秋田県の「秋田」の由来。
皆さん、ご存じですか?
由利本荘市に住むペンネーム、くま太郎さんからの質問。
「あなたの知りたい!こまち調査隊」のコーナーで調査しました。
【さっそく県民に聞いてみた】
「わかりません」
「全然思いつかないです。稲がいっぱい実っている、そんなイメージがあります」
秋田市の中心部で尋ねてみましたが、「知らない」という人がほとんどでした。
秋田という文字から米づくりが関係しているのではないかという声もありましたが、なかなか手がかりがつかめません。
【歴史からひもとく】
秋田という名前はどうやって生まれたのか。歴史からそのナゾに迫るため、秋田県立博物館で、古代の歴史に詳しい秋田大学名誉教授の熊田亮介さんに話を聞きました。
熊田さんによると、歴史上で秋田という言葉が出てくるのは、なんと古代の歴史書「日本書紀」です。7世紀の飛鳥時代の記述の中に、秋田のルーツがあるといいます。
当時、東北地方に住んでいた蝦夷と呼ばれる人たちについての記録です。
そこで登場するのがこちらの「齶田」という見慣れない文字。「はぐき」という漢字に「田」を組み合わせて「アギタ」と読むそうです。
熊田さん
「この記録では現地で出会った蝦夷系の人たちが聞かれて、我々はアギタの蝦夷だと答えたんです。つまり現地の蝦夷系の住民がアギタという地名をつけていて、最終的にそれが秋田になると考えられます」
蝦夷と呼ばれた人たちが名付けた地名「アギタ」に「秋田」のルーツがあるというのです。しかし、アギタにどういった意味があるのかはわかりませんでした。
その後、8世紀になって現在の秋田県の「秋田」が出てきます。平安時代の土器からも秋田の文字が確認できます。どうして「アギタ」から「秋田」になったんでしょうか。
このころ、当時の中央政権が全国各地の土地の名前をつけていたそうです。熊田さんは、アギタという音にきれいでわかりやすい漢字をあてて、「秋田」という表記にしたのではないかと分析しています。
【秋田県はどうやって誕生した?】
こうして誕生した「秋田」という名前。
しかし、明治時代の初め、現在の秋田県の大半は、新政府によって久保田藩という名前に決められました。
江戸時代に藩主の佐竹氏が、現在の千秋公園のあたりにある「久保田」に城を建てていたためです。
ここからどのように「秋田県」が生まれたのか。もうひとつのナゾを解き明かすため、さらに調査しました。
訪れたのは秋田県公文書館です。秋田県の成り立ちに詳しい柴田知彰さんが、ある資料を見せてくれました。
明治時代に当時の久保田藩が政府に送ったという、この長い手紙。
柴田さん
「秋田が我が藩では最も古い名前だから由緒ある名前に戻したい、
久保田をやめて秋田に戻したいといってお願いをしているんです」
江戸時代につけられた「久保田」という名前に対して、「秋田」という名前は古代からの歴史があり、さらに比較的広い範囲を指す地名としても適切だというのです。
つまり、手紙には、藩の名前を「久保田」ではなく、歴史が深い「秋田」にかえたいという思いが長さ3メートルにわたってつづられていたんです。
政府に熱意が伝わったのか、手紙を出した4日後に久保田藩から秋田藩に名前をかえることが認められたそうです。
その半年後には廃藩置県が行われ、秋田県が誕生。その後、現在の由利本荘市などにあったほかの地域もあわせて今の秋田県になったのです。
最後に柴田さんに聞いてみました。
「願い書がなかったら、今の秋田県ってどうなっていたんですか」
柴田さん
「さてそれは難しいですね。小さな藩、大きな藩合併して再編成していますから。そのときに久保田県のままだったのか、秋田県のままであったのか、これはわからないですね」
ふだん、何気なく使っている「秋田」という言葉。しかし、その歴史をひもとくと、地域の成り立ちだけでなく、当時の人々の熱意まで感じられるようでした。
調査隊員 中尾絢一