吉本さん江藤さんが体現していた “その他”の可能性
90年代前半まだ80年代の残り香が漂う頃、ディレクターとして何か新たな時代を捉える企画をと暗中模索する中、80年代編に登場したお二人に取材でお会いしました。思想家・吉本隆明さんと文芸評論家・江藤淳さんです。
80年代編では、コムデギャルソン論争や「なんとなく、クリスタル」をめぐる批評など、膨張を続ける高度消費社会、記号の消費と化した資本主義の時代にどう対峙するかという問題意識に絡んでお二人のエピソードもご紹介したわけですが、言わば「正統」的な論壇、文壇の知識人のこの企画への登場に、いよいよサブカルチャーって何だ?と思われた方もいらっしゃったことでしょう。しかし80年代という錯綜する時代は、聖俗硬軟、様々な表現の境界が溶け出していた時代でした。
江藤淳は文学潮流がマンガなどの下位文化に絡まって反転していく動向を「文学のサブカルチャー化」ととらえ、吉本隆明は下部構造がもはや上位文化を決定しえなくなっている事態をアルチュセールの見方をひねって「重層的な非決定」という用語で説明した。 (松岡正剛「千夜千冊エディション サブカルズ」)
松岡さんが端的に表現されたように、時代のうねりの中、お二人の思考の中にも「サブカルチャー」というテーマが浮上していたのです。
しかし、この番組で触れる理由はそればかりでもありません。毎回、玉木宏さんによる「メインから零れ落ちるエネルギー」との宣言から始まるように、はみ出す思想、名づけ難い感性、時代のノイズ…など、それまでの枠組みに「ハマりきらない」事象に新たな眼差しを向けること、すべてがサブカルチャー精神と捉えようという企画なのですから。言わば「メイン」とはならない、「その他」の可能性を探究する精神です。消去法でしか語れない「その他」の可能性に着目する時、論壇、文壇、ひとまずはハイカルチャーとして、「メイン」ストリームに位置づけられる「知性」たちもまた、様々な「その他」の顔を持っています。そしてまた、吉本、江藤というお二人の立ち居振る舞いの面白さも「その他」に向けられた眼差しにあり、またのびのびとある域を越えていってしまうところにありました。その意味で、殊に80年代以降の吉本さん、江藤さんの感受性の中にあったサブカルチャー性に着目してみることは、この国の形を考察する上でも、ちょっと面白い問いとなるでしょう。
今でも、ご自宅の庭に干してあった洗濯物を取り込みながら、飄々と柔和な表情で答えてくださる在りし日の吉本さんの表情、姿、声のトーンなどが鮮やかに思い出される時があります。それは、闘争の季節の学生たちに大きな影響を与えたとされる「共同幻想論」の著者、思想界の巨人という厳ついふれこみをあっさりと覆す、柔らかな伸びやかな思考の運動がそこにあると感じられた瞬間でした。何より、言葉のキャッチボールがいつも自由なのです。一人の人として、そこにあって、そこで感じ、そこで思考し、言葉にしようとする、他者の言葉を真摯に聞こうとする、市井の一人の人の感受性がありました。小さな、一つの心のさざ波から出発し、その感情を大切にする、自らの中に湧き起こる生理的な感覚と、高尚とされるような思想との間に常に連続性を持たせようとする思考と言い換えてもよいのかもしれません。その思考はしばしば、「思想」などというカギかっこの中に納まらずはみ出していってしまうもののように感じられました。端的に言えば、自分の心の中の違和感の源泉を探し求め、そこから深めていくのでなければ思想に値しないという潔いスタンスがあり、逆に言えば、思想というものが美辞麗句で高みへと祭り上げられていくことへの警戒があり、その意味では、常に「その他」の顔を持ち続ける人としての膨らみがあったように思います。
同じ時期にインタビューさせていただく機会があった江藤さんも、この柔和さ、観念と生理を繋ぐ柔軟な精神の運動においてまったく同じ感覚を抱くのですが、お二人が右と左というような世間からの紋切り型の位置づけなどに囚われることなく、定期的に文芸誌で率直に語り合う姿にも、合点がいったものでした。
今にして思えば、もう三〇年ほど前になってしまうわけですが、お二人にお目にかかった際に感じた思い、感覚、そして心に残った問題意識が、この「世界サブカルチャー史」という企画のベースに息づいているように思います。
“80sバブル” から “90sリアル”へ…という虚構?
