「飾られた言葉を使へば民衆はいつの間にか誤った方角に導かれてしまふ」
太平洋戦争末期、新聞小説として連載される予定だった主人公のセリフは最後まで紙面に載ることはありませんでした。
小説を執筆したのは第1回芥川賞作家の石川達三。
新たに見つかった石川のゲラには、検閲との闘いの記録とともに、今に生きる私たちに通じるメッセージが込められていました。
(秋田放送局 記者 須川拓海)
発禁処分の芥川賞作家 石川達三
秋田県横手市出身の社会派作家、石川達三。
30歳の時、自らのブラジル移民の体験を基に書いた小説「蒼氓(そうぼう)」が、1935年に創設された「芥川賞」で太宰治らの作品を抑え、第1回目の受賞作品となりました。
その後、石川は1938年に発表した小説、『生きてゐる兵隊』で日中戦争での旧日本軍の描写が「反戦的」などとして発売禁止の処分を受けます。
それでも、石川は作品の発表を続け、戦時下における人間性の抑圧を描いた「風にそよぐ葦」や、教育の原点と人間の生きがいを問うた「人間の壁」など社会問題に立ち向かう話題作を発表。
「広い社会機構にぶつかって掘り下げ現実をつかみ出す作品を書きたい」
小説を通じて権力に対する庶民的な抵抗を描くことに生涯をささげました。
“幻”となった戦時下の連載小説
そんな石川のゲラが見つかったのはおととしのこと。
終戦直前の毎日新聞に連載した小説「成瀬南平の行状」のゲラでした。
「成瀬南平の行状」は知事に就任した幼なじみから、戦時中の県の施策について宣伝を担う「特別報道班長」に任命された成瀬南平の物語です。
終戦の約1か月前となる1945年7月14日。
「B29来襲 宇都宮を焼爆」「若き命を捧げて 敵を阻むこの一刻 今日も征く特攻機」「決戦だより」ーー。
戦争にまつわる記事で埋め尽くされるなか、紙面の下でひっそりと連載が始まりました。
物語では食料の配給が減るなかで、主人公の成瀬が県庁で高等官だけが食堂を使っていることを問題視し、県民に食料の増産を促すために高等官も弁当を持参することから始めるよう食堂で演説するシーンなどが描かれています。
成瀬の歯にきぬ着せぬ物言いは当時、「民主的な人間性にあふれた言動を持って、たちまち読者の熱狂的な人気の的となった」と新聞の社史に記録されるなど着実に読者の心をつかんでいきました。
しかし…
16回目の連載が載るはずだった7月29日。
小説は掲載されず、紙面の片隅に「本日休載」の文字が並びました。
当時の内務省の検閲により、理由が明かされることもないまま、連載は中止。
終戦後に正式に打ち切りが発表され、“幻の連載小説”となりました。
ゲラに刻まれた闘いの跡
なぜ、石川の小説は打ち切りとなったのか。
その謎を解くカギが、見つかったゲラから読み解くことができました。
ゲラは石川が当時、打ち切りとなった16回目の先、24回目分まで書き上げていたことがわかりました。
茶色くなった用紙には「検閲削」、「訂正」のはんこが至る所に。
そして、もともと書かれていた主人公のセリフを消して「議論」と書き直したり、原稿の一部を消してカタカナで「トル」と書きなぐった跡や、
ゲラの真ん中に引いた赤い線。
18話と19話の切れ目を入れた跡など石川がギリギリまで悩み、手を加えたとみられていて、こうした修正か所がいくつも見つかりました。
石川達三の作品に関する著書を書き、戦時中の検閲にも詳しい東京大学大学院の河原理子特任教授は、石川が検閲にあらがい悩みながら小説を進めていた経緯を裏付ける貴重な資料となったと指摘しています。
(東京大学大学院 河原理子特任教授)
「検閲についての資料はなかなか残っておらず、どのように行われていたかも実は十分にわかっていない。当時の経緯を知るためには1つずつピースを埋めていくようにして手がかりを探してくしかないので、その過程が明らかになるという意味でも貴重な資料だ」
“飾られた言葉”
特に河原教授が注目したのが19回目に予定されていた小説の文章でした。
主人公の成瀬が警察幹部に「戦況を『飾られた言葉』でごまかすべきではない」と主張する場面です。
「しきりにことばを飾る、飾られた言葉をもつて内容を誤魔化す、ごま化す目的ではないのだが、言葉を飾るから内容は自然にごま化される。宮庁や軍部がさういふ飾られた言葉を使へば民衆はいつの間にか誤つた方角に導かれてしまふ。これこそ日本における報道宣伝の通弊であり、そして国家を危ふくするもんだ」
ゲラには小説のセリフとはいえ、戦時下の報道姿勢に立ち向かう言葉がつづられていました。
