「公害の原点」と言われる水俣病。
その悲劇が繰り返されないよう、国内外で被害の実態を語り続けてきた胎児性患者、坂本しのぶさん。
その活動を始めたのは、ちょうど50年前のある出来事がきっかけだった。
坂本さんの原点、そして、半世紀たっても変わらぬ思いを見つめた。
(熊本放送局記者・西村雄介)
【50年、語り続けてきた患者】
ことし66歳となった坂本しのぶさん。国内外で水俣病の被害を発信し続け、半世紀となる。この春3年ぶりに訪れた東京で、大学生に向けてみずからの思いを語った。
(坂本しのぶさん)
「自分たちは悪くないのに、どうして犠牲にならないといけないのか。
私は早く終わってほしいと思うけれど、被害者が頑張っていかないとだめだなと」
【苦難の歴史】
水俣病が公式確認された1956年に生まれた坂本さん。母親の胎内で水銀の被害を受け、生まれた時から手足が不自由だった。
歩き方をばかにされたり、「勉強を教えても無駄だ」と言う先生がいたり、いわれなき差別や偏見に苦しんだという。
(坂本しのぶさん)
「表に出たくなかった。みんなに水俣病の話をしたくなかった」
【ストックホルムが原点】
転機となったのはちょうど50年前。
1972年6月にスウェーデンで行われた「国連人間環境会議」だった。
各国の代表が集まって環境問題について議論した世界で初めての会議で、その後、気候変動などの地球規模の課題に取り組む、UNEP=国連環境計画の設立にもつながった。
当時15歳、中学3年生だった坂本さんは、被害を伝えるために海を渡る。人前に出ることへのおそれもあったが、母親、そして、水俣病研究の第一人者・原田正純さんにも背中を押された。
(坂本しのぶさん)
「行くのが嫌だった、初めて行くところが怖かった」
坂本さんたちは現地でデモ行進やビラ配りを行い、現地の人々の真剣なまなざしを感じる。涙を流す人もいたという。
外国で言葉が通じずとも、その姿から被害の深刻さを感じ取ってくれたことに訴えが届くことを実感した。この経験をきっかけに、少しずつ人前で語る決意を固めていく。
(坂本しのぶさん)
「ストックホルムは水俣病の話していくときの原点になった。
水俣病からは逃げられない。逃げたいと思っても逃げられない。みんなに知ってほしい」
【50年、語り続けなければならない現実】
あれから50年。
年々体調が悪化する中で、坂本さんは、なお語り続けている。それは、いまだ叶わぬ思い、悔しさと憤りがあるからだ。
(坂本しのぶさん)
「なんべんも、なんべんも言ってきた。水俣病は終わっていない」
公式確認から60年以上たった今も、坂本さんと同じ世代の人たちが被害を訴え、患者認定を求める裁判を続けている。
しかし、ことし3月、その訴えは退けられた。同じ3月には損害賠償請求を求めた裁判も最高裁判所から退けられ、敗訴が確定していた。
(坂本しのぶさん)
「私たちと同じ魚を食べたのだから、認定すればいい。
国も県もチッソも全然わかっていない。50年たっても全然変わっていない。
だまっていてもだめなんだと思う」
【現状を世界へ】
多くの問題が残る中、自分にできることは何か。ことしスウェーデンで再び開かれた国際会議で世界に訴えようと考えたが、ウクライナ情勢などの影響で叶わなかった。
その代わりに行ったのは、ビデオメッセージの作成だ。世界に残された環境問題などの解決も願い、SNSで国内外に発信した。
(坂本しのぶさん)「私たち胎児性患者は、だんだん歩けなくなっています」
(質問)「世界の人たちにどう環境問題に取り組んで欲しい?」
(坂本しのぶさん)「自分たちの問題として、考えて欲しいと思います」
坂本さんは、水俣病で苦しむすべての人が救われる日が来るまで、みずからが負った役割を全うする覚悟を固めている。
(坂本しのぶさん)「水俣病の話をしなくても良い時代になればいいなと思う」
【取材後記】
「水俣病は終わっていない」
その長い歴史の中で、幾度、幾人が、その言葉を発しただろうか。
伝える活動をしてきた数々の人たちの中でも、しのぶさんは「終わっていない」という言葉を数多く発信してきたと思う。強い言葉でみずからの体験を語るが、ふだんはとても穏やかな人だ。ドーナツとハンバーグが好きで、友人の誕生日を祝うことを忘れない。私もプレゼントをもらったことがある。人のことを思いやる、とても優しくて、温かい人だ。
そのしのぶさんが憤りを見せるのは、国や熊本・鹿児島県、チッソに対してだ。
「何も悪いことをしていないのに、なぜ犠牲に」。不条理に屈せず生きてきたが、いやも応もなく「被害の象徴」とされ、みずからが伝えることを「私の運命」と語った。
就職、結婚、出産など、多くの願いを断念せざるを得なかった。残された願いの1つは「今も水俣病の患者として認められない人たちが、1日でも早く認定されること」だ。
ことし3月、熊本県と鹿児島県に患者の認定を求めた60代の男女7人の訴えが、熊本地方裁判所の判決によって退けられた。原告たちは、しのぶさんと同世代で、患者が多発した集落で暮らしてきた。同じ魚を食べたことに疑いはないが、行政で申請を棄却され、司法にも翻弄されている。
公式確認から66年がたった。「被害者が頑張っていかないとだめ」という言葉を思う。どれだけ、被害者が頑張ってきただろう。国や県、チッソによる償いが充分になされない中で、救済への道を切り開いてきたのは、被害を受けた人たちだ。時に批判を受けながら、表に立ち、マスコミのカメラを向けられて、語ってきた。頑張らなければならないのは、誰なのだろう。
初めて海外に向かったのは15歳。周囲の視線におびえながらも海をわたり、現地の真剣なまなざしを感じた。日本語が通じなくても届いたその思いが、理不尽な被害を背負わせた側に伝わらないことに、どれだけ悔しい思いをして、この50年、語ってきただろう。
しのぶさんの存在に、いつまでも頼ることはできない。「水俣病の話をしなくてもいい時代」になるよう、今が真剣に耳を傾ける時ではないだろうか。