『あなたの知りたい!こまち調査隊!』に寄せられた「牧野富太郎さんは秋田に来たことがあるそうですが、具体的にどこで何をしたのでしょうか?」という由利本荘市のぴろぽんさんからの投稿。
牧野博士の足跡を調べるべく、網隊員が調査に。
牧野博士にとっても秋田は思い出深い地!
牧野博士の日記などによりますと、1927(昭和2)年と、1928(昭和3)年に秋田を訪れています。中でも、1927年は8月から9月にかけて1か月秋田に滞在しました。
よく見ると、日記には、『秋田県行ノ年』の文字が。それくらい、秋田は、牧野博士にとって思い出深いものになったと考えられています。
そもそも、牧野博士が秋田に来たのは、国有林などの生態調査のために、秋田営林局(現・東北森林管理局)に招かれたためでした。8月18日に秋田に入った牧野博士は、本荘や鳥海山を回った後、八幡平の山頂などにも登り、様々な植物を確認していきます。
「私は間違っていなかった」
一方で、牧野博士にとっても大きなできごとがありました。このころ牧野博士は、2本の花茎(花のついた茎)のあるナンキンコザクラの絵を載せた図鑑を発行しました。すると、他の学者から2本の花茎のコザクラ類は存在しないと攻撃を受けてしまっていたのです。
牧野博士は、八幡平の山頂付近で咲き乱れるヒナザクラの姿を見て、花茎が2つあるものがあったら教えてほしいとお願いしました。そのようなヒナザクラがないか、同行者がそれぞれ注意して探します。東京営林局から参加した人が2本の花茎のヒナザクラを見つけ、牧野博士に渡すと、「ああ、これでりゅう飲が下がった。私の意見に間違いはない」と小躍りして喜んだそうです。
調査の疲れを癒し、地元の風習にも触れた蒸ノ湯(ふけのゆ)温泉
調査の疲れを癒したのが、八幡平にある温泉・蒸ノ湯(ふけのゆ)です。神経痛や疲労回復に効果があると言われています。また、牧野博士は、蒸ノ湯で、地域の風習にも触れていました。地元では金勢様と呼ばれる神様に木を奉納して、健康や子宝など祈る風習があります。実際に牧野博士もご神木を奉納しました。
そして、蒸ノ湯の女将・阿部恭子さんは、牧野博士が蒸ノ湯に泊まった時には、地元の山菜をふんだんに使ってもてなしたのではないかと考えています。阿部さんの想像では、牧野博士に出した山菜料理の一部、下の写真のような感じだったのではないかということです。じゅんさい、わらび、ふきなどです。
蒸ノ湯での出会いが日本に影響を与える!?
実は牧野博士のこの蒸ノ湯での山菜との出会いが、後の日本に大きな影響を与えた!かもしれないと指摘している人がいます。それが、鹿角市長の関厚さんです。関さんは、林野庁の元職員で、牧野博士や山菜について調べてきました。
関さんの調査などによりますと、牧野博士は1941(昭和16)年3月20日、まだ山菜という言葉が一般的ではなかった中で、ラジオの全国放送で、山菜について話をしたということです。それが後に、山菜という言葉が全国に広く知られるようになるきっかけの1つになったのではないかと考えています。
しかも、この放送内容が、1927年に牧野博士とともに秋田県内を調査した営林局の佐伯直臣さんが書き残したものに似ている箇所があります。そのことから、あくまでも関さんの仮説ですが、鹿角市の蒸ノ湯に泊まった時に、秋田の人と交流して山菜談議で盛り上がり、それが1941年のラジオにつながった。つまり今のように全国各地で山菜という言葉が使われるようになった要因の1つに、鹿角市があるのではないかと考えているのです。
秋田と牧野博士と山菜の意外なつながり。いかがでしょうか?この内容について、9月29日午後6時10分から総合テレビで放送の『ニュースこまち』でもご紹介する予定です。