セリフの最後にあった「国家を危うくするもんだ」という表現には吹き出しをつけて「危うくする場合もあるかもしれん」と語尾を弱めるようにも書き直しています。
さらにゲラにはこんなセリフも書かれていました。
「近頃は国民の方が先廻りして新聞記事の裏を読む、戦況ニュースを信用しない。これが即ち流言を産む一つの原因になつてゐるぢやないですか。日本中の心あるものが真相を知らせよと言ひつづけているのは、別の言ひ方をすれば(言葉を飾らないでもらひたい)といふことぢやないですか」
しかし、このセリフの部分には四角く囲んで大きく黒い×の印が残されていました。
一方、河原さんはゲラ全体を通して見て、検閲に応じて表現を大幅に緩めたあとは見当たらず、石川が戦渦で作品を通じ、作品を通じて読者にメッセージを届けようとしていたのだろうと推測しています。
(河原さん)
「語尾を弱めたとしても、飾られた言葉でごまかす報道宣伝自体がダメなんだという主張は変わらず、石川達三が検閲の意向に即して直そうとしたようには思えない。小説の形に仕立てて面白い読み物にしつつ、自分が言いたいことや主張を丸めて筆を曲げる意思は感じられない。自分の考えをあくまで小説として載せようと格闘したということだと思う」
最後の最後にぶちまけた
石川は当時、どんな思いを持ってこの小説に取りかかっていたのか。
石川達三の長男で今回、小説のゲラを秋田市の図書館に寄贈した旺(さかえ)さんです。
戦後になって、当時の「成瀬南平の行状」について検閲の際に受けた取り調べを熱心に話す父親の姿を覚えていました。
(達三の長男・石川旺さん)
「終戦の2~3日前に長時間の取り調べを受けて、『最後の最後に言いたいこと全部言ってやろうと思って全部その取り調べの刑事に向かってぶちまけてやったんだ』っていうことを言っていました。すると、刑事が黙って聞いて『わかりましたどうぞお帰りください。あなたは私が今まで話した中で一番の人格者でした』と言ったという話を気に入っていたようで、何回も聞きました」
戦後にみずから書いたエッセーでも、終戦直前に丸2日間、警視庁と隣の内務省の情報局を行ったり来たりして取り調べを受けたと記している石川。
旺さん自身もメディア論の研究に進み、現在は上智大学の名誉教授を務めています。旺さんは、父親である石川は、この小説を書いたころはすでに日本の敗戦を意識し、思いの丈を文章にしたためていたのではないかと感じています。
(石川旺さん)
「これはもう書き残すしかないっていう気持ちがあったんでしょうね。『成瀬南平の行状』の前にも、全く日の目を見なかったですが“遺書”という作品も書くなど、自らの主張を届けたい気持ちが強かったと思います」
言論統制下であっても、軍部や官僚の不都合な真実を伝える必要性を訴えた石川。
ただ、専門家の河原さんも息子の旺さんも石川は当時、反戦主義者ではなく強い愛国者だったとも感じています。
それは、戦争について国民に本当のことを知らせたうえで人心を集め、みんなで戦うことが必要だと小説で主人公の成瀬が主張していることからもうかがえます。
不都合な真実を「飾られた言葉」で塗り固めることで、物事の本質が見えなくなることは避けなければならない。
石川は世に出ることのなかったゲラで繰り返しそのことを訴えていました。
未来に残す石川の言葉
この「飾られた言葉」
戦時下ではない今の日本であっても、本質を見えにくくするかのように多用される表現は見られます。
むしろ、SNSなどの広がりによって、伝える側の組織や個人が見えにくくなり、知らずに表現に規制がかかる恐れがあることを考えれば、当時よりも不都合な真実を見出すことは難しくなっていると言えます。
だからこそ、石川達三の息子の旺さんは、ゲラのメッセージはこの先に生きていくと考えています。
(旺さん)
「この次に言論に対する迫害が起きたときに、何がどういうふうに進んでいくのか、見当がつくだろうと思うし、そういうものに対して毅然とした態度をとれるかどうか、このゲラはそのための手がかりを残すという意義もあると思っています。この先、とんでもない言論弾圧の時代が来るかもしれないので、そういう時のために役立ててほしい」
飾られた言葉で誤った方角へ向かわないように。
発見された石川のゲラは改めてそのメッセージを伝えてくれています。
須川拓海
2018年入局。津局を経て去年夏に秋田局へ。
戦時下に自らの命を賭した石川達三の“伝え手のきょうじ”に触れ、私自身も「飾られた言葉」でごまかさずニュースを伝えていこうと思います。