン・スミスを
俳優のジョニー・デップが演じ、
ユージンの視点で原因企業と戦う患者たちの姿が描かれた。
「映画をきっかけに、若い人たちに水俣病に関心をもってほしい」。
当時、映画の公開を取材した私がテレビで伝えた患者たちのことばだ。
一方で「その願いは実現されるのか、1本の映画で何か変わるのか」、
そう感じたのも偽らざる気持ちだった。
しかし、そんな私の疑念は1人の大学生との出会いで覆された。
彼女は私に言った。「バトンはつながっている」とー。
■出会いは突然に■
それは去年10月のこと。
水俣病を継続的に取材している私はその日も、
いつものように水俣市にある患者団体の事務所に顔を出した。
すると、見かけない若者の姿があった。なじみの支援者が紹介してくれた。
倉持陽菜子さん。東京から来た大学生だという。
聞けば、ジャーナリズムを学ぶゼミに所属していて、
自分でカメラを回してドキュメンタリーを製作する課題を与えられ、
水俣病を題材にと、単身やって来たのだそうだ。
東京の一学生を1000キロ以上も離れた水俣まで駆り立てたもの。
それが、映画「MINAMATA」だった。
たまたま予告編を見て興味を持ち、本編を見たという倉持さん。
教科書で学んだ程度の知識しかなかった彼女は、その内容を衝撃的だったと語る。
(倉持さん)
「夜に映画を見て、家に帰ってもしばらく眠ることができなかった。
水銀の被害をめぐって大きな闘争があった歴史を全く知らなかった。
今を逃したら2度と関わらない。飛び込んできたものを追いかけたかった。」
■記憶の継承が課題となるなかで■
「公害の原点」と言われる水俣病が公式に確認されてから60年以上。
これまでに2283人が患者として認定され、
そのうちの2000人余りがすでに亡くなった。
さらに存命の患者279人の平均年齢も80歳近くに達していて、
被害の実態や教訓をどう継承していくかが課題となっている。
そんななか、1本の映画を見てやってきた1人の若者が、
水俣で何を見て、何を感じるのか。
大いに興味を持った私はその日々に密着することを決めた。
■踏み出せない一歩・・・■
倉持さんがドキュメンタリーの撮影を本格的に始めたのは
暮れも押し迫った去年12月。
ハンディカメラ片手に鹿児島空港に降り立ち、バスで水俣入りした。
撮影の対象としたのが胎児性の患者たちだ。
水俣病が公式に確認された1956年前後に母親の胎内で水銀の被害を受け、
生まれた時から手足が不自由だったり、ことばがうまく話せなかったりして、
幼い頃から差別や偏見を受けて育った。
その多くは60歳を超え、しだいに症状も悪化。
1人で生活するのが困難な状況となり、
グループホームで食事やトイレ、入浴、ベッドへの移乗と、
介助を受けながら暮らしている。
「水俣病は、まだ終わっていない。」
そう思いを強くした倉持さんは、
ありのままに病気を受け入れて生きていくしかない彼らの姿を、
カメラのレンズ越しに記録していった。
一方で、彼女は私に対し、複雑な心情を吐露した。
(倉持さん)
「想像をはるかに超えるような人生を送ってきた患者の方々に対し、
部外者の自分がどこまで踏み込んでいいのか、
どこまで質問することが許されるのかわからない。怖くなる。」
それは、取材者なら誰しもが直面することだった。
私自身、水俣病の取材を始めて6年目になるが、しばしば同じ問いに立ち返る。
それだけ、患者たちが背負っているもの、背負わされているものは過酷なのだ。
■背中を押す出会い■
思い悩む倉持さんは、撮影の合間に1人の女性と出会う。
アイリーン・美緒子・スミスさん。
映画「MINAMATA」の主人公、ユージン・スミスの元妻だ。
アイリーンさん自身も当時、ユージンとともに患者を撮影し、水俣病と向き合った。
