3月25日(金)のザ・ライフ「帰れない 帰らない~沖縄の“香港人”ゆれる心模様」を担当した、ディレクターの姚(ヤオ)です。
3年前起きた政府に対する大規模な抗議活動をきっかけに、香港社会の分断と閉塞感は深まっていきました。2020年、反政府的な動きを取り締まる「香港国家安全維持法」の施行後、民主派メディアが相次いで閉鎖させられるなか、海外へ移住する香港の市民は増え続けます。去年その数は返還後最多の、9万人超えました。
実は沖縄にも香港の人々の姿が…。
彼らは沖縄でどういう営みを続け、どうアイデンティティーを保とうとしているのでしょうか。
また、香港がイギリスから中国へ返還されたちょうど25年前、沖縄がアメリカから日本へ返還されました。そんな彼らにとって運命的な地とも言える沖縄で、彼らはどんな発見をし、どう自分たちを見つめていくか、ドキュメンタリーを作りたいと思いました。
YouTubeで香港に発信を続ける夫婦
香港と日本に行き来し、バイヤーの仕事をしていたエイミー・ダンさん(上記写真の女性)は2016年に家族(夫:ケン・レオン、娘:ミア)と沖縄へ移住しました。民主的な選挙を求めた雨傘運動(2014年)の失敗後、香港の政府と教育環境に失望したからという理由でした。
沖縄に惹かれた理由について、エイミーさんはこんなエピソードを教えてくれました。
「一番印象に残ったのがミアを公園に連れていった時、その現地の子供たちのふれあいを見て、あっ沖縄いいなって思ったんですね。ミアが川を渡ろうってなって、でも、ちっちゃかったから、多分怖くてなかなか一歩踏み出せなかったりとかした時、むこうからその小学生たちが手を出して助けてくれたんですよ。それですごい沖縄好きになりましたね。」
夫婦は沖縄でインバウンド客向けのダイビングショップを立ち上げ、安定した生活を送ってきました。しかし、コロナ禍で店が2年間休業、今は借金と貯蓄などで、従業員と自分の生活を維持しています。
一方、この間、香港では、社会の統制が強まり、反政府的な動きを取り締まる「香港国家安全維持法」が施行されました。「リンゴ日報」など民主派メディアが相次いで閉鎖させられるなか、夫婦は独特な表現で香港にメッセージを送り続けてきました。
(ケン・レオンさん)「私たちは共感を提供したい。あなたは一人ではないと伝えたいのです。」
(エイミー・ダンさん)「知る権利。知った上で国を選んで欲しいというのもあるし。積極的に移民してくださいというスタンスまったくなくて。あくまでも選択の自由というのがすごく大事だと思うんですよ。人間として私の中では。」
しかし、去年年末、エイミーさんのネットでの発言を心配した友人から、こんな忠告が――
夫婦は今年2月、沖縄・北谷町で新たなビジネスを始めました。地元の方々に、エッグタルトやクリスピーポークなど、本場の香港料理を提供するテイクアウト専門店です。
(エイミーさん)「やはり娘もいますから、リスクがあれば別にリスクを負ってまで帰りたいと思わないから、やはり帰らない方がいいかってちょっと決心ついたかもしれないですね。」
子供のアイデンティティは「本人が決めるべき」
16歳のチュエン君(上記写真左から2番目)は、2019年に、家族と沖縄に移住してきました。移住はチュエン君の父、ジャッキー・リーの判断によるものでした。
「当時なぜ沖縄に来たかというと、チュエンが香港の政治に対し、彼なりの考えを持ち始めたからです。まだ13歳だったので、何かして捕まったらどうしようと心配だった。一番大切なのは子供たちの安全。」
政府による社会の統制が強まるなか、知人や家族の間でも割れる香港の人たちのアイデンティティー。沖縄で生きる移住者たちの思いを聞きたいと思い、香港で1997年以来続けられているアンケートの設問を親子にぶつけてみました。
(ジャッキーさん)私は「香港の中国人」。
(チュエン君)俺だったら「香港人」。
(ジャッキーさん)香港で生まれて国籍は中国、これは否定できない。
(チュエン君)僕の考え方に反対?