さて、少々脱線が長くなってしまいましたが、60から90年代の日本社会の空気の変遷をフラットな眼差しで見つめ直してきたこのシーズン3も、ひとまず、最終回です。
90年代という時代に、みなさんはどんな思いを持ちますか?80年代との対比から、バブル崩壊の物語がやはり大きな印象を残すのかもしれません。不良債権処理、就職氷河期などの言葉が巷に溢れた時代、事後的に見出される物語ではありますが、「失われた30年」の始まりという印象が大きいのも致し方ないところでしょう。95年には、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件という大惨事があり、「危機の時代」「切断の時代」としても記憶に刻まれていることも確かです。「バブル」という潮が引いた後、剥き出しとなった散乱する残骸の中で、「リアル」に向き合おうとした多くの日本人、80年代の「夢」から抜け出し、「現実」に生きようとした、90年代というところでしょうか。
しかし、「リアル」に適合しようとしたのはいいけれど、実はまだ「リアル」と思わせられるような夢の中だったとしたら、どうでしょうか?「バブル」という「泡」の夢がはじけて出会った「リアル」の世界は、「自己責任」の厳しい世界とばかりに思い定めて頑張ったのはいいけれど、それもまた新たな夢だったとしたならば…。
こんな、映画「インセプション」のような妄想を抱かなくもありません。時代が見せる夢の物語の中で、人は生きます。80年代までの「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」による「日本的経営」礼賛の時代から、あたかも正解は一択であるかの如き「グローバル・スタンダード」の時代へ。「富を生むルール」は密かに書き換えられていく…、とは、「欲望の資本主義」の問題意識ですが、社会に漂う空気、人々の心の底に眠る想いの形から、いつの間にか、「時代の正解」「時代のルール」が形作られていくことに、複雑な感慨を抱きます。
そう考えると、90年代に80年代の祭を反省し「現実」を直視せよ、というモードの中で展開されていたこと、多くの人々が駆り立てられていた、あの時代の必死な思いについても今一度、吟味してみる必要があるのではないでしょうか?どこか空転する焦りへと転化していってしまった時代の空気感がふと蘇り、奇妙な気分になるのです。
そして、さらにもう一言付け加えるなら、「夢」から「現実」へ、「バブル」から「リアル」へと一生懸命、意識の方向転換を図ろうとするよりも、言わば、健全な「夢」を生もうとすることが大事だったのではなかったか?そして皮肉なことに、世界には「夢」の力の方が、想像力の方が届いたのではないか?と。
「“世界”サブカルチャー史」が照らす 日本社会の無意識
そんな逆説をはらみながら、あざなえる縄の如く変転する時代の光と影を考える90年代編。
60、70、80、90年代と、時の流れを見てきたからこその「問い」へと、番組は辿り着きます。
しかし、これも、あくまで一つの仮説、問題提起です。
今回のシリーズをきっかけに、みなさんは、どんな90年代論を、日本社会論を、サブカルチャー論を、抱いてくださるでしょうか?
日本の戦後の不思議な軌跡、その特殊性、文化的に特異なあり様を見つめ直した上で、だからこそ、普遍的な想像力/創造力についても考えていくことができるのだと思います。そこには、初回のコラムでも問題提起させていただいたように、欧米とは異なる思考様式の文化があり、また第二次大戦の敗戦国として戦後アメリカの文化を、メインもカウンターも一度に受容するところからスタートしたこの国のねじれ、不思議さ、難しさ、面白さがあるように思うのです。
特異性を噛みしめつつ、普遍的な想像力/創造力の源泉についても、複眼で考える、ここに、「“世界”サブカルチャー史」として「日本編」をお送りした意味を少しでも感じていただければ、幸いです。
長く語り過ぎてしまいました、どうぞ番組をご覧いただき、忌憚なきご批評を。
映像を通しての探究は続きます。
引き続き、よろしくお願い致します!
シーズン3 日本 逆説の60-90s 第4回
3/25(土)午後11:30~1:00 BSプレミアム
シーズン3 第4回 90年代の作品情報はこちら