頭頂に「ドスン、ドスン」とたたきつけるような鈍い痛み。
しかし、それは不思議と、心地よさに変わり、半日以上持続した。
齢44にしてもなお、新たな発見がある。
新緑まぶしい寺でのひとときを、忘れない。
(彦根支局・藤本雅也)
5月21日、日曜日の朝。
私は、滋賀県と京都府にまたがる岩間山にある岩間寺に出かけた。寺が年に2回、5月と10月に行っている「ほうろく灸」の取材だった。
寺の客殿には、「ほうろく」という素焼きの皿が机に所狭しと並んでいた。私は、この取材に行く前から「自分もやってみる!」と決めていた。
昼の放送に向けた原稿を書き終え、心おきなく客殿の小さな椅子に腰を下ろした。
「ほうろく灸」は、午前9時ごろからお昼頃まで、ある程度、まとまった人数が集まると何度も行われていて、私が着席して待っていると10人ほどがそろい、「ほうろく」に「もぐさ」が盛られて、火がつけられた。
「あらかじめ、頭にハンカチを置いてもかまいません。火の付いたもぐさが落ちないよう前のめりにならないように、皿を両手で支えてください」と教えてもらう。
私は、ハンカチを置かず、直で体験することにした。
「ほうろく」の端を持ち、「百会(ひゃくえ)」というツボがある頭頂のへこんでいる部分に、皿の1番深いところを当てる。
ほどなく、僧侶のお経が始まり、私は静かに目を閉じた。
『ふむ。「ほうろく」の厚さは3センチほどか。まだ、ひんやりと冷たいな。どれくらいで熱くなるのか』。
集中できないのはいつもの悪い癖だ。
なかなか熱くならない。
『弘法大師・空海が広めたとされるこの「ほうろく灸」。自律神経を整えつつ、煩悩も取り払うとされているのだっけ』。
うっすら目を開けると、私の前の人たちの頭から煙が上がっている・・・。
『もくもくとあがっている煙は、もしかしたら煩悩なのかもしれない・・・』
一度そう思ってしまうと、そのことが頭から離れなくなってしまった。
5分ほどたっても熱くならない。
『当てる場所が違うのかな?』
「ほうろく」をずらしたりしてみる。
しかし、あまり変わらない。
『このまま熱くならないで終わるのかな?』
と思った矢先・・・。
熱さと同時に「ドスン、ドスン」という鈍い痛みが小刻みに頭頂を襲った。
頭に押し当てていた「ほうろく」を、反射的に浮かす。
『いや、それでは意味がない。我慢だ! いや・・・熱くて無理だ!』
これまで繰り返してきた”自分との対話(ひとりごと)”をしている場合ではなくなり、うっすらと聞こえていたお経も耳に入らなくなった。
後から、振り返ってみて気付いたことだが、このときの私は、たった1つのことだけに神経を集中させていた。
「自律神経を整え、煩悩を取り払うために、熱さに耐える!耐えるんだ!」と。
そう、私の意識は、”今、この瞬間”に向けられていたのだ。
そして、いつの間にか、もぐさは燃え尽き、「ほうろく」は回収された。
頭頂を触ると、ほんのりと温かい。気のせいか、鼻の通りが良くなり、体の芯がぽかぽかとし、目の疲れもとれたように感じた。(※個人の感想です)
時間にして、わずか10分ほどの出来事だった。
帰り際に、お経を唱え続けた僧侶は、私にこう語った。
「このせわしない世の中。ふだんと異なる環境に身を置く時間をとることが大切です。
心のゆとりがうまれますよ」。
客殿を出ると、感覚が研ぎ澄まされたのか、空気がより涼しく感じられ、
鳥のさえずりも、より鮮明に聞こえ、新緑も鮮やかさを増しているようだった。
私は、また、せわしない日常に戻っています。
ですが、あの日、熱さとともに感じた、「意識をいまここに集中させる」という感覚はいまでも思い出すことができています。
日々、いろいろやることがあり、思い通りに行かないことも多いですが、慌てたり、不安になったりせず、意識を集中させて、一つ一つ、今できることに全力で取り組むこと。そうすると、自然と「心のゆとり」も生まれてくるような気がしています。それでも忘れてしまいそうなときには、またお灸を据えてもらいに行きたいと思います。