【リアリティーはなかった】
船木信一さんは日本海中部地震の津波を撮影したとき、そのリアリティーを感じなかったといいます。
船木信一さん
「正直、最初はそんなに怖いっていう感じはなかったんです。実際に津波を見たけども、津波の被害がどの程度になるのかはまったく想像がつかなくて。津波は下から上まで3メートルくらいの高さに見えたので、そのくらいだったら、たいしたことないのかなって」
撮影:船木信一さん
船木さんは当時、男鹿市の旧北磯中学校で駆け出しの教員。体育館でバレーボールの授業中に激しい揺れを感じ、すぐに生徒たちを校庭に避難させました。
「沖のほうが白い」ある生徒が口にした言葉を聞いて、反射的に「津波」だと感じたといいます。船木さんは車に積んでいた私用のビデオカメラを手に取り、無我夢中で沖にカメラを向けました。映像には沖から真っ白い壁のようにして迫ってくる津波がはっきりと映っていました。
「リアリティーがない映像」
モノクロのファインダーをのぞきながらそう感じたといいいます。
【感じたのは無力感】
しかし、船木さんの思いは覆されます。帰宅後にラジオを聞いていると、県内で次々と被害が伝えられていました。カメラを持って沿岸の地域をまわり、船が乗り上げている浜、けたたましい音を上げながら飛ぶヘリコプターを映像に収めていきました。
小学生13人が津波の犠牲になった加茂青砂海岸
市内の加茂青砂海岸では、心配そうに海を見つめる人々の様子が目に入りました。そこでは、遠足に訪れた小学生13人が行方不明になっていることが分かりました。捜索を続ける人たちを前にこれ以上は撮ってはいけないとカメラをおろしました。
「小学生の命を救うために、何もできない」
その後は無力感で呆然と立ち尽くすのみでした。
【映像で津波の怖さ教える】
「自分にできることはないか」船木さんは、少しでも被害を減らすためには、教訓を伝えることが重要だと考えました。そして、自らが受け持つ理科の授業ですべての生徒たちに津波の映像を見せることにしたのです。
「地震のあとには津波が繰り返しやってくる」
「日本海側でも日本中どこでも津波がおきる可能性がある」
「とにかく高い所に逃げること」
この事実だけは知っていてほしかったといいます。こうして、船木さんが授業で伝えた生徒は、およそ2000人に上りました。
【救われた命】
船木さんの思いが報われる日がありました。田仲光輝さんは、中学3年生の時、船木先生が担任の先生でした。
田仲光輝さん
12年前の東日本大震災で、岩手県の大槌町に仕事の営業で訪れていたとき、経験したことのない大きな揺れに襲われました。激しい揺れは、異様に長く感じられ、車が壊れるかと思うほどだったといいます。
田仲さんが三陸に来たのは2回目でした。土地勘は全くなく、いち早く秋田に帰らなければと、すぐに国道で釜石方面に向かいました。しかし、渋滞で進めなくなり、ふと横を見ると、逆流した川の水が堤防を乗り越えていました。
思わず車を飛び出して、津波を逃れるために、とっさに電柱につかまって4メートルほどの高さまで上りました。そのとき頭をよぎったのは、船木さんが授業で見せてくれた映像だったといいます。
「津波は第一波があれば、第二波もあり、高いところに逃げる必要があるという話を聞いていたので、冷静に行動することができました。船木先生は私の命の恩人だと思っています」
田仲さんは波が一度ひいたタイミングで高台に避難し、津波の被害を免れました。しばらくして、船木先生に電話をして感謝の気持ちを伝えました。
船木さんは、この経験をきっかけに映像投稿サイトに津波の動画をのせました。映像を見ることが命を守る行動につながることを願っています。
「東日本大震災でかなりの人が亡くなっていた中で、教え子がその中の1人になっていたかもしれない。それを防ぐことに繋がったのかなと思うとやっぱり嬉しかったです。100の言葉を尽くしても伝えられないものがたかだか1分の映像で伝わることがある。伝えることによって,のちのちの人に警鐘を鳴らすことは大事だと改めて思いました」
取材 中尾絢一
2016年入局。秋田局で経済担当。前任の苫小牧支局では胆振東部地震を取材。