クマガジン「写真家が見つめた“愛しい水俣”」

NHK
2022年5月13日 午後1:15 公開

幼くして体の自由を奪われた少女。

家族を失った悲しみに耐えながら、裁判を闘う人たち。

2022年4月から熊本市中央区で始まった写真展には「公害の原点」と言われる水俣病の患者たちを写した数々の写真が並んでいる。

いずれも、被害が公式に確認されてまもなくの1960年からこれまでに撮影されたもので、水俣病のせい惨な実態と、その今を切り取っている。

写真展を主催したのは、かつて水俣病の写真集を出版した9人の写真家たちだ。

多くの患者が亡くなり、記憶の継承が課題となるなかで、当時の記録が持つ重要性はいっそう増している。

しかし、写真のネガを守り続けてきた彼らもまた高齢となり、その記録の多くが今、散逸の危機にある。

残された記録をどう後世に伝えていくか。写真に込められた思いとともに取材した。

歴史に埋もれさせてはならない

2021年12月。

写真家たちは、それぞれが保存してきた写真のネガについて、デジタル化するなどして共同で管理・保存に取り組む「水俣・写真家の眼プロジェクト」を立ち上げた。

(写真家・芥川仁さん)

「人間によって引き起こされた取り返しのつかない出来事が数多くある中で、公害、水俣病の被害は、比類のない惨事だった。写真・ネガの長期保存が、その人類の過ちを検証するために役立つものと確信している」

被害を見つめた写真家

プロジェクトのメンバーには、水俣病の被害が公式に確認されてまもなく水俣に入り、カメラを構えた桑原史成さん、被害を世界に伝えたアメリカ人フォトジャーナリスト、ユージン・スミスとともに撮影に取り組んだアイリーン・美緒子・スミスさんなどが名を連ねる。

なかでも最も長く水俣に滞在し、その実態を記録したのが、塩田武史さんだ。

被害が世にまだ広く知られていない1967年に初めて水俣を訪れ、その後15年にわたって水俣に住み込んで撮影を行った。

今回のプロジェクトには2014年に亡くなった武史さんに代わり、その活動をそばで支えた妻の弘美さんが参加した。

「夫の意志を後世に残したい」との思いからだった。

(弘美さん)

「主人は『水俣病の人たちをみんな撮ってほしい、みんな亡くなってしまうから』と言われて、『見た者の責任としてずっと撮らなければ』と思ったそうです」

たとえ拒否されたとしても

武史さんが初めて水俣を訪れたのは、東京の大学でカメラ部に所属していた22歳のころだった。母親の胎内で水銀の被害を受けた胎児性水俣病患者のことを伝える新聞記事が目にとまり、水俣に向かったという。

足を踏み入れた患者宅で目の当たりにしたのは、何の補償もなく、被害と貧困に苦しむ姿だった。

衝撃を受けた武史さんはシャッターを切ることが出来ず、その場をあとにした。

東京に戻った武史さんだったが、水俣病患者が直面する現実を前に、何も出来なかったことへの後悔の念が日に日に増していったという。

そして、覚悟を決めた。

水俣に移り住んで本格的に取材活動を始めたのだ。

(弘美さん)

「『あんたが、この子をいくら写真に撮っても、病気はよくならん』と拒否されても、何回も何回も足を運んで、写真を撮らせてもらえるようになった。胎児性患者さんに会って、『こんなことが世の中で起きている、こんなことがあっていいのか』という思いで、写真を撮って、撮って、伝えようとしていた」

患者のもとに足繁く通い、シャッターを切り続けた武史さんが、その成果として世に出したのが写真集「深き淵より」だった。

そこには理不尽な公害がもたらす、せい惨な実態が刻まれていた。

罪悪感

患者に密着し、被害を告発した一方で、武史さんは大きな葛藤を抱えていた。

その胸のうちを語る姿が、生前、NHKが取材した映像に残されている。

武史さん)