アイリーンさんは倉持さんに次のように語りかけた。
(アイリーンさん)
「日本の漁村で大変なことが起きていると聞いて、
私はユージンとともに水俣を目指した。
当時はカメラのフィルムの出し方もわかっていなかったが、
目の前で起きていることを伝えたいと必死だった。」
くしくもアイリーンさんが初めて水俣を訪れたのは、
今の倉持さんと同じ21歳の時だった。
アイリーンさんは続けた。
「何も知らないからこそ、できることがある」と。
このことばで、倉持さんは一歩踏み出す覚悟を決めた。
(倉持さん)
「私が映画をみたことで、新たな出会いが生まれた。
バトンはつながっている。水俣病の現実から、逃げずに向き合っていきたい」。
■患者の苦しみに迫る、その先に■
今回のドキュメンタリー取材で、
倉持さんは松永幸一郎さん(58)という胎児性患者の撮影を続けていた。
松永さんは、生まれた時から足に障害を抱えながらも、
懸命のリハビリで歩けるまでになり、若い時には自転車を趣味にしていた。
しかし、10年ほど前から股関節に激しい痛みが出るようになり、
今は車いすでの生活を強いられている。
「水俣病はどんなところが苦しかったですか?」。
倉持さんはこれまでためらっていた質問を松永さんにぶつけた。
(松永さん)
「ずっとマウンテンバイクに乗っていろんな所に行っていたが、
それもできなくなって、本当に苦しくて、もう足を切り落としてくれと思った」
そして、こう続けた。
「でも、水俣病になって苦しいけれど、人との出会いや交流が生まれた。
それは、水俣病になったからこその“のさり”だと思う。
自分が生きた証を残したい」。
“のさり”とは水俣で「天からの贈り物」という意味で使われることばだ。
倉持さんは松永さんへの取材を通じて、自身が水俣病と向き合う意義を見いだした。
(倉持さん)
「このままでは患者たちは忘れられていってしまう。
水俣病と闘いながらも日々を精一杯生きている。
彼らが生きた証、そういう人間らしい部分を私は伝えたい」
クリマスパーティーでケーキをほおばりながら仲間たちと見せる笑顔。
元旦に初詣で託す願い。
限られた時間のなかで倉持さんは患者たちと触れ合い、
そのいきいきとした、ありのままの姿を記録していった。
そして、年末年始11日間の取材を終えた。
映画をきっかけに、自らの目で今の水俣を見つめた倉持さんはこう語ってくれた。
(倉持さん)
「水俣病はまだ終わっていない、終わらないというということを伝えるために、
私にできることを精いっぱいやっていきたい」。
“水俣病のバトン”はつながっていく。
私はそう確信した。
■取材を終えて■
かくいう私も、大学を卒業する直前、8年前に水俣を訪れるまで、
小学校で学んだときの知識しかなく、水俣病は「昔の話」と思い込んでいました。
初めて水俣で患者たちと出会ったときは、何も言葉をかけられず、被害の実態や歴史を知らずに生きてきたことに恥ずかしさを感じたことは、今でも忘れられません。
罪悪感もあって取材を続け、映画公開にあわせて患者なども取材し、
「若い人に水俣病に関心を持って欲しい」という思いを伝えた私でしたが、
「何か変わるのだろうか」という気持ちも、正直ありました。
だからこそ、倉持さんとの出会いに「まさか本当にこんな子が」と衝撃を受け、
「彼女は水俣で何を見るのか」を伝えたいと取材を申し込みました。
倉持さんは、今後さらに、患者認定をめぐる裁判、5月の慰霊式も取材し、
6月にドキュメンタリーのコンテストに応募するそうです。
患者たちの思いに向き合った彼女のバトンは、誰に渡されるのか。
公式確認から66年。当事者たちが高齢化し、亡くなるなかでの貴重な動きを、これからも取材していきたいと思います。