(ジャッキーさん)どんな意見も、その人の自由なので私は反対しない。家族であれ意見が違うのは問題ない。政治的な意見によって家族でなくなるわけはない。ただ危険が及ぶなら、見逃すことはできない。大事なのは自分の身の安全を守りながら、理念を貫くことだ。
コロナ禍のなか、沖縄のあるホテルでITコンサルタントとして雇われていたジャッキーさんは解雇されてしまいました。それでも、香港にはもう帰らないと決心し、事業を起こし、家族と沖縄で懸命に生きています。
そんな父を支えるため、チュエン君も昨年5月からアルバイトを始めています。
沖縄で見つけた『ゆいま~る』の心
クリセルダ・リョウ(上記写真一番右の女性)とケルビン・リー(上記写真右から2番目の男)夫婦は2020年秋に沖縄に移住してきました。
きっかけについて、ケルビンさんは克明に語ってくれました。
「僕は催涙弾が初めて発射された瞬間に、その近くにいました。その瞬間を目撃してしまったのです。この場所にはいられない。ほかに住むところを考えないといけない。そう思った決定的な瞬間でした」
(クリセルダ・リョウさん)「両親とは仲がいいのですが、相談をすることはしませんでした。全ての手配が終わって、1か月前に日本に行くことを伝えました。私たちの決断を理解し、応援してくれました。私は一人っ子なので親がさみしがり、止められると心配でした。私たちが求める生活を応援してくれた両親には感謝しています。」
夫婦は香港でインテリアデザインの会社を経営し、経済的に恵まれている生活を送ってきました。しかし、日本では容易に仕事を見つけることができませんでした。そんな苦悩が続いているなか、ケルビンさんは隣人から思いにもよらない声掛けをされました。
「ある日、駐車場で近所の人が声をかけてくれました。『お店でスタッフを募集しているが、手伝ってくれないか』と。日本語が話せないと伝えると、『大丈夫、簡単な仕事だ』と言われました。そして雇ってくれたんです。今、彼のお店で働いています。本当に感謝しています。」
その隣人は読谷村で琉球ガラス工房を20年以上経営してきた屋良彰さんです。
「最初は引っ越してきたときに、うちのポストに手紙が入ってそれで 経歴とか書いてて、よろしくお願いしますって書いていたので何か面白いなというのが第一印象。」
屋良さんはケルビンさんのために英語と日本語を対照させた接客メモを作り、お店でもケルビンさんの仕事にいつも気をかけていました。
(屋良 彰さん)「自分が貧しくても困っている人を助ける。助けてあげたから助けてもらおうというわけでもなくて、とにかく困っている人を助けてあげたい。助け合いが縄みたいにつながっていって、この共同体ができていくっていうのが沖縄の『ゆいま~る』の心じゃないかなと思っていて。」
さらに、屋良さんは琉球ガラスに代表される沖縄のたくましさを教えてくれました。
「戦争の時に那覇にあったガラス工房は全部なくなったので、戦後もう一度再建しなきゃいけなかった。その後アメリカ兵の好みを取り入れたり、近年は観光客の注文に応えるようになり、表現がどんどん多種多様になっていった。沖縄という場所は琉球王国から、薩摩藩の時代を経て、アメリカ統治も経験した。異文化に染まるんじゃなくて、異文化を飲み込んでいって、自分たちの文化の深さを増していくというのが沖縄の文化力。弱い人たちが持つ強さと思う。そういう意味で、香港の人たち気持ちを共感する。」
取材を経て、香港の人々が沖縄の地にたどり着いたのは、必然かもしれないと感じた瞬間が幾度もありました。これからも、彼らが沖縄でアイデンティティーを保ちながら、共存していく姿を追いかけたいと思います。
NHK福岡放送局 ディレクター 姚忻如(ヤオ・シンル)