「悲惨な写真を撮るというのは向こうも嫌だし、こっちも嫌だし、それを撮って写真家として食べていくということは非常に負い目というか、しんどさがずっとあった」

「愛しい水俣」

葛藤を重ねるなかで、武史さんがレンズを向ける被写体は、苦しむ患者たちの姿から少しずつ変わっていった。

患者に寄り添い続けた武史さんが、ファインダー越しに見つめたもの。それは患者たちの何気ない日常の営みだった。

武史さんはその数々をまとめ直し、新たな写真集を出版する。

そのタイトルは「愛しい水俣」だった。

(武史さん)

「水俣病になったからといって特別な人たちではない。生活者としての日常こそ訴える部分があるのではないか」

写真に刻まれた教訓を後世に

写真家のなかで最も長い期間、水俣に滞在した武史さんが撮影した写真は5万枚にものぼる。そのまなざしを後世に伝えるため、妻の弘美さんは今、膨大なネガの整理を続けている。

未公開のものも多く含まれ、そこには世間が抱く被害のイメージの裏側で、日々を生きる強さや喜びが刻まれている。

プロジェクト立ち上げの際、仲間の写真家や水俣の人たちを前に、弘美さんは武史さんの思いを次のように伝えた。

(弘美さん)

「夫は、水俣病を撮っているのではなく苦難のなかで、水俣で力強く生きている人を撮っていました。写真集を抱きしめて寝たいというほどの気持ちをずっと持っていた」

4月に始まった写真展で掲げられたのは、武史さんが残した膨大な写真のごく一部だ。すべてを保存していくことは容易なことではなく、整理し切れていないネガも山ほどある。それでも弘美さんは、そのすべてを後世に伝えたいと作業を続けている。

(弘美さん)

「みんな亡くなり、記録を残しておかないと歴史のなかに消えてしまう・・・。**『水俣病事件』という負の遺産から教訓を得て、今後の社会のためにいかしてもらいたい」

武史さんが見つめた“愛しい水俣”が人々の記憶に残り続けることを願っている。

【取材後記】

「人の不幸で飯を食う」

入局後、2016年に水俣病の取材を任され、この問題と向き合ってからは特に、この言葉について考えてきました。

水俣病の長い歴史のなかで、患者たちは多くの取材を受け、カメラのレンズに身をさらされてきました。被害だけなく、取材を受けることへの思いを、私も聞いてきました。とある患者の家族が「写真をとってもらって、いくらもらった?」と差別を受けたことを、「スター患者」と揶揄する残酷な言葉があることも知りました。世間の好機の目を向けさせる罪悪感。そのなかでどう話を聞き、レンズを向ければいいのか。迷いがあったから、武史さんの信念を探りたいと、今回、取材を始めました。

武史さんの写真集「深き淵より」をめくれば、被害の凄惨さを見ることができます。驚くのは、掲載されている患者の数の多さです。「奇病」とされ、親戚でさえ周りから離れていく、今よりもさらに激しい差別があった時代に、取材者として、武史さんは多くの患者と向き合いました。苦しさは、使命感より何倍もあったはず。一方で、その苦しさを武史さんが引き受けてくれたからこそ、当時を知らない私たちが、被害の甚大さに思いを巡らせることができます。

写真展のあとも、プロジェクトでは、記録を残し、見てもらうための取り組みを進めるとしています。写真の数は膨大で、私もほぼすべてのネガに目を通しましたが、大変な苦労です。並の忍耐力ではこなせない保存作業を弘美さんたちが担うのは、「残さなければ、歴史から消えてなかったことになる。そして、悲劇が繰り返されないよう、いつか活用されること信じている」からです。カメラが捉えた被害はもちろん、迷いながらレンズに記録を収めた写真家たち、保存する人たちの思いも、多くの人たちに伝わって活動の後押しになることを、強く